193、忘れられる存在

水槽の8割を占めていたウィローモスを半分ほど取り除いた。水量が少し減ると、水中でモスにからまり溺れそうになっていた魚たちも、広くなった水域に喜んでいるようだ。循環ポンプのフィルターもきれいになり、濁りきっていた水の透明度も上がってきた。

20年程前に設置した60cmの水槽。ガラス表面の傷も増えてきたが、青と赤の鮮やかなネオンテトラを中心に、大型魚の餌になることを救われたヒメダカなど、その住民は入れ替わってきた。現住民である金魚のピンとパールは、朝夕に私の姿を見つけると、水面でパクパク口を鳴らして餌を求めてくる。

「よしよし」と思っていた時、砂に埋まりかけているガラス容器に気づいた。以前、水質が悪化した時に何処からともなく現れ、あっという間に水槽世界を占領してしまったプラナリアを除去するために沈めたトラップだった。プラナリアのせいで、折角救われたヒメダカも絶滅してしまったのだ。

そのプラナリアも、増えすぎる傾向にあるヒラマキガイに駆除されたのだろうか?水質が改善されて住みにくくなったのか、いつの間にか消えてしまっていた。

半年ぶりに水槽掃除をするまで、そのことを忘れてしまっていたのだ。

だんだん透明になっていく水を見つめていると、

「私たち人類が、この地球の住民であったことを忘れないでください…」

そんな小さな声が、遠い未来から聞こえてきたように思えた。

(2020年1月4日@nortan 案外、近い未来からだったかもしれない)

185、蛹化

「青虫は何でできているの?」「たくさん食べた葉っぱでできているんだよ。」「青虫はどうやってチョウチョになるの?」「さなぎになって、空をとぶ夢を見ている間に、天使が葉っぱを背中につけてくれるんだよ。」

昆虫は4億年前、両生類より4000万年早く陸に上がった。蛹(さなぎ)を経て成虫となる種は、3億5000万年前に誕生していたと言われる。

この幼虫から成虫への完全変態、つまり蛹化(ようか)は神秘的だ。数回脱皮して巨大化した青虫が突然動かなくなったと思えば、しばらくして外皮の中が変色してむにゅむにゅっと動き出す。そして、割れた背中から皺くちゃのやわらかい成虫が出てきて、重力で羽を広げた後に見事な蝶となる。私たちホ乳類には真似のできない技、リアルポケモンである。

しかし、この蛹の中で起こっていることの仕組みは解明されていない。ただ、神経を除いた組織がドロドロになり、新しい組織を再構成しているということは分かっている。だから、蛹に振動を与え続けると成虫にならずに死んでしまうのだそうだ。

それにしても、あのシンプルな形の青虫のどこに、精密で美しい蝶のパーツの設計図が隠されているのだろうか。もし、人類も5000万年かけて進化すれば、そんな能力を身につけて羽ばたく生物に変態できるのだろうか。

「人間は、どうやったらチョウチョになれるの?」

これは難問だ。しばらく布団に包まって、頭の中を蛹化(ドロドロ)して蛹化んがえたら、気の利いた答えを思いつくかもしれないが、

とりあえず、

「たくさん人の役に立つことをしたら、最期に天使が背中に羽をつけてくれるんだよ。」と答えておこう。

(2019年10月23日@nortan)

174、小豆

「あずき」は和語で、大豆に対する読みは「しょうず」である。五穀に含まれたり含まれなかったりするが、古くは、紀元前4000年前の縄文遺跡からも発見されている。大豆と同じく随分古くからの日本食であるが、全く異なる品種だ。しかし、野生種のヤブツルアズキを高級小豆「大納言」にまで品種改良し、砂糖で甘く煮て和菓子として食べまくるのだから、日本は大豆に負けないくらい小豆大国である。

大豆は植物性タンパク質の多さから「畑のお肉」とされるが、小豆にはサポニンの血糖値抑制効果やポリフェノールの抗酸化作用など幾つかの薬膳効果が確認されている。ゆえに「畑のお薬」と命名してよいだろう。白砂糖にさえ気をつけて、餡子をもっと食べれば、健康寿命でシンガポールを追いこして世界1位になれるかもしれない。

