186、漢字 or ひらがな

物の値段は、需要と供給のバランスで決まる。同様に、言葉もそうなのだろう。

先日、職場で年上の同僚から、彼のミスを「そんなに気にしなくてもいいと思う。」と話していたら、「首を吊って死ね。」と言われた。冗談だったにしても、他人に平気で「死ね」を使える時代なのだ。何度ゲームオーバーになってもリセットできるゲームが、そんな文化を生んでしまったと思っていた。しかし、ゲーム文化は私たちの精神世界をも確実に蝕んできていたのだ。お笑いブームで、「あほ・ばか」と言われることへの免疫がついてしまったように、10年20年後の日本人は「しね」と言われても、笑って「そんなこと、するか!」と返しているのだろう。つまり、テレビやメール・SNSなどで、以前は使用することをさけていた言葉の供給が需要を上回り、使う者にとって空気のような重みになったのだ。しかし、投げつけられた側は穏やかではない。

さて、これも職場の恫喝派同僚である。彼が「『~ください』は使うのをやめませんか。『~しなさい』で十分だと思う。」と発言したのを機に、改めて「ください」を調べてみた。やはり「ください」には2つの意味があった。身分制度として上の者に懇願する意と、「です・ます」のように丁寧語として相手に依頼する意である。だから、お客様に「~ください。」と使用するのを「~しなさい。」と換言すれば大変なことになる。

そこで、官公庁としては「下さい(漢字)」をgiveの意で、「ください(平仮名)」をpleaseの意で使い分けるようにしているらしい。つまり、漢字で表記するか平仮名で表記するかによって意味が90~180度変わってしまうのだ。確かに「あほ・ばか」も「阿呆・馬鹿」とは感じが違う。日本語は、随分難しい言語だ。

ところで、先日の「死ね」も「しね」だったのかもしれない。次回があったなら、

「私の答えは、今の言葉が平仮名なら『そんな、あほな!』、漢字なら『何でそんなこと言われなあかんのや!』です。できれば、話すと同時に文字で表記していただけるとありがたいです。ちなみに、この『ありがたい』は平仮名表記です。」

と論理的に言い返すのが良策か、黙って笑っているのが良策か、無視するのが良策か?大人の対応は難しい。

(2019年12月21日@nortan 感情的な地球人は論理的なバルカン人にはなれないようだ。)

152、きつねの窓

図書館でふと手にした絵本。安房直子さんの作品。子ぎつねと主人公が織りなす物語。子ぎつねが人間に化けたことに気づかれながら進行するストーリーは、手袋を買いに(新美南吉)の世界観もリスペクトしている。帰り道に、主人公は子ぎつねに染めてもらった指の窓で、決して会うことのかなわない思い出人を覗き見る力を手に入れる。しかし、…と幻想的で「いのち」について考えさせられる作品。幼い頃の感覚、人間も動物も分け隔てしない感覚を思い出す。そして、せつない。

さて、きつねの窓に現れるのは、地上に存在しないものたち。そして、こちらをじっと見つめている。どこか障子紙に開いた穴から隣の部屋を覗いているような感覚。隣室の家族もそれに気づいている。私たちが、天上に存在して私たちを見守ってくれていると信じている世界。実は、紙1枚ほどの薄さを隔てて隣り合わせで存在しているにちがいないと思えてくる。

東京を離れる前に千鳥ヶ淵戦没者墓苑で胸に手を合わせた。若くしてフィリピン沖で散ったと聞く伯父に、父の旅立ちを報告した。もし、私にきつねの窓があれば、出征する前の兄の膝にちょこんと座ってあまえる男の子の姿が見えるのだろうか。(2019年3月23日@nortan子どもの頃、父の実家の土壁にあった零戦の落書きを、兄に教わったと聞いたことを何故か今思い出した。)

144、三年

石の上にも三年は、3年ではなく「たくさんの年」という意味である。では、そこで転ぶと三年以内に死ぬというちょっとおそろしい俗説のある三年坂の三年は何年であろうか?

