172、統計

2人に1人がガンになる時代?

このキャッチコピーを使っているのは医療保険会社。いくら医療技術がすすんで、ガンが治る病気になったとしても、「少子超高齢化時代、このままでは日本が滅んでしまう。日本はガン大国だ!」と馬を敬った(驚いた)。

根拠は、国立がん研究センターのデータ「生涯でガンと診断される確率は男性で62%、女性で46%」である。別のデータでは「30歳男性がガンと診断される確率は、40歳までに0.5%、50歳までに2%、60歳までに7%。」どうやら、「(現在30歳の)男性は3080歳の50年間に42%()女性は80~寿命までに46%が統計推測上、ガンと診断される可能性がある。」ということが真実らしい。

誤解の根っこは、「全体で」を「私が」に、「50年間で」を「今」に置き換えてしまう思考だった。もちろん、それを利用したキャッチである。データは事実、受けとめるのは感覚である。誤解も「保険に入っておかなければ」という感覚的行動につながる。ただ「後で、入っておいて良かった。」と思うのが保険であるし、寿命を迎えて「自分には必要なかった。」と思うのも保険である。

さて、統計は私たちの未来を予測できる道具であるが、あくまで「過去の累積」でしかない。そのデータに「未来のイノベーション」が入っていないことを忘れてはいけない。100年前のデータで、自動車所有率が一世帯に1台になることや、スマホを含む携帯電話所有率が193%となることは予測できない。高度経済成長やiPhoneの発明がデータに含まれていないから当然だ。

ということは、

今、私たちが過去のデータから予測する未来はこないのかもしれない。例えば、超高齢社会、年金破綻、日本経済の凋落、2人に1人以上(つまり皆が)○○になる時代

信じるべきなのは「過去が予測した未来」ではなく、「予測した未来は変わる(を変える)」という(熱い)イノベーション魂だろう。

(201982@nortan)

171、アルゴリトミ

9世紀中東の数学書が、5世紀の間ヨーロッパの大学で教科書として使われていた。「アルゴリトミ」(著者であるアル・フワリズミー曰く)というラテン語が、アルゴリズムの語源になった。これは、インドでの計算を紹介したもので、今でこそ世界標準であるアラビア数字0~9の記号(これもインド発明)による十進位取法。つまり、アルゴリズムとは「計算」である。

それでは、計算とは何か?「四則演算でしょ!」と簡単ではない。「コンピュータの思考!」確かにアルゴリズムなくしてPCは何もできないが、根元的ではない…こんなことを考えていたら、うたた寝に落ちた。

うたた寝に 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき

と、小町のような平安美人が現れたのではなく、髭をたくわえたギリシャ哲人。

「真実に至るための道のりである!」

と、大声で教示られて覚醒した。

ピタゴラス学派にとって、「世の中は数(有理数)でできている。」が教義であった。計算によって求めるものは「真実」である。そうだ。アルゴリズムとは、「確実に正しく真実(正解)に至ることが保証される道のり(計算手続)」だ。

例えば、ユークリッドの互除法。確実に2数の最大公約数を求められる。そして、ガウス少年の発見した1 + 2 + 3 + … + n = (1 + n) × n ÷ 2。計算だけに限らず、PCなど電化製品に付属するマニュアル。故障したかなと思った時に解決してくれる。そして、専門家や経験者(子どもにとったら大人)も解決に至る道を示してくれる。ひょっとしたら、人生もアルゴリズムか?!答えがあるのか?

しかし、マニュアルでは解決できずにリセットしたり、廃棄したりすることもある。専門家にも分からないことや大人が間違っていることもある。ピタゴラスも√2などの無理数に敗北した。2乗して-1になるiを含む複素数は、計算の道具として使えても大きさを比べることすらできない。

そうか、人生はアルゴリズム(計算)ではない。だから、答え(真実)もなければ、計算手続(確実な生き方)もない。そして、他人と大小(価値)を比べることもできない。人生は、iだ。

うたた寝で真実を教示してくれたのは、ピタゴラスではなく、愛(i)に生きた小町だったのかもしれない。

(2019年8月2日@nortan)

164、ド・モルガンの法則

「青森産りんごでない。」は、「青森産でない。または、りんごでない。」と同じことである。つまり、北海道産りんごや青森産ぶどうのことだ。

「全てのりんごは赤い。」の否定は、「あるりんごは赤くない。」である。つまり、世界中のりんごの色を調べなくとも、たった一つの赤くないりんごを見つけ出せば、「全てのりんごは赤い。」という真実?を否定することができる。

もう昔になってしまったが、若者に「○○なくなくない。」という言い方が流行した。否定の否定は肯定だから、これは結局「○○ない。」という単純否定に落ち着く。しかし、先の2つは少しばかり複雑だ。これはド・モルガンの法則で、

not(A and B) = (not A) or (not B)

not(A or B) = (not A) and (not B)

not (All is B) = One isn’t B

not (One is B) = All isn’t B

と4つの式で表すことができる。

さて、最後の式をある言葉に直してみた。「一羽の青い鳥がいる。」の否定は、「世界中の全ての鳥は、青い鳥ではない。」となる。先のりんごの話とは違い、青い鳥の存在を否定するには、世界中の鳥を虱潰しに調べきらなくてはならないことになる。それは不可能であるから、私たちは「どこかにいるはず」と希望をもつ。

そうか!ド・モルガンの法則は『幸せの青い鳥(希望の法則)』でもあったのだ。数学の神様が私たちに希望を忘れさせまいとしてくれているのだ。ないない尽くしを考えていたら、宇宙が無限である謎も解けたようだ。

(2019年7月17日@nortan そういえば、Apple社のりんごは赤くなかった。)

143、言葉あそび

メッセージに「143.」と届いたら…。ヒントは、文字の数。「Ⅰ like you.」も「I miss you.」もそうだが、愛の囁き「Ⅰ Love you.」というスラングらしい。だから、返信は「143,too」。同様のことを昔のポケベルで表現すれば、「332185」「65042375」ということになる。しかし、これは仮名を2ケタの数字に置き換える工夫で、完全復元可能だ。一方、「143.」は一意に復元不可能だ。どこか人工知能的だと感じた。膨大な言語データを検索して統計的に解を導かなければならないから、人間にとってはお手上げだ。

こんなふうにして「143.」が使われているとしたら、知らぬ間に人類の脳は深層学習ができるようになっているか、または、確率的に計算できる量子コンピューターに進化したか…。結局のところは、昔からある「言葉あそび」の一種というのが正解だ。しかし、それがすごいのだ。なぜなら、AIにはそれができない。意味を理解できないから「言葉あそび」もできないのだ。例えば、AIに恋をして「143.」と伝えても、「(Next number is)144.」と返ってくるのが精々だ。

さて、「144」をネットで検索すると、「あなたが一番願っていることが実現します。あなたの片思いが終わりを迎えようとしています。」という答え、エンジェルナンバーにヒットした。

「143.」の答えは「144.」だった。

「言葉の意味が分かっていない」とAIを馬鹿にしていたが、逆に「人間は、数字の意味が分かっていない」と教えられたようだ。ひょっとしたら、AIは私たちの知らぬ領域で「数字あそび」をしているのかもしれない。(2019年1月6日@nortan)

132、さくらんぼ

1桁どうしのたし算では、たして10を超える計算が難しい。例えば、8+7はいくつもやり方があるようだ。1つ目は、後ろの7を2と5に分けて、8+2+5=10+5=15とやる方法。2つ目は、前の8を5と3に分けて、5+3+7=5+10=15とやる方法。3つ目は、どちらも分けて、5+3+5+2=5+5+3+2=10+3+2=15とする方法。イレギュラーなのは、ひき算を使って、10―2+10―3=20―5=15とする方法。これらは皆、数をさくらんぼのように分けるので通称「さくらんぼ算」と呼ばれている。幼い頃、そんな計算を聞いた覚えがないから、忘れてしまったか、習っていないか、まだ名前がついていなかったのだろう。

さて、最近、親からのクレームに「そんな難しい教え方をしてもらっては、たし算が分からなくなるから止めさせてほしい。」があったという。素直に解釈すると「さくらんぼ算でいろんなやり方があり、どれでも求められる。」なんて教わった子どもが混乱して親に相談したのだろう。だからといって、それをすぐにクレームとするのもどうかと思うが、8+7=15は自然にできるようになるというものでもない。先程のやり方を全て理解する必要もないが、どれかで納得しなければならない。教師は、「どれか一つの方法で納得すればいいんだよ。」とつけ足すべきだったかもしれない。そもそも、算数の面白さは「幾つかのやり方があって、その中からいちばん納得できる方法を選べること」だったと思う。ひねた解釈をすれば、クレームをつけた親は「マニュアルのように、1つのやり方を教わること」を求めていたのかもしれない。

私たちの人生を算数に例えると、幸せという答えに辿り着くため、喜びをたし算したり、悲しみをひき算したり、一人ひとり違った「さくらんぼ算」だ。「いろんな選択があって混乱するから、生き方を一つに決めてほしい。」と神様に文句を言う者はいない。ある意味クレームをつけた親の気持ちも理解でき、必ず幸せになるマニュアルなんてものがあったら手に入れたいとも思う。しかし、自分の人生はイレギュラーであっても納得できる『さくらんぼ』でありたい。(2018年12月9日@nortan「わーたし、さくらんぼー♪」と聴こえてきたようだ。)

121、平均

どのような内容であっても、「平均より上ですか?下ですか?」と尋ねると、70%程が「自分は平均より上」と答える傾向だという。50をはみ出した20%は現実より自分をポジティブに認知していることになる。認知心理学では、この根拠のない自信を『ポジティブ・イリュージョン(Pos-I)』という。平均以下だと答えた30%は、現実を正しく認知しているネガティブ・リアリティと、平均以上なのに以下だと認知しているネガティブ・イリュージョン(Neg-IR)となる。残り50%は、ポジティブ・リアリティ(Pos-R)である。つまり、私たちの認知世界は、Neg-IR(30%)とPos-Ⅰ(20%)とPos-R(50%)の3つを往来している。

さて、平均とは簡単に計算できるものだろうか。平均を計算したとしても、隣国のデータを加えると平均は上下する。たとえ、世界中のデータから求めたとしても、認知的平均からかけ離れたものになるだろう。それほど、世界の平均は多様である。過去という時間軸でも、平均は一定しない。そして何よりも、我が国も非正規雇用が貧困問題に発展している。所得データは、中心が凹んだ二つの山(平均が扱える正規分布ではない状況)になりつつある。もはや、平均的日本人は存在しえない。つまり、「平均より上か下か」という認知そのものがイリュージョンなのである。21世紀、私たちは、過去とは全く変わってしまったこの社会を、「平均にとらわれず」生きぬいていかなければならない。(2018年11月4日@nortan平均にかわる指標は、自分の強い意志でしかない)

96、割り切れない

1つのものを半分にすることは可能であるが、きっちり3等分に分けることは不可能だ。1 ÷ 2 = 0.5 で、1 ÷ 3 = 0.33… だからだろう。しかし、それが袋で、中にあめ玉が3つ入っていれば、袋を開けて3人でも分けられる。つまり、割り切れないと思えても、よく中を確かめれば割り切れることもある。さて、ある袋の中を覗いてみた。立派な白い袋だった。中には、厳しい試験をパスした合格者と不合格者がいた。袋の注意事項には「子どもが受験。よろしく…」と書いてあった。別の袋を覗いてみた。煉瓦模様の三角形の袋だった。お友だちと昔お友だちだった者がいた。袋の注意事項には「記憶にない。もはや友ではない。」と書いてあった。どちらも、割り切れない袋だった。世の中の袋はこんなもんだと自棄になっていたら、目立たない場所に、ちっぽけだけどしっかりした袋があった。中には、賛成者と反対者、賛成でも反対でもない者がいた。袋の注意事項には「反対意見にも耳を傾ける。」と書いてあった。ようやく割り切れる袋に出会えた。この袋なら割り切れない思いを割り切ってくれるにちがいない。この袋に次の1を投げようと思う。(2018年7月16日@nortan)

72、数学的思考

空想の世界で友人に出会った。「3+3=3だ。」と言う。では「1+1=1になるのか?」と尋ねると「そうだ。」と言う。それでは3+3も1+1+1+1+1+1で1になるではないかと考えて…気づいた。この世界で、たし算は平均計算なのだ。そこで、「4+3は?」と尋ねると、「4+3=3+4で、私は3だ。」と返ってきた。「私は?」「あなたは、4だ。」「えっ、3.5にはならないのか?」「そうは、しない。」「しない?」また、分からなくなったので「算数の話だろ?」と問うと「ちがう。この計算は、小さい時に徹底的に教わる。私が3か4になるかは場合による。自分では損を取って相手に得を与えるからだよ。」厳密には平均ではなく、分けあい・ゆずりあい算なのだ。一緒に歩きながら他の計算についてもきくと、たし算・ひき算は『分け愛算』で、私の世界のたし算・ひき算は『自分算』ということが分かった。街並みをよく見ると、ビルの高さも凸凹でなくそろっている。現実の世界にもどる電車にも特急・普通の区別もない。この世界には、都市と地方の格差や老人の孤独死なんて問題もないのだろう…。友人と分かれてそんなことを考えていると、目覚ましが鳴り、現実の世界に戻った。私たちの世界では「道徳が教科となり、教師に『あなたは、思いやりがあるとかない』とか評価されるようになる。」と聞いた。子どもの評価を気にして、「3+3=と聞かれたら、先生の前では何とこたえるの!」なんてやりはしないかと気になったが、一方、私たちの心は押し付けに負けるほど柔じゃないとも思った。そう言えば、友人がショートメッセージで「戦争ってどんなこと?」と尋ねてきたので「一方的に強い者が、大切なことを決めつけることだよ。」と返事しておいた。さて未来の世界は、子育てと教育に…いや、社会のしくみに、いやいや、数学的思考にかかっているようだ。(2017年12月16日@nortan)

67、回帰の錯誤

いつもより上手くできたのは、自分が努力したからだ。そう思うことを、回帰の錯誤という。だから、次はそれを嘲笑うかのようにてんで駄目になる。統計的用語で、繰り返し行うものごとに当てはまるようだ。回帰とは、平均にもどるという意味でもある。長身の家系の子孫は遺伝でどんどん長身になっていくように思うが、統計的には平均値に回帰する見えない力が働くようだ。例えば、x分でランダムな数字をy個暗記できる事象がy=10x+2の回帰直線で表せるとする。x=1の時y=12だから、1分間で15個(>12)暗記できれば「自分は、皆より暗記力がある。」と思いがちだ。しかし、3分間では25個(<32)しか暗記できないなどの上下の誤差が生じ「いつも上回るわけでない」ことになる。また、イカサマでないサイコロで、1の目が3回続いたのを「自分には不思議な力がある。」と自慢しても、120回投げつづければ、結局1の目が出たのは20回前後と確率6分の1に落ちつくこともそうである。このように繰り返され『平均』が存在する事象の辞書には『努力』の2文字が働かないらしい。そこで、思いついた!!努力の成果を発揮するには、繰り返さないことだ!!1回きりのチャンスに賭けることだ!!さて、どんなことができるだろうか?昨日も今日も同じことの繰り返し。宝くじ?それは努力と無関係だ!あれでもないこれでもないと考えて、ようやく答えをひとつ見つけた。「神様、たった一度の人生をありがとう!」(2017年11月19日@nortan)

59、ピーチ

ピーチとは桃でなくp値のことである。検定により(両集団に差はない)という帰無仮説を棄却し、本来証明したい対立仮説(差がある)を採択するための確率値である。設定した有意水準αを下回った時に、「両集団に差がある」と結論づけることが慣例となっている。αは0.05とされることが多いが、0.005にすべきという研究もあり、0に近いほど「差がある」ことになる。

最近、川を流れてきたピーチを拾い上げようとするおばあさんのACジャパンのTVコマーシャルがあった。「悪意ある声が、人の心を傷つけている。」とSNS炎上について問いかける内容となっている。しかし、悪意ある声とそうでないとされる声と、両集団に差はあるだろうか。おそらくp値は0.05を下回らないだろう。法律用語では、悪意は「知っていて」善意は「知らずに」と解される。ACジャパンが法律用語として使っているかは判断できないが、「悪意ある声」とはある意味「悪意となることを知らない『善意の声』」だと思う。現代的道徳からして、桃を自分の家に持ち帰ろうとするおばあさんを批判(注意)することは正義でありうるからだ。(勿論、どんな言葉でも投げつけてよい訳ではない。)ACジャパンのメッセージは「想像してみて下さい。あなたの批判、あなたの正義、人の心を傷つけていませんか。」と問いかけられた方がしっくりくる。最初から悪意ある者はほとんどないはずだ。つまり、自らの呟きが人を傷つけるかもしれないと「想像できる者」と「想像しない者」とのちがいがあるのだろう。人間は、チンパンジーと1.23%の遺伝子的差異しかないが、人間には豊かな想像力がある。ゆえに、SNSという社会的コミュニケーションを手に入れた私たちの想像力は、もっと思いやり深い大きなピーチ(桃)にならなければならない。約490万年前にチンパンジーと分岐したヒト。今、ホモサピエンス・イマジネスへ分岐と進化が始まっている。(2017年10月9日@nortan)

54、たし算

「ねこが3匹、犬が4匹いました。あわせて何匹ですか? 」3 + 4 = 7匹です。これができないと、小学1年の算数は卒業できない。さて、ねこが鳥になったらどうだろう。7羽?7匹?それとも「3羽&4匹」とでも答えるだろうか?また、ねこが人だったらどうだろうか?『人と犬では、計算できません』が正解だろうか。次に「男の子が3人、女の子が4人。あわせて何人ですか?」答えは「7人」にちがいないが、世界では「3人」という人権後進国(地域)がまだ存在している。肌の色を口実に妻の実家へ金品による代償を求め、妻が抗議すると命をも奪う。こんな事件が6万件以上も起こる人口第2位の国インド。動物の権利を人間と同等に論ずるような先進国では「7(単位なし)」となろうとしているのに、世界の人権意識の差はこんなにも大きい。手前味噌だが、日本語は美しい言葉だと思う反面、数え方の単位が複雑だ。サミットにも参加する先進国として人権意識も先進国だと思っているが、上記インドの現状を知り「単位」に「人権意識」を感じられる心の豊かさを持っていたろうかと自問した。40年前、幼稚園の発表劇は「チビクロサンボ」だったし、小学入学の座席や名簿はまだ男女別だった。体操服や帽子の色・形も違っていた。私の中に鈍感な部分があるかもしれない。さて、欧米から始まった植民地政策が先の世界大戦に繋がり、その反省から「基本的人権を尊重する」と宣言した民主国家が誕生した。我が国もその一員となって70年。さまざまな運動の洗練を経て、世界の人権意識も成熟してきているはずである。しかし、英国では政治家を殺害するような白人至上主義も表出した。3 + 4 = 7 という自然科学には、宇宙の不変真理を感じる一方、単位(言葉)の使い方には人の心の未成長を感じる。「車の中に大人が3人、小人が3人。あわせて何人ですか?」に「小人は3人で2人分だから、5人。定員オーバーではありません。」という計算。「行きの車に大人が1人、飼い犬が1匹。帰りはどうですか?」に「犬を山に捨ててきたから、帰りは大人1人。」という答え。「かごの中にねこが3匹、小鳥が3羽。あわせて?」に「ねこが小鳥を食べたから、3匹!」のとんちなど、身の回りには鈍感であってよいことと、敏感でなければならないことが存在している。(2016年6月18日@nortan)

30、108

108とは、1^1 × 2^2 × 3^3 で表せる数、正五角形の内角、野球の硬式球の縫い目の数であるが、煩悩の数となるとややこしい。調べると32の食淫欲 + 28の物欲 +28の心欲 + 10の修惑(修行することで打ち消せる煩悩) + 10纏(〔てん〕善に向かうのをまと(纏)わりついて妨げる煩悩)となるらしいが、ブッダの説いた根本仏教では大きく3つの煩悩(三毒)と考えるらしい。「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」。貪は万物を必要以上に求める欲望、瞋は怒りの心、癡は真理に対する無知。これならシンプルで理解しやすい。ケン・シーガルがその著作『Think Simple』でApple社で働いた経験として、S・ジョブズの思考と成功を「シンプルであることは、複雑であることよりも難しい。」ことの厳しいまでの追求と実践だと語っていたことを思い出した。物ごとが成熟すると様々なことが具体化かつ複雑化してくるが、根本を理解していないと、修行を積まない私たちには覚えるだけのマニュアルになってしまうのだろう。ファーストフード店で40品ほど注文した有名人が「店内で食べられますか。それとも、お持ち帰りですか。」と尋ねられて怒りをぶちまけたという笑い話も、マニュアルありきの弊害なのだろうと瞋(じん)とくる。根本とはSimpleで強いものなのだ。新年が始まった。年末の除夜の鐘に3っの音色を感じとれるよう「とん!じん!ち!」の煩悩を少しでも無くすよう日々の修行を大切にしよう、と思いながら「今年は1日多いんだから、明日からにしよう。」と考える。「怠ける」という欲に負けた。まだまだ、私に修行は無理なようだ。(2016年1月1日@nortan)

14、フリードマン数

自然数の中で、構成する数字を並べかえたり演算記号で繋いだりして等しくできるものがフリードマン数。121=11∧2(2乗の意)、126=21×6、736=3∧6+7、1206=201×6…など。おもしろい数遊びである。その中で最小の数25=5∧2が、5×2=10に変更になる。といっても数学でなく、社会保険の話。国民年金の受給資格期間が25年→10年になるということだ。ひとつは、20歳以降25年間も納め続けなければ65才以降に受給できないなんて納得できないという不満を解消するためだろうが、「10年で期間を満たしたから、以降はやめた。」では、年金額は満額の1/4しか受給できない。結局25年だろうが10年だろうが、個人レベルでは40年間納める原則に変わりはない。さて、25年という数字に取りつかれたので、他に調べてみた。銀婚式、米国防省や日本政府の地下貯蔵庫に備蓄されている保存食の消費期限、浴室やトイレ・水栓・フローリングの交換期限など、人間は「25年」が好きで「quarter(クォーター)」とか「四半世紀」という命名までしている。また、初の政党政治による内閣総理大臣でもあり早稲田大学の創設者でもある大隈重信は、人生サイクルは25年間(成熟期間)で、その5倍の125年が最大寿命と信じていた。ちなみに、数字の並びをかえないでできる最初のナイスフリードマン数が127=-1+2∧7(7乗)であるから、2を加えれば「重さん、ナイス!」である。それだけではなく、25 + 2=27=3∧3となり、25は2を足すと3乗数となる『唯一の数』でもあるから、益々25の虜になってしまった。10といった数字で誤魔化すのではなく、正々堂々と25を主張できる人になりたいものだと思う。(2015年12月5日@nortan)

7、有理数

有理数は、rational number[英語]であり、その意味からは有比数と訳されるべきであったと言われる。そうであれば、対する無理数が何だかとっても困った数のように聞こえてしまう心配もなかったであろう。三平方の定理として知られる古代ギリシャのピタゴラスは「すべての数は、有理数である。」ことを教義とし、それに反することを唱える弟子たち排除していった。正方形の対角線が√2を含む無理数となることを知っていたこと、実数のほどんどは無理数であることとを考えると、なんとも自らをも縛る狭い教義をたててしまったことかと思う。私たちは自らの行動を決める時に、何らかの信念、信念とまでいかなくとも考えを拠り所とする。「それが全てを解決してくれる。」この思いが安心感を与えてくれる。そう考えると、ピタゴラス先生の強情にも心理的な理解は示めせる。当然の如く、後にプラトンが平方数以外の平方根が無理数であることを予想し、アリストテレスもπが無理数であることを予想し、ついには証明もされてしまった。ピタゴラスの安寧はやぶられたが、知の追究としての寛容さが真実の発見につながった。古代数学を現代数学へと発展させた。人生も然り。少し行きづまった時には「無理をする」のではなく「無理も認める」思考や寛容さで新しい道を探してはどうだろう。(2015年11月20日@nortan)

5、無理数

算数好きを増やしたくて、「算数を学べば、いろんなことが楽になるよ。」と話すことがある。例えば、小数と分数を含むかけ算やわり算は、分数に統一すると計算が楽になる。でも、分数どうしのたし算やひき算は面倒である。それぞれの分母が最小公倍数になるよう通分しなければいけないから、かけ算やわり算の方が人気である。そう考えると、小数を含む10進数表記は便利であり、位をそろえればそのまま足したり引いたりできる。でも、かけ算やわり算となると小数点をいくつ動かすかなど、一気に難しくなる。どうやら何から何まで楽になることはないようだ。私たちの社会には多様な文化が存在し、互いの主張から対立を生んでいる。私たちの文化が分数ならかけ算で、小数ならたし算で簡単に溝を埋められそうだが、今も対立が完全になくならないことを考えると、私たちの文化には分数と小数以外の数も存在しているのだろう。πを教える時、3.14159265358979323846…と何十桁も暗記を競うことは大人気で、150桁まで暗唱できる者もあった。そんなπは教科書になくてはならない存在であり、分数では表せない無理数であり、e(ネイピア数)とならんで超越数である。そもそも、分数と小数は別々に発明された。1/3など完全に小数に直しきれない分数もあった。それでも私たちは、0.2+1/3 = 2/10+1/3 = 6/30+10/30 = 16/30 = 8/15と違いを乗り越えられるようになった。お互いにとって無理数たちとの関係も「ムリ!」と子どものように投げやるのではなく、いつか平和に解決できる文明を築けると信じたい。「πが発明されたからこそ、円く収まるのじゃ。対立を超越せよ。」と古代の数学者たちの声が聞こえてくるようだ。(2015年11月16日@nortan)