さて、万葉歌には「小豆無(あずきなく)」がみられる。「味気無(あじきない)」の古い形で「満足できない・相応しくない・不当である」の意である。

そういえば子どもの頃、赤飯の小豆を一粒一粒取り除いて食べていたことを思い出した。(フルーツ缶のみつ豆も然り)本来、赤飯は赤米であり小豆は入れてなかったのだから、取り除くのは発祥的には正しい。赤く染めるためだけに白米に混ざった小豆は「小豆無い(相応しくない)」である。しかし、年を重ねれば、赤飯に小豆の苦みがないのは「味気無い(満足できない)」だ。薬膳効果を疲れた身体が求めているのかもしれない。

そこで明日から毎日、和菓子を食べまくろうか?三食を赤飯にしようか?あずきバーを朝夜食べようか?と考えていたら、小豆(上手)に食べなければ、過ぎたるは猶及ばざるが如しと気がついた。兎に角、コーヒー同様、苦みの分かる大人になったことは間違いない?

ダバダー♪ダバダー♪ウー♪

(2019年9月29日@nortan)

167、川の魚

久しぶりの山の自然。川に渡された小橋の中に立った。昨夜まで降り続いた雨で、少し勢いのある水が岩間を泡と音を立てながら、上下左右と流れ下ってくる。

ここに来ると、いつも川上を見ている。くるりと回れば、少し緩やかな去りゆく流れを見れるのに…まるで、川を登る魚のよう。橋に立ち上流を眺めるのは、遺伝子に刻まれた「魚の記憶」か?音に反応し危険を回避する「動物の本能」か?それとも、時の流れに逆らい「過去への追憶(ノスタルジア)」か?こんなことを考えながら、半転してみた。何だか不思議な感覚、この先どこに行き着くのかという不安と同時に、静かな死を感じた。下流には生命の誕生にとって、母なる海が広がる。川魚が、そこに流されることは死を意味する。

私たちは死んだ後、川魚に生まれかわって、時間の流れを遡るのかもしれない。鱗は、頭から尾に向いている。流れに逆らうことは運命だ。そして、時の上流まで泳ぎついたら、再び私の時間を生き直す。

さて、久しぶりだと感じた橋の上。実は、何億万回も立っていたのかもしれない。そして、上流へと遡る「魚の私」に、ノスタルジジックに語りかけていたのだろう。「今度は、もう少し器用に生きろよ。」と。(2019年7月25日@nortan 人生が繰り返されているなら、何を学んでいるのだろうか)

162、堂々巡り

花が咲かなければ、実はできぬ。

実が育たなければ、種もできぬ。

種を植えなければ、花も咲かぬ。

これは、植物の堂々巡りだ。

堂々巡りとは、言葉が示す通り、お堂を回り続けること。転じて、同じような思考や議論が繰り返され、少しも先に進まぬことを例える。いったい、植物は何を考えているのだろうか?

花を咲かせる種子(顕花)植物は、人類誕生の遥か昔、2.5億年前から「花実種…」の堂々巡りを繰り返している。しかし、この堂々巡りに不可欠なものがある。虫媒としての昆虫だ。例えば、蓮は、花托がハチス(蜂の巣)を模していることからハスと呼ばれるようになった。つまり、媒虫のミツバチなしで、阿弥陀様も極楽浄土を維持できない。

最近ドイツのアマチュア団体が30年に渡り収集した科学的データを公表した。「確実に、昆虫が恐竜のように絶滅に向かっている。40%の昆虫が危機にあり、それが毎年1%ずつ増えている。」と言う。単純に計算して、あと60年で地上から昆虫がいなくなってしまう。そして、花は実を育てられなくなり、2.5億年の堂々巡りも終わり時をむかえる。

さて、堂々巡りは願い事を叶えるために行った儀式である。植物は、何を願って巡っていたのだろうか。昆虫との別れだろうか。昆虫を必要としない繁栄だろうか。ひょっとして、人類も…。植物たちに「お前たちは必要ない。」と思われていないか、道端の花に尋ねてみなければなるまい。(2019年7月15日@nortan 考えてみれば、私たちも堂々巡り…)