昔話「三年寝太郎」は、数々の太郎話の中では目立たぬ太郎である。畑仕事にも行かずに家の中で寝てばかりいたが、突然起き上がると村の水不足問題を解決してしまう。力技の金太郎や武勇伝の桃太郎、動物愛の浦島太郎と比べると知能派である。我が国では、寝太郎のように「引きこもり」が社会化している。2015年調査によると、5年前より15万人減ったが、全国で50万人(15~39歳)を越えるという。40歳以上を含めると、40代が一番多いというから、減ったのではなく調査対象外に押し出され高齢化していることが問題なのだろう。引きこもりの定義では、三年は「6か月以上」だそうだ。

隣国には三年坂に似た民話「三年峠」があるらしい。この話では、落ち込んで寝太郎(引きこもり)になったお爺さんを、若者トルトリが、逆転の発想で救う。それは、「一度転べは3年しか生きられない。ならば、二度なら6年。たくさん転べば、長生きできる。」お爺さんは、坂の上からたくさん転んで元気を取り戻しました。めでたし、めでたし。ちなみに、トルトリとは賢者という意味だ。

さて、我が国の引きこもり問題。一括りに原因は○○だとはできない複雑な要因が絡み合っているように感じる。それぞれ、三年の年数も違うし、寝太郎のように次のステップに必要な期間なのかもしれない。しかし、それを救うために、社会的システムの変革は不可欠だろう。外国人労働者34万人を受け入れる一方で、国内引きこもり50万人を解決できない日本とは変な国だと言われかねない。

我が国にもトルトリではなく、現代の太郎はいるはずだ。昔のように武勇伝や力技では困るが、愛と智の太郎がリーダーとなり、石の上にも三年、腰を据えて長びく社会問題を解決へ導いてほしいと思う。さもなくば、寝太郎たちで力を合わせて、ボトムアップで解決するのも一つの道かもしれない。今や、部屋の中のPCは、ゲームだけでなく人と人を結びつける道具でもあるのだから。ひょっとしたら、太郎の時代は終わって「二郎」の時代なのかも…(2019年1月15日@nortan私にとっても新しい三年が始まった日)

139、言葉の力

言葉を聞いた時、私たちの脳は記憶にある意味リストと照合して、相手の意図を理解しようとする。この意味リストは、人によって、また状況によって微妙に異なる。だから、根本的に互いの思いを100%正確に受けとめ合うことは難しい。

「左のほっぺに蚊が止まっている。」と教えてもらったので、左手でパチンと左頬を叩いた。すると、「ちがう!左の方だよ。」言われた。

「明日、ここで5時からの映画。見たいね。」と誘った。「映画っていいね。」と返事があった。しかし、次の日どれだけ待っても待ち人は来なかった。メールを送ったら「ごめん。行くとは言ってないよ。」と戻ってきた。

「財布を忘れてしまった。もう、最悪だ。」とおっちょこちょいを嘆いた。すると、弟に「よかったね。」と言われた。「どうして、そんな風に言うの?」と怒ったら、「だって、姉さんには今後それ以上の悪いことは起こらないってことでしょ。」と言われた。

子どもの頃、父と家の前でキャッチボールをしたことを思い出した。私は、速くてグローブにドシンと吸い込まれるボールを受けとめることに精一杯だった。そして、私が返すボールは、父の右や左にそれることが多かった。それでも、文句を言わず根気よくキャッチボールは続いた。例えるなら、言葉はボールで、そのやり取りはキャッチボールである。

さて、「言葉には力がある」と結論づけたかったが、ここまで書いて、それは違うことに気づいた。言葉自体は無力だ。ましてや、言葉で相手の考えを変えることは至難の業かもしれない。しかし、それでも「言葉のキャッチボール」で互いを懸命に理解しよう、説得しようとする私たちの姿こそ、素晴らしいのではないだろうか。(2018年12月27日@nortan)

136、言葉の色

京の都で帰り際に「お茶漬けでもどうですか。」と言われたら「ありがとう。でも、結構です。」と断わるのが正しい返答である。桂米朝の「お茶漬け」をYouTubeで聴きながら、あらためて日本文化、特に京の文化は奥深いと思った。

日本で生活を始めた外国人が戸惑うのが、思ったことを遠回しに伝える文化らしい。私たちは、それを遠慮とか謙虚とか「空気を読む」とか表現する。だから、異なる文化と出会った時、私たちの表現では通じない。できる限り率直に分かりやすく伝え合う必要がある。言葉には、そのままには受けとれない色があり、それは幼い頃からその文化圏で育つことで染まるものなのだ。

しかし、世界の成熟した言語に共通なものもある。それは、イロニーである。おそらく、原初言葉は語彙だけで「風呂?」「寝る?」的な会話だったろう。そして、組み合わせという文法で「風呂に入ってから寝る?」と順序も表現できるようになった。その後、文化的色が加わり「風呂に入ってから寝る(今日は疲れたでしょう)?」の隠喩や「風呂に入ってから寝る?(今日も会社の飲み会だったの!このところ毎日ね!)」の皮肉(イロニー)も含むようになったのだろう。

さて、だから人工知能の最終目標は、「空気」ではなく「言葉の色(イロ)を読み取ること」だ。回転寿司の受付をプログラム通りにこなすだけでなく、お客の冗談や駄洒落を聞いてタイミングよく笑ったり、「このところ、お疲れのようですね。お寿司を食べて元気をつけて下さい。」と癒してくれたりすれば素晴らしい。もし、実現すれば、日本文化の代表として諦めずに国際会議で商業捕鯨について熱弁をふるってくれるに違いない。

ところで、回転寿司の帰り際、そんな人工知能に「お茶漬けでもどうですか。」と誘われたら、何イロで返答すればよいだろうか。(2018年12月24日@nortan)

120、スラング

スマホで米ドラマを見る機会が増えた。字幕を見ていると「それは、違うでしょう。でも、意訳ならセーフかな。」と思うこともある。字幕の日本語とのニュアンスの違いが微妙だ。ドラマ「シリコンバレー」では、頻繁に耳に飛びこんでくる単語があった。「○○ing」だ。登場人物が口論するたびに使っている。敢えて訳すと「この○○」とでもなるのかと思って調べると、「(米)絶対に、間違いなく。すごい、やった、たまげたの意で、veryやsoと同様に若者がよく使っている。」とあった。日本語でいう「超(チョー)」と等しいようで、驚いた。それでも、「○○ing」は映倫に抵触する単語には違いない。映画ではなく、ドラマだからOKなのか?

さて、間もなく世界第4位の産油国からの石油輸入は禁止(同調しない国は、制裁の対象と)される。現在、その影響でガソリン価格も20円高の150円台となってしまった。スラングも世界を平和に導くための戦術だと深読みすることも可能ではあるが、TOPの使う言葉がドラマや石油価格にまで影響を与えているとなると深刻だ。「このまま、どこまで○○ing 高値になるのだろう。」と嘆いていたら、「日本は、一部輸入を認められた。」との報道があった。何か表現に違和感が残るが、ガソリン価格についてはひと安心だ。もしかして、「KY」という日本語スラングを知って、日本の空気を読んでくれたのだろうか。本当の理由を知るには、ドラマばかりでなく、字幕つきで大国のニュースを聴かなければならない。(2018年11月4日@nortan)

118、次世代の技術

太陽中心部の核融合で生まれた光が、太陽表面に到達するのに100万年。そして、地球に届くまで8分。私たちの世界を照らす太陽光は、100万年と8分前に太陽の中心で誕生した光子である。さらに、満月の反射光は地球到達に3秒ほどかかる。100万年と8分と3秒前の過去に誕生した光を夜空に見て、芭蕉は「名月や池をめぐりて夜もすがら」と詠み、蕪村は「菜の花や月は東に日は西に」と詠んだ。歌人たちは、日光と月光に『遠い過去』を感じていたのだろうか。

核融合技術のひとつでは、原子核を秒速100km以上で衝突させる。その時、光も誕生し、超高温状態となる。この熱エネルギーを利用して発電するのが、次世代原子力発電だ。現在の核分裂による発電とは違い、放射性核廃棄物は出ないクリーンな発電だという。(昔、どこかで聞いたキャッチフレーズだ。)しかし、水素の同位体であるトリチウム(自然にも存在し、半減期が短い)が多く生成され、自然水を汚染するという緩やかな心配や、レーザー核融合技術では突然できたブラックホールが地球を飲みこんでしまうという過激な心配もある。それでも、人類は22世紀にこの技術を実用化するだろう。太陽中心部でしか起こりえない、100万年と8分と3秒の技術を手に入れるのだ。

さて、「広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由」という本に、51番目の理由を発見したら教えてほしいと書かれていたと思う。そこで、「不十分な核技術を手に入れた文明は、自滅している。」という仮説はどうだろうか。万が一、自減せずに宇宙文明へと進歩した知的生命がいたとしても、地球にコンタクトをとらないのは、それを予見しているからかもしれない。クリーンなエネルギーを求めて、人類がクリーンされてしまっては元も子もない。歌人たちは、日光と月光に『儚い未来』を感じていたのかもしれない。(2018年11月3日@nortan)

116、ラングとエッジ

銀河危険情報で渡航禁止を知った上で、言語研究のために安全レベルD級惑星に旅立ったラング。この原始星の言語と文化を学べば、銀河中の文明に平和をもたらせると確信していた。宇宙船を洞窟に隠した後、この惑星の住民に見事に変装した。空腹に耐えられずにレストランにとびこんだ。その時、食事の様子が奇妙だったこと、口を開かずに喋ること、チップとして渡した硬貨が惑星にはない物質だったことで異星人と見ぬかれ、惑星安全局にとらえられた。毎日のように繰り返される尋問。おかげで、ラングは目的であるこの星の言語を深く理解することができた。帰れる希望はゼロに近づくばかりだったが、覚悟はできていた。遠く離れた故郷で同僚のエッジは、ラングの救出を申し出たが、世論からは「D級惑星に行くなんて、自己責任だ。」という批判も浴びた。連邦政府も表向きには沈黙を守ったが、政府内では「どんな理由であっても、必ず同胞を救出する。宇宙連邦は、たった一人をも見捨てない。」と密かに救出計画が練られた。解放されたラングは、30年後洞窟の宇宙船で帰路についた。途中のアンドロメダ第39惑星で同僚と再会を果たしたラングは、エッジを「I missed you!」と抱き寄せた。すると、エッジは「これが、あの惑星の言葉と文化なのかい?」と驚きながらも「約束してほしい。連邦政府が動いたことは秘密だぞ。」とラングの脳にテレパシーを送った。「コミュニケーションに音声を使っているなんて、遅れた文明だ。伝えたいことの半分も伝わらないじゃないか。」そう言うエッジに、ラングは「そうでもないさ。白黒つけないで『曖昧模糊』としておく方がよい事もあるよ。僕は、テレパシーでは伝えられない救出のお礼の代わりに、必ず研究を完成させる覚悟だ。」とテレパシーで答えた。無事に戻ったラングに世論は様々な反応を示したが、ラングはエッジと共に研究を続けて、ついに「平和のための音声コミュニケーション理論と技術」を完成させた。それから間もなく、地球の電波望遠鏡SETIでは宇宙連邦からのメッセージを受信した。(2018年10月27日@nortan「民は、国である」を哲学して)

100、懐の深さ

世界人口が増加する一方で、先進国は人口減少と高齢化、労働力不足が問題となっている。我が国でも人手不足が理由の中小企業倒産が、4年前の約3倍になったという。2025年には介護職だけで100万人の人材不足になるといわれている。そんな危機感の中、介護・看護師などアジア3国(フィリピン・インドネシア・ベトナム)からの受け入れも始まっている。しかし、日本語で厳しい国家試験に合格しなければ帰国する約束だ。そんな厳しい条件をクリアした者の大半も、数年後には帰国してしまうらしい。資格まで手に入れたのだから日本に定住・永住・帰化すればと思う。

また、留学生も増えている。ベトナムからの留学生が6万人と急増し、中国からの10万人に続いて2位となっている。3位も増加傾向にあるネパールからの2万人だ。コンビニでは、見慣れぬひらがなのネームプレートをつけた店員に一生懸命な日本語で「おはしとスプーンは、どうされますか?」と対応されることも増えた。昨年、在留資格を就労可能な「専門的・技術的分野」の資格に変更して日本企業に就職した留学生は26万人中2万人だ。採用時に重視されるのは「コミュニケーション能力」と「日本語力」が共に50%を越えている。「協調性」は25%程度、「異文化対応力」は15%程度である(MUFG2018企業が留学生に求める資質)。どうやら、文化的要因よりも「日本語でコミュニケーションできる」かどうかが大きな壁となっているようだ。

さて、漢字と平仮名・片仮名、外来語やアルファベットまじりの日本語を短い期間に理解することは無理があると誰もが思う。少しばかり、平仮名かローマ字で全てにルビ(読み)をつけるか、全て平仮名かローマ字表記にして、日本語を読み書きしやすく、私たちの方から歩み寄ってはどうだろうか。

「日本(にほん)は社会発展(しゃかいはってん)のため、日本(にほん)で働(はたら)きたいと願(ねが)う移民(いみん)の人々(ひとびと)と多文化共存(たぶんかきょうぞん)の社会(しゃかい)ヘ大(おお)きく舵(かじ)を切(き)った。」

「にほん は しゃかいはってん のため、にほんで はたらきたい と ねがう ひとびとと たぶんかきょうぞん の しゃかい へ おおきく かじ を きった。」

「Nihon wa syakai-hatten no tame, Nihon de hataraki-tai to negau hitobito to tabunka-kyōzon no syakai e ōkiku kaji wo kitta.」

もちろん、「日本は社会をよくするため、日本で働くみなさんと一緒に生きる社会をめざすことにした。」とやさしい日本語を使い分けることも必要だろう。

「グローバリゼーション=英語」とだけ狭く考えるのではなく、我が国の伝統と文化を守りながら、未来に向かってどれだけ自己改革できるかも「懐の深さ」なのかもしれない。(2018年7月25日@nortan)

95、黒と赤のスイミー

49歳から孫のために絵本の製作をはじめたレオ・レオーニ。1999年までの40年間に約40冊の絵本を発表した。「スイミー」は1963年に出版され、1977年からは谷川俊太郎訳で知られるようになった。仲間と違って色の黒いスイミーは、泳ぎが得意だった。海の底を彷徨ったスイミーは、食べられた赤いきょうだいとそっくりの新しい仲間に出会う。そこではリーダーとなり、力を合わせて大きな魚を追い出すことに成功する。さて、想像してみよう。スイミーの遺伝子は受け継がれ、世代を重ねるごとに黒い魚が増える。赤い魚が全て黒色になった時、一匹だけ赤い魚が生まれる。赤いスイミーは岩かげに隠れるのが得意。黒いきょうだいたちは泳ぎが自慢で油断し、大きな魚に食べられてしまう。海の底を彷徨った赤いスイミーは、別の黒いきょうだいたちを見つけ、隠れることを教える。そして、赤い世代を増やしていく…。さて、レオーニの黒いスイミーと想像の赤いスイミーからのメッセージは「あなたに人と違うところがあるのなら、それは時代の要請だ。」にちがいない。人と同じであることだけを良しとする価値観は、変わらなければならない。(2018年7月15日@nortan)

88、蝸牛

アーノルド・ローベル作「ふたりはともだち」。かえるは、親友がまがえる君への手紙をかたつむり君に託す。かえるとの約束を一生懸命に果たそうと丸一日かけて届けるかたつむりくん。そして、手紙を待っていた二人が「ああ、いい手紙だ。」と感心する。手紙を一度ももらったことがないと嘆くがまがえるを元気づけようとしたかえるの行動。手紙を出したかえるの方が先に到着して、二人で手紙をのんびり待つ場面を裏読みすると、「既読なのに、すぐに返事がこないと親友でなくなってしまうSNS文化」を皮肉っているようだ。一方、かたつむりの行動は、太宰治の作品メロスに重なる。ならば、このかたつむりこそ主役でいいと思うが、脇役である。「手紙は、第三者に配達されてこそ意味があるが、第三者が主役になってはいけない。」のだろう。さて、我が国にひと月前に投函し、ひと月かけて元日に届けてくれる年賀状という文化があるが、やめる者が増加傾向にあり、電子メールやSNSに置き換えられつつある。形式的な年賀の挨拶よりも、ひと月前の〆切りもなく写真や音声を添付できる電子サービスに時代が反応しているのかもしれない。しかし、手紙でもらった嬉しい知らせは、電子サービスにはない喜びがある。何度も読み返したり、文字や筆運びから相手の思いを感じ取ったりできるアナログの良さがある。何より、いつまでも大切に箱の中に保管しておける。そこで(筆不精であることは横に置いておいて)提案。「電子メールを手書きにする。」そして、「送信から受信を、距離によって1~7日かける。」「プリントアウトしないと消えてしまう。」を採用してはどうだろうか。SNSのトラブルも減るだろうし、届いたろうか・届くだろうかと待つ楽しみも増える。それなら、手紙かFAXにすればいいのかもしれないが、デジタル文化推進派としては、昔のアナログには戻れない。さて、実現させるために親切な「デジタル左巻き蝸牛くん」を探すことからはじめよう。(2018年5月26日@nortan日本の蝸牛がほぼ100%右渦巻であることを知って)

84、読み書き

読みが先か?書きが先か? 読みが先なら、書いてない文字は読めない。書きが先なら、読み方のない文字は書けない。これでは、卵と鶏パラドックスだ。(鶏が先だと科学的に証明されたようだ)さて、人類がまず手に入れたのは、音が先だった。話し言葉が生まれ、その後、文字が発明された。そして、文字が増えることで話し言葉も発展して言語となった。これが定説だろう。しかし、地球人ペット説はどうだろうか。フェルミ・パラドックスに対坑して宇宙人の存在を認めた上での仮説だ。まだ原始だった人類が、宇宙人のペットとして教わったということ。人間が類人猿で研究していることと同じだ。ならば、私たちの話す言葉は宇宙人の言葉。多少の訛りも生まれただろうが、宇宙のどこかでアンテナを広げ、地球から届く放送を研究している学者がいるのかもしれない。さて、その宇宙人の言葉は、読みが先か?書きが先か?これでは、パラドックスのパラドックスになってしまいそうだ。(2018年5月6日@nortan)

79、言語的相対論

広辞苑の新版が10年ぶりに発刊され、「無茶ぶり」などの新語が約1万語も追加された。ベンジャミン・ウォーフが唱えた「言語的相対論」がその中に入っているかどうかは確かめていないが、これは『個人の思考は、個人の使える言語に左右される』という仮説である。例えば、虹の色。昔、初めて買ってもらったクレヨンで無邪気にお絵かきを楽しんでいた頃、藍も青も紫も区別できてなかったから「我輩の辞書に藍と紫はない!」とナポレオン気取りで5色だったろう。それが今では7色(赤燈黄緑青藍紫)。我輩の辞書に、藍色と紫色が加わった。ここ数年、ニュースで映される人権運動の虹は6色で、世界標準だ。日本の藍を世界の人権運動の辞書に加えてやりたいとも思う。青は藍より出でて藍より青し。常に文明は発展していく運命のようだが、愛だけでなく藍という伝統色も大切にしたい。

昔、小学校入学時に受けていたIQテスト(7才時点での知能指数)。その後の人生の豊かさと因果関係はないため、随分前に実施しなくなった。フランスでの追跡調査では、IQが高いと判定された子どもたちの50%もが学業に失敗したり社会的に苦しんだりしていたそうだ。結局、何の意味もない指数だから、クイズ番組で取り上げて楽しむくらいの利用価値しかなくなった。そこで新しく、社会的地位や成功は、「自己を理解し、自分の感情を正しくコントロールして、他者との社会的関係をうまく構築していくコミュニケーション能力」に相関があると、EQ(心の知能指数)やSQ(社会的知能)が注目されるようになった。新版にこのEQやSQが追加されたかどうかは知らないが、知った瞬間「自分のEQは?SQは?」と心配する思考が増えた。知らなければ良かったと思っても、我輩の辞書に追加されてしまった。「ナポレオン!今のは取り消せ!」おっと、これは「無茶ぶり」。あとは、健忘に期待するしかないが、増えた言葉の数だけ思考も進化(深化)したのだろうか。(2018年1月14日@nortan)

61、セレンディピティ

この言葉、そもそもはイギリス人作家の造語で、300年ほどの歴史をもっている。スリランカの三人の王子が、旅の困難を幸運な出会いで切り抜けていく話から造られ、幸運な出会いをセレンディピティという。同じ造語でも「ナウい」は1世代(30年)もたたずに死語と呼ばれるようになったのだから、10世代以上も長生きで幸運な造語である。最近では、転じてネットサーフィンをしながら素晴しいアイデアの材料と出会うこともセレンディピティというようだ。街に出れば、スマホを片手に行き交う人に出会わないことはない時代である。100年後に振り返れば「21世紀らしさ」を象徴する生活スタイルなのだろう。私自身もそうであるが「隣の人は何する人ぞ」と観察してみれば、両手スマホのゲーム族、片手スマホのサーフィン族とチャット族、耳線スマホの音楽族など多族である。10年前なら幾つものポータブル機器をかばんに入れてなければできなかったことが片手サイズでできるのだから、あらためてイノベーションのパワーを実感する。「ブラジルの人、聞こえますかあ~」と地面に叫ばなくても、日本の裏側の人ともリアルタイム動画で繋がることもできるのだから、地球も片手サイズになったのかもしれない。また、良くも悪しくも問題となるネットでの出会い。村から外に出ることもほとんどなかった200年前に比べたら、人の出会いの垣根もデジタル技術が取り払い広げてくれたのだろう。でも…「街を歩きながらスマホで出会いを探していたら、運命の人が目の前を通り過ぎてしまった。」のでは、セレンディピティなのか「去リテ行キティ」なのか分からない。さて、セレンディピティは「常に、好機をのがさないように感性を高めておくこと」と解釈されることもある。そう考えると、街に出たら、スマホをかばんにしまって行き交う人々を観察するのが「ナウい」のかもしれない。(2017年10月21日@nortan東京に向かう新幹線の中で)

57、泣いた赤おに

浜田廣介さんの児童文学。初めてNHK教育放送の人形劇で出会った時には、青鬼の自己犠牲といえる友情に胸が痛くもなり、見た目ばかりで決めつけ赤鬼の本性を理解しようとすらしない人間に憤ったりもした。実に深い寓話だと思う。それから20年以上、あらためて読み返す機会があった。今度は、親友である青鬼の提案を頑として断らない赤鬼と、自己ヒーロー感に酔いしれているかもしれない青鬼に違和感を覚えた。読む者の「写し鏡」と言ってしまえば、人生を重ねた心境の変化かもしれない。人の先頭に立とうとする者は、座右の銘とし、常に心の鬼と対峙していてもらいたいと思う。偶然にも鬼の己羅夢が続いた。ところで、青鬼は何処へ行ったのだろう。(2017年10月8日@nortan)

56、一致団結?

柿太郎が鬼退治に出かけることになった。一人では村人の応援が得られないので、おばあさんの作ってくれたきび団子と交換で犬と猫と猿をお友にすることにした。しかし、最初に声をかけた犬の具申で、猿を排除することになった。「きび(ふ)」と書いた旗を翻し、鬼ヶ島に辿りついた。猿の知恵はかりられなかったが猫の跳躍力で何とか鬼を退治し、金銀財宝と世直し権を村に持ち帰った。その後、財宝の分配をめぐって犬と猫も仲違いしてしまった。一人に戻った柿太郎。それを見ていた猿は、蟹と一緒に柿を食べながら、柿太郎の捨てた旗を囲炉裏の火に焼べた。すると、灰の中から「鬼退治!」と栗が飛び出してきた。

そんなストーリーだったろうか?

今一度、昔話を読み返す必要がある。(2017年10月7日@nortan)

54、たし算

「ねこが3匹、犬が4匹いました。あわせて何匹ですか? 」3 + 4 = 7匹です。これができないと、小学1年の算数は卒業できない。さて、ねこが鳥になったらどうだろう。7羽?7匹?それとも「3羽&4匹」とでも答えるだろうか?また、ねこが人だったらどうだろうか?『人と犬では、計算できません』が正解だろうか。次に「男の子が3人、女の子が4人。あわせて何人ですか?」答えは「7人」にちがいないが、世界では「3人」という人権後進国(地域)がまだ存在している。肌の色を口実に妻の実家へ金品による代償を求め、妻が抗議すると命をも奪う。こんな事件が6万件以上も起こる人口第2位の国インド。動物の権利を人間と同等に論ずるような先進国では「7(単位なし)」となろうとしているのに、世界の人権意識の差はこんなにも大きい。手前味噌だが、日本語は美しい言葉だと思う反面、数え方の単位が複雑だ。サミットにも参加する先進国として人権意識も先進国だと思っているが、上記インドの現状を知り「単位」に「人権意識」を感じられる心の豊かさを持っていたろうかと自問した。40年前、幼稚園の発表劇は「チビクロサンボ」だったし、小学入学の座席や名簿はまだ男女別だった。体操服や帽子の色・形も違っていた。私の中に鈍感な部分があるかもしれない。さて、欧米から始まった植民地政策が先の世界大戦に繋がり、その反省から「基本的人権を尊重する」と宣言した民主国家が誕生した。我が国もその一員となって70年。さまざまな運動の洗練を経て、世界の人権意識も成熟してきているはずである。しかし、英国では政治家を殺害するような白人至上主義も表出した。3 + 4 = 7 という自然科学には、宇宙の不変真理を感じる一方、単位(言葉)の使い方には人の心の未成長を感じる。「車の中に大人が3人、小人が3人。あわせて何人ですか?」に「小人は3人で2人分だから、5人。定員オーバーではありません。」という計算。「行きの車に大人が1人、飼い犬が1匹。帰りはどうですか?」に「犬を山に捨ててきたから、帰りは大人1人。」という答え。「かごの中にねこが3匹、小鳥が3羽。あわせて?」に「ねこが小鳥を食べたから、3匹!」のとんちなど、身の回りには鈍感であってよいことと、敏感でなければならないことが存在している。(2016年6月18日@nortan)

48、超言語

「エスペラント」という世界共通言語への取り組みがある。1880年代にロシアの眼科医ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが27才にして創案した人工言語である。彼は6年間もドイツ語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語・英語学習に費し、不規則性や例外が一切ない誰もが学び習得しやすい合理的言語を目指した。例えば、動詞(現在形)は-as、名詞は-o、形容詞は-aで必ず終わるというように。日本では1906年に二葉亭四迷が日本最初のエスペラントの教科書『世界語』を著し、宮澤賢治も「イートハーヴォ(-o)」とエスペラント風の名前を作品世界につけている。日本を含む世界各地にエスペテント協会があって、毎年世界エスペラント大会が開かれるほど人々を惹き付ける言語ではある。もし、エスペラント語を身につけられたら、世界中のエスペラント話者を訪ねながら世界旅行ができるという文化もある。しかし、エスペラントは日本語から遠い言語である。それは、西洋の言語がもとになっているからではなく、やはり日常で使わない言葉だからである。最近、興味をもってエスペラントの本を読んでみた。「I love you.」は「Mi amas vin.」その理念に関心はするものの身にはつきそうになかった。「Mi ne povis lerni Esperanton.(I was not able to learn Esperanto.)」さて、EUが統一言語として採用でもすれば、英語に代わる最大共通語になる可能性も高まるだろうが、独語・仏語・伊語・スペイン語と各国を納得させるのは難しいだろう。思い切ってインターネットでの公用語とするか、ロボット言語として採用しない限り、話者ランキング100位からメダル圏内への浮上は望めない。国際的には、このまま「英語」が主流となっていくことは間違いないだろう。日本も2年後には小学3年から英語学習が始まり、小学5年からは成績教科となる。日本語力が十分育っていないのに…という批判派と、国際競争に勝つための英語力は早くから学ばないと身につかないという推進派との折衷案が、小学1年ではなく小学3年になったのかもしれないと推測するが、いっそのこと3才から学ばせてはどうだろうか。漢字や日本語離れも加速して、200年後には『日本語を小学3年から学ばせるべきだ』という主張もでてくるだろう。そこで、未来のザメンホフになって考えを巡らせてみた。「母語も大切にしながら、皆が話したくなる共通語を作れないものか。」「うむ。それは無理だ。流行の歌にするか? 『言葉に~なら~ない~♪』そうだ! 言葉を発する前のイメージ(脳内思考領域の電気信号)だ。それを取り出し翻訳できるICチップを発明するしかない。言葉を用いず、無線通信で直接相手の脳の思考野にイメージを伝達する方法しかない。」未来のザメンホフは、脳科学者か情報技術者にちがいない。考えたことは一瞬で半径50m以内の相手に伝わる。もはやテレパシーならぬイメージ強制伝達である。思ったことは何でも伝わり放題。人混みの中では、頭の中で無数のテレビ番組を見ているような状態。そこから、自分の話し相手の映像だけを選別する。うむ、うまくエラベラレント!?そもそも……エスペラントとは「希望する者」という意味だそうだ。さて、未来のザメンホフが現実となっても「Mi volas.(I want)」希望するかどうかは保留にしておこう。(2016年5月24日@nortan)