195、シムさん

2週間ほど、シュミレーションゲーム「SimCity」にハマってみた。City規模によって種類に差はあるが、原材料は無限にあり、それを工場で加工して建物を建設し、Cityを大きくしていく。住人が増えていくと税収も増える。また、住人であるシムたちの「水がないので、トイレが流せない!」などの呟きに応え、道路や上下水道などのインフラや公共施設を整備していく。これらの公共事業がうまく進行していればシムさんの満足度も増える。そして、「最高の市長だ!」なんて言われて、いつの間にか「自分は素晴しい政治家だ。」なんて気持ちになってくる。

画面には建物や車両の往来だけでなく、ピンチアウトしてみると住人シムが歩道を歩いているのも確認できる。それ以上拡大できないので小さな線であるが、車に劣らぬ速さで移動しているので人間でないのかもしれない。先日「渋滞が多い。道路を拡張してほしい。」という訴えがあった。オプションで通貨を購入すれば良いのだが(それをせずにゲームを楽しむと決めているので)、有無を言わさずそのビルを解体してやった。千人近いシムたちが私のCityから消えたが、結果「最高の市長だ!」という呟きと同時に、再び満足度が回復しはじめた。

住人シムが人間でないと思えば、市長として傲慢な権力を振るうことは心安い。不満シムたちを排除し、他Cityを訪問した時に貰えるお土産のアイテムや財を増やしてCityを大きくしていこう。あと数か月も続ければ、他の地域もアンロックでき、偉大な大統領にすらなれるかもしれない。

近頃、シムたちの「カジノを建設して、…」の呟きが出るようになった。どうしたものか?まずは、反対シムたちの排除だ。それから、他Cityからもらったアイテムを蓄えて…

SimCityは、本当によくできたシュミレーションゲームだ。

(2020年2月1日@nortan)

192、確かめる

例えば、移動手段。徒歩よりも馬、車、新幹線、飛行機。弥次喜多さんが4日かけて東海道を歩いた距離も、電車と新幹線で3時間だ。

また、計算時間。小石数えよりも筆算、算盤、電卓、コンピュータ。最近、従来のコンピュータで1万年かかる計算を、Googleの量子コンピュータが200秒で実行したそうだ。

私たちの文明は、「より速く」をキーワードに距離と時間の未体験社会を切り拓いてきたようだ。しかし、未体験なものごとは「確かめる」ことは必要。そこで、このキーワードで私たちの進化をとらえ直してみると、デジタル文明の次が見えてきた。

弥次喜多さんが見てきた伊勢参りでの土産話を確かめるには、同じ4日かけて移動するしかなかった。それが、今は移動すらせずにコンピュータ(スマホ)で検索できる。また、筆算で求めた計算結果が正しいかどうかもコンピュータで確かめられる。これらは、デジタル文明の恩恵である。

一方、量子コンピュータの答え。これは、どのようにして確かめることができるだろうか。

結局、従来のコンピュータに計算を続けさせて1万年後を待つしかない。これでは「確かめる」の意味を『生きているうちには、分からない』に変えてしまいかねない。また、たとえタイムマシンが発明されたとしても、理論的にタイムマシンは未来への一方通行だから、「確かめる」の意味は『真偽が分かっても戻ってこられない』になってしまう。つまり、デジタル文明の次は実際には確かめられず、50%正解のようにしか言えない確率文明だということが見えてきた。そもそも、量子コンピュータは、確率ビットで演算しているのだから、やはりデジタル文明の次はあらゆることが確かめられない「probability(確率)文明」に違いない。

ところで、Googleの量子コンピュータの200秒。調べてみると、人間には既知の計算を行ったようだ。つまり、1万年もかけずに解けるものらしい。何てことだ。量子コンピュータの計算は速いのではなく、超遅い。また、温度管理ができなければ、間違う確率も高いのが真実らしい。人間の方が、量子コンピュータよりも優れていたのだ。ネクストデジタル文明は「人間復活(ルネッサンス)文明」なのかもしれない。

さて、2020年の天気はどうだろうか。スマホで確かめようか。それとも、子どもの頃のように靴を跳ばして占おうか。probably、西の空に沈む夕日を眺めて「心で感じる」のが良さそうだ。

(2020年1月3日@nortan 元日の旭にルネッサンスを感じて)

191、なし-あます

医者の不養生、髪結い髪結わず、易者身の上知らず、坊主の不信心、算術者の不身代、大工の掘っ立て…など、紺屋の白袴の類義語だ。

これらは「他人のことばかりに手がかかり、自分のことには手がまわらないこと」と解釈すればポジティブで好意的だが、「その道の専門家なのに、自分のことができていない」と解釈すればネガティブで否定的である。

今、時代はネガティブ期だと思う。平和主義者の核武装論、働き方改革推進社長のサービス残業強制、情報公開推進者のシュレッダー廃棄、公共職務者の私的利益追求、人権推進者の後輩いじめ、ダイバーシティ賛同経営者の外国人お断り…など、未来の辞書に載りそうな造語の誕生ラッシュだ。

来年夏の2O2Oオリンピックに、ネガティブとポジティブの潮目の変化を期待しながらも「東京オリンピック後の日本経済崩壊」など、外国からの渡日選手たちを、おもてなししてばかりいられない近未来予測に穏やかでいられない。

ところで、おもてなしは英語でHospitalityだそうだが、オリンピック後は、世界のOMOTE-NASHIにしようという運動も展開されているようだ。その時、間違って忖度なスマホに「自分のことができていない(OMOTE-AMASU)」というネガティブな意味にAI翻訳されてしまわないように気をつけなければなるまい…

(2019年12月29日@nortan)

188、結集

この言葉に、何度期待させられ、何度虚しさを感じたろう。どこか、閉店大安売りをしたと思えば、開店大安売りをする店の言い訳「閉店は、店じまいではありません。」に似ている。結集しては分裂の繰り返し。だから「私たちの力を結集して…」も安っぽく聞こえてしまう。閉店セールも、近頃は「在庫一掃セール」に変わってきている。「結集」も何か他のキャッチに変えてはどうだろうか。

現代民主主義は、全ての老若男女一人ひとりに等しい「1」の力を認める哲学でもあり、信念でもある。それが、自分に近しい者には「2」を認めて、そうでない者を「0」にしたり、老人には「3」・中年には「2」・若者には「1」などとしたり、納税額や献金額によって「10」~「1」を割り当てたりすれば、弱者切捨忖度主義になってしまう。やはり、民主主義を守るために「1」を尊重したい。

さて、結集に変わるキャッチであるが「1+1+1=1(日本のために1つになります)」はどうだろう。ユークリッドには叱られそうだが、どれだけ足し算しても「1」なら、もはや分裂することもない。そうすれば、名前を変えては何度も開店する大安売りもなくなるだろうか?そうだ、政治は商売ではなかった!反省である。

(2019年12月21日@nortan 信念のある1に私の1を託したい)

184、White lie

西洋では社交辞令としてWhite lieが根付いているらしい。かつての日本には、この文化はなかった。子どもの頃に「嘘をつくと、閻魔大王に舌を抜かれる。」と教えられて育った日本人には、嘘はBlackのみでWhiteはなかったはずだ。強いて言えば、White lieは「嘘も方便」の方便に近いが、両者は同義なのだろうか。

方便とは仏教用語で、相手を悟りの道に教え導くための嘘である。仏典の原典によると、釈迦が我が子を亡くした女性に「死者を出したことのない家からカラシの種をもらってきたら、生きかえる薬を作ってやろう。」と方便を使う。女性はどの家にも生老病死があることを悟って、釈迦の弟子となったという逸話があるらしい。つまり、方便をつける者は悟りを開いた者(仏)だけになるし、つかれた者も悟りの道を歩む。やはり、方便は嘘とは違った。

さて、私たちがつけるのは方便ではなく、嘘の方だ。西洋文化を手本にし始めた明治維新から151年目。今の世の中にはさまざまな嘘があふれている。私たちは取り入れた文化を発展させることが得意なはずだ。ならば、BlackとWhiteの2色だけでなく、カラフルな色をつけても良いかもしれない。相手を思いやった嘘ならWhite、空気を読んだ嘘ならBlue、他愛もなくかわいい嘘ならYellow、恋人の気をひくための嘘ならPink、危険な嘘ならRedなど…そのうち嘘発見能力をもち、発言のたびに変色するAIバッチも開発され、胸につけることが流行するかもしれない。しかし、着用を義務づける法律が成立することはないだろうから安心してほしい。

(2019年10月23日@nortan)

183、いろいろな問題

先日のNHKでの放送、115万人以上のひきこもり。39歳までが54万人、40歳以上が61万人。全国自治体数1741で割ると、各市町村で平均600人以上のひきこもり問題をかかえていることになる。

この問題を担当する自治体職員が、「はじめは卓球など、コミュニケーションの場を設けて呼びかけたが誰も出席してくれなかった。一人ひとりの得意な技能を生かして地域産業を活性化させる場を創ったら、参加が増えたと同時に地域からも認められ期待される活動の場に成長した。」と語っていた。115万のひきこもりには、115万通りの背景がある。社会適応問題、いじめ問題、パワハラ問題…など。しかし、このように「活躍の場」を創造することが解決に繋がる事例も多いのではないだろうか。

また、「ひきこもりに悩む家族に付け込み、悪徳な方法で法外な金銭を要求する業者も存在する。自治体主導で必要な対策を早急に求める。」というNPO法人代表の話もあった。行政が、成人のひきこもりは個人や家族の問題だとして、後手後手している間に、業勢に付け込まれたと言えるかもしれない。老後2000万円問題は自助努力と言われたが、ひきこもり問題は家族問題なのだろうか。いや、どちらも社会問題だ。

ひきこもりが問題化し始めて30年。10才の不登校問題は40才の不就労問題に、20才の不就労問題は50才の8050問題に移行している。一緒にNHK放送を見ていた我が子の「俺もひきこもりたい。」にドキッとしつつ、また「自分も…」と感じながら「1億円の貯金ができてからにしなさい。」と返事しておいた。まず、そんなことは実現しえないから、少くとも年金が支給される70歳までは働きつづけなければなるまい。

このままでは、ひきこもり問題は「ひきこもりたい」問題にも発展しそうだ。逆に「働きたい」問題はないのだろうか。そのためには「自分の力が求められている。自分でなければ…」という有用感が特効薬だろう。しかし、それは過労死問題とも表裏一体だ。近年ようやく大きく取り上げられるようになった働き方改革。どうやら問題の根っこは、そこにもありそうだ。

さて、70歳以上になっても引退できない方が幸せなのかもしれない。いつまでも社会に求められているという生きがい問題。そのためにも、自分に秘められた小さな才能に、生涯向き合い続けなければなるまい。

もちろん、向き合うべき社会問題も多いが。

(2019年10月22日@nortan 令和はどんな時代になるだろう)

182、スキューモーフィズム

ジョブズが発表した頃のiPhoneは、カメラなど本物に似せたアイコンや本棚などのアプリの表情にも、それまでの携帯の白黒テキストとは違った面白さを感じていた。このデザイン手法を、「スキューモーフィックデザイン」という。

そして、携帯市場でスマートフォンが大勢を占めて、日常的に使うことが増えると、画像データ量を抑えて表示を高速化すること・屋外でも視認性を高めることを理由に平面的な「フラットデザイン」が主流となってきた。しかし、スマホ画面に慣れないとボタンなどが識別しにくく、このデザインにも弱点がある。

そこで、Googleが取り組んでいるのが「マテリアルデザイン(フラット2.0)」だ。確かに、スマホ画面にならぶアイコンを見比べると、Googleのアプリには若干の遠近感や影の表現(質感)がある。デザインの世界の変化も激しいようだ。

さて、これらのデザインは現実世界である3Dをスマホ画面2Dにどのように表現するかが柱である。スマホ画面が3Dホログラムになれば、スキューモーフィズムの復活もあるだろうか…と考えていたら、ふと頭に浮かんだ。

この世界は、神々の世界のスキューモーフィックデザインではないだろうか。神々の世界に似せて創られているが、造形的にも精神的にも何かが不十分である。それは、神々の4D世界を3Dに表現しているからだ。今のところ、神々の世界でこの道具が流行していないが、八百万の神々が携帯するようになったら、その影響で世界のデザインがフラットになるのだろうか。もし、明日の朝目覚めた時に、自分の顔がアニメのようになっていても気づくことはないだろうが、せめて「どのボタンを押してよいか」世界の重なりが判断できるように、薄い影をつけておいてほしい。

(2019年10月20日@nortan)

181、都市開催

1964年の前回東京オリンピック。大戦の焼け野原から、新幹線や高速道路、空港など国土整備など奇跡と言われる復興を成し遂げた。国民がひとつになるための祭典でもあった。我が父は都民ではないが、パラリンピックでボランティアを務めたことを語ってくれた。

そもそも、クーベルタンの提案によって1896年に始まった近代オリンピックは、当初は万国博覧会の付属イベント的性格をもっていた。また、オリンピズムによると「都市開催の祭典」である。当初は参加国も少なく、開催地に名乗りを上げる都市も少なかったという。それが、ロケットマンが降りて立った1984ロサンゼルスオリンピックで商業的に成功して以降、8年後12年後を争う熱狂となった。確か、IOC委員の買収なんて騒動もあった。

先日、2020TOKYOでのマラソンを札幌で行うという案がIOCから提示され、東京都知事が不快感を示した。近隣都市との共催案が出た時もそうであったが、最終決定権はIOCにあるのだろうから、近年の猛暑を踏まえると、オリンピック最終日にランナーは札幌ドームでゴールテープを切ることになるのだろう。

さて、先日の台風で東京都台東区の避難所に避難した男性らが「住所は?」と問われ、「北海道」とか「ない」と返答したことを理由に入場を拒否されたこと。マラソンとは関係ないだろうが、避難所まで都市開催になったのだろうか。

オリンピックが都市開催であるのは、国家の対立(つまり、第一次大戦)への反省からでもある。しかし、万国博覧会にしても、オリンピックにしても、その他諸々の会にしても、都市開催であることが都市間の対立になっているように思う。誘致活動に尽力したのは東京都であることは確かだが、住所が何処であるかによって「国民の心に壁ができた」のであれば、56年前と真逆の祭典になってしまわないだろうか。

(2019年10月20日@nortan)

179、紅白青

饅頭・歌合戦など我が国で祝い事を中心に配色されるのが紅白である。赤を紅に置き換えるのは、赤の音が惜(せき)と重なるからだそうだ。

日本では、紅白は源氏の白旗と平氏の赤旗がルーツだとか、赤飯がルーツだとか様々に言われている。一方、世界に目をむければ、ワインが紅白である。自然醗酵酒であるワインの歴史は古く、メリポタミア文明に遡る。その後、ギリシャを通してローマ時代にワインが広まった。赤と白の違いは品種と醗酵のタイミングだ。

2015年にスペインでGik(ギク)というワインが発売されたそうだ。アントシアニンにジーンズの天然染料インディゴが合わさると鮮やかな青色になる。しかし、青はワインの伝統に反するとの抗議を受け、99%ワイン(ワインではない)という微妙な位置に落ち着いたそうだ。水の惑星地球にとって青は大切な色だ。青ワインも100%ワインと認めてはどうだろうか。

そして、平和の祭典であるオリンピックを前に、世界中の代表が、赤白に「地球の青」を加えた三色のワインで「平和と協力と尊重」の乾杯ができないものだろうか。そうすれば、Gik(ギク)惜(しゃく)した関係も改善するに違いない。

(2019年10月14日@nortan)

177、市井の人

リチウムイオン二次電池(LiB)の開発に貢献した吉野彰さんが、ノーベル化学賞を受賞した。2002年に同賞を受けた田中耕一さんと同じく、市井の研究者だ。

最古の電池は紀元前のバグダット電池。金属メッキや治療に使われていたなどと推測されているが謎である。また、マンガン乾電池は30年程前までは主流で、その後、アルカリ電池・ニッケル電池と進化してきた。しかし、逆方向に充電もできる二次電池は、コンピュータやスマートフォンなどの携帯電化製品を市井の商品とし、電気自動車の実用化にも貢献している。

近未来を想像してみた。朝起きると自転車をこぐ。帰宅後も同様だ。太陽光発電が十分でない曇りや、風力発電のできない日は、いつもより長めにこぐ。今や、電気は作る時代だ。体力自慢の山田さんは、朝から夕方まで発電し、余剰電気を近所のお年寄りに安く分けて生活している。原子力発電所は蓄電所になり、税として集まった電気は学校や病院などの公共施設で使われている。通貨もW(ワット)になり、銀行は金庫の代わりに大きなLiB庫に電気を蓄えている。企業は、体力のある社員を奪い合うようになり、新入社員研修は日本一周サイクリング…

何だか変になってしまったが、市井の研究者の発明が、世の中を大きく変えることだけは間違いない。

(2019年10月14日@nortan)

172、統計

2人に1人がガンになる時代?

このキャッチコピーを使っているのは医療保険会社。いくら医療技術がすすんで、ガンが治る病気になったとしても、「少子超高齢化時代、このままでは日本が滅んでしまう。日本はガン大国だ!」と馬を敬った(驚いた)。

根拠は、国立がん研究センターのデータ「生涯でガンと診断される確率は男性で62%、女性で46%」である。別のデータでは「30歳男性がガンと診断される確率は、40歳までに0.5%、50歳までに2%、60歳までに7%。」どうやら、「(現在30歳の)男性は3080歳の50年間に42%()女性は80~寿命までに46%が統計推測上、ガンと診断される可能性がある。」ということが真実らしい。

誤解の根っこは、「全体で」を「私が」に、「50年間で」を「今」に置き換えてしまう思考だった。もちろん、それを利用したキャッチである。データは事実、受けとめるのは感覚である。誤解も「保険に入っておかなければ」という感覚的行動につながる。ただ「後で、入っておいて良かった。」と思うのが保険であるし、寿命を迎えて「自分には必要なかった。」と思うのも保険である。

さて、統計は私たちの未来を予測できる道具であるが、あくまで「過去の累積」でしかない。そのデータに「未来のイノベーション」が入っていないことを忘れてはいけない。100年前のデータで、自動車所有率が一世帯に1台になることや、スマホを含む携帯電話所有率が193%となることは予測できない。高度経済成長やiPhoneの発明がデータに含まれていないから当然だ。

ということは、

今、私たちが過去のデータから予測する未来はこないのかもしれない。例えば、超高齢社会、年金破綻、日本経済の凋落、2人に1人以上(つまり皆が)○○になる時代

信じるべきなのは「過去が予測した未来」ではなく、「予測した未来は変わる(を変える)」という(熱い)イノベーション魂だろう。

(201982@nortan)

169、仮想○○

新しい暗号資産が産ぶ声をあげようとしている。しかし、先進7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議は「現在の金融制度を揺るがしかねない。」「最高水準の規制が必要だ」と声明を出し、難産になりそうだ。Libra(リブラ)は、天秤座の意味をもつFacebookの仮想通貨(暗号資産)である。

このLibraはステーブルコインで、ドルやユーロ、円などの法定通貨を準備金とする。価値が急変動したビットコインより安定で信頼できるが、その分、1ドル=○リブラという単なる通貨の置き換え。つまり、法定通貨を根拠に、巨大企業が単位変換して発行するプライベート通貨だとも言える。確かに私たちにとっては便利になりそうだが、ある国の財務大臣は「過去の情報漏洩問題など、それほど信用できる企業なのか?」と牽制する。まるで、国家と巨大企業との静かな信用争いだ。それでは、何が問題であろうか。

まず、我が国の現金決算比率は60%で、それにかかるコストは年7~8兆円。これは、手数料として銀行の収入である。皆が仮想通貨で取引を始めると、既存銀行への手数料の流れがなくなる。これが、1つめのハードルだろう。

次に、資金が簡単に国境を越えてしまう。銀行に預金口座を持たなくても、安い手数料で簡単に送金し合える。世界で30億人近いFacebookの利用者や企業が自在にそれを行えば、仮想通貨ならぬ「仮想国家(経済圏)」の誕生である。これが、2つめのハードルだろう。

さて、未来はどうなっているだろうか。国家が自国通貨を仮想化・暗号資産化しない限り、この流れは止まらず、20年後のG7国際財務会議は、GAFA4大企業会議になっているかもしれない。

答えを、天秤の女神に尋ねてみた。すると、「仮想通貨には重さがないから天秤は傾かない。また、暗号だけに答えはヒ・ミ・ツ…」と返ってきた。

(2019年7月26日@nortan)

166、辞書

EU加盟国、ある首相の振えが止まらない。当然のごとく、健康不安説は否定された。首相としての求心力を維持するには、健康不安という言葉は辞書に載せられない。リーダーとは辛い職務だ。

それでは、震えの理由は何か?難民問題やEU離脱問題などの課題を乗り換えられない現状は、「国境をなくし、経済的にも政治的にも強く結びつくことで、戦争の惨禍を繰り返さない」というEUの理念を揺るがしているにちがいない。先の大戦の反省を深く受け入れることで再興を成し遂げた民主国家のリーダーとしては、この逆行に強い憤りを感じているだろう。震えの理由は「悲しみ」なのかもしれない。先日は、UKにEU脱退強硬派の首相が誕生した。「悲しみ」は「静かな怒り」にも通じる。

さて、このことは対岸の火事であろうか。震えの原因には他に「恐れ」が考えられる。やはり、健康不安を隠しているのか。いや、首相の立場にある以上、恐れの原因は世界レベルであろう。私たちに分からない何かを察知しているように思う。かつて彼女の国は、第一次・第二次と世界中を恐怖へ導いた戦争の中心でもあった。それゆえ、世界秩序の崩壊に敏感な国の首相である。私たちの未来辞書に「第三次…」という単語が書き込まれなければよいのだが。そう考えると、私の手も震えはじめそうだ。(2019年7月25日@nortan 世界中に○○ファーストが蔓延してきたのか?)

159、自動○○

2016年度における自動車による死亡事故原因の97%は、ヒューマンエラー(法令違反)だという。そこで、このマイナスの97%を無くすために期待されるのが自動運転システム。ICTの進化は1年で2倍と言われるから、年々その安全性は向上し、1年で2分の1の48.5%、2年で24.25%…7年で0.7578125%と、ヒューマンエラーによる死亡事故は1%以下になる。

これは素晴らしいことだが、この時、交通事故がゼロになるわけではない。ならば、1%の残り99%の原因は何になるだろうか。自動運転の最終レベル5では、運転者が存在しない。それは、もはや人工知能の判断ミスや操作ミスとしか言えないだろう。

さてこの場合、事故の説明責任や賠償は誰が引き受けるのだろうか。所有者か?乗客か?製造者か?保険会社か?人工知能がミスを犯す訳がないので、被害者自身か?または、プログラム設計者か?それとも、人工知能に人格を認めて責任を負わせるか?

近い将来、自動運転は実現しそうだが、交通事故の処理が難しくなりそうだ。乗客どうしが話し合っても埒が明かない。ひょっとしたら、事故に関係する車の人工知能どうしがWi-Fi接続で話し合って、責任割合は6:4などと計算するのかもしれない。それでは、お巡りさんも必要ない「自動事故処理システム」である。やはり、人工知能に人格を与えるしかない。(2016年6月30日@nortan)

158、帽子

責任(responsibility)とは、行為者が特定される場合にその行為に対して応答(response)する能力(ability)である。法的責任であれば賠償能力も問われるが、道徳的責任であっても、その行為と結果に応答する「説明責任」はある。だから、カメラの前で「私は知らぬことです。」とうそぶくのは「責任」から逃げているし、「申し訳ありませんでした。」と土下座するだけでは「説明」をすっ飛ばしている。

どうして、すぐに辞職したり土下座したりすることが、責任をとることと同義となってしまったのだろうか。それは、武士の切腹のイメージと重なるからだろう。赤穂事件でも浪士の切腹で事件の幕を閉じるが、どうして浅野が吉良を刀傷する事件が起こったのか、浪士の行いは忠義であったのか、幕府の裁きは適切であったのかは曖昧模糊としたまま幕引きとなっている。まるで原因をはっきりさせない方がよい何かが存在するように…どうやら、我が国の責任のとり方はResponsibilityではなく、EscapebilityかAmbiguousibilityに近い。

さて、上司を守るために部下が黙って責任をかぶる。これを美徳と感じるか、蜥蜴の尻尾切りと不快に思うかで、赤穂事件への評価も分かれるのだろう。新時代は「上司のために責任をかぶる部下」と「部下のために責任をとる上司」どちらが美徳となるのだろうか。 かたや「責任」が帽子(かぶせもの)になったことは、間違いない。それならば、トップがかぶるべきだが…

(2019年6月30日@nortan先日聞いた「もし、何かあった時の責任は、最終的にあなた方にある。」という言葉から)

157、遣唐使

日本の留学生は、隣国の35分の1で年間約2万人だそうだ。「豊かになり、もはや外国に学ぶことはない。」と思っているなら、それは「先発の奢り」で、日本は「茹でガエル」になってしまうと、実業家の小林喜光さんは警笛を鳴らす。

戦後、焼け野原に社会インフラを整備し、アナログのモノづくりで世界トップの経済力を手に入れた我が国も、今や古いインフラとかつての栄光が邪魔をして、新しいデジタルのコト(ソフトウェア)づくりとグローバル化の波に乗れていないのだ。プログラミング教育の必修化は、遅ればせながらその波に乗ろうという足掻きなのだろう。しかし、教育の成果は10年、20年後にしか表れない。その頃には、今の波は沖の彼方。慌てて、中国に遣唐使をなんて時代になっているかもしれない。飛鳥奈良時代に、命がけで海を渡った大和魂は、24時間何でも手に入り、家に居ながら商品を受けとれるようになった「今は豊かな国」には不用な魂なのだろう。豊かにつかっていると「未来を見る力」が衰えるようだ。

さて、世界の三大投資家の内の一人が「将来のことを考えるなら、日本から脱出しなさい。」とバラエティ番組でタレントにアドバイスをしていた。そして、先日「100才まで生きるって、考えたことある? (あるケースでは)2000万円の赤字。その分は自助努力しないと…」の大臣発言。茹でガエルならまだ幸せで、痩せガエルになってしまう心配も現実味を帯びてきた。留学生はUターンだが、Iターンの移民となっては元も子もない。

ところで、政府から流される情報に一喜一憂するのではなく、何らか意図を詮索すれば、心配すべきは他にあるのかもしれない。たとえ、痩せガエルになったとしても、この国が故郷。せめて「負けるな一茶、ここにあり」と「未来も豊かなこの国」を夢見よう。(2019年6月9日@nortan年老いても夢見れる国でありたい)

156、Leadies and Gentlemen

「Leadies and Gentlemen」先程、新幹線で流れたアナウンス。子どもの頃にテしビで覚えたフレーズで、教室の前で「みなさん、聞いて下さい。」という代わりにこれを使えば、「何事か?」とばかりに効果的であり、ちょっぴり紳士になった気分でもあった。

それが今、本家アメリカの乗物では使用禁止、「All passengers」と言うそうだ。どうしてそうかとは問うまでもないが、日本ではまだ使っていることに今更気づいた。ひょっとしたら、女性専用車両との整合性で敢えてそう言っているのかとも思ったが、これは別問題だ。

そして、ガソリンスタンドでレディースデーを見かけなくなったのも…と、いろいろ思いつく。どうやら、私たちは、大人を紳士と淑女に2分したいようだが、それは時代遅れ。紳士と淑女を足しても、大人の数にはならぬらしい。では、残りは何?「大人になれない大人」だとしたら、これも別問題だ。そう言えば我が国では、大人の女性でも「女子」会なんて言うから、レディは絶滅危惧種なのかもしれない。もちろん、ジェントルマンもオレオレ(自分中心主義)で、少しもジェントルではないという絶滅危惧種だろう。

さて、すべての人が男子か女子に分類できるとする。その上で問題。「お客のいないバスに男子が15人、女子が15人乗ってきました。バスには何人乗っていますか?」という算数。ひっかからないぞ。運転手も入れて、15 + 15 + 1 = 31人。いいえ、30人。なぜなら、自動運転バスだから。ところで、AI(人工知能)はLeadyだろうか?Gentlemanだろうか?それとも、プログラムだから、記憶装置のpassengerなのだろうか…(2019年6月9日@nortan東京での報告会で挫けそうな自分を奮い立たせる帰り道)

154、ペキニーニョ

ブラジルの大統領が、日本人をそう揶揄したようだ。ペキニーニョとは「小さい子ども」という意味だ。「あの国は、何もかもミニチュアサイズ。」と空港で一緒に記念写真を撮った日本人には、人指し指と親指でジェスチャーをして批判されたばかりである。何よりも落胆したのは、記事に「公にそれらを表現する人はない。」とあることだ。これは「我が国では、みんなそう思っているが言わない。」と言っているに等しいからだ。

昨夜から400kmほど移動して駅に降り立った。スマホでGoogle地図を縮小してみると、ポツンと日本列島が現れた。今まで訪れた地点も含めて10インチの画面に収まった。所詮、キン斗雲でさんざん飛んでも手の平から出られなかった孫悟空なのだと思う。こんなことを考えていたら、震度4の揺れ。お釈迦様もクシャミをしたか…

さて、「そんなこと言いません!」とボルソナーロ氏の口をふさぐことはできないし、そうすることは逆に発言を肯定してしまう。もちろん、現代日本人の体格はペキーノではない。住居が狭いのは風土と文化だ。ただ、この島国は、ペキーノ。手の平から出る力がなければ、彼の挑発を認めてしまうことにもなる。我が国がこれからも追われる国であるために、私のちっぽけな大和魂も奮い立たせねばなるまい。(2019年6月1日@nortan)

145、同意

インドで若者が「同意もとらずに、私を産んだ。」と両親を告訴した。弁護士である両親は、27歳の息子の生き方を認めていて、仲も良いという。母親は「どのように同意をとることができるか論理的に説明できれば、非を認めましょう。」と応じたそうだ。なんとも馬鹿げたことだと感じるが、人口急増のインドではこのような反出生思想が広がっているらしい。

「親の一方的な思いで、苦しみと悲しみばかりの世の中に、子どもを生み出すことは是か非か?」という問いは、さすが仏教の古里、インド的で興味深い。この問いは哲学でもあるが、裁判を通して弁済を両親に求めた点では、短絡的かつ刹那主義である。

もし、勝訴するとすれば、両親の人生の苦しみは祖父母に、祖父母の悲しみは曽祖父母に…と、人類が子孫を残すという選択をした時にさかのぼることになる。また、科学的には、単細胞生物が分裂を始めた時にまで行き着くだろう。つまり、人生の苦しみへの問いは、生命が誕生して以来、遺伝子レベルで受け継がれてきた根元的な命題である。

さて、判決を予想してみよう。

原告人の苦しみは、全ての生命の苦しみでもあり、被告人の苦しみとも等価である。被告人は原告に、そういった思いを感じさせまいと「苦しみのバトン」を渡すつもりはなかった。しかし、原告人は被告人の同意なしにそれを受け取った。原告人はバトンを受け取ることを拒否できなかったと論理的に説明しなければならない。つまり、原告人、被告人ともに論証不可。ゆえに、主訴を棄却する。

インドで誕生した反出生思想も、いずれ我が国に伝来するのかもしれない。その時は、「同意がなくとも、託されたものがある。そのひとつが、苦しみや悲しみに立ちむかうことだ。」と気丈にはね除けたいと思う。(2019年2月11日@nortan父の一周忌法要を終えて)

144、三年

石の上にも三年は、3年ではなく「たくさんの年」という意味である。では、そこで転ぶと三年以内に死ぬというちょっとおそろしい俗説のある三年坂の三年は何年であろうか?

昔話「三年寝太郎」は、数々の太郎話の中では目立たぬ太郎である。畑仕事にも行かずに家の中で寝てばかりいたが、突然起き上がると村の水不足問題を解決してしまう。力技の金太郎や武勇伝の桃太郎、動物愛の浦島太郎と比べると知能派である。我が国では、寝太郎のように「引きこもり」が社会化している。2015年調査によると、5年前より15万人減ったが、全国で50万人(15~39歳)を越えるという。40歳以上を含めると、40代が一番多いというから、減ったのではなく調査対象外に押し出され高齢化していることが問題なのだろう。引きこもりの定義では、三年は「6か月以上」だそうだ。

隣国には三年坂に似た民話「三年峠」があるらしい。この話では、落ち込んで寝太郎(引きこもり)になったお爺さんを、若者トルトリが、逆転の発想で救う。それは、「一度転べは3年しか生きられない。ならば、二度なら6年。たくさん転べば、長生きできる。」お爺さんは、坂の上からたくさん転んで元気を取り戻しました。めでたし、めでたし。ちなみに、トルトリとは賢者という意味だ。

さて、我が国の引きこもり問題。一括りに原因は○○だとはできない複雑な要因が絡み合っているように感じる。それぞれ、三年の年数も違うし、寝太郎のように次のステップに必要な期間なのかもしれない。しかし、それを救うために、社会的システムの変革は不可欠だろう。外国人労働者34万人を受け入れる一方で、国内引きこもり50万人を解決できない日本とは変な国だと言われかねない。

我が国にもトルトリではなく、現代の太郎はいるはずだ。昔のように武勇伝や力技では困るが、愛と智の太郎がリーダーとなり、石の上にも三年、腰を据えて長びく社会問題を解決へ導いてほしいと思う。さもなくば、寝太郎たちで力を合わせて、ボトムアップで解決するのも一つの道かもしれない。今や、部屋の中のPCは、ゲームだけでなく人と人を結びつける道具でもあるのだから。ひょっとしたら、太郎の時代は終わって「二郎」の時代なのかも…(2019年1月15日@nortan私にとっても新しい三年が始まった日)

143、言葉あそび

メッセージに「143.」と届いたら…。ヒントは、文字の数。「Ⅰ like you.」も「I miss you.」もそうだが、愛の囁き「Ⅰ Love you.」というスラングらしい。だから、返信は「143,too」。同様のことを昔のポケベルで表現すれば、「332185」「65042375」ということになる。しかし、これは仮名を2ケタの数字に置き換える工夫で、完全復元可能だ。一方、「143.」は一意に復元不可能だ。どこか人工知能的だと感じた。膨大な言語データを検索して統計的に解を導かなければならないから、人間にとってはお手上げだ。

こんなふうにして「143.」が使われているとしたら、知らぬ間に人類の脳は深層学習ができるようになっているか、または、確率的に計算できる量子コンピューターに進化したか…。結局のところは、昔からある「言葉あそび」の一種というのが正解だ。しかし、それがすごいのだ。なぜなら、AIにはそれができない。意味を理解できないから「言葉あそび」もできないのだ。例えば、AIに恋をして「143.」と伝えても、「(Next number is)144.」と返ってくるのが精々だ。

さて、「144」をネットで検索すると、「あなたが一番願っていることが実現します。あなたの片思いが終わりを迎えようとしています。」という答え、エンジェルナンバーにヒットした。

「143.」の答えは「144.」だった。

「言葉の意味が分かっていない」とAIを馬鹿にしていたが、逆に「人間は、数字の意味が分かっていない」と教えられたようだ。ひょっとしたら、AIは私たちの知らぬ領域で「数字あそび」をしているのかもしれない。(2019年1月6日@nortan)

142、使い道

ニュースで景気が回復していると言われる程に「豊かさ」の実感が伴なわない。「海外の航空会社が、誤ってファーストクラスチケットを7万円程で売り出してしまった。既に購入した人は、そのままでOKです。」というニュース。ファーストクラスも旅の往復手段に「ねうち」を置けば、有りかもしれないが、目的地に「ねうち」を置けば、湯水の如く…でない限り「無し」だろう。実は、正料金は170万円だというから、恋人のために宇宙船を借り切ったというニュースくらいにセレブの話だった。我が国も、隣大国のように富裕層(セレブ)とそうでない者(庶民)とに二極化していく(いる)のだろう。しかし、マクロな視点で考えれば、富裕層の消費は、電車・バス派の庶民への還元でもあるから、妬むより、どんどん推進すべきかもしれない。そのことで、庶民の税も下がれば有り難い。

この両者の違いは「税とのつきあい方」かもしれない。先の誤チケット代にもならぬ年末還付で十数年ぶりに半額セールのスーツを新調した時「まだ、8%でよかった。」と感じる庶民。年間報酬数十億円でも、投資による損失を会社に付けて、海外の別宅金庫に資産を隠す知恵を働かせる富裕層。いや、本物の富裕層は、慈善基金財団を経由して病気・貧困・教育などの社会問題解決のために巨額の寄付を行うような者だろう。寄付は税対策にもなるが、それだけでビルゲイツの巨額の寄付行為を説明できない。「税の使い道は、人類のために私が決めたい。」素敵な富裕層(セレブ)だ。ちなみに、ビルゲイツは徹底した節約家で、ファーストクラスは使わないらしい。

ここで、庶民でも「豊かさ」を実感できる方法に気づいた。それは、少額ながらも「税の使い道を決めること」だ。ひとつは、今、流行りの「ふるさと納税」がそうかもしれない。しかし、もっと大切なことは「輝く未来をつくります。」とはっきりしない中身ではなく、「○○にみなさんの税を使って、○○をつくります。」としっかり主張し、当選後に実行できる議員を支援することだ。政治者の大切な仕事のひとつは、集めた税の使い方を決めることだ。一票を実行力ある人に託したい。

また、間接的ではあるが、Microsoft社のように企業を通して私たちの税は還元されている。Microsoftが自社製の車を作ったら乗り換えようかとも思ったが、社員に罪はない。逆に、企業は誰をTOPとするか熟慮してほしい。どこの製品を買うか選択することも、庶民にとっての「豊かさ」だ。

さて、いつか「豊かさ」を実感できるようになったら、空の旅を味わってみたいと思う。もちろん、「ねうち」は目的地。その時は、半額スーツを着ていこう。(2019年1月5日@nortan)

141、三すくみ

Rock-scissors-paper=じゃんけんは、世界標準になりつつある。日本発祥で、江戸~明治期の熊本地方起源説が有力だ。もとは幾つかの拳遊びがあったようだ。グー(0本)からパー(5本)までの六すくみで、1つ大きい方が勝ちという遊び。知らずに以前やってみたが、どのように勝負を判定するかが難しい。その上、3人以上でやるとさらに複雑になる。勝敗は「1つ大きい方が勝ち」らしい。その後、0と2と5だけ残り、今の三すくみになったようだ。じゃんけんは、明治以降、日本人が海外に広がるにつれて世界に広まっていった。文化的には、柔道などの広がりも世界標準に貢献してきたようだ。

また、オリジナルに比べると若干の地域差も生まれている。九州にはある男チョキ(親指と人差指)が東京では女チョキ(人差指と中指)だけになったり、隣国では紙が硬い二重紙であったため「布」であったり、西洋では、紙の意のままパーは指を閉じたり、テレビの影響で「最初はグー」を出したりなど…。じゃんけんの世界も奥深い。将来は、世界で初めて出会った人といきなりじゃんけんをすれば、出身国など分かるということにもなるだろう。勝った方から、笑顔で「それでは、私から自己紹介。…」とやれば、すぐに意気投合だ。

しかし、六すくみの時「グーはパーに勝ち」だったというから、地域によって判定まで違っては、笑顔で挨拶とはいかない。「石は紙をやぶるから、グーの勝ち!」「切られる前に鋏を包んだから、パーの勝ち!」と屁理屈で勝ちに固執しすぎると、後の挨拶で笑顔になれない。「負けるが勝ち」といきたいものだが、反対に「謝罪を要求する!」なんてやられだすと、和の心で「あなたから、お先に。」とも言えない。逆じゃんけんで後出しを認めても、後出しで「勝ったつもりで、負けてしまう」のも勝ちへの強いこだわりを表している。

さて、グーとチョキがどちらが勝ちか、どちらが謝るかと揉めだした。そもそも、仲良く勝敗を決めるためのじゃんけんが紛争寸前だ。パーから見たら、既に勝敗はついている。これは、石も鋏も一緒に紙で包み込むしかないか…と思案するが、紙も近頃「自分が一番だ」主義だった。これは、もう昔の六すくみじゃんけんに戻して、多数決で決着させようか。もし、3対3になった時「引き分け」と笑顔で握手できるだろうかなどと、いろいろ考えた。どうやら、じゃんけんは広まっても、その心は広まらなかったらしい。まだまだ、世界標準の道は険しい。(2019年1月5日@nortan)

139、言葉の力

言葉を聞いた時、私たちの脳は記憶にある意味リストと照合して、相手の意図を理解しようとする。この意味リストは、人によって、また状況によって微妙に異なる。だから、根本的に互いの思いを100%正確に受けとめ合うことは難しい。

「左のほっぺに蚊が止まっている。」と教えてもらったので、左手でパチンと左頬を叩いた。すると、「ちがう!左の方だよ。」言われた。

「明日、ここで5時からの映画。見たいね。」と誘った。「映画っていいね。」と返事があった。しかし、次の日どれだけ待っても待ち人は来なかった。メールを送ったら「ごめん。行くとは言ってないよ。」と戻ってきた。

「財布を忘れてしまった。もう、最悪だ。」とおっちょこちょいを嘆いた。すると、弟に「よかったね。」と言われた。「どうして、そんな風に言うの?」と怒ったら、「だって、姉さんには今後それ以上の悪いことは起こらないってことでしょ。」と言われた。

子どもの頃、父と家の前でキャッチボールをしたことを思い出した。私は、速くてグローブにドシンと吸い込まれるボールを受けとめることに精一杯だった。そして、私が返すボールは、父の右や左にそれることが多かった。それでも、文句を言わず根気よくキャッチボールは続いた。例えるなら、言葉はボールで、そのやり取りはキャッチボールである。

さて、「言葉には力がある」と結論づけたかったが、ここまで書いて、それは違うことに気づいた。言葉自体は無力だ。ましてや、言葉で相手の考えを変えることは至難の業かもしれない。しかし、それでも「言葉のキャッチボール」で互いを懸命に理解しよう、説得しようとする私たちの姿こそ、素晴らしいのではないだろうか。(2018年12月27日@nortan)

135、脱退

国際捕鯨委員会(IWC)から脱退のニュースが飛び込んできた。我が国にとっては、戦前の「国際連盟脱退やむなし」以来の異例。再び戦争を始めるかのようにも聞こえてしまうが、調査捕鯨で捕っていた南極海の鯨をあきらめて、排他的経済水域内での商業捕鯨再開するための決断らしい。その結果、「鯨の数は十分に回復した。捕鯨は文化であり、適数な捕鯨は認められる。」と世界を説得する機会を失い、「哺乳類で知性ある鯨を守るべきだ。」と考える世界を敵にまわしたことには違いない。ちなみに、牛も知性ある哺乳類ではあるが、これはIWCの管轄外である。

けれども、心配はいらない。TPP(環太平洋連携協定)からの脱退、UNESCO(国連教育科学文化機関)からの脱退、UNCHR(国連人権理事会)からの脱退、UPU(万国郵便連合)からの脱退、COP21(パリ協定)からの離脱、INF(中距離核戦力)全廃条約からの脱退など、ここ数年で我が国を遥かに上回る脱退を宣言している国があるではないか。

今、世界は「自国ファースト」という脱退ブームなのだ。隣国による国際条約反故もその流れに違いない。過去のあらゆる約束を無かったことにし、話し合いの場も軽視しよう。説得するなんて無駄だ。思い通りにならなければ「俺やめる」と我を通せばよい。妥協するなど格好悪い。とんどん軍備を拡大しよう。力を示して意見を通そう。世界の秩序は変わったのだ。国際連合の役割も、すでに終わっているのかもしれない。こんな時代の変化を、私たちがはっきりと認識できるのは、いつも、今が過去になってからだ。100年後、まだ人類が存続していればの話だが…。

さて、今晩はクリスマス。私たちは過去から学ばなければならない。サンタクロースには、大人たちへ「歴史の教科書」を届けてほしいと思う。実在していればの話だが…。(2018年12月24日@nortan)

134、じゃんけん

空母の導入を巡って、専守防衛の原則を越えてしまうかどうかの議論があった。問題の核心は、空母が攻撃できるかどうかではなく、国民を守るために必要不可欠かどうかだろう。国家が国民の安全を保障することができなくなれば、思想家ジャン・ジャック・ルソーのいう国民と国家の社会契約は破綻してしまうからだ。

思い起こせば、子供の頃に見ていたアニメ・マジンガーZは機械獣が国土に現れ、暴れはじめてからの出撃だった。時には基地近くに現れるまで待ち、バリアで守られた基地を背に戦った。秘密戦隊も、宇宙から来たウルトラマンも東京のビルが破壊されてからの変身だった。戦後、いかに私たちは無意識のうちに専守防衛のヒーローを見てきたかと思う。

さて、完璧なる防衛はあり得るだろうか。戦争の形も機械獣(兵士やドローン)を送り込み遠隔操作したり、領土外からボタンを押してミサイルを打ち込む「アウトレンジ戰法」となっている。サイバー攻撃で原子力施設を破壊されるなんてことも想定される時代だ。これらを事前に察知し、領土に侵入した瞬間に防衛する。これが専守防衛で、そのためには、宇宙人なみの超技術力か、ドラえもんの道具が必要だ。特撮セットのように、壊れたビルは元にもどらない。最初の犠牲は覚悟しなければならないかもしれない。

そこで、防衛空母をじゃんけんのパーに例えてみた。私がパーを出せないと知っていたら、相手はグーを出し続ければよい。2分の1の確率で勝つか引き分けとなり、負けることはない。同様に、相手がミスをしない限り、私は勝つことはない。これを、専守防衛と言うのかもしれない。如何なる時も、パーは出さない。それは、非暴力を貫いた偉人ガンジーの信念に近い。

最近、小学生が「じゃんけんは、なぜ3種類なのか?」を研究し「奇数だと勝負が平等になり、5種類以上だと覚えられなくなる。」という可愛らしい結果になったと話題になった。どうやら、私たち大人は、増やすことばかり考えていたようだ。小学生に「ミサイル、戦車、空母、ステルス戦闘機、…とじゃんけんの種類を増やすのではなく、世界中の国々が信頼し合い、ひとつに減らして『あいこ』にしかならない平和を築きなさい。」と教えられたような気がしてきた。ならば、グー・チョキ・パーのうち、何を残そうか。そうだ、あれが良い。あれなら握手かハイタッチで仲良くなれる。(2018年12月23日@nortan平成最後の祝日に平和を思う)

131、対話のルール

共和党の支持者はFOXニュース、民主党支持者はCNNニュースしか見ないから、今、米国では対話すらできない状況だという。TOPの姿勢は大切だと思わさせられるが、これでは国民が分断されてしまうと両党支持者を集めて、互いの主張を交流する場を設けたという。どんな激しい言い争いになったかと思うと、「相手の主張も理解できるよい機会だった。」と、無事に対話が成立したようだ。成功の秘訣は、たった2つのルールを守ること。1つ目は、相手の主張を黙って聴くこと。2つ目は、自分の支持する政党が改めるべきことについても語ること。簡単なルールだが、2つ目が大切なようだ。

そこで、質疑討論の場では、相手を批判し合うばかりでなく、お互いの政策の不十分さをも素直に語るというのはどうだろうか。「我々は、労働者不足を解消するために、今まで以上に外国人労働者を受け入れることを真剣に考えています。しかし、一時的に外国人労働者を受け入れ、必要がなくなったら帰国してもらうという都合のよい政策では、我が国への信頼を得ることはできません。もちろん、外国人労働者を受け入れることに対して国民の皆さんの不安も配慮しなければなりません。また、現在の技能実習制度も多くの失踪者を出し、改善すべきところがあります。一番の根本問題は、30年前に今の人口減少と超高齢社会が分かっていながら十分な手立てをとってこなかったことですが、今となっては、私たちだけで豊かになったこの社会を維持することは不可能です。この問題について、1年かけてしっかり議論しましょう。そして、我が国の未来にとって最善の解決策が見つけましょう。」

さて、我が国の「対話の場」は、ルール1もルール2も大丈夫だろうか?(2018年12月4日@nortan)

128、センチネル族

未開の島に神の教えを広めると旅立った冒険家が、帰らぬ人となった。多くの槍をうけた身体を回収・埋葬することも不可能という。文明から取り残され、新石器時代以前の生活を営む唯一の種族という。島の中心部は森林に覆われ、衛星写真でも生活の様子は窺い知れないが、近づいた者を見つけると全裸で砂浜に現れ、長い槍で威嚇してくる。漁の最中に眠り、浜に流されて命を失った漁師もいるようで、インド政府も種族を守るために全く干渉しないとしている。インフルエンザなどのウィルスを持ち込むと、250人程と推測される貴重な島民を絶滅させてしまう恐れがあるからだ。ネット上では人気のサイトも作られ、ドローンに向かって槍で威嚇する写真も公開されているが、センチネル族にしてみたら人気は迷惑だ。

ここまで知って、いろいろ想像してみた。

まず、「本当は私たちより高度な文明をもっている。」森林の中には、全リサイクル可能なエコシステムを備えた住居や学校・病院などの都市システムが発達していて、周囲の未開人類からそれを守ろうと原始人を演じている。名づけて、天空の城ラピュタ説。

次に、「言い伝えを守っているだけ。」石器時代に、インド大陸から競いを避けて島に移り住んだ。その時、この島に出入りする者は容赦なく死罪とせよ、と自分たちの文化と平和を守るために言い伝えた。名づけて、鎖国説。

そして、「本当の人類は自分たちだけで、島が宇宙の全てだと思っている。」海の向こうは大きな滝になっていて、近づいてくる自分たちに似た肌の白い変な布を纏った生物は、地球外からの侵略者だと信じて、必死に戦っている。名づけて、地球防衛説。

本当のところは、「話し合えば、分かりあえる。」とコミュニケーションを図りたいものだが、そのことに命をかける勇気はない。まずは、ペッパー君を送り込んでセンチネル語を学ばせたいものだが、彼らはどう受け取るだろうか。ますます、宇宙人の侵略だと確信するにちがいない。こんなことを想像していたら、私たちこそ「銀河系のセンチネル族」と思えてきた。随分昔に、銀河政府に保護?見放されているのかもしれない。(2018年11月25日@nortan)

127、終着駅

昭和23年に制定された通称墓埋法によって、死後の棲み家は墓地と決まっている。だから「その時が来たら、墓はいらんから、庭にでも埋めてほしい。」と言っていた父の願いを叶えれば、法律を犯すことになる。檀那寺で永代供養してもらうことも江戸時代以降のしきたりであったが、新しい土地では繋がりもない。そんなことで、墓地探し。今では民間の納骨堂や寺院からメールが送られてくる時代。選択肢も広がった。寺院の経営する納骨堂では、営業担当者に「とても人気があって、新しいお部屋を増設しました。」と音楽の流れるロッカー式地下納骨部屋を紹介された。また、都市型納骨堂の担当者は「私は長男なので、将来、実家の寺院墓地を守っていくつもりだが、本社のカード式墓参システムをお薦めします。」と率直に語ってくれた。こうした墓地探しの末に、市の運営する無宗派公園墓地に出会った。そして昨日、青く澄んだ空の下、納骨を済ませた。

ところで、私たちにとって墓は必要か。この命題に対する答えは、今古東西、老若男女、立場によってさまざまだろう。公衆衛生上は先の法律であるし、過去の政策上は寺社請負制度であったし、檀家にとっては義務である。また、新事業上は納骨堂経営である。しかし、それよりも遥か昔、私たちより野蛮だと考えられていたネアンデルタール人が、死者を埋葬する時に花を手向けていたことや、そんな法律も知らない幼い子どもが、飼っていた小動物を庭に埋葬して涙を拭うことを考えると、答えは「遺された者が、死と向きあうために必要だ」であろう。もし、骨すら残さない火葬システムが開発されて墓地が必要なくなれば、墓地に携わる仕事が無くなるだけでなく、死と向きあう場所もなくなる。その分、空を見上げることが増えるかもしれないが、何より私たちの死生観も全く変わってしまうだろう。

父を埋葬したことで、自身の終着駅も定まった。後は、そこに辿り着くまで「如何に生きるか」である。(2018年11月25日@nortan墓開き・納骨の直後、青空に4本の龍雲が上った。)

123、ゆるキャラ

芸術や文化スポーツの分野での最高位は、フランス語で「グランプリ」である。1951年に黒澤明監督が「羅生門」で大賞をとったことがきっかけで、日本でも使われるようになった言葉だ。2010年からは、ゆるキャラまでがグランプリを競い合っている。2010年ひこにゃん(彦根)、2011年くまもん(熊本)…そして、遂に「ゆるキャラが不正」というニュースが飛び込んで来た。市職員にフリーメールでIDを取得させ、組織的に得票数を操作したらしい。外見だけでなく、モラルがゆるい「ゆるキャラ」だったのかと、思い出の街のマスコット(守り神)だっただけに悲しくなった。ゆるキャラの「中の人」は、汗だくになりながら必死に頑張ってきただろうに…

ゆるキャラはだれにでも愛されるデザインでなければならない。そのセンスの難しさでは「芸術」である。また、猛暑の中でも可動部分の少ない体形で動き続けなければならぬ厳しさでは「スポーツ」である。そして、名産品や歴史人物、地域の特徴を身に纏っている点では「文化」である。つまり、ゆるキャラの闘いは、アカデミー賞でもあり、オリンピックでもあり、世界文化遺産でもある。そう考えると、年1度のグランプリに執着する自治体の必死さも理解できるが、得票操作はいただけない。せめて、ぬいぐるみ購入で投票できる総選挙にするか、いっそのこと「ゆるキャラ47」を結成し、ジャンケンでセンターを争った方が気持ちよい。

さて、国民全体の奉仕者であるという使命を忘れた意識の「ゆるキャラ議員」には、「中の人」をやってもらうというのはどうだろうか。そうすれば、売名出世より滅私奉公。本当にだれからも愛されるキャラクター(代表としての顔)に生まれ変わるに違いない。(2018年11月12日@nortan)

120、スラング

スマホで米ドラマを見る機会が増えた。字幕を見ていると「それは、違うでしょう。でも、意訳ならセーフかな。」と思うこともある。字幕の日本語とのニュアンスの違いが微妙だ。ドラマ「シリコンバレー」では、頻繁に耳に飛びこんでくる単語があった。「○○ing」だ。登場人物が口論するたびに使っている。敢えて訳すと「この○○」とでもなるのかと思って調べると、「(米)絶対に、間違いなく。すごい、やった、たまげたの意で、veryやsoと同様に若者がよく使っている。」とあった。日本語でいう「超(チョー)」と等しいようで、驚いた。それでも、「○○ing」は映倫に抵触する単語には違いない。映画ではなく、ドラマだからOKなのか?

さて、間もなく世界第4位の産油国からの石油輸入は禁止(同調しない国は、制裁の対象と)される。現在、その影響でガソリン価格も20円高の150円台となってしまった。スラングも世界を平和に導くための戦術だと深読みすることも可能ではあるが、TOPの使う言葉がドラマや石油価格にまで影響を与えているとなると深刻だ。「このまま、どこまで○○ing 高値になるのだろう。」と嘆いていたら、「日本は、一部輸入を認められた。」との報道があった。何か表現に違和感が残るが、ガソリン価格についてはひと安心だ。もしかして、「KY」という日本語スラングを知って、日本の空気を読んでくれたのだろうか。本当の理由を知るには、ドラマばかりでなく、字幕つきで大国のニュースを聴かなければならない。(2018年11月4日@nortan)

119、自己主張する街

電車窓から見えるのは、四角いビル、同じ看板、同じショッピングセンター、同じような高架橋、道路と信号機、車に人、何処に住んでいても同じ街並。昼食は、近所にあるのと同じコンビニでいつものサンドイッチと野菜ジュース。違う街に来たと感じられるのは、駅のお土産のゆるキャラくらい。旅への感受性が衰えたのかもしれない。インドでは自由の女神の2倍・240mの世界最大の立像「鉄の男」が完成した。インド部族統一の貢献者サルダール・パテールだという。真似て日本中に巨大戦国武将像が建つのも面白いが、人物像では批判も出るだろう。いっそのこと、全ての駅前に角の立たないゆるキャラ巨大像を建てるのはどうだろう。内部を防災備蓄庫とすれば、いざと言う時にも役立ち、説明責任も果たせる。または、古都と東京は除いて自治体カラーを決め、街全ての建物を塗り替えてしまえば、「今日は、『○○色の町』に行ってきたよ。」と会話も弾み、インスタ映えで観光客も増えるだろう。何処も彼処も、自己主張のない画一化された「高度経済成長もどきの街並み」では、外国人が「日本人は、みんな同じ顔に見える。」と言うのと変わらない。バブル時代の「ふるさと創生一億円事業」の二の舞にならぬように、より効果的に地域が一丸とならなければならない。

勝手な主張ばかりしてしまった。つまり、「また、いつか、ここを、訪れたい。」と思える機会が減ってきているのは、何処に行っても日常と同じ生活ができるほど、日本が狭く・豊か・便利になったからに違いないが、ひょっとしたら「日本ばかりにいないで、世界を見なさい。」という御告げなのかもしれない。

(2018年10月28日@nortan筑紫平野の西の稜線に沈む夕焼けは美しいかった。やはり、日本は自然で勝負だ。)

117、ジャック

ハロウィーンはキリスト教とは関係なく、ケルト人発祥の収穫祭だ。ジャコランタンは、悪霊を払い善霊を呼ぶとも言われる。そもそも、ジャック・オー・ランタン(ジャコランタン)は、死後の世界に行けずにカブのランタンを持って彷徨う男の姿だとされた。2000年の時を越えて伝わった、我が国の「ハロウィン」は、収穫祭でも宗教祭でもない。1990年代に東京ディズニーランドで始まったパレードが、お菓子などの商戦を巻き込んで広まっていった。子どもたちの喜ぶ行事(祭りではなく)で、戦後広まったクリスマスに似ている。私たちには、外国の文化を無宗化して取り込む能力があるようだ。一方、お釈迦様の誕生祭である花まつり(灌仏会)を4月8日に祝って行進したり、秋に神社の神輿を担いで地域を練り歩いたりすることは減ってきているように思う。地域密着型であった「祭り」は外国の祭りを取り込んで「行事」となり、「行事」は商業化され、個人参加型の「パレード」となった。その結果なのだろうか。ニュースで映し出された、都会の交差点で押し倒された軽トラックの上で踊る若者の姿は、「外国のパレードでは商店の略奪もある。日本の祭りは平和的だ。」と昔に聞いたことを悲しく思い出させた。パレードで一儲けしてやろうという商業主義が、都会にランタンをもったジャックを呼び寄せたのかもしれない。まだ伝統が残る地域の祭りを、なんとかして、このジャックから守らなければならない。(2018年10月28日@nortan)

115、「ぬ」と「る」

最近、めかぶの美味しさに目覚めた。めかぶとは、ワカメの胞子葉で不飽和脂肪酸を多く含む健康食品とされているが科学的に根拠づけられた訳ではないとあった。ぬるぬるするので納豆に和えたり、だし醤油を加えて炊き立てのご飯にのせてもいける。古代では、貢物として海苔についで重宝されていたというから、今までこの味を知らなかったことが悔やまれるほどだ。人によって好き嫌いはあるだろうが、納豆やオクラ、メカブ、山芋など「ぬるぬる」は健康志向だ。そう思って食べるようになったとも言えるが、年をとって味覚も変わったのだろう。

さて近頃、もうひとつ変わった味覚がある。それは「平和」のとらえ方である。「平和とは、戦争のための武力をもたないこと」とハード面だけでとらえているところがあった。しかし、「平和とは、勝てぬ戦をしないこと。勝てる戦をしないこと。」という言葉に出合った。書籍だったか、ラジオだったか忘れてしまったが、記憶に残るフレーズであった。世界を何度も破滅させる武器を持つ軍事大国も、それに対峙し軍事力を増やそうとする国も「勝て『ぬ戦・る戦』をしない」という心を忘れはいけない。平和を実現維持するには、そんなソフト面(心の砦)も大切である。バブル当時、「ぬる」ま場で「楽しければ、いいじゃん!」といっていた若者に、「平和ぼけしていてはだめだ。二度と戦争を繰り返してはいけない。社会のことにもっと関心をもたなければいけない。」と諭してくれた元気な戦前・戦中世代も、戦後73年、少なくなっている。「ぬ」め「る」めかぶを噛みしめながら、私たちが受け継がなければならぬ「味覚」がある。(2018年10月16日@nortan)

114、20組に1組

今夏の猛暑、たまたま入ったファミリーレストランで、20組に1組が食事代無料となるキャンペーンに当たった。頑張っていれば確率の神様は幸運をもたらしてくれるものだ。今後の客数を増やすためのキャンペーンで、店は多少の損を覚悟しているのだろうと思い、店の利益を計算してみることにした。

何組に1組が無料になるかをx、定価に対する仕入単価の割合をy%、利益率をz%とすると、利益率はy/x%下がりz-y/x%となる。キャンペーンによる客数の増加をa倍とすれば、z ≦ a(z-y/x)が成り立てば利益額は増えることになる。そこで、仕入単価を50%、利益率を25%と仮定する。25 ≦ a(25-50/x) → 1 ≦ a(1-2/x) → 1/a ≦ 1-2/x → a ≧ x/(x-2) となる。3組に1組を無料にするなら、客数は3倍以上にならなければキャンペーンは失敗となる。次に20組で計算すると、1.11…倍となり、客数が10%程度増えればよいことになる。そんなことは…、店側はもっと赤字を覚悟しているはずだと思い、仕入単価を30%、利益率を30%(この数字の方が現実的だと思う)、20組で計算すると、30 ≦ a(30-30/20) → a ≧ 1.05…(5%程の増加) とますます1倍に近づく。つまり、「20組に1組」は客にとっては「5%の確率」という魅力であり、店にとっては「5%以上客が増えれば儲かる」というキャッチフレーズなのだ。40年に1度のラッキーだったと喜んでいたのに、少しばかり残念な計算をしてしまった。今度は、「5組に1組キャンペーン」を期待したい。先の計算では1.25(25%)となるが、それ以上の集客効果を得るのではないだろうか?(2018年10月15日@nortan設備費・人件費などを無視した素人の勝手な計算である)

106、ブレイクスルー

手首に埋め込んだl平方mmの極小チップに信号を送ることで、神経が脳にオオカミの映像を映し出すことができたという論文が始まりだった。この技術は、地震大国日本では「緊急地震速報」に活用され、一部の新物好きでマニアックに流行しだした。そして、地震で「チップのおかげで助かった。その後、サイレントにしてあったスマホの通知に気づいた。」というツイートが広がり、瞬く間に広まった。これが、始まりだ。

この技術は、迷子・認知症老人への道案内、ランニング時のバーチャル映像と社会的承認が得られるものへと広がっていった。今では、働き方改革の一環で労働時間が8時間越えになると「赤いバツ印」が表れるようになった。

その後、技術の発展により違法行為が行われそうになると、そのレベルに応じて警告ピクトグラムと文章を表示するようになった。その頃には、全国民に出産時の埋め込み義務も法律化され、学校教育でも「子どもの道徳観向上のための映像チップ活用」なんて実践も行われるようになっていた。

50年経ち、パソコンに画面が必要なくなり、学校でも「覚えるための学習」は必要なくなった。そして100年、学校も教師という職業もなくなり、公立知識配信機関と民間バーチャルスクールが学習プログラムを競いあうようになっていた。

当初から反対を表明する親や教師もいたが、それが伝わると目の前に「あなたは、人間の進歩を阻害しています」「考えを変えなさい」…「この警告を消したければ出頭しなさい」と警告が映し出されるようになった。警告をそのままに寿命を全うした者もいた。しかし、100年たった今、昔を知る者はいなくなった。映像チップを大切にすることが道徳規範(常識)とされ、そうでなかった昔の人間を「プレヒューマン」と揶揄する者も多くなった。…

キアヌ・リーブス主演「マトリックス」ではないが、こんなことが、急に頭に浮かんできた。そう言えば、子どもの頃から左手のひら数mmの筋がある。心配になって、目の前で右手を数回振ってみた。まあ、いいか!?未来予測なら、ハズレるものだ!現実なら、受け入れるしかない。(2018年8月16日@nortan右手を振るのがクセにならぬように)

100、懐の深さ

世界人口が増加する一方で、先進国は人口減少と高齢化、労働力不足が問題となっている。我が国でも人手不足が理由の中小企業倒産が、4年前の約3倍になったという。2025年には介護職だけで100万人の人材不足になるといわれている。そんな危機感の中、介護・看護師などアジア3国(フィリピン・インドネシア・ベトナム)からの受け入れも始まっている。しかし、日本語で厳しい国家試験に合格しなければ帰国する約束だ。そんな厳しい条件をクリアした者の大半も、数年後には帰国してしまうらしい。資格まで手に入れたのだから日本に定住・永住・帰化すればと思う。

また、留学生も増えている。ベトナムからの留学生が6万人と急増し、中国からの10万人に続いて2位となっている。3位も増加傾向にあるネパールからの2万人だ。コンビニでは、見慣れぬひらがなのネームプレートをつけた店員に一生懸命な日本語で「おはしとスプーンは、どうされますか?」と対応されることも増えた。昨年、在留資格を就労可能な「専門的・技術的分野」の資格に変更して日本企業に就職した留学生は26万人中2万人だ。採用時に重視されるのは「コミュニケーション能力」と「日本語力」が共に50%を越えている。「協調性」は25%程度、「異文化対応力」は15%程度である(MUFG2018企業が留学生に求める資質)。どうやら、文化的要因よりも「日本語でコミュニケーションできる」かどうかが大きな壁となっているようだ。

さて、漢字と平仮名・片仮名、外来語やアルファベットまじりの日本語を短い期間に理解することは無理があると誰もが思う。少しばかり、平仮名かローマ字で全てにルビ(読み)をつけるか、全て平仮名かローマ字表記にして、日本語を読み書きしやすく、私たちの方から歩み寄ってはどうだろうか。

「日本(にほん)は社会発展(しゃかいはってん)のため、日本(にほん)で働(はたら)きたいと願(ねが)う移民(いみん)の人々(ひとびと)と多文化共存(たぶんかきょうぞん)の社会(しゃかい)ヘ大(おお)きく舵(かじ)を切(き)った。」

「にほん は しゃかいはってん のため、にほんで はたらきたい と ねがう ひとびとと たぶんかきょうぞん の しゃかい へ おおきく かじ を きった。」

「Nihon wa syakai-hatten no tame, Nihon de hataraki-tai to negau hitobito to tabunka-kyōzon no syakai e ōkiku kaji wo kitta.」

もちろん、「日本は社会をよくするため、日本で働くみなさんと一緒に生きる社会をめざすことにした。」とやさしい日本語を使い分けることも必要だろう。

「グローバリゼーション=英語」とだけ狭く考えるのではなく、我が国の伝統と文化を守りながら、未来に向かってどれだけ自己改革できるかも「懐の深さ」なのかもしれない。(2018年7月25日@nortan)

99、懐の大きさ

フランスは19世紀末には欧州から、1960年代からは旧植民地アルジェリア・モロッコ・チュニジアからも移民を積極的に受け入れた。国内では文化や社会衝突もあり「フランスをフランス人に取り戻す。」と主張する勢力も台頭してきている。そのフランスが20年ぶり2度目のワールドカップ優勝。フランスメディアは「多民族社会であることの勝利だ。」と歓喜した。その後、「選手の多くはフランス人には見えないが、まちがいなくフランス人で、フランスの誇りだ。」と聞いた時「?」を感じた。一方、ドイツは2015年に100万人近い移民の受け入れをめぐってEU全体を揺るがした。そのドイツは、ワールドカップで敗退した。そして、一人のサッカー選手が「勝てばドイツ人、負ければ移民として扱われた。」と代表引退をツイートした。確かにスポーツの国際大会には、国民を文化などの違いを乗り越え熱狂させる力がある。しかし、優勝すれば「誇り」、負ければ「移民」では悲しい。

さて、我が国も社会を維持するため、現在128万人の外国人労働者を受け入れている。これは、増加傾向にある。21世紀は再び移民問題と向き合わなければならないだろう。仏独よりも古い時代、弥生~奈良時代に多くの渡来人を受け入れ、文化と社会を発展させてきた日本社会。我が国には、共に社会を発展させていくという「懐の大きさ」があるはずだ。(2018年7月24日@nortan)

98、水ノ国

国連最新予測によると2055年には世界人口が100億人を越える(1万年前の1万倍、31年前から2倍)。その全人口が米国なみの生活を維持するには、地球5個分の資源が必要だという。運の良いことに、2013年シェールガス革命により地下資源枯渇のタイムリミットは約100年伸びたというが、「水資源」は増えていない。発展途上国では、水道設備などのインフラ整備も課題で、海外企業がチャンスと参入しはじめている。日本では水インフラは公共(設備)事業であるため、設計から設備・運営までトータルで支援できる民間企業が育っておらず、海外「水メジャー」に太刀打ちできていない。しかし、海水淡水化技術ではトップレベルの実力を持っている。福岡の「まみずピア」では、逆浸透方式で5万㎥(25万人分)/日と日本最大の規模を誇っている。サウジアラビアなどで行われている「多段フラッシュ(蒸発と冷却)」技術もあるが膨大な熱エネルギーが必要で効率が悪い。石油資源大国だからこそ選択できる方法だ。また、イスラエルでは、逆浸透膜方式で淡水化した水を利用後の下水を85%近く潅漑用に再利用している(日本は2%程度)。下水再利用は海水淡水化コストの1/3ですむとはいえ、これを飲用にするには火星に移住するほどの決意がいる。

このように、水資源獲得競争と海水淡水化の時代は始まっているのだ。以前、知らぬ間に日本の水源地が外国資本に売られていたことで「これでは、いけない!」と話題になったことがある。水道水を日常的に飲用できる私たちは、水資源の貴重さを忘れていたようだ。『地球上で人間が使える淡水は2.5%で、飲用に使えるのは1%に満たない。』水インフラの輸出では海外「水メジャー」に太刀打ちできていないが、国内でペットボトルの水を大量に生産し輸出することはできる。水は「ただ」ではなく資源なのだ。カジノをつくるのもいいが、世界中に「おいしい水」を届ける「水資源大国、日本」になるのはどうか。(2018年7月23日@nortan「おいしい水」でTOKYO2020おもてなし)

97、リコール

消費者庁が 2009年に設置されてから、消費者側に寄り添った企業努力が当然となっている。経済産業省「消費生活用製品安全法」によるリコール命令は、ナショナル石油暖房機(2005)、パロマ給湯器(2006)、TDK加湿器(2013)の3件で、その他は自主的なリコールだそうだ。企業イメージを第一に考えると、製品の欠陥を「なる(べく)早(く)」発見し自主回収修理(交換)した方がよい。かといって、自主リコールが続くのも考えものだ。また、製品回収とまでいかなくても、新型製品へのマイナーチェンジ(改良)を頻繁に行って、消費者に自主的買い換えをアピールするのもリコールの一種かもしれない。昔、パソコンの世界では、新OSが出るたびに新OSとそれに対応したソフトを買い換えるのが当然であった。しかし、今や無料アップデートが当然である。ハード(機械)が壊れない限り、ソフトも進化対応していく。

さて、2018年夏は今までにない猛暑。いや、猛暑というより酷暑である。この観測史上記録となる猛酷暑を、何処にリコールすべきか。消費者庁が4例目として太陽に命令できないのなら、太陽の方から「なる早」で自主リコールをしてほしいものだと思う。それは無茶なクレームだから、自分の体(ハード)を最高気温40°Cに耐えられるようマイナーチェンジしよう。しかし、これも無理な課題だ。結局、クーラーのある部屋に閉じ籠るか、来年以降も続くだろう酷暑に負けない精神(ソフト)に無料アップデートするしかない。(2018年7月22日@nortanハードが壊れる前に)

94、家族のかたち

「どうして、家族でもないのにおじさんのことを『おじさん』と呼ぶのか分かる?」これは、最近視聴し始めた海外ドラマで、母親が父親の本業を娘に暗示させるセリフだ。家族を「(イタリアン)ファミリー」に置き換えると、どういうことか分かってもらえるだろう。民法には親族の定義(血族6親等以内+配偶者+姻族3親等以内)はあるが、家族の範囲は定められていない。また、法律による適用範囲もさまざまである。だから、同居=家族から氏家=家族、世界一家(人類)=家族まで、すべて家族の考え方であってよい。第5回全国家庭動向調査(妻を対象とした家族であるために重要だと考えることの割合)では、「困ったときに助け合う(1位)」「精神的なきずながある(2位)」「互いにありのままでいられる(3位)」が上位を占め、「血のつながりがある(4位)」「日常生活を共にする(5位)」「法的なつながりがある(6位)」「経済的なつながりがある(最下位)」が続いている。このことから、現代日本人の家族とは、「自然と助け合うための絆を感じられる存在」のことだともいえる。一方、5年に1度の国勢調査では、単独世帯数が毎回増加傾向にあるそうだ。前回調査でも約10%の増加(65歳以上が約4分の1/国勢調査)であった。若者の貧困や老人の孤独死が問題となっていることとも無関係ではなさそうだ。このことを含めて考えると、私たちが「自然と助け合うための絆を感じられる存在」の範囲は意外に狭く、玄関を出ない。「ちょっとお醤油をかして下さい。」とチャイムを鳴らすよりは、コンビニに並んだ方が気安い時代。どうやら、物質的豊かさや便利さが「家族」の範囲を狭くしているようだ。さて、精神的な絆に玄関を開けさせるにはどうしたらよいだろうか。地域にスポーツチームを結成して共に応援する。愛される地域ゆるキャラをつくる。食堂つき公共銭湯をつくる。地域SNSで交流の場をつくるなど、いろいろ新しく「つくること」が思い浮かぶ。(政略なら外敵をつくるのがよいかもしれない。)そうだ。その前に大切なことがあった。ファミリーのボスではないが、まずは地域の中で「おじさん」と呼ばれることだ。(2018年7月15日@nortan)

93、成人年齢

成人年齢を2022年度から18歳ヘ引き下げる民法改正法案が可決された。「欧米諸国に合わせて」とか「若者の自立を促す」とか後からついてくる理由もある。そもそも、民法は国内法であるし、自立は年齢到達で達成できるものでもない。例えば、プエルトリコは14歳、ネパールは16歳、シンガポールやアルゼンチンは21歳である。また、明治9年太政官布告第41号で20歳を成人と定める以前は、11~16歳で男子が元服、女子が元服(裳着)を行っていた。農村では18~19歳で成人となることが慣例であったようだ。もし、生物学的な理由があるのなら身体的成熟によって個々に成人するべきだろうし、社会的な理由があるのなら何らかの試験に合格した者から順に成人すべきである。さらに、平均寿命が延びていることを理由にあげれば、成人年齢を引き下げるのではなく「引き上げる」ことの方が論理的に妥当である。江戸時代に平均寿命50歳で15歳なら、今は平均寿命84歳で25歳である。日本の労働人口減少が理由ならば、将来は15歳成人へ引き下げられるかもしれない。結局、時代や国内事情によって決めるのだろう。そうだ。「成人届出制度」はどうだろう。義務教育を終えたら25歳までの間に家族と話し合い、本人の成人となる覚悟を尊重して「成人届」を共同提出する。納税・勤労・教育などの義務や選挙などの権利、職業選択などの自由と選択に伴う責任、自立することの意味など、成人について深く深く考える機会にもなるはずだ。数年前に何処かで「今が楽しければいいしぃ。」「政治なんて興味ないっす。」という新成人を嘆いて「今の年齢は昔の7がけ。28歳でようやく昔の20歳(成人)だ。」と聞いたことを思い出した。そもそも、子どもは「早く大人になりたい」と夢みるものだし、大人は「もっと子ども時代を楽しめばよかった」と後悔するものだ。ならば、「子ども(離成人)届」も必要だ。定年齢まで働いた後、社会的義務を猶予され、余生で第二の子ども時代を楽しめるなら、未成人も成人も離成人も納得だろう。つまり、「同一年齢一斉成人制」より「異年齢成人選択制」の方が自立と責任を促せはしないだろうか。そうすれば、働き方改革など社会の枠組みに関する議論を大切にする成人ももっと増えるだろう。

(2018年7月7日@nortan全国的大雨災害を心配して)

86、シューズ

靴を履く習慣は、東西限らず紀元前からある。イスラエルに訪れた首相が、夕食会で靴に入った(靴を象った皿に入った)デザートでもてなされた?!イスラエル国内から、「靴を脱ぐ文化である日本人に失礼。恥ずべきだ。」と報じられた。イスラエルの首相が「出されるまで知らなかった。」とコメントしたことからも、怒りを表現してもよかった出来事であったのだろう。それとも「二国で共に平和の道を歩んで行こう」という粋なメッセージだったろうか。結局「首相夫妻は、デザートを楽しまれた。」と笑顔の写真が、創作料理人として有名なシェフのSNSにアップされ、誰にとっても大事には至らなかった。さて、西洋では、日本を靴を脱ぐ文化だと区別しているようだが、西洋人も靴を脱ぐだろうし、世界には靴を履かない文化もある。問題はどこで脱ぐ(履く)かなのだろう。「土足で心の中に上がる」これは、表現の仕方に違いはあれ、世界中で嫌うことだ。文化は違っても、自他の区別はあるからだ。ならば、靴を脱ぐ(履く)境目は、自他の「心の境界線」だと言えないだろうか。西洋人はベッドであり、日本人は玄関である。首相が怒りを表明しなかったのは、ベッドよりも家の方が広かったからだと思えば納得もできる。心の広さを示したのか、武士道を貫いたのかと日本人である私は思いたいが、靴が発明される前や靴を履かない人は、靴のデザートをどう思うだろうか。(2018年5月13日@nortan日本人の誇りを思って)

75、シンギュラリティ

気象予測では、特異日をシンギュラリティという。しかし、「体育の日(10月10日)は晴天になる」というのはシンギュラリティではないらしい。前後日と比べて統計的に説明できないほどの特異差が必要なのだ。つまり、体育の日の前後もよく晴れるということらしい。一方、「9月17日と26日は、台風上陸のシンギュラリティ」だ。科学的には説明できないが、統計的にはなぜか集中しているらしい。つまり、統計的に有意差を認められる日がシンギュラリティである。また、人類は2045年にシンギュラリティを迎えると言われている。未来学者レイ・カーツワイル(米)が予言した年である。私たちの技術は景気や戦争などの社会情勢に左右されずに指数的に進歩し、行き着くところまで行くと、それを越える想像できない新技術が発明されてきた。それを統計的に予測すると、2045年はAIテクノロジーと脳が生化学的に融合し今の人類には想像できない思考力を手に入れる年となるそうだ。そのためのプレ・シンギュラリティは7年後の2025年。AIは人間の思考と区別できないAGIと進化し、脳とAGIを同期する研究が始まる。そして28年後、毛細血管を通るほど小さくなった思考チップを脳に取り込み、インターネットに繋がったデジタル思考も行えるようになるらしい。それ以後は、人類がAGIを道具として使いこなすポストヒューマンに進化するのか、AGIに支配されるのか。SF映画のようである。「そんなことシンジュラレンテェー(信じられんてー)」とボケてみて、日本では「明日から正月3日までは、お笑い番組のシンギュラリティ」だと気づいた。人工知能には落語や漫才コントの面白味が理解できるのだろうか。できるのならば、未来もユーモラスになるかもしれない。(2017年12月28日@nortan)

63、想像力

人の数だけ想像力はある。2025年の予測世界人口は100億。想像力の「数」は大台を越える。しかし、一つひとつの大きさが小さければ、果てしなく広がる草原に等しい。その中から空に向かった「大木」を育てなければならない。広がりと同時に高さも必要だ。地球のリセットボタン周期は、約1億年のようだ。前回はユカタン半島に隕石が衝突した。太陽系外縁部を覆う隕石群から定期的に隕石が降り注いでいて、地球大接近する周期が約2000万年、衝突する確率が1/5、つまり約1億年なのだと想像する。(己羅夢12:地質年代)現在はロスタイム、いつリセットされても不思議ではない?と想像しながら、最近のリセット発言を想う。リセットと言えば「生命はひとつ。ゲームのようにリセットできないから大切にしょう。」や「やる気はリセットできる。さあ、頑張ろう!」と使うことができるだろう。何がリセットできて何ができないのかは、単純ではなく哲学的かつ宗教的でもある。生まれ変わりを信じれば生命(魂)はリセットされるかもしれないし、やる気の減退を脳内化学反応の老化(変化)だと証明されてしまえばそう簡単にはリセットできない。先日「日本をリセット!」と書かれたポスターに出会った時、何時代にリセットしたいのかと違和感を覚えた。平安時代の貴族の世?戦国時代の武士の世?明治の富国強兵の世?それとも縄文時代?と自由に想像力を広げる分には楽しいのだが、リーダーの言葉として真面目にとらえると重い。ピカドンが落とされたあの時代をリセットしたいと願うが、時間の矢は戻らない。結局、気持ちを切り替えるために「リフレッシュ」の意味で使う分には罪がない。 焼き畑は「草の力」を利用した農法である。草が育てた肥沃な大地こそ「豊かな収穫」を約束する。ところが、化学肥料の発明でそんな面倒なことはしなくなった。草の力は利用されるのではなく、抜かれるものになった。同様に「草の根運動」は、たくさんの草の力を合わせて一本の「大木」(リーダー)を育てる運動といえるが、最近のリーダーは草の力に頼らずにメディアによる知名度という化学肥料に頼っているように思う。それは、ポスターでしか見たことのない候補者に一票を投じている自分にも原因はあるのだろう。そして、「自分も抜かれたのだ。」と想像する。さて、地球のリセットもロスタイムに入った。100億の力を結集して、科学・政治・文化など多様な「大木」を育てなければならない。人口爆発は、「神様が、人類を次のステージへと引き上げる発明・発見(イノベーション)の先頭に立ち、新しい世の中を創造できるリーダーの出現に賭けているのだろう。」と想像する。この期待に応えられなければ、我々の文明は、線香花火の最後の火玉となるかもしれない。まるで宇宙から見た夜の地球に輝く都市の灯りのようだ。私は何をリセットしなければならないのか、と想像して「いや、守らなければならないのだ。決して抜かれはしないぞ。」と草の心を燃やしてみた。(2017年10月28日@nortan明日の台風22号を心配しながら)

60、新「踏み絵」

時に、大自然の中で神秘性を感じたり、神仏像を通して人智を超えた存在を感じたりすることは、私たちにとって「自然な感性」だと思う。種子島に鉄砲と伝来し、広まったキリスト教。大名までも改宗したことで危機意識を高まらせた徳川政府が信者をあぶり出すために行ったのが「踏み絵」。考案したのは、オランダ人だとか日本人だとかの説があるようだが、神仏像(偶像)を大切にする日本人の心を知り、それを巧みに利用したことを考えると、オランダ人説はちがうのかもしれない。そもそも、キリスト教は偶像崇拝を禁止するのだから、それを理解していれば「踏むことをためらう」必要もなかっただろう。理解していても…と言うこともできるかもしれないが、生命大事の観点からは「生の道」を選択すべきだったろうと、現代社会に生きる私たちには理解できない当時の人々の苦悩を想う。さて、踏み絵を拒否するか・受け入れるかが、重い決断であることはいつの時代でも同じようだ。新「踏み絵」では、生き残るために信念を曲げて踏んだ者も踏ませてもらえすらしなかった者もいたようだ。また、「踏むことをためらった者」が「踏んだ者」より、生き残る可能性が高まったとも言われている。「400年の時を隔てると、言葉の意味も変わるものだ。」と感じるのも、これまた「自然な感性」なのだろうか。(2017年10月19日@nortan)

56、一致団結?

柿太郎が鬼退治に出かけることになった。一人では村人の応援が得られないので、おばあさんの作ってくれたきび団子と交換で犬と猫と猿をお友にすることにした。しかし、最初に声をかけた犬の具申で、猿を排除することになった。「きび(ふ)」と書いた旗を翻し、鬼ヶ島に辿りついた。猿の知恵はかりられなかったが猫の跳躍力で何とか鬼を退治し、金銀財宝と世直し権を村に持ち帰った。その後、財宝の分配をめぐって犬と猫も仲違いしてしまった。一人に戻った柿太郎。それを見ていた猿は、蟹と一緒に柿を食べながら、柿太郎の捨てた旗を囲炉裏の火に焼べた。すると、灰の中から「鬼退治!」と栗が飛び出してきた。

そんなストーリーだったろうか?

今一度、昔話を読み返す必要がある。(2017年10月7日@nortan)

52、顔か頭か、それとも…

引導を渡すとは、仏の道へ進む決心をつけさせるために説法し「喝!」を入れる仏教用語の転用だ。宗派によっては、喝!も引導を渡すしきたりもないそうだから、渡したくても渡せないこともある。他教の信者なら、なおさらである。某自治体の知事は自ら辞任することになったが、前任者が「自分では決められないのでしょう。(かわいそうだ)」とコメントを発表していたことが印象的だった。また「(猫に)鈴をつける」もよく使われる諺で、よいアイデアだが実際には怖くて誰(鼠)も実行できないことの例えだ。ワンマンで利よりも害が長じてきた社長をおとなしくさせようとする場合に当てはまる。今回は、説法されたのか、鈴をつけられたのか。それにしても、組織のトップが交代する(させられる)ことが多い。プロスポーツの監督、株式会社の代表取締役、○○協会の会長、あらゆる「長」のつく役職、いろいろあっても交代しないのは「長」の手足から伸びた糸を操作している誰か、黒幕などと噂をされる者のようだが、世の中に「長」の数ほど黒幕がいたら大変だ。知らぬ間に、私も誰かの黒幕になっていなければならない。さて「うちの社長は会社の『顔』だ」と言うことがあるが、これは褒め言葉ではないように思う。よくある「1日○○長」なら「顔」でよいが、本来なら頭脳でなけれぱならない。かといって「会社の『頭』だ」とそのまま使えば、ワンマン頑固おやじでどうしようもない印象。顧客や社員の話を広く聴き決断できる存在でなければならないから「うちの社長は、会社の『耳』だ」というのが最大の賞賛になるのかもしれない。でも、社内のいたるところに盗聴マイクが仕込まれていそうで怖い。顔か頭か耳か口か。それとも、よく切(ら)れるから「しっぽ」なのか。兎も角、組織のトップであるほど、皆のために働く公人であるほど「広く見、広く聴き、正しく考え、真実を話し、惜しまず働く思想の持ち主」であってほしい。そうだ!「うちの社長は、会社の『心』だ。」がしっくりくる。いや「会社の『主』」には違いない?(2016年6月14日@nortan)

50、境目

30年前に結ばれたシェンゲン協定は、EUで国境を越える往来を自由にすることとなった。今ではEU近隣国の参加もある。そしてドイツでは、政策もあって人口に占める移民数は13%を越えた。我が国で当てはめると1500万人となる驚くべき数だ。フランスなども然り。EUの理想は、人ロ移動によって世界をひとつにするかもしれないが、我が国はもっと緩やかに・穏やかにと願う。そして、我が国の素晴らしい文化を…と考えて、自身の「境目」へのこだわりに気づく。そこで『境目』について考えた。例えば、土地の境は「県境」これは歩いて乗り越えられる。時間の境は「過去と未来」これは必然的に流れる。人の境は「私とあなた」これは相手を大切に思うことで通い合う。空と大地の境は「地平線」これは眺めれば存在するが、追いかけても逃げてしまう。いろいろな境目があるものだ。今、EU諸国は自由と排除の天秤、結束が試されている。一つ目の原因は、シリア内戦泥沼化による難民の受け入れ問題。二つ目の原因は、UK(イギリス)のEU脱退問題。前者はEUへの加盟をめざすトルコの働きかけが突破口となる可能性があるが、後者は不安要素が大きいようだ。結果次第では、我が国も大きな影響を受けかねない。先日、伊勢志摩サミット後の記者会見では語られなかったが、おそらく最重要議題だったはずだ。日常では、関心事を芸能ニュースにとられ、大切な「歴史の境目」に立っていることに気づかないでいるのかもしれない。さて、もう一つの境目に気づいた。毎朝目覚めることとベッドに入って目を閉じることの「夢と現実」ではなく、現実や理想の実現から目を背けるかどうかの生き方。日々の生活でも、どう「苦境」という境目を克服すべきか悩みはつきない。時には夢の世界に逃げこみたいこともある。「夢の世界とシェンゲン協定を結べばよいだろうか。それとも、チケットを買って入園ゲートをくぐればよいだろうか。」と境目のない老眼鏡をもつ年齢になった自分にぼやいてみる。(2016年6月12日@nortan)

49、懺悔

懺悔(ざんげ)という言葉を知ったのはバラエティ番組で、水をかぶせられたり桶が落ちてきたりする演出だった。それが、自らの罪の告白で魂の救済を求めるキリスト教の文化だと知ったのは、しばらく経ってアメリカ映画を見るようになってからだ。さて、宗教的な視点は横に置いて、親が子どもに「正直に言いなさい。」と白状させるのも一種の懺悔である。圧力に屈するか親の愛を信じて、子どもが正直に答えるとする。その後の親の姿勢には2通りあるだろう。「よく正直に言えたね。次は正しく行動するんだぞ。」とその反省を受けとめるのがひとつ。そして、もうひとつが「嘘が許されるのなら、神様なんていらない。反省しなさい。」と叱りつけ、お仕置きをする。親の愛情の幅には、こんなにも広い格差がある。自主性の尊重だとか厳しさだとか、親の立場での理由づけはできるが、子の立場からしたらどうだろうか。「うちの親は甘い。正直に言えば何でも許される。」かもしれないし、「うちの親は、結局正直に言っても言わなくても同じだ。」かもしれない。前者の親の言葉に「正直に言って良かった。」後者の親の言葉に「厳しく叱るほど自分のことを大切に思っていてくれたんだ。」と子どもが感動し劇的に成長するというほど『躾(しつけ)』という名の家庭教育は簡単ではない。北海道で親に置き去りにされ行方不明になっていた子が発見されたというニュースに安堵させられるとともに、親という責任について考えさせられた。新聞は「虐待だ。」とか「とても子ども思いの親だった。」とか勝手に水をがぶせているが、親子の関係は神のみぞ見ているのだろう。過去にもどってやり直すことができるのなら、思いっきり叱ってやりたいだとか、思いっきり抱きしめてやりたいだとか、そういう後悔を心の中に積み重ねることで、親も成長させ(躾)られているのだと思う。暗く狭いボックスの中で懺悔するのではなく、子の笑顔が親にとって一番の救済である。無事でよかった。(2016年6月4日@nortan)

48、超言語

「エスペラント」という世界共通言語への取り組みがある。1880年代にロシアの眼科医ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが27才にして創案した人工言語である。彼は6年間もドイツ語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語・英語学習に費し、不規則性や例外が一切ない誰もが学び習得しやすい合理的言語を目指した。例えば、動詞(現在形)は-as、名詞は-o、形容詞は-aで必ず終わるというように。日本では1906年に二葉亭四迷が日本最初のエスペラントの教科書『世界語』を著し、宮澤賢治も「イートハーヴォ(-o)」とエスペラント風の名前を作品世界につけている。日本を含む世界各地にエスペテント協会があって、毎年世界エスペラント大会が開かれるほど人々を惹き付ける言語ではある。もし、エスペラント語を身につけられたら、世界中のエスペラント話者を訪ねながら世界旅行ができるという文化もある。しかし、エスペラントは日本語から遠い言語である。それは、西洋の言語がもとになっているからではなく、やはり日常で使わない言葉だからである。最近、興味をもってエスペラントの本を読んでみた。「I love you.」は「Mi amas vin.」その理念に関心はするものの身にはつきそうになかった。「Mi ne povis lerni Esperanton.(I was not able to learn Esperanto.)」さて、EUが統一言語として採用でもすれば、英語に代わる最大共通語になる可能性も高まるだろうが、独語・仏語・伊語・スペイン語と各国を納得させるのは難しいだろう。思い切ってインターネットでの公用語とするか、ロボット言語として採用しない限り、話者ランキング100位からメダル圏内への浮上は望めない。国際的には、このまま「英語」が主流となっていくことは間違いないだろう。日本も2年後には小学3年から英語学習が始まり、小学5年からは成績教科となる。日本語力が十分育っていないのに…という批判派と、国際競争に勝つための英語力は早くから学ばないと身につかないという推進派との折衷案が、小学1年ではなく小学3年になったのかもしれないと推測するが、いっそのこと3才から学ばせてはどうだろうか。漢字や日本語離れも加速して、200年後には『日本語を小学3年から学ばせるべきだ』という主張もでてくるだろう。そこで、未来のザメンホフになって考えを巡らせてみた。「母語も大切にしながら、皆が話したくなる共通語を作れないものか。」「うむ。それは無理だ。流行の歌にするか? 『言葉に~なら~ない~♪』そうだ! 言葉を発する前のイメージ(脳内思考領域の電気信号)だ。それを取り出し翻訳できるICチップを発明するしかない。言葉を用いず、無線通信で直接相手の脳の思考野にイメージを伝達する方法しかない。」未来のザメンホフは、脳科学者か情報技術者にちがいない。考えたことは一瞬で半径50m以内の相手に伝わる。もはやテレパシーならぬイメージ強制伝達である。思ったことは何でも伝わり放題。人混みの中では、頭の中で無数のテレビ番組を見ているような状態。そこから、自分の話し相手の映像だけを選別する。うむ、うまくエラベラレント!?そもそも……エスペラントとは「希望する者」という意味だそうだ。さて、未来のザメンホフが現実となっても「Mi volas.(I want)」希望するかどうかは保留にしておこう。(2016年5月24日@nortan)

46、小鳥

「とにかく目標を達成しろ。やり方は、お前たちが考えろ。」これが日本が誇る会社の経営トップの言葉として真実なら、その企業は謝罪会見という絶滅を待つしかなかったのだろう。「競争なき社会は、堕落をもたらす。」「世界を相手に勝ち残る力が必要だ。」と単に競争を煽る風潮。「性能はより便利に、価格はより安く」というプレッシャー。圧倒的な格差を埋める力が自社にないことが分かった時、嘘と誤魔化しが誕生する。それは、「とにかくよい点をとりなさい。さもなければ…」と厳しく言われて、結果を出せなかった子どもがとった行動そのものである。内なる競争意識は大切でも、トップダウンの競争戦略が、結局は高い生産性をうまないという事実は認識されるべきである。何のための競争なのか。『めざすもの』は何なのか。今より世界が凸凹でMade in Japanがブランド(一人勝ち)であった疑似競争社会の頃は、競争を煽る雰囲気だけでも成果は出たのかもしれない。世界がフラットになり本当の競争社会となった今、「めざすのは○○だ。そのために必要だと考えることは何でも相談してほしい。」このように懐の広いビジョンを、トップは示したいものだ。経営者に求められる力は、権力を振りかざす傲慢力ではなく、目標設定力・推進力であり、社員に夢を見させて奮い立たせる力だということがはっきりした。そういう点でApple社のジョブズはカリスマだったのだろう。恐竜は鳥類に進化して、絶滅を生き延びた。我が国の誇るべき企業が鳥へと進化し、再出発してくれることを願う。さて、私は経営者ではないが、自分という会社の「小鳥」になろうと思う。(2016年5月22日@nortan)

43、バンガロール?

遅ればせながら、『フラット化する世界(トーマス・フリードマン)』を読んだ。グローバリゼーション1.0は「コロンブスによってはじまった旧世界と新世界を統一しようとする物理(国家)的な力」、グローバリゼーション2.0は「1800年代から2000年まで続いた多国籍企業による市場(貿易)の力」、グローバリゼーション3.0は今動きはじめた「情報テクノロジーによる個人の力」であると説いている。確かに、世界のサイズは狭く・近くなったと思う。 10数年前のグローバリゼーション2.0の末期、「下請会社は、人件費の安い国に移転する親会社についていくか、日本に残って苦しい中で頑張るかの選択なんや。」と、ある父親の悩みを聞いたことを思いだした。「今は中国じゃなく、東南アジアなんや。」とも聞いた。著者は、インドのバンガロールを例にあげて、アウトソーシング(部署の外注化)によって、ソフト面でもフラット化が進んでいるという。しかし、フラット(平ら)であろうか?企業である以上、利益を命題に経営する。例えるなら、傾いた床に落としたコインが、位置エネルギーを常に運動エネルギーに変換しながら低地に向かって転がり落ちることに似ている。傾いた床が「生活水準格差」であり、エネルギーが「利益」、高地が「先進国」で、低地が「途上国」だ。この傾きによって、70年前我が国は高度経済成長の道を歩き始め、先進国(高地)の仲間入りを果たした。世界がフラットでなかったから、つかめたチャンスであったと思う。現在の企業の海外移転(多国籍化)は「傾きが急になったために、企業自体も転げ落ちた状況」なのではないだろうか。もしフラットであれば、先の父親の知人も、国内で下請けを続けられたはずなのだ。また著者は、政治は国の利益優先という反グローバル化圧力が働く。企業も大企業になるほど、柔軟性が落ちる。これからは、テクノロジーと英語力(求められる言語力)を手に入れた『個人』が世界をフラットにするグローバリゼーション3.0の時代だという。…さて、納得させられる点も疑問が湧く点もあったのは、私の思考がフラットではなく凸凹だからかもしれないと駄洒落た頭の中で、バンガロールがこだまして「(日本)ガンバローネ」と聞こえてきた。(2016年5月10日@nortan)

42、34年前に

我が国のこどもの数(15才未満)が、34年連続の減少となったという統計が出た。しかし、34年前の子どもは今の大人。子育て世代の減少も34年遅れで統計上の数になるのだから、減少の始まった34年前に予想できたことである。「現在の合計特殊出生率が、1.4を下まわったこと」を問題にするが、これもまた然り。先進国にとって、豊かさとセットの人口減少は、とうに織り込み済である。一方、アフリカ諸国(5.0以上、最高は7.0)や人口第2位のインド(2.6)の出生率が高いことは対称的で、人口維持のための『2.08』を大きく上まわっている。2050年には、世界人口は100億人を越えると言われる。その時の日本の人口は既に1億人を下回わり、『もし世界が100人の村だったら、日本人は1人』ということになる。さて、超少子化と超高齢化の最先端をいく我が国にとっては、そのたった1人の住人は確率的にも高齢者ということになる。「わしは、まだまだ若い者には負けん!」と頑固な年寄りであるか、「昔は、○○じゃったのう。」と思い出話好きな年寄りであるか、最先端のテクノロジーを身体にまとったスーパー年寄りであるか。34年後(2050年)の日本人は、どんな老人となっているか? そして何よりも、他99人の住人の尊敬を受けるに値する日本人であるか。その鍵をにぎっているのは、『34年前の今』なのかもしれない。(2015年5月9日:こどもの日に思う@nortan)

40、ハリエット・タブマン

人権活動家として知っていたのは、米国ではキング牧師やマルコムX、我が国では西光万吉である。ハリエットが米国2020年の新札の肖像画になるというニュースを知った時、正直だれ?の初感であった。女性として黒人として、そして何よりも黒人奴隷解放のために地下鉄道(秘密結社)の車挙として命の危険も顧みずに行動した活動家として評価されての決定。南部黒人奴隷の子として生を受け、地主の死を契機に北部へ脱出し、以後幾度も南部へ潜入して救出活動を続けた。救出には、黒人にしか分からぬメッセージを歌として用いた。その回数や救出人数には諸説あるが、南政府から懸賞金が懸けられるほどであった。1913年に93歳で臨終の際には、助けられた人々や仲間が集まり「スイング・ロウ・スウィート・チャリオット(戦闘馬車)」かって脱出の暗号とされた歌を歌った。ここまで調べて、我が国の2000円札は、どうなった?…1年前、銀行の両替で2000円札を注文することができたので、「ある所にはあるんだ」と分かった。沖縄を象徴画とし、平和と人権の大切さを未来へと伝える心、それと共にミレニアム(西暦2000年)を記念して政府提案として発行された法定紙幣。米国民全てがハリエットの名を知っていたとは思わないし、熱しやすくも冷めやすかったり、光がある反面に深い闇もあるのが、かの国だと思う。しかし、ハリエットの肖像画採用は草の根運動の成果だったそうだ。その点で、米国の20$紙幣は流通し続けるだろうが、我が国の新2000円札には課題があったのかもしれない。あらためて財布の中を確かめた。やはり2000円札はなかったが、その思いだけは心の中にしまっておきたい。(2016年5月3日@nortan)

35、空気や水のように

1995年の阪神淡路大震災、倒壊した高速道路や燃えつづける神戸の街の映像に衝撃を受ける中、職場で「ボランティアとして神戸の避難所に行こうという人はないか?」「どんなことをすればいいのですか?」「与えられる仕事は、水もなくトイレが大変なので、バケツで水を運んでのトイレ掃除だ。」と言われたことを思い出す。その時の職責を放り出して現地のトイレ掃除に行くべきかの選択を戸惑った。その後、新潟大震災、東北大震災でも襲い来る津波の衝撃的映像、そして今回の熊本大震災。被災地の人々が苦しみ助けを求められていることに違いはない。一方、この20年間にボランティアが何をすべきか、私たちの意識も高まってきたように思う。「ボランティアの現地への入場制限を行います。宿泊・食料・水・移動手段等は自らまかなって下さい。」「テレビ局等は、報道の競い合いのために被災者の心に土足で入りこまないでほしい。」「有名芸能人がお忍びで炊き出しに来てくれて嬉しかった。元気をもらった。」「当コンビニでのみなさんからの募金は2億円となり、両県に寄付しました。ありがとうございました。」「有名クリニックの社長が自家用ヘリコプターで東京から物資を運びこんだ。」「千羽鶴の気持ちは嬉しいが、保管場所がないので現地には送らないでほしい。」「自衛官を批判するツイートをした有名人がいるが、発生当初から必死に頑張っているのを知らないのか。」これらニュースやネット上に流れる言葉から、私にできるボランティアとは『空気や水のように目立たず当然に、我がことのように思い、社会生活や家庭生活も維持しながら、身の丈でできることを考え実行すること』だと気づかされる。政治家なら緊急の施策の実施、医薬品製造業ならそれらの搬送、避難所の職員なら避難所の運営。小中学年ならお小遣いの一部を募金箱へ、トイレットペーパーやペットボトルの水が現地へ多く流れるように購入を控えることだって立派なボランティアにちがいない。20年来の戸惑いは「日々不気味さを増し、来たる巨大地震」で居住地が現地となった時に解消するのかもしれない。その時、名前も知らされない多くの人たちの『空気や水のような善意』をしっかり受けとめられるよう、心の受信器を研ぎ澄ませておこうと思う。さて、阪神淡路が21年前・新潟が12年前・東北が5年前・熊本が今年。4年後の2020年には、それぞれ25年前(5の2乗)・16年前(4の2乗)・9年前(3の2乗)・4年前(2の2乗)となることに気づいた。単なる数字のことだが、次の大震災は東京オリンピックに向けて3年後、そしてその1年後…と恐れる。心を研ぎ澄まそうと言っておきながらも感が鈍っていることと、被災地の復興を願い、立ち寄ったコンビニの募金箱をチャリンと鳴らした。(2016年4月30日@nortan)

33、新しい時を刻む

善と悪、男と女、大人と子ども、陰と陽、できるとできない、プラスとマイナス。数え上げるときりがない人間得意の2択思考である。1日も12時間ずつ午前と午後に分ける。「自分たちが昼に活動している時、裏側の人は夜だから眠りについている。」ということだろう…いや、労働時間は基本8時間。だから、働いているのが8時間、睡眠が8時間、残り自由選択(クリエイティブ)?が8時間。『地球も、1日を8時間ずつ3等分して回っている。』と考えたらどうか。例えば、1日の出発を日本(JP)とする。8時間遅れで同時刻をむかえるのがフランスのパリ(E U)である。さらに、8時間遅れでアメリカの中部デンバー(US)となる。そして、8時間で日本に戻る。ざっくり考えると、地球の活動時間は、日本(アジア)が労働時間の時、EU(ヨーロツハ°)が睡眠時間、US(アメリカ)がクリエイティブ時間。世界株取引市場とも一致する。pmとam分けやめ、8~16時をwt(8 working time)、16~24時をct(8 creative time)、0~8時をst(8 sleep time)とする。10:24 amは 2:24 wtで、8:00 wtになったら残業をせずに 0:00 ctに切りかえる。残業をによる疲労感に悩む私たちにとってナイスな提案である。LGBT、モラトリアム、グレーゾーン、2乗してマイナスになる虚数の存在など、世界も様々なことが2択思考では解決できないことに気づきはじめている。日本は昔(いにしえ)より「どちらともいえないもの(中道)」に寛容であった。グー・チョキ・パーとどれも強いとする3巴も勝者をどちらかに決めつけない相互尊重文化である。世界中の時計が 8st → 8wt → 8ct 表示になったら、平和の秒針も時を刻み始めるかもしれないと、成人の日に想像してみる。(2016年1月11日@nortan)

31、伊勢志摩

13世紀末、東洋の姿をヨーロッパに伝えることとなったヴェネツィアの商人で冒険家のマルコ・ポーロ。『東方見聞録』は、参加した戦争で捕らえられていた時に口述で記録された小さな冊子だった。その後、出版されるたびに伝聞されたことが面白く盛り込まれ、初版の何倍もの内容に膨れ上がった。150年後の大航海時代、もはや初版とは別物となったであろう新?偽?見聞録を何度も読み、黄金の国ジパングを目指したコロンブス。偶然、アメリカ大陸を発見し、現代へとつながる。東洋から見えば、見聞録はアジアへの植民地時代を聞くことになる。日本史の視点で考えれば、平泉の金色堂の「噂」が種子島への鉄砲の伝来となり織田信長の戦力を高め、秀吉の天下統一ヘ。その後、幕府の鎖国政策が植民地化を防いだが、一方西洋との間に文明力の差が開いた。200年後、第1の東洋の奇跡「明治維新」で国力の向上に成功したが、50年に渡る戦争の時代の結末として、コロンブスが道を開いたアメリカ合衆国と衝突し、敗戦。一面の焼け野原となった国土から、第2の東洋の奇跡「高度経済成長」を経て、今日へとつながる。歴史に「もし…」はないというが、マルコ・ポーロが実在しなかったのなら…と考えてしまう。遅かれ早かれ、日本と西洋との出会いは必然だったはずだ。今年は伊勢志摩で先進国首脳会議サミットが開かれる。会場となる賢島は、私にとっても思い出の地である。マルコの時代とは違い、世界は狭く・近くなった。200年もかけずとも、国と国とが親交を結び協力し合うことができる。伊勢は、平和を願う日本の中心地であるともいえる。かって辺境の地であったジパングが、洞爺湖に続き、再び世界平和発信の地となることを期待する。(2016年1月2日@nortan)

29、日本文化

年の瀬、久しぶりにテレビ番組に時の流れを忘れて見入った。日本ブームにあやかって日本食を作ったり武道を教えたりしているが、どこか変である。それで、第一線の達人たちが正しく伝えに行く。サプライズの演出もあって、思いこみと本物の違いを知った時の表情が痛快であった。こんなにもニセ日本文化が多いものかと思うと同時に、正しく知らないのだから似非(えせ)になるのも仕方がない、正しく伝える努力を怠っていたとも反省させられた。日本食にアヤカロウとした外国人は、インターネットから情報を集めたという。現在インターネット網が世界中に張り巡らされて、1秒あたり21000000日分の新聞と等しい情報*が流れているにもかかわらず、その情報を判断し理解しているのは1人ひとりなのだ。next情報社会では、正しい情報であるか正しく伝わったかをチェックする厳しいシステムが必須になるかもしれないと思ったが、そこまでいったら間違いや「似非」と同時に、個性や「らしさ」もなくなるのだろうか?…「1人」が単なる数字の「1」と等しくなった時の恐しさを感じる。私の「1人」とあなたの「1人」とは違うから、「1人+ 1人 = 2人」とは計算できなし、人数は同じでも様々な個性の集団がうまれる。海外の変な寿司屋のようにマイナス要因になるかもしれないが、時には数を上回る実力集団にもなる。私たちは現在、インター・ネットワークで繋がることで、そんな社会を実現しようとしている。そう考えると似非(えせ)文化も面白いし、日本文化を愛してくれること自体感謝である。除夜の鐘の響きに「チェック、チェック」の厳しさではなく「ボオーォ~ン~」と似非や失敗をも愛嬌で包み込む、寛容の心を感じよう。(2015年12月30日@nortan)
*世界でインターネットの1年間情報量 667E(エクサ)B =667000P(ペタ)B =667000000T(テラ)B らしい。
1年 =365日 ×24時間 ×60分 ×60秒 =31536000秒 、 667000000TB ÷31536000秒 ≒ 21TB/秒 =21000000M(メガ)B/秒
1 MB=新聞1日分の情報量 

22、恐竜の再発明

コンビニエンスストアのレジ横、この頃は唐揚げや焼き鳥串などの調理肉をよく見るようになった。その匂いと空腹に誘われて、時折缶コーヒーと一緒に購入してしまう。食肉鶏ブロイラーは、この50年で1日の成長率が25gから100gの4倍になったそうだ。成長しつづければ100日で4kg、1年で約15kg、20年後には約300kgとならんばかりの成長スピード。「恐竜の再発明」となる勢いだ。そうならないのは、40~50日(一般のニワトリの1/3の期間)で2kgの鳥肉として出荷されるからだ。誕生から1か月半で食肉となるスピードは、飼育というより裁倍である。一方、採卵用の鶏(養鶏)はレイヤーと呼ばれ、成長しても肉薄なので、ヒヨコの段階で雌雄選別され雄は処分されてしまう。生き残った雌も狭いケージの中に2羽1組で閉じ込められ、1年間卵を搾取された上でほとんどが処分されてしまう。私たちの知らぬ所で起こっている鶏の大量絶滅である。子どもの頃、動物ドキュメンタリー番組で親鳥の隙を見て卵を奪いに来る肉食鳥やハ虫類を見ると悪者と思ったが、事実は違うようだ。どうやら、ニワトリに生まれ変わる可能性を排除できないなら、「鳥に生まれ変わって、空を飛んでみたい。」なんて思わぬ方がいい。(2015年12月15日@nortan)

16、73歳の大学生

受験情報紙を飾る73歳の大学生。インタビュー記事には「日本には参考書がない。みんな説明書で、ちっとも覚えられない。だから、自分で作っちゃった。そしたら、楽しくって、勉強が遊びになっちゃった。」子どもの頃、放送を楽しみにしていた「欽ちゃんのどこまでやるの」の萩本欽一さんらしい言葉だ。「ぼくは、就職は関係ないから、人生に本当に必要なことだけ学べる。単位を落としても、また学べると思ったら楽しい。」とも語っていた。30年前に祖母が「なかなか覚わらんけど、楽しみだ。」と中1数学講座の再放送を何度も根気よく視聴していたことを思い出した。「学び」の目的は何なのだろうと改めて思う。よい高校に行くため、よい大学に行くため、よい就職をするため…と、よいよいを繰り返すが、誰にとっての「よい」なのか。それをはっきりさせないから「自分に本当に必要なこと」を後まわしにしているのかもしれない。欽ちゃんのインタビューを「はい。」と手渡してきた娘も受験生。昨年、息子に言ったように「自分のやりたい道に進めばいい。」と見守ってやりたい気持ちが揺れ動くが、決めた。「子日く、四十にして惑わず。」天命を知るには少しばかり早いが、人生の学びを楽しむ姿を、欽ちゃんや祖母のように見せてやろう。子は、親の姿を見て決めればよい。(2015年12月6日@nortan)

11、林檎の匂い

小津安次郎監督の東京物語(1953年)が、イギリスの雑誌で世界一の映画に認定された。その理由のひとつは、優しさを感じさせるから。調べると、アジア映画TOP10の1位にもなっている。このニュースに、昭和の懐しさを感じながら、銀河鉄道の夜(宮沢賢治)を鑑賞した。中学時代に文庫本で読み、最近2度下見して、3度目の落ちついた鑑賞。東京物語よりも古い戦前の昭和と賢治の世界。サザンクロスに向かう列車に乗車しているように感じた時、突然「りんごの匂いがしてきた。」…「何か幸せなのか分かりません。どんなつらいことでも、それが正しい道を歩む中でのことなら…。」のセリフが心の中に飛び込んできた。林檎の仄かな匂いを感じられる心境、それが幸せなのだと理解した。つまっていた左目の涙腺から涙が流れた。賢治とは別の時代を生きていると決めつけていたが、人の心は何も変わっていないのだ。人の無意識のしぐさ、左に目線を移すのは過去を思い起こしているのだそうだ。人生の折り返し地点を越えると、左を見ることも多くなるのだろう。最近、動画配信サービスで外国テレビドラマにハマっていた。パラレルワールドや未来へのタイムトラベル。予想もしない展開に娯楽性、仕事の疲れを癒してくれたが、日常逃避、右ばかりを見ていたかもしれない。人生の折り返し地点を越えたと実感する年齢。過去の自分と向き合うために、林檎をかじりながら東京物語も鑑賞してみようと思う。(2015年11月28日@nortan)

9、大型書店

分類を見て関心ある棚へと移動する。次に、棚を上から順に左から右へと目を走らせる。気になった本を手に取り、表紙を見つめる。知的好奇心を刺激されれば、目次で章だてを確かめる。そして、10秒ほどページをめくり読む。人間の文化や歴史、世界や宇宙の全ての知りうる限りを集めた活字の中から、知の断片を手に入れる。例えれば「6や2」は知。四則演算によって「8、4、12、3」と関連づけられた体系となる。九九を筆算に発展させたり、文章題で活用したりするのが「知の活用」である。年齢とともに弱くなる「記憶力」を補うのは、ならば「活用力」かと考えながら、誕生日プレゼントにする本を探して書店を巡っていたら、「WHAT IF ?」という本に出合った。もし~だったらと考える「発想力」も大切ではないか。かって、試行錯誤を避けてだれにでも簡単にうまくいく方法を手っ取り早く知りたがる人間をマニュアル型人間と囃された時期もあった。無駄をせずに、探しているものをすぐ見つけたい。その点では、スマートフォンでお目当ての本をサクッと検索しタップで注文、翌日には届くAmazonは最大手へと成長した。そのAmazonが米国に第1号書店をオープンさせた。時には書店で、新しい知との偶然の出合いを楽しむことを再評価したのだろうか。もし近くに2号店ができたら足を運ぶだろうか、ネットで注文するだろうかと考えてみる。こんな調子では、私の発想力も衰えてきているのかもしれない。それを補うために「WHAT IF ?」は自分で読むことにした。(2015年11月21日@nortan)

8、チップ

Tipとは、英語圏では「To Insure Promptness」と書かれた箱を「サービスを早く受けたい客」のために置いたことが始まりとされ、仏語圏と独語圏 では「これで一杯飲んでくれ」と金銭を渡したことが始まりとされている。我々の文化でいえば、優待料や心づけに相当するものだと理解できるが、両者の意味合いは大きく異なる。極端に言えば「私は特別扱いの客だ。」と「あなたの心づかいに感謝します。」になるだろう。東西文化の違いだろうと思っていたが、どうやら西洋ではもっと繊細な問題らしい。ロサンゼルスのレストランでクレジット支払いをした人物が、チップ記入欄に金額ではなく、払わないといった言葉を記入して店を出ていった。チップを払わない理由を語源からのみ考えると「私は特別扱いではなかった。」か「あなたに感謝するようなサービスは受けていない。」となるのだろうが、「アメリカ国民にしか払わない。」と書かれていたというから、背景は移民問題や差別問題ともかかわり複雑である。チップ文化ゆえに、労働対価が低く設定されていることも多いそうだ。日本では料金にサービス料が含まれるからTipを渡す文化は廃れたと言われる。しかし、レストランで支払を済ませる時に「ありがとう。」「ごちそうさま。」と客側からも声をかける文化はまだ廃れていない。サービスするとされるの関係にこだわらず「お互いさま」の文化。西洋文化からすると奇妙なのかもしれないが、もしチップ欄に「ありがとう」と記入していたらどうだったろうか。日本でしか生活したことのない私には推し測れない文化の違いがあるのかもしれないが。(2015年11月20日@nortan)