113、ラムズホーン

水槽に増殖し過ぎた貝を、ピンセットで駆除し続けた。すると、ガラス内面に緑色のこけが増え始めた。そこで、昨日までに捕獲した十数匹を戻すことにした。あらためて調べると、イシマキだと思いこんでいたその貝はヒラマキガイ科のラムズホーンだった。雌雄同体で自家受精もする。プラナリアに負けぬ生命力。ヒトと同じヘモグロビンをもつためアルビノは赤が映え、レッドラムズホーンと呼ばれる。(同じ赤い血が流れる兄弟だ。)驚くことに、空気呼吸用の肺ももつらしい。道理で、1日以上水槽の外に置いてあったはずなのに「水を得た貝」のように元気だ。主に草食だが、死んだ小魚を食べることもある。適数であれば、水槽の管理人。増え過ぎれば、厄介者。また、緋メダカが10匹300円程なのに、レッドラムズホーンは5匹800円以上で販売されることがある。このまま水槽を占有させ、100億匹を越えたあたりで色を選別し、一儲けとでもいこうか。と、ここで貝ごとでなくなってきた。ひょっとして、人類も地球で…我々は、管理人か?厄介者か?ある日突然、天上から巨大ピンセットが現れて摘まみ出されるかもしれない。そんなことを空想していると、眠れなくなりそうだ。今晩は角の羊(ラムズホーン)を、1頭、2頭…と数えて眠りにつこうか。(2018年10月15日@nortan水槽問題が続いたが、地球も水の惑星に違いない)

112、プラナリア哲学

メダカの水槽に害虫が発生した。随分、水質が悪化したようだ。水替えをサボり、水草との自然循環に任せていたせいで、我が家の緋メダカは二度絶滅した。今は、金魚と繁殖した巻貝、ヤマトヌマエビと害虫の共生状態である。

害虫とは、生物の授業で学んだ「プラナリア」である。半分にしたら2個体に増殖する不思議生物だ。最初は、試験管にストローのような入口を作ったプラナリアトラップも効果絶大だったが、3度目以降には殆ど捕獲できなくなり、トラップは水中のオブジェとなってしまった。そこで、時々ガラスを這っているのを見つけると歯ブラシで擦ってやるが、ひらひらっと水底に舞い落ちては、また這い上がってくる。私の完敗。逞しい生命体。宇宙生物との戦いのようにも思えてきた。プラナリアに思考力はあるか疑問だが、それなくして人類(私)には勝てまい?

そこで、プラナリアの思考を試みた。ある日、自分が2人になる。どちらも元私で、「私がオリジナルだ。」と主張する。「頭部だった私がオリジナルだ。」「面積の大きかった私がオリジナルだ。」「昔のことを覚えている私がオリジナルだ。」「子どもの頃、転んだ傷が残っているのがオリジナルだ。」「失恋のいたみを忘れていないのがオリジナルだ。」「将来の夢を語れる私がオリジナルだ。」と言い合う。そもそも、私意識って何だ?個体か?歴史か?目的か?そう考えていたら、プラナリアが語りかけてきた。「プラナリアに、私意識はない。我々は統一意識生命体。人間には理解できない。(例えるなら、スタートレックのボーグに近い。)皆が潜在的に繋がっている。私は、共有意識の一部だ。1人ひとりは、単なるコピーだ。人間は、まだ『共有意識』に気づかず、○○ファースト!と利己主義的に資源や富の争いをしている。功利主義(最大多数の最大幸福)を正当化し、多数強者が自分自身でもある少数弱者を切り捨てている。他者と意識を共有できない70億分の1の意識との水槽戦争に、我々共有意識は負けない。早く、アダムとイブのコピーであることに気づくことだ。ははははは…」

分裂増殖しているのは、プラナリアの方なのか人類の方なのか分からなくなってきた。ひょっとして、害虫は…?想像はここまでにして、まずは水槽の水替えをこまめにしよう。(2018年10月14日@nortan)

87、アイアイ…

アイ・アイはお猿さんで、Ⅰ・Ⅰは私。AI・AIは、人工知能。さて、自動車の運転もレベル3に入った。レベル0は運転手100%で、レベル5AI100%。レベル3はちょうど中間地点入口で自動運転最初のレベルである。高速道路などの特定の場所でAIシステムが全てを操作し、緊急時は人間が操作する。レベル4では緊急時もAIが対応するようになり、レベル5では全ての場所でAIが運転してくれるようになる。助手席という名前だけが残っているように、運転席という名前も残るのだろうが、いずれ左右のどちらがどっちなのか分からなくなるだろう。レベル5が最終設定レベルなのだが、安全は100%だろうかと問われると、「そんなことはない。」と思う。洗剤コマーシャルなどで「汚れを99.9%落とします。」と言うようになったのも、例外に備えるリスクマネージメントのためだ。「100%そうだと言えるのか!」が人の信念を揺さぶる常套句であるのもそうだ。私たちの心の中には「100%を信じられない自分」と「例外を信じたい自分」が住んでいる。だから、自動運転100%になっても私たちは車窓の外に目を凝らし、この0.1%の不安とつきあわなけれはならないのだろう。そうなれば、助手席や運転席は「注意席」とか「もしもの席」と名前を変えるのかもしれない。もしくは、自動運転の運転席に、もしもの時に備えて人間型のAI運転ロボットが座り、そのAI運転ロボットのもしもに備えて助手席にAI助手ロボットが座り、そのもしもに備えて後部座席にAIサポートロボットが座り…となるのかもしれない。それでは、AIAIAIAIAIAIAIAIお猿さ~んだよ~などと呑気に歌も歌えない。そんなことなら私が運転する!と言っても、Afraid of I(AI)人間の不注意こそ恐れるべきだから人工知能(AI)を開発しているのではないか。またもや、無限ループに迷い込んでしまったようだ。アイアイ…鏡の国の~(2018年5月14日@nortan100%そうだと言い切れる強い自分を夢見ながら)

70、壁の物語

2匹の金魚。エサを食べ続け、6年ほどかけて手のひらほどの大きさになった。大きめの水槽に移すと、フナ型がひらひら型を追いかけるようになったので、透明な下敷で水槽の真ん中を仕切ることにした。ひらひら型を目指してフナ型は幾度も見えない壁の突破を試みた。ついには隙間を発見し、ひらひら型と並んで泳ぐことに成功した。こんなことを繰り返すうちに、透明な下敷は水を吸って白く濁り、はっきり認識できるようになった。もはや、水槽と下敷の隙間は明らかになった。役目を終え、白く縮み汚れた下敷きは取り除かれた。取り除くとフナ型がひらひら型を追いまわすことはなく、1つの水槽で和やかに泳ぐようになった。これは、金魚の恋の物語でない。「壁」の物語だ。私たちの前方にもいつの間にか「透明な壁」は現れ、それに気づいた頃には崩れ始め、知らぬうちに消えてしまう。3才、小学1年、10才、中学1年、受験、18、20、22、…、中年、…と最後の壁まで、次から次へと現われては消えていく。もしかしたら、見えない何かが、私たちを突き動かすために「透明な壁」を置いているのかもしれない。すぐに乗り越えられなくても、安心しよう。道は「上」ばかりではない。その壁と向き合っているうちに壁は縮み、通り抜ける隙間が「横」に見えてくる。時には目の「前」にドアがあり、今までの苦労と努力で手に入れた鍵で開くかもしれない。時には、天上から手が入ってきて取り除いてくれるかもしれない。さて、水槽の壁を取り除いたのは私だったが、あの時、私の壁を取り除いてくれたのは誰だったろうか。(2017年12月3日@nortan麒麟オブジェのある場所で)

47、キリンの首

①「キリンの首は、どうして長くなったのか。」この発問は、間違っている。それは問いの中に「昔は短かったが」という暗黙の前提が含まれているからだ。そもそも、首の短いキリンが化石として発見されてはいない。また、キリンは水を飲む時、5mの高さから0mまで頭を上下させる。その時に目まいを起こさないように後頭部の毛細血管が発達しているそうだ。同様な形質がオカピーにも見られることから、首の短いキリンはオカピーだったと考えるのも間違いである。短い首から長い首に進化したのなら、その間に中くらいの長さの首のキリンが存在するはずだが、その証拠も発見されていない。キリンは、初めから首が長かったのだ。だとすれば初めの問いは、②「キリンの首は、なぜ長いのか。」となるべきであるが、実は、これもよろしくない。やはり「長いのは、一般的でない(変だ)。」という感情が入ってくるからである。キリンにしてみれば「どうして、人間の首は短くて変なのか。」と思っているにちがいない。結局、初めの問いは③「キリンの首は長い。それが、どうした?」となり、「そんなことは気にしなくてよい。それが、キリンだ。」が答えとなる。人は少なからず、他人と自分を比べて「私は、どうして○○○なのか。」という悩みに明け暮れている。そんな時は、久しぶりに動物園に足を運び、キリン舎の前で尋ねてみよう。5mの高さから「首が短いなんて気にしなくてもいいよ。それが人間なんだから。」と励ましてくれるに違いない。それでも元気が出ない場合は、ゾウ舎の前で……。動物園は、自分を見つめる場所だったと気づかさせられた。(2016年5月22日@nortan)

46、小鳥

「とにかく目標を達成しろ。やり方は、お前たちが考えろ。」これが日本が誇る会社の経営トップの言葉として真実なら、その企業は謝罪会見という絶滅を待つしかなかったのだろう。「競争なき社会は、堕落をもたらす。」「世界を相手に勝ち残る力が必要だ。」と単に競争を煽る風潮。「性能はより便利に、価格はより安く」というプレッシャー。圧倒的な格差を埋める力が自社にないことが分かった時、嘘と誤魔化しが誕生する。それは、「とにかくよい点をとりなさい。さもなければ…」と厳しく言われて、結果を出せなかった子どもがとった行動そのものである。内なる競争意識は大切でも、トップダウンの競争戦略が、結局は高い生産性をうまないという事実は認識されるべきである。何のための競争なのか。『めざすもの』は何なのか。今より世界が凸凹でMade in Japanがブランド(一人勝ち)であった疑似競争社会の頃は、競争を煽る雰囲気だけでも成果は出たのかもしれない。世界がフラットになり本当の競争社会となった今、「めざすのは○○だ。そのために必要だと考えることは何でも相談してほしい。」このように懐の広いビジョンを、トップは示したいものだ。経営者に求められる力は、権力を振りかざす傲慢力ではなく、目標設定力・推進力であり、社員に夢を見させて奮い立たせる力だということがはっきりした。そういう点でApple社のジョブズはカリスマだったのだろう。恐竜は鳥類に進化して、絶滅を生き延びた。我が国の誇るべき企業が鳥へと進化し、再出発してくれることを願う。さて、私は経営者ではないが、自分という会社の「小鳥」になろうと思う。(2016年5月22日@nortan)

39、一方的な貢献

30年ほど前から、アメリカ東海岸のカブトガニは年に60万匹ほど捕獲され、30%の血液を抜き取られて海に戻されている。3%ほどの個体は、この強制的な献血で命を落とすという統計も出ているが、「人類のために貢献できている。」と一方的評価を与えている。青色の血液が、ワクチンの細菌毒性検査試験として45分ほどで結果を出すのだ。それまでは大量に飼育したウサギの中から健康状態のよい2~3匹に、細菌が含まれると予想される溶液を注射し、体温が上昇したら汚染されたワクチンだと1日以上かけて判断していたそうだから、素晴しい発見である。そして、3億年も前の古生代から地球環境の変化にも耐え『生きた化石』と呼ばれるカブトガニは、食料として質と量、味の魅力にも欠けたことも理由として絶滅請負人である人類の時代にさえ絶滅しなかったのに、ウサギなどの実験動物に多少の安堵感を与えつつ、今絶滅に向かい始めているのかもしれない。ちなみに、瀬戸内海に生息する日本カブトガニは干潟の減少等を理由に絶滅危惧種である。また、同様に生きた化石であるゴキブリは国立虫類環境研究所によると1兆匹、人類の200倍の個体数だそうだ。何かしら人類に貢献できる潜在能力を発見しない限り、絶滅への道は遠い。いや、人類の生息環境がゴキブリに貢献しているのかも…と考えて、「400万年前から、人間はゴキブリのカブトガニであった。1人で200匹に貢献しているとは、さすが人間!」と一方的に評価してみた。(2016年5月3日@nortan)

34、アゲハチョウ

「卯月晴れの清々しい朝。1歩先の地面に、黄と黒のアケハ蝶が落ちていた。まだ小さく、新しい羽を閉じて横たわっていた。何気なく、それをつまみ拾って歩道脇の草の上にそうっとのせてやった。後ろを歩いていた子どもが『何を拾ったの?』と尋ねてきた。そのままを答えてやった。」何かいいことをした気になるかもしれないが、蝶でなく蛾だったら同じことをしただろうか。「G」と命名され嫌われ者のゴキブリだったらどうだろうか。と考えた。ちなみに、蝶と蛾は系統分類学的には明確に分けられず、蛾の一部を蝶と言っているにすぎない。全て蛾であり、「美しい」と思う者に「チョウ」という別名を与えているに近い。もちろん、Gも昆虫の一部であり、人間が「気味悪い」と思うゆえに、一般的に昆虫採集の対象とならない。考え方によっては、人類に変に好かれない道を選んだ昆虫といえるが、地球上では人類の方が随分後生まれである。さて、私たち21世紀の人類は過去の学びからヒューマン・ライツ=人権という考えを確立し大切にしている。人間の権利を人種・老若男女・信条・肌の色等で区別しない思想と理解する。先日、アゲハ蝶をつまみあげた話をしたら、一部「チョウとガを区別できないなんて、…」という皮肉として返ってきたりもした。「そもそも、人権は人でなければ関係ない。」そんなことのようだ。そもそも『思想』のあやうさを感じずにはいられない。蝶と蛾、人間と動物、好きと嫌い、なかまと他人。これら全ての判断基準が人間次第なのだ。一度Gのラベリングを与えれば、過去の過ちを繰り返すこともためらわないかもしれない。SF映画などで、一撃で倒される悪役生物の外見は、私たちの「好きなもの」基準からはずれてメイキングされている。地球が存亡の危機に直面した時、もし救生主となる知的宇宙生物が宇宙船で現れ、Gの外見をまとっていたら…。最近は、西洋から動物の権利も人間と同様に考える思想的広がりもあるようだが、未来の私たちの思想はどこまで成長できるのか。勝手に深刻になりすぎたので、ここで「Gのみぞ知る」と駄洒落て、神の姿は…と思いをめぐらせる。(2016年4月24日@nortan)

27、動物の権利

もし、近所の大蛇がペットのチビを丸飲みしても、腹を切りひらいてチビを取り出しきれいに洗って返すか、他のチビ?もしくは金銭の弁済での解決となる。ペットは法律上は物として扱われる。「チビは、私にとって人間同様だ。」それでは納得できぬと動物愛護法を調べてみると、正式名は「動物の愛護乃び管理に関する法律」(1973年)。目的は、動物虐待の防止によって生命尊重・友愛・平和の情操を育てること(教育的側面)と動物による人や財産への危害を防止すること(安全・財産的側面)の2つ、2013年改正ではぺットを死ぬまで飼いつづけることなど飼い主や業者の責任・義務が強化されているが、人間としての規定はない。チビはいつペットから人間になるのだろうか?縄文時代の貝塚から、犬や猫を食べていた形跡が見つかっている。仏教伝来で家畜を食べる習慣はなくなったが、武士の時代になると鹿や猪同様に狩りの結果として食べられることもあった。そして、徳川綱吉が有名な動物愛護法「生類憐みの令」を出して以降は、犬はようやくペットとしての地位を確立していったらしい。これを知ったら、大陸の犬たちは羨んで日本海を渡ったかもしれないと想像するが、将軍によって神様扱いとなっても、まだ人間同様になった訳ではない。古代ギリシャ時代、ピタゴラスも信じていた密教オルペウス教では「人間は悲しみの輪として(人間を含めた動物への)輪廻転生を繰り返す。この輪を解脱するために道徳を重んじよ。」とされていた。そもそも人間は大昔から、動物の中に人間性を感じていたのかもしれないと思う。オーストラリアの哲学者ピーター・シンガー。最も影響力のある現代の哲学者と言われる。彼は著書『動物の解放』(1975年)で「人間も動物も苦しみを感じることができる。ゆえにそれを避けるという同じ利益を所有する。」「人間の小さな利益のために、動物の大きな利益を傷つけてはならない。」と人間の権利と対等だと主張した。そして、肉類・乳製品・卵を食べないだけでなく、蜂蜜もとらず、皮革製品、ウール製品も使用しない完全なベジタリアン(ヴィーガン)を実行している。(ちなみにベジタリアンは、乳製品は食べるとラクト・ベジタリアン、卵も食べるとラクト・オポ・ベジタリアンというように分類されるそうだ。)この『動物の権利』という考えで、ようやくチビも救われるような気がする。チビは飼い主と出会った時から、人間と対等であったのだと納得した。私はヴィーガンにはなれないなあと考えて、ふと気づいた。大蛇の『動物の権利』はどうなるのだろう…(2015年12月26日@nortan)

22、恐竜の再発明

コンビニエンスストアのレジ横、この頃は唐揚げや焼き鳥串などの調理肉をよく見るようになった。その匂いと空腹に誘われて、時折缶コーヒーと一緒に購入してしまう。食肉鶏ブロイラーは、この50年で1日の成長率が25gから100gの4倍になったそうだ。成長しつづければ100日で4kg、1年で約15kg、20年後には約300kgとならんばかりの成長スピード。「恐竜の再発明」となる勢いだ。そうならないのは、40~50日(一般のニワトリの1/3の期間)で2kgの鳥肉として出荷されるからだ。誕生から1か月半で食肉となるスピードは、飼育というより裁倍である。一方、採卵用の鶏(養鶏)はレイヤーと呼ばれ、成長しても肉薄なので、ヒヨコの段階で雌雄選別され雄は処分されてしまう。生き残った雌も狭いケージの中に2羽1組で閉じ込められ、1年間卵を搾取された上でほとんどが処分されてしまう。私たちの知らぬ所で起こっている鶏の大量絶滅である。子どもの頃、動物ドキュメンタリー番組で親鳥の隙を見て卵を奪いに来る肉食鳥やハ虫類を見ると悪者と思ったが、事実は違うようだ。どうやら、ニワトリに生まれ変わる可能性を排除できないなら、「鳥に生まれ変わって、空を飛んでみたい。」なんて思わぬ方がいい。(2015年12月15日@nortan)

12、地質年代

地球の年齢は、地質学の発展で約46億年と推定されている。200年ほど前まで定説であった「6000年ではあまりにも短い。」それに気づかせたのは山頂で発見された見殻の化石である。化石は、様々なことを教えてくれる。地層の学習を興味深くするため、地質年代についてKeynoteを作成した。46億年のうち40億年は冥王代・始生代・原生代と続く無生物時代、その後の6億年が古生代(6つの紀)・中生代(3つの紀)・新生代(3つの紀)と続く生物進化の時代とされる。小学(6年間)中学(3年間)高校(3年間)に例えると覚えやすい。人類の時代は第四紀、最後の約300万年間(高校3年)である。作成したKeynoteの最後の問題は「今まで、大量絶滅は何回あった?」答えは、オルドビス紀末(小2)デボン紀末(小4)ペルム紀末(小6)三畳紀末(中1)白亜紀末(中3)の5回。生物は、これらの危機を乗りこえることで進化を遂げてきた。なんだか子どもの成長の危機とも重さなり、絶妙な例えとなった。また、それはほぼ1億年ごとに起こっていて、白亜紀末の恐竜絶滅が約1億年前だという事実は「明日にも…」の危機感を抱かせる。一方、人類の活動で既に始まっているという説にも納得させられる。このまま高校3年に残留するか、オルドビス紀から5億年以上も種を繋ぐオウムガイのように生きた化石となって進学するか、人類にとっては思案のしどころである。200年前の地球6000年説を信じるなら、