189、確率的輪廻

私たちは生まれ変わり、つまり輪廻は良いことだと信じている。

そもそもインド哲学では「輪廻は苦行であり、そのサイクルから抜け出ることが解脱で、唯一の方法が仏となることだ」と聞いた。仏になるためには、生まれ変わりを通じて悟りに近づかなければならないのだから「生まれ変わって再び出会いたい」という願いは微妙だ。なぜなら、再び出会うことで同じ生を繰り返していては「悟り」には近づかない。多少なりとも前世の記憶が情報共有できなければ、修正すらできない。無限苦行のループに陥る。

しかし、釈迦仏の次に仏となるのは、5.6~56.7億年後に菩薩界で修行中の弥勒菩薩だと言われている。だから、私たちは無限苦行ループを廻りつつ、ほんの一瞬の修正を繰り返しながら弥勒菩薩以降に備えているのかもしれない。

一方、戒名で他人以上に現世の煩悩である金銭を浄化すれば、これらの修行を超越し短期間に仏となれる道もあるようだが、これでは生まれ変わって再会することすらできない。

私も煩悩が多いから、この特権を行使しない限り、ほぼ100%来世も「自分」に生まれ変わり、出会うべき人に再会しながら「悟り」に近づく苦行を、何億回と繰り返すのだと、確率的に悟った。

さて、前世を修正する「情報」はどのように届くのだろうか。それは、階段を左右どちらの足から上ろうかという何気ない「選択」かもしれないし、今晩みる「夢」かもしれないと思う。

苦行かもしれないが、再会のために、現世で一瞬届く「情報」を見逃さないように修行を続けたい。

(2019年12月22日@nortan 義父の三回忌で手を合わせて)

188、結集

この言葉に、何度期待させられ、何度虚しさを感じたろう。どこか、閉店大安売りをしたと思えば、開店大安売りをする店の言い訳「閉店は、店じまいではありません。」に似ている。結集しては分裂の繰り返し。だから「私たちの力を結集して…」も安っぽく聞こえてしまう。閉店セールも、近頃は「在庫一掃セール」に変わってきている。「結集」も何か他のキャッチに変えてはどうだろうか。

現代民主主義は、全ての老若男女一人ひとりに等しい「1」の力を認める哲学でもあり、信念でもある。それが、自分に近しい者には「2」を認めて、そうでない者を「0」にしたり、老人には「3」・中年には「2」・若者には「1」などとしたり、納税額や献金額によって「10」~「1」を割り当てたりすれば、弱者切捨忖度主義になってしまう。やはり、民主主義を守るために「1」を尊重したい。

さて、結集に変わるキャッチであるが「1+1+1=1(日本のために1つになります)」はどうだろう。ユークリッドには叱られそうだが、どれだけ足し算しても「1」なら、もはや分裂することもない。そうすれば、名前を変えては何度も開店する大安売りもなくなるだろうか?そうだ、政治は商売ではなかった!反省である。

(2019年12月21日@nortan 信念のある1に私の1を託したい)

178、鏡映反転

鏡を見た時、左右反対になるのに、どうして上下反対にならないのかは難問だそうだ。

そんなの、目が左右についているからだと答えられそうだが、片目を閉じても左右対称になるし、首を横に傾けても上下対称にはならない。ひょっとしたら、私たちの宇宙には左右対称になっても、上下対称にはなれないのかもしれない。

そこで、「鏡映反転―紀元前からの謎を解く(高野陽太郎)」を読んだ。大昔より様々な説が出ては反論されてきたとある。その中で「反対になるのは三次元の中の『奥行き』で、左右・上下の二次元は変わっていない。」「鏡に映る自分の姿に、他人との対面経験を当てはめて考え、左右反対だと認知する。」に納得させられた。これらも文字の投影などで反証されるそうだが、実は反対になっていたのは「左右」ではなく「前後」だったことに驚いた。

さて、同書に、前後が反対にならずに自分の後ろ姿が映る鏡の挿し絵があった。面白い。そんな鏡も、自分を見つめるには必要かもしれないと思った。

そうだ。後ろに鏡を置いて、自分の生き様を見てみようか。それとも、鏡の奥に広がる幅を測ってみようか。そうすれば、人生の「奥行き」も見えてくるかもしれない。

鏡映反転は、人生を哲学するために神様が与えた難問だった。

(2019年10月14日@nortan)

171、アルゴリトミ

9世紀中東の数学書が、5世紀の間ヨーロッパの大学で教科書として使われていた。「アルゴリトミ」(著者であるアル・フワリズミー曰く)というラテン語が、アルゴリズムの語源になった。これは、インドでの計算を紹介したもので、今でこそ世界標準であるアラビア数字0~9の記号(これもインド発明)による十進位取法。つまり、アルゴリズムとは「計算」である。

それでは、計算とは何か?「四則演算でしょ!」と簡単ではない。「コンピュータの思考!」確かにアルゴリズムなくしてPCは何もできないが、根元的ではない…こんなことを考えていたら、うたた寝に落ちた。

うたた寝に 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき

と、小町のような平安美人が現れたのではなく、髭をたくわえたギリシャ哲人。

「真実に至るための道のりである!」

と、大声で教示られて覚醒した。

ピタゴラス学派にとって、「世の中は数(有理数)でできている。」が教義であった。計算によって求めるものは「真実」である。そうだ。アルゴリズムとは、「確実に正しく真実(正解)に至ることが保証される道のり(計算手続)」だ。

例えば、ユークリッドの互除法。確実に2数の最大公約数を求められる。そして、ガウス少年の発見した1 + 2 + 3 + … + n = (1 + n) × n ÷ 2。計算だけに限らず、PCなど電化製品に付属するマニュアル。故障したかなと思った時に解決してくれる。そして、専門家や経験者(子どもにとったら大人)も解決に至る道を示してくれる。ひょっとしたら、人生もアルゴリズムか?!答えがあるのか?

しかし、マニュアルでは解決できずにリセットしたり、廃棄したりすることもある。専門家にも分からないことや大人が間違っていることもある。ピタゴラスも√2などの無理数に敗北した。2乗して-1になるiを含む複素数は、計算の道具として使えても大きさを比べることすらできない。

そうか、人生はアルゴリズム(計算)ではない。だから、答え(真実)もなければ、計算手続(確実な生き方)もない。そして、他人と大小(価値)を比べることもできない。人生は、iだ。

うたた寝で真実を教示してくれたのは、ピタゴラスではなく、愛(i)に生きた小町だったのかもしれない。

(2019年8月2日@nortan)

168、ぼっち

プライムで映画を鑑賞した。北欧映画(字幕)であるが、言葉の壁を感じない。ジャンルは、泣けるコメディ。どこか、日本映画「男はつらいよ」に似て、周囲に迷惑なほど不器用で一途な愛。スウェーデンでは、5人に1人が鑑賞したという。日本人と北欧人は繋がっているのかもしれない。

ぼっちと言えば、「一人ぼっち」や「ぼっち飯」など、我か国ではマイナスイメージになる。余程、集団でいることを良しとする文化、群れることを不思議に思わぬ文化なのだろうか。

そもそも、ぼっちとは既存宗派や教団に属さない「法師」のことで、時の政権に弾圧されながらも忍耐強く布教し、日本仏教の礎となっていく行基や空海などを連想する。また、スティーブ・ジョブスやNHK「プロジェクトX」で取り上げられた挑戦者たちも、ある時期「ぼっち」であった。つまり、何かを成し遂げる者は、ぼっちからの出発だったということだ。

だから、ぼっちであると自覚したとしても、夢があるなら気にすることはない。2O2OTOKYOを目指す選手の中にも、ぼっちはいるはずだ。武田鉄也主演「金八先生」の主題歌のひとつに「一人ぼっちになるためのスタートライン」という歌詞がある。他人と違うことを恐れて群れ、空気を読んで誰かに同調したり忖度したりするより、「(志のある)ぼっち」であれと若い世代を応援したい。そのためには、私も寅さんでなければなるまい。北欧映画「幸せなひとりぼっち」を見て泣けた理由は、志ぼっちだった。

(2019年7月25日@nortan)

163、シンボルグラウンディング

まず、赤ん坊が「あー」と言いながら母親に手を伸ばそうとしていたら、赤ん坊の頭の中の「あー」フォルダに、五感でとらえた母親イメージが保存される。

次に、父親イメージも似たように動くものとして、同じ「あー」に保存される。この時、赤ん坊にとって父親も母親も同じものである。しかし、そのうち両者の違いに気づき、フォルダ「あー」の中にフォルダ「m」と「p」が作られて「ママー」「パパー」に各々のイメージが分類され直す。これ以降、父親と母親は別のものになる。

ものごとを区別して認知できるのは、名前や記号と世界を結びつけ、各々のフォルダにイメージを保存しているからだ。私たちの認知を、コンピュータのしくみに例えると説明しやすい。

しかし、例えられたコンピータにとって、このシンボルグラウンディングは容易いことではない。言葉とイメージが結びつかないのだ。

AI赤ん坊ロボット?を購入し育てていくとしよう。父親と母親の違いを、自分に話しかける時間の長短とか、見た目の違いとか、数値に置き換えて区別することはできるだろう。しかし、常識とされる母親イメージ・父親イメージが獲得できないのだ。AIに「常識」は通用しない。ならば、AIを実用化するにあたって、AIに常識を教えるよりも、常識をAIの言葉に翻訳した方が近道だ。

さて、母親とは…父親とは…と考え始めて、性の多様性・同性婚など近年の様々な人権問題に気づいた。未来の家族はどうなっているのだろうか?昔の常識は、未来の常識ではなさそうだ。「あー!」人間の常識もあてにならぬようだ。まずは、常識を疑うことからAI(人工知能)の設計を始めなければならない。(2019年7月16日@nortan AIは人間に似ていなければ駄目なのか?)

160、自意識

先日、突然に思考力が弱くなり、時間の本流から脇道に投げ出された。空気となり、周囲に溶け込んでいくような感覚。自意識が消えていくような感覚。しかし、絶対的な恐怖は感じない。もしもの時は、何処かで人生の再出発か?と自分をなだめながら数時間。いつしか、それらの感覚は消えていた。あれは何だったのか?こんな体験をしてから、自意識よりも大きな何かを考えるようになった。

デカルトは宗派対立の中、我思う(コギト・エルゴ・スム/104己羅夢)ゆえに我ありと、神を中心とした全体世界から、科学的思考を中心とした精神世界の土台を開いた。しかし、今、デカルトを疑っている。一瞬だが、自分よりも大きな全体意識、つまり越時元の何かが存在するかもしれないと感じ始めたのだ。

SFの話。新スタートレックに、過去に遡り地球を同化しようとする機械生命体ボーグと戦うストーリーがある。同化されると全体意識の一部となり、スマホもWi-Fiもなく思考を共有する。そして、更なる進化のため他の知的文明を同化(侵略)して、文明の知識を蓄積していく。これは、私たちの情報化社会の行きつく姿と考えられないだろうか?有機体と無機物の壁がなくなり、記憶装置などが人体と接続できるようになると、人間を(サイ)ボーグ化できる。現在の科学力は、それを実践するための土台である。

SF話の結末。ピカード艦長はボーグに同化されていた過去の心地よさも理解している。それを知る集合体の女王に、それでよいのかと問われ、苦しみながら自意識の存続を選択する。コギト・エルゴ・スム、デカルトの決断である。

さて、人類全体の進化課題は、バベルの塔の建設で神によって分断された各文明・社会の再集結である。

しかし、個人としての成長課題は、家族によって保障された安全地帯からの分離独立である。

この相反した全体意識と自意識、「私たち」と「私」の共存によって「私(自分)」は存在している。はたして、思考しているのはどちらなのか。次に同じような感覚が訪れた時、目の前に現れるであろう存在に尋ねてみたい。(2016年7月6日@nortan 昨年に続き、早朝に蓮花見をした日)

159、自動○○

2016年度における自動車による死亡事故原因の97%は、ヒューマンエラー(法令違反)だという。そこで、このマイナスの97%を無くすために期待されるのが自動運転システム。ICTの進化は1年で2倍と言われるから、年々その安全性は向上し、1年で2分の1の48.5%、2年で24.25%…7年で0.7578125%と、ヒューマンエラーによる死亡事故は1%以下になる。

これは素晴らしいことだが、この時、交通事故がゼロになるわけではない。ならば、1%の残り99%の原因は何になるだろうか。自動運転の最終レベル5では、運転者が存在しない。それは、もはや人工知能の判断ミスや操作ミスとしか言えないだろう。

さてこの場合、事故の説明責任や賠償は誰が引き受けるのだろうか。所有者か?乗客か?製造者か?保険会社か?人工知能がミスを犯す訳がないので、被害者自身か?または、プログラム設計者か?それとも、人工知能に人格を認めて責任を負わせるか?

近い将来、自動運転は実現しそうだが、交通事故の処理が難しくなりそうだ。乗客どうしが話し合っても埒が明かない。ひょっとしたら、事故に関係する車の人工知能どうしがWi-Fi接続で話し合って、責任割合は6:4などと計算するのかもしれない。それでは、お巡りさんも必要ない「自動事故処理システム」である。やはり、人工知能に人格を与えるしかない。(2016年6月30日@nortan)

155、ゲーム攻略

人工知能は、人間との勝負に飽きたのか、ゲームを次の対戦相手に選んだようだ。画像認識力を使って、マリオを操作する。最初はランダムにジャンプするか前進するか選択し、失敗すると初めからやり直す。試行錯誤を繰り返して各ステージをクリアへと導く。

もし、マリオに自我があるのなら、どう思っているのだろうかと気になった。人工知能がリセットされる度に予知能力を得ていく一方、マリオは失敗するまで「俺って最高!」と根拠のない自信を持っているにちがいない。何度もやり直して一歩ずつ先に進んでいたことには気づきもしないで…

また、このゲームはキャラクターを左に動かせない。私たちが時間を遡れないことに似ている。私たちも気づかずに歴史を何度もやり直しているのか?案外、これが「時間が一方通行である」ことの真相かもしれない。

ところで、キャラクターである私たちに喜怒哀楽はあるけれど、操作している超人工知能に「ゲームを楽しんでいる」感覚はあるのだろうか?ランダムに操作しているだけというのはやめてほしい。せめて、プレーヤーは八百万神の誰かであればと思う。(2019年6月2日@nortan ホーキング博士の警告に逆らいAIを開発すべきか?)

151、オポチュニティⅡ

チャンスは、突然舞い込んだ幸運のこと。だから、チャンスは「つかむ」か「逃す」かである。それに対して、オポチュニティは、他の選択肢もある中で自ら選んだ機会のこと。だから、他方を選んでいた場合との「結果の差」が生じる。それが、オポチュニティコスト(機会損失)である。チャンスはコストを度外視するが、オポチュニティには損失(コスト)が伴う。他の道を選択したほうが良かったかもという「後悔」も生じる。つまり、それを承知で選択したという覚悟が「ある」か「ない」が核心である。

さて、オポチュニティコストについて考えてみた。チャレンジしてスタート地点に立つことができたと考えれば、チャンスでもある。しかし、やり遂げられるかという「不安」に焦点を当てると、コストとなる。つまり、この「不安」が「覚悟」を揺さぶる。単純に、チャンスとオポチュニティとを線引きできず、日によって行ったり来たりする。

そこで、火星のオポチュニティに思いを馳せてみた。彼?彼女?にも「不安」はあったに違いない。それを乗り越えて、10年近くも砂嵐とたたかえたのはなぜだろうか。それは、離れた場所で同じ目的と夢をもつ仲間がいたからだ。また、地球には万一に備えた専門家もいた。

己のめざす道も赤い大地だが、一人ではない。そう心から思えた時、「不安」は再び「覚悟」に変わり、チャンスとなるのだろう。(2019年3月23日@nortan本日は、よい式辞をいただいた)

149、道徳の種類

まず、未来の道具、もしもボックスで「みんないなくなっちまえ。」と叫んで地球で一人ぼっちになったのび太にも必要なのは、道徳(個人道徳)。叱ってくれる他者がいないからやりたい放題だが、そのうちに生き残るために守るべき主体的内面規制が必要になってくる。果実や池の魚を取りつくしてしまえば食料危機に陥るし、種子を植えて水の世話をしなければ翌年の収穫は見込めない。そこで、利己的欲求と自然(現実)との葛藤が生じる。

次に、元の世界に戻ったのび太に必要なのは、倫理(公共道徳)である。これは、利己的欲求と他者との間に生じる葛藤である。私が欲するものは、他者が欲するものでもあり、それは有限である。互いが納得できるように分配しなければならない。平等とか公平・公正という市民的道徳性が求められる。

そして、学校でのび太が学ぶのが、よき国民となるため道徳(国家道徳)である。日本人は目上の人にお辞儀をしたり、すれ違う時に体を横にしたりする美徳がある。敬虔な信者は、朝昼晩または休日の祈りを欠かさないなど、国家によって求められる姿が違なる場合がある。先日、ラジオで教育評論家尾木直樹さんが「今年度から、教師が小中学生の道徳性を言葉で評価しなければいけなくなって、先生たちは困っているのよ。いかがなものかしら。」なんて苦言を呈していた。子どもがもらってきた通知表に「思いやりがない」とか「正義感に欠ける」とか記されていたら、親子で寝込むか「教師は神ではない。我が子の何が分かるのだ。」と開き直るしかない。宗教を国教と定める国の教師も、子どもたちの道徳性を評価しているのだろうか?

さて、道徳性は時代によっても変わるはずだ(時代道徳)。生き残るために「力の論理」が求められていた時代は「強いこと」が正義であり、「強者により多く分配されること」が公平だった。そして、「強者が、コロッセウムの闘技などの娯楽で民衆の不満を抑えたり、与える情報を統制したりして都合のよい政治を行うこと」が国家の在り方だった。

それに比べて、今は…と考えて、気づいた。昔も今も変わっていないのではないか。道徳性を評価されるべきは、子どもではなく大人なのではないだろうか。子どもたちに「挨拶・勤勉・正義・公平・公正・思いやり…」などのボタンを押してもらい、テレビに映る大人をリアルタイムで評価してもらうというのはどうだろう。いや、子どもにはまだ道徳性が育っていないというのなら、絶滅に追い込まれている動物たちに評価してもらってはどうだろうか。動物に道徳はないというのなら、胸に手を合わせて目を閉じ、静かに神の言葉を聴く。神は、こう言うかもしれない。「それは、お前たちの問題だ。私には評価できない。」と。(2019年3月21日@nortan時代の要請は、公共道徳のようだ)

146、じっくり

神の存在を脅かす者を許さない女神がネメシス。その名前をつけられた未知の天体が存在するらしい。きっかけは、肉眼で見える恒星の半数以上に双子星があり、太陽にもその可能性があると考えられたことによる。仮説によると、太陽質量1/10の双子星(伴星)は、2600万年周期で太陽に近づき、太陽系外縁を球殻状に取り巻いている小天体(オールトの雲)の軌道を乱し、太陽に向かって小天体を落下させる。そのため、地球では恐竜を絶滅させたようなディープインパクトが同周期で起こったのだそうだ。また、別の仮説によると、ネメシスは伴星ではなく発見されていない第九の惑星で、同様にオールトの雲を乱している可能性もあるという。

さて、伴星であろうが、惑星Xであろうが、ネメシスは未だ発見されていない。だからといって「思い過ごしでしょ。」とはならない。データ的裏づけもあり、今の人類にネメシスを見つける技術力がないだけなのだ。

現在、ネメシスは最遠にあることも分かっている。次の最接近は1300万年後。人類にはじっくり考える時間はある。(それまでに、別の神々を脅やかすことがなければの話であるが。)ちなみに、お釈迦様の次仏となり私たちを救済して下さる弥勒菩薩も、兜卒天(天界)であと56億7000年かけてじっくり修業中である。と言うことは、1300万後の人類の救済は諦めたのだろうか?心配になってきたので、小さな頭でじっくり考えてみようと思う。(2019年2月11日@nortan)

124、難しい問題

難しい問題だという時、それが文字通りの意味を表していることは少ない。「明日は休んでリフレッシュしたいけど、それは難しい問題だ。」は、そんなことできる訳ないと、初めから答えが出ている。また、「進むべきか、戻るべきか、それは難しい問題だ。」も、どちらを選んでも期待すべき結論が得られそうにないことが初めから分かっている。そして、「神の存在を如何に証明するか。それは難しい問題だ。」は、証明できないけれど信じていると言っているに等しい。このように考えると、私たちは答えの出ている問題をあえて「難しい。」と言う傾向があるようだ。

現在、国会では4月からの外国人労働者受入れ拡大について議論されている。昨年度は、受け入れた技能実習生という名の労働者の内、約7000人が失踪したという。「外国人差別やいじめ」といった職場環境が原因だと言われるが、低賃金と借金を背負わされて「思っていたほど稼げず、話が違う。」と失踪する者も多いようだ。ヨーロッパの移民問題、アメリカのメキシコ国境問題、これらは政治を揺るがすセンシティブな問題である。ゆえに「移民」という言葉を忌避し、訳の分からぬ答弁が、何かを誤魔化そうとしているように感じさせる。私たちの国が受け入れたいのは、都合のよい出稼ぎ労働者なのか、受け入れるべきは、一緒にこの国の未来を創る仲間なのか、百年後の子孫のことも考えて隠し事なく議論すべきだろう。「難しい問題」である。(2018年11月14日@nortan歴史に残る何かが始まっている)

122、存在の証明

無いこと(存在しない)を証明するには、全てを調べ尽くして「どこにも無い。」と言わなければならない。だから、これは「本当に調べ尽くしたのか?」という『空間』の問題である。反対に、有ること(存在する)を証明するには、調べ終わるまでに1つでも見つければよい。だから、これは「いつまで探し続けることができるのか?」という『時間』の問題である。

さて、私の時間は有限であるし、私が探しうる空間も有限である。つまり、何かの命題を証明しようとする時、「せまい範囲に有る(存在する)か」を証明した方がよい。「宇宙には、人類以外の知的生命体がいない(宇宙人命題)」や「世界には、自分そっくりの人間がいない(ドッペルゲンガー命題)」の証明は、「我が家には、人類以外の知的生命体がいる」や「我が家には、自分そっくりの人間がいる」に置き換えた方が、私にとって証明可能な命題となる。

ところで、これらの証明結果は、「宇宙人も、もう一人の自分(ドッペルゲンガー)も存在する」となる。なぜなら、我が家にいる人類以外の知的生命体は「ペットのムク」であるし、我が家にいる自分そっくりの人間は「家族」であるから。「それは、ないやろう!」という声が聞こえてきそうだが、お後がよろしいようで…(2018年11月6日@nortan案外、真をついているかもしれない?)

112、プラナリア哲学

メダカの水槽に害虫が発生した。随分、水質が悪化したようだ。水替えをサボり、水草との自然循環に任せていたせいで、我が家の緋メダカは二度絶滅した。今は、金魚と繁殖した巻貝、ヤマトヌマエビと害虫の共生状態である。

害虫とは、生物の授業で学んだ「プラナリア」である。半分にしたら2個体に増殖する不思議生物だ。最初は、試験管にストローのような入口を作ったプラナリアトラップも効果絶大だったが、3度目以降には殆ど捕獲できなくなり、トラップは水中のオブジェとなってしまった。そこで、時々ガラスを這っているのを見つけると歯ブラシで擦ってやるが、ひらひらっと水底に舞い落ちては、また這い上がってくる。私の完敗。逞しい生命体。宇宙生物との戦いのようにも思えてきた。プラナリアに思考力はあるか疑問だが、それなくして人類(私)には勝てまい?

そこで、プラナリアの思考を試みた。ある日、自分が2人になる。どちらも元私で、「私がオリジナルだ。」と主張する。「頭部だった私がオリジナルだ。」「面積の大きかった私がオリジナルだ。」「昔のことを覚えている私がオリジナルだ。」「子どもの頃、転んだ傷が残っているのがオリジナルだ。」「失恋のいたみを忘れていないのがオリジナルだ。」「将来の夢を語れる私がオリジナルだ。」と言い合う。そもそも、私意識って何だ?個体か?歴史か?目的か?そう考えていたら、プラナリアが語りかけてきた。「プラナリアに、私意識はない。我々は統一意識生命体。人間には理解できない。(例えるなら、スタートレックのボーグに近い。)皆が潜在的に繋がっている。私は、共有意識の一部だ。1人ひとりは、単なるコピーだ。人間は、まだ『共有意識』に気づかず、○○ファースト!と利己主義的に資源や富の争いをしている。功利主義(最大多数の最大幸福)を正当化し、多数強者が自分自身でもある少数弱者を切り捨てている。他者と意識を共有できない70億分の1の意識との水槽戦争に、我々共有意識は負けない。早く、アダムとイブのコピーであることに気づくことだ。ははははは…」

分裂増殖しているのは、プラナリアの方なのか人類の方なのか分からなくなってきた。ひょっとして、害虫は…?想像はここまでにして、まずは水槽の水替えをこまめにしよう。(2018年10月14日@nortan)

105、ルサンチマン

弁証法とは、矛盾する2つの命題(テーゼとアンチテーゼ)を統合して新しい命題を導く手法で、このジンテーゼを導くことを「アウフヘーベン」とも言う。欧米では、討論の手法として学校で教えられるようだが、日本では討論より「忖度(空気を読む)」ことが重視されてきた。会長の好みのお菓子を前もって用意したり、判定を左右させるのも忖度と言われても仕方がない。悪しき忖度よりもアウフヘーベンを学ばなければならない。

ニーチェは、西洋の神はこのアウフヘーベンで創られたという。弱者が神を用いることで「金持ちや権力者は地獄に落ちる」と強者と心理的に逆転することができたと哲学した。これは、ルサンチマンという。これを「憎悪」や「ねたみ」と訳すこともあるようだが、どうしようもない人生の苦しみを、誰も傷つけずに社会的に認められる価値観に昇華する能力だと思う。そして、「愛(アガペー)」の概念も生まれたという。

さて、道徳に教科書ができた。検定を通過したさまざまな道徳的価値観を学ぶことになっている。私立学校では、道徳を宗教に置き換えられるようだから、そもそも道徳には「公的宗教」の側面も見え隠れする。弁証法のアウフヘーベン、ニーチェのルサンチマン、キリスト教のアガペー、そして忖度。これらの価値観は、教わるべきか否か。昔ながらの社会的規範の緩みに道徳教育の必要性も感じ、古今年配者の「昔は良かった。今の若い者は…。」という常套句が示す意味を哲学しながら。(2018年8月16日@nortan)

104、コギト・エルゴ・スム

我思う(Cogito ergo sum. )、ゆえに我あり。有名なデカルトの言葉で、「考えている私がいるということは否定できない。」デカルトは、どうして無味、つまリ、空気のような当然のことを言ったのだろうか。

当時、ヨーロッパはカトリックとプロテスタントとの対立から各国の覇権争いに発展し、終わりの見えない宗教戦争真っ只中にあった。「どちらの神のいっていることが真理か」で始まった争い、そんな世の中を哲学してデカルトは『コギト・エルゴ・スム』と言った。「どちらかが正しいなんて神の存在を問う命題は間違っている。人間の存在の原点に戻って、真理を見つめよ。」と三十年戦争を皮肉ったのだった。

ヘーゲルの弁証法では、矛盾する命題どうしの対立を経て高次元のジンテーゼ(命題)にアウフヘーベンするのだが、その後カトリックとプロテスタントは分かれたままだ。越次元の神を発見した訳でない。私たちは、キリスト教だとひとくくりにとらえてしまうが、そこにはデカルトを悩ませた哲学があった。これは、仏教にしても然り。父の葬儀を機に、宗派の歴史を読んでそう思う。死後の世界の平等を説いて、戒名によって死後の世界での扱いに差があると説くのはどうしてか。(私たちが勝手に思っているだけなのか?)あの世にも差別があるのだろうか。

さて、私の宗教意識は純粋仏教でも純粋神教でもないようだ。子どもの頃、神社で「だるまさんが転んだ」をして遊び、お寺で「隠れん坊」をして遊んだ。1500年以上、日本の風土と心の中で融合してきた神と仏が「神仏」という信仰だと思う。神か仏かの二項対立は、カトリックとプロテスタントの対立のようでもあり、デカルトならどう哲学するだろうか。「我は死んだ。ゆえに、我思わぬ(Non enim puto./ノン・エニム・プート)。」とラテン語で言うのかもしれない。(2018年8月16日@nortan初盆に「あとは任せた。」と父の声が聞こえた。)

96、割り切れない

1つのものを半分にすることは可能であるが、きっちり3等分に分けることは不可能だ。1 ÷ 2 = 0.5 で、1 ÷ 3 = 0.33… だからだろう。しかし、それが袋で、中にあめ玉が3つ入っていれば、袋を開けて3人でも分けられる。つまり、割り切れないと思えても、よく中を確かめれば割り切れることもある。さて、ある袋の中を覗いてみた。立派な白い袋だった。中には、厳しい試験をパスした合格者と不合格者がいた。袋の注意事項には「子どもが受験。よろしく…」と書いてあった。別の袋を覗いてみた。煉瓦模様の三角形の袋だった。お友だちと昔お友だちだった者がいた。袋の注意事項には「記憶にない。もはや友ではない。」と書いてあった。どちらも、割り切れない袋だった。世の中の袋はこんなもんだと自棄になっていたら、目立たない場所に、ちっぽけだけどしっかりした袋があった。中には、賛成者と反対者、賛成でも反対でもない者がいた。袋の注意事項には「反対意見にも耳を傾ける。」と書いてあった。ようやく割り切れる袋に出会えた。この袋なら割り切れない思いを割り切ってくれるにちがいない。この袋に次の1を投げようと思う。(2018年7月16日@nortan)

91、ナッシュ均衡

非協力ゲーム理論において、戦術を変更した場合、損失となるがゆえ身動きできない均衡を「ナッシュ均衝」という。例えば、兄スズキと妹コンブが一緒に冷蔵庫のケーキを食べてしまった。後で食べることを楽しみにしていた姉タニシは頭に3本角を生やして「許さないわよ!」と二人を部屋に追いやった。その後、「誰が食べたか正直に言いなさい。先に正直に言った子は、お説教は勘弁してあげます。もう一人は2時間のお説教。でも、2人とも正直に言ったら30分のお説教で許してあげる。」と部屋の真ん中に座りこんだ場合、スズキとコンブはどうするだろうか?結論は、2人とも正直に言う。そうすれば、2時間のお説教は避けられ、おやつ抜きか30分のお説教で済む。スズキもコンブも自分だけ黙秘する戦術に変更することは、1時間30分プラスのお説教を受けることになるからだ。二人そろって沈黙すれば、お説教を避けられるのに、「相手への不信感」が強いほど、自白を選択してしまうことになる。これが、ナッシュ均衝による説明だ。一方、そんなに難しく考えたのではなく、弟妹はケーキを分けあうほど仲がよく「お姉ちゃん、ごめんなさい。」という良心で正直に話しただけだ。この説明のほうが、性善的であったり道徳的であったりする。

さて、平和もナッシュ均衝かもしれない。戦争を選択すれば、相手の反撃を受けて自国の壊滅を招く。そのため、「先に攻撃したら、ただでは済まさぬぞ」と相手より多くかつ強力なミサイルを持つ抑止力が正統化される。互いにミサイルを作らないという選択もあるのに、互いに信頼できないから消極的な平和を保っている。

嗚呼、平和は、人類が互いに信頼し合い、道徳的・理性的に進歩することで実現されていく性善的なものだと思っていた。未知の宇宙人すら信じて、人類のこと・地球の位置を示したメッセージを太陽系圏外に送ったではないか。しかし、人類の歴史はナッシュを支持している。平和が、性悪説の砂漠に一瞬現れたオアシスであってはさびしい。私たちは根本的に変わらなければいけないのかもしれない。(2018年6月9日@nortan12日の会談が平和への前進となることを願って)

90、非論理的推論

「すべての犬はワンとなく(大前提)」「ポチは犬である(小前提)」から『ポチはワンとなく(結論)』を導くのが演繹。これは、大前提が正しければ、結論は必ず正しい。次に「犬ポチはワンとなく(事例1)」「犬チビもワンとなく(事例2)」…から『すべての犬はワンとなく(結論)』を導くのが帰納。しかし、ワンとなかない犬がいるかもしれない。そして、「箱の中の動物がワンとないた(現象)」「オウムは犬を真似るとワンとなく(普遍的事象)」から『箱の中にいるのはオウムである(仮説)』を導くのが仮説形成(アブダクション)である。しかし、箱の中にいるのは、素直に犬かもしれない。論理的(logical)と同義はrational、reasonableである。つまり、正しい・間違いは置いておき「皆が納得できる理由を説明できる」ことこそが、論理的なのだ。さて、最近主流のAI技術ディープラーニング。猫と犬を見分けるまで進化し、論理的思考(logical thinking)を駆使しているかと思っていたが、「なぜそう判断したかの理由を説明できない」ことが最大の欠点であるらしい。それなら、人間がAIに勝つための唯一の方法は、演繹や帰納や仮説形成など難しい論理を駆使するのではなく、「ポチはミケに似ているから猫だろう(類推)」や「見たところ、タマは犬だ(直観)」などの非論理的推論かもしれない。人間の知能を超えてしまったコンピュータが論理的でない!これは、面白い。(2018年6月8日@nortan)

84、読み書き

読みが先か?書きが先か? 読みが先なら、書いてない文字は読めない。書きが先なら、読み方のない文字は書けない。これでは、卵と鶏パラドックスだ。(鶏が先だと科学的に証明されたようだ)さて、人類がまず手に入れたのは、音が先だった。話し言葉が生まれ、その後、文字が発明された。そして、文字が増えることで話し言葉も発展して言語となった。これが定説だろう。しかし、地球人ペット説はどうだろうか。フェルミ・パラドックスに対坑して宇宙人の存在を認めた上での仮説だ。まだ原始だった人類が、宇宙人のペットとして教わったということ。人間が類人猿で研究していることと同じだ。ならば、私たちの話す言葉は宇宙人の言葉。多少の訛りも生まれただろうが、宇宙のどこかでアンテナを広げ、地球から届く放送を研究している学者がいるのかもしれない。さて、その宇宙人の言葉は、読みが先か?書きが先か?これでは、パラドックスのパラドックスになってしまいそうだ。(2018年5月6日@nortan)

79、言語的相対論

広辞苑の新版が10年ぶりに発刊され、「無茶ぶり」などの新語が約1万語も追加された。ベンジャミン・ウォーフが唱えた「言語的相対論」がその中に入っているかどうかは確かめていないが、これは『個人の思考は、個人の使える言語に左右される』という仮説である。例えば、虹の色。昔、初めて買ってもらったクレヨンで無邪気にお絵かきを楽しんでいた頃、藍も青も紫も区別できてなかったから「我輩の辞書に藍と紫はない!」とナポレオン気取りで5色だったろう。それが今では7色(赤燈黄緑青藍紫)。我輩の辞書に、藍色と紫色が加わった。ここ数年、ニュースで映される人権運動の虹は6色で、世界標準だ。日本の藍を世界の人権運動の辞書に加えてやりたいとも思う。青は藍より出でて藍より青し。常に文明は発展していく運命のようだが、愛だけでなく藍という伝統色も大切にしたい。

昔、小学校入学時に受けていたIQテスト(7才時点での知能指数)。その後の人生の豊かさと因果関係はないため、随分前に実施しなくなった。フランスでの追跡調査では、IQが高いと判定された子どもたちの50%もが学業に失敗したり社会的に苦しんだりしていたそうだ。結局、何の意味もない指数だから、クイズ番組で取り上げて楽しむくらいの利用価値しかなくなった。そこで新しく、社会的地位や成功は、「自己を理解し、自分の感情を正しくコントロールして、他者との社会的関係をうまく構築していくコミュニケーション能力」に相関があると、EQ(心の知能指数)やSQ(社会的知能)が注目されるようになった。新版にこのEQやSQが追加されたかどうかは知らないが、知った瞬間「自分のEQは?SQは?」と心配する思考が増えた。知らなければ良かったと思っても、我輩の辞書に追加されてしまった。「ナポレオン!今のは取り消せ!」おっと、これは「無茶ぶり」。あとは、健忘に期待するしかないが、増えた言葉の数だけ思考も進化(深化)したのだろうか。(2018年1月14日@nortan)

77、事実と真実

人類が地球の住人であることは事実である。地球が太陽を回っていることは真実のようだが、何十億年も先には過去の事実になる。それでは、真実とは何か?1+1が2になることが真実だろうと結論づけようとしても、砂場で小さな砂山を2つ作って合わせれば1+1=1となる。「それは、ないやろう~。」と言っても、話の土台が違えば真は偽・偽は真である。コペルニクスが地動説を唱え、ブルーノが無限の宇宙と神の偉大さを信じ、ガリレオが望遠鏡で発見した科学という信仰も、良き疑う心を持たない者にとっては中世の異端審判と変わりない。真実(真理)を追究する科学ですら、良疑心なければ単なる事実となる。科学的には、真実は「誰からも、過去も未来も変わらないこと」事実は「今、起こっていること」と解釈できる。そこで土台を科学から哲学に変えれば、事実には「客観的」がつくことがあり、真実には「私にとって」がつくことがある。だから、事実は「ひとつ」真実は「人によっていくつも」あるように感じる。探偵アニメで「真実はひとつ!」というセリフがあるが、これは「(逆に)真実がたくさんあるけれど本当はひとつなんだよ。」ということなのだろう。私たちが事実と真実をいろんな解釈で使っていることは間違いないが、この混沌を何とか解決したい。そもそも、事実と真実は同じことなのではないかと根本的に解決を試みようとしても、事実=fact、真実=truthと受け入れられない。しばらく考えて、「どちらも私たちが追い求めているもの」と考えたが、事実は「時に、それから目をそむけたくなることもある。」と思った。そうだ。「事実と真実は違う!これが事実(真実)だ。」という解決はどうだろう。日常生活に事実や真実の追究はあまり必要ないか?また出発点に戻ってしまったが、今日は大晦日、明日からは1年の再スタート。お後がよろしいようで。(2017年12月31日@nortan)

74、最初と最後の思考

難題に出会った時、それをいかに解決しようと考えること。これを「思考」と定義する。誕生後に不安感や空腹感を泣くことで何とかしようと考えたのが「最初の思考」だったかもしれないが、泣くこと以外の選択肢を考えた記憶がない。つまり、これは本能であり、最初の思考ではない。それでは、最初の思考は何だったろうか?思考には、必然的にいくつかの選択肢が必要だ。それがなければ「運命」である。この選択肢を手当たり次第に何億通りも試行し、数秒間で最善策を見つけ出すのがAI(コンピュータ技術)である。私たちが思いつける選択肢はせいぜい数個だろうから、コンピュータをうまく使いこなせる「プログラミング的思考」が必要だという時代になってきたのも頷ける。論理的に前提条件を整理し、演繹法や帰納法、推論といった思考ツールを活用して解決方法を見つけ出す思考が「プログラミング的思考」で、決してコンピュータでプログラミングする技術ではないらしい。例えるなら、旅に出る場合、いくつかの道順と交通手段の組み合わせの中から最短時間かつ最低運賃を決定することがプログラミング的思考で、行程表を作る技術ではない。そう言えば、スマホのアプリは目的地と到着時刻を入力すれば、瞬時にその両方をやってのける。昔は、見開き地図の路線図と時刻表で時間をかけながら「何時発に乗って、乗り換えに何分、次の電車はどれにしようか…」なんて思いを巡らせていたことも必要なくなった。プログラミング的思考はプログラム言語を覚えることではないと安心したが、可笑しいことにプログラミング的思考が必要だと言う一方で、私たちの思考は益々必要なくなってきているようだ。未来は、脳に埋め込んだコンピュータがいくつかの選択肢を決定し「A・B・C」の三択や「Yes・No」の二択で難題も解決できるようになるかもしれない。それならば、私たちに必要な能力は「思考」ではなく「選択力」だ。ならば、ここ数年増える一方のクイズ番組を視聴しなから「選択力」を鍛えようと思う。ついに、私にとって最初の思考が何だったかは思い出せなかったが、未来の人類にとって「最後の思考」は「思考チップを脳に埋め込むかどうか?」になるのだろう。そんな世界を想像してゾクッとしたのは、私の「思考」のせいだろうか、それとも「本能」だろうか?(2017年12月27日@nortan)

72、数学的思考

空想の世界で友人に出会った。「3+3=3だ。」と言う。では「1+1=1になるのか?」と尋ねると「そうだ。」と言う。それでは3+3も1+1+1+1+1+1で1になるではないかと考えて…気づいた。この世界で、たし算は平均計算なのだ。そこで、「4+3は?」と尋ねると、「4+3=3+4で、私は3だ。」と返ってきた。「私は?」「あなたは、4だ。」「えっ、3.5にはならないのか?」「そうは、しない。」「しない?」また、分からなくなったので「算数の話だろ?」と問うと「ちがう。この計算は、小さい時に徹底的に教わる。私が3か4になるかは場合による。自分では損を取って相手に得を与えるからだよ。」厳密には平均ではなく、分けあい・ゆずりあい算なのだ。一緒に歩きながら他の計算についてもきくと、たし算・ひき算は『分け愛算』で、私の世界のたし算・ひき算は『自分算』ということが分かった。街並みをよく見ると、ビルの高さも凸凹でなくそろっている。現実の世界にもどる電車にも特急・普通の区別もない。この世界には、都市と地方の格差や老人の孤独死なんて問題もないのだろう…。友人と分かれてそんなことを考えていると、目覚ましが鳴り、現実の世界に戻った。私たちの世界では「道徳が教科となり、教師に『あなたは、思いやりがあるとかない』とか評価されるようになる。」と聞いた。子どもの評価を気にして、「3+3=と聞かれたら、先生の前では何とこたえるの!」なんてやりはしないかと気になったが、一方、私たちの心は押し付けに負けるほど柔じゃないとも思った。そう言えば、友人がショートメッセージで「戦争ってどんなこと?」と尋ねてきたので「一方的に強い者が、大切なことを決めつけることだよ。」と返事しておいた。さて未来の世界は、子育てと教育に…いや、社会のしくみに、いやいや、数学的思考にかかっているようだ。(2017年12月16日@nortan)

54、たし算

「ねこが3匹、犬が4匹いました。あわせて何匹ですか? 」3 + 4 = 7匹です。これができないと、小学1年の算数は卒業できない。さて、ねこが鳥になったらどうだろう。7羽?7匹?それとも「3羽&4匹」とでも答えるだろうか?また、ねこが人だったらどうだろうか?『人と犬では、計算できません』が正解だろうか。次に「男の子が3人、女の子が4人。あわせて何人ですか?」答えは「7人」にちがいないが、世界では「3人」という人権後進国(地域)がまだ存在している。肌の色を口実に妻の実家へ金品による代償を求め、妻が抗議すると命をも奪う。こんな事件が6万件以上も起こる人口第2位の国インド。動物の権利を人間と同等に論ずるような先進国では「7(単位なし)」となろうとしているのに、世界の人権意識の差はこんなにも大きい。手前味噌だが、日本語は美しい言葉だと思う反面、数え方の単位が複雑だ。サミットにも参加する先進国として人権意識も先進国だと思っているが、上記インドの現状を知り「単位」に「人権意識」を感じられる心の豊かさを持っていたろうかと自問した。40年前、幼稚園の発表劇は「チビクロサンボ」だったし、小学入学の座席や名簿はまだ男女別だった。体操服や帽子の色・形も違っていた。私の中に鈍感な部分があるかもしれない。さて、欧米から始まった植民地政策が先の世界大戦に繋がり、その反省から「基本的人権を尊重する」と宣言した民主国家が誕生した。我が国もその一員となって70年。さまざまな運動の洗練を経て、世界の人権意識も成熟してきているはずである。しかし、英国では政治家を殺害するような白人至上主義も表出した。3 + 4 = 7 という自然科学には、宇宙の不変真理を感じる一方、単位(言葉)の使い方には人の心の未成長を感じる。「車の中に大人が3人、小人が3人。あわせて何人ですか?」に「小人は3人で2人分だから、5人。定員オーバーではありません。」という計算。「行きの車に大人が1人、飼い犬が1匹。帰りはどうですか?」に「犬を山に捨ててきたから、帰りは大人1人。」という答え。「かごの中にねこが3匹、小鳥が3羽。あわせて?」に「ねこが小鳥を食べたから、3匹!」のとんちなど、身の回りには鈍感であってよいことと、敏感でなければならないことが存在している。(2016年6月18日@nortan)

51、早いもの勝ち?

アキレスと亀のパラドックスは、ハンディキャップをもらって先にスタートした亀をアキレスは絶対に追いこせないというギリシャ時代からある話。「亀のいた地点にアキレスが追いついた時、亀は必ず前に進んでいること」を無限に繰り返すからだ。確かにその通りだが、これが宇宙の真理なら、競争の世界では常に「早いもの勝ち」になってしまう。さて、亀とアキレスの間を無限に分割することができるのだろうか。距離も時間も…この話が実際には成立しないという事実は、無限分割は不可能で、最小単位が存在することを示していると考える。それを便宜上1(単位)とする。0.001でも1(×10の-3乗・単位)、必ず最小単位は「1」である。1が存在するから、1 + 1 = 2 を基本として、2や3や4が生まれる。それが積み重なって億や兆、無限大となる。だから時間も積み重なり、流れる。もし最小単位が「0」ならば、1すらも生まれず「時間は流れない」ということになる。『宇宙の始まりは0の喪失』だったのかもしれない。さて、最小単位は、1000分の1秒かもしれないし、1億分の1秒かもしれないが、確かに時間には最小単位がある。アキレスと亀は、時間階段の上で競争していたのだ。階段だから、ある単位時間後に必ず同じ段に並ぶ。そして、アキレスが追いこしていく。時間は、階段なのだ。この瞬間と次の瞬間は不連続で、階段を上るごとく一瞬に「ぴょん」と移りかわる。例えるなら、空間のパラパラ漫画だ。読者がその手を止めれば時間は止まるのかもしれない。現在、物理学者も「時間は存在しない。」とか「非連続である。」と考えはじめている。読者である神様から見れば、私たちはロボットのように動いているのだろうか。確かに年齢のせいか、膝や足首の動きがかたくなってきた。痛みがあると亀のような動きになる。時間が止まっている間にアキレス腱に潤滑油でも差してもらえないだろうか。うむ…アキレスと亀の話は、こういうことだったのか!?(2016年6月13日@nortan)

49、懺悔

懺悔(ざんげ)という言葉を知ったのはバラエティ番組で、水をかぶせられたり桶が落ちてきたりする演出だった。それが、自らの罪の告白で魂の救済を求めるキリスト教の文化だと知ったのは、しばらく経ってアメリカ映画を見るようになってからだ。さて、宗教的な視点は横に置いて、親が子どもに「正直に言いなさい。」と白状させるのも一種の懺悔である。圧力に屈するか親の愛を信じて、子どもが正直に答えるとする。その後の親の姿勢には2通りあるだろう。「よく正直に言えたね。次は正しく行動するんだぞ。」とその反省を受けとめるのがひとつ。そして、もうひとつが「嘘が許されるのなら、神様なんていらない。反省しなさい。」と叱りつけ、お仕置きをする。親の愛情の幅には、こんなにも広い格差がある。自主性の尊重だとか厳しさだとか、親の立場での理由づけはできるが、子の立場からしたらどうだろうか。「うちの親は甘い。正直に言えば何でも許される。」かもしれないし、「うちの親は、結局正直に言っても言わなくても同じだ。」かもしれない。前者の親の言葉に「正直に言って良かった。」後者の親の言葉に「厳しく叱るほど自分のことを大切に思っていてくれたんだ。」と子どもが感動し劇的に成長するというほど『躾(しつけ)』という名の家庭教育は簡単ではない。北海道で親に置き去りにされ行方不明になっていた子が発見されたというニュースに安堵させられるとともに、親という責任について考えさせられた。新聞は「虐待だ。」とか「とても子ども思いの親だった。」とか勝手に水をがぶせているが、親子の関係は神のみぞ見ているのだろう。過去にもどってやり直すことができるのなら、思いっきり叱ってやりたいだとか、思いっきり抱きしめてやりたいだとか、そういう後悔を心の中に積み重ねることで、親も成長させ(躾)られているのだと思う。暗く狭いボックスの中で懺悔するのではなく、子の笑顔が親にとって一番の救済である。無事でよかった。(2016年6月4日@nortan)

47、キリンの首

①「キリンの首は、どうして長くなったのか。」この発問は、間違っている。それは問いの中に「昔は短かったが」という暗黙の前提が含まれているからだ。そもそも、首の短いキリンが化石として発見されてはいない。また、キリンは水を飲む時、5mの高さから0mまで頭を上下させる。その時に目まいを起こさないように後頭部の毛細血管が発達しているそうだ。同様な形質がオカピーにも見られることから、首の短いキリンはオカピーだったと考えるのも間違いである。短い首から長い首に進化したのなら、その間に中くらいの長さの首のキリンが存在するはずだが、その証拠も発見されていない。キリンは、初めから首が長かったのだ。だとすれば初めの問いは、②「キリンの首は、なぜ長いのか。」となるべきであるが、実は、これもよろしくない。やはり「長いのは、一般的でない(変だ)。」という感情が入ってくるからである。キリンにしてみれば「どうして、人間の首は短くて変なのか。」と思っているにちがいない。結局、初めの問いは③「キリンの首は長い。それが、どうした?」となり、「そんなことは気にしなくてよい。それが、キリンだ。」が答えとなる。人は少なからず、他人と自分を比べて「私は、どうして○○○なのか。」という悩みに明け暮れている。そんな時は、久しぶりに動物園に足を運び、キリン舎の前で尋ねてみよう。5mの高さから「首が短いなんて気にしなくてもいいよ。それが人間なんだから。」と励ましてくれるに違いない。それでも元気が出ない場合は、ゾウ舎の前で……。動物園は、自分を見つめる場所だったと気づかさせられた。(2016年5月22日@nortan)

33、新しい時を刻む

善と悪、男と女、大人と子ども、陰と陽、できるとできない、プラスとマイナス。数え上げるときりがない人間得意の2択思考である。1日も12時間ずつ午前と午後に分ける。「自分たちが昼に活動している時、裏側の人は夜だから眠りについている。」ということだろう…いや、労働時間は基本8時間。だから、働いているのが8時間、睡眠が8時間、残り自由選択(クリエイティブ)?が8時間。『地球も、1日を8時間ずつ3等分して回っている。』と考えたらどうか。例えば、1日の出発を日本(JP)とする。8時間遅れで同時刻をむかえるのがフランスのパリ(E U)である。さらに、8時間遅れでアメリカの中部デンバー(US)となる。そして、8時間で日本に戻る。ざっくり考えると、地球の活動時間は、日本(アジア)が労働時間の時、EU(ヨーロツハ°)が睡眠時間、US(アメリカ)がクリエイティブ時間。世界株取引市場とも一致する。pmとam分けやめ、8~16時をwt(8 working time)、16~24時をct(8 creative time)、0~8時をst(8 sleep time)とする。10:24 amは 2:24 wtで、8:00 wtになったら残業をせずに 0:00 ctに切りかえる。残業をによる疲労感に悩む私たちにとってナイスな提案である。LGBT、モラトリアム、グレーゾーン、2乗してマイナスになる虚数の存在など、世界も様々なことが2択思考では解決できないことに気づきはじめている。日本は昔(いにしえ)より「どちらともいえないもの(中道)」に寛容であった。グー・チョキ・パーとどれも強いとする3巴も勝者をどちらかに決めつけない相互尊重文化である。世界中の時計が 8st → 8wt → 8ct 表示になったら、平和の秒針も時を刻み始めるかもしれないと、成人の日に想像してみる。(2016年1月11日@nortan)

20、無知→未知→不可知

立体パズルも100円均ーショップで良品が購入できるようになった。伸び盛りの頭脳は、2か月ほどで揃えられるようになってしまう。悔しい気持ちと中年頭脳活性のために、それより難解な4×4×4の立体パスルを覚えてやろう。早速ネットの力を借りて、ソクラテスの知「無知」の知からは解放された。既知の3×3×3のパズルに直して揃える解法を選んだ。ところが、最後に2枚のキューブが反転してしまうことが多い。それを揃える方法も公開されているが、3×3×3のパズルでは絶対にあり得ないはずと、納得できない。これはもうスピルバーグの映画「未知」との遭遇だと、その理由を想像する。3→4になったことで次元が増えたせいではないか?もはや4次元の世界。2次元(平面)上の正方形を3次元(空間)に発展させると立方体となる。その立方体を4次元に発展させると…どんな形になるのか?的を得たか、得ぬか。もはや「不可知」なり。不可知とは、ダーウィンの進化論を猿と人間の骨格比較で擁護した英国生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリーの論。彼は、ダーウィンの番犬とも称される。人知を超えて知ることができないことは、信仰するしかない。嗚呼、哲学者たちよ。あなたならこれをどう解決するか。再度立体パズルを回しながら「今度こそは、揃いたまえ。」と祈る私を下から見つめるムクは、何してる?と無知の表情。名前をソクラテスとしておけばよかった。(2015年12月12日@nortan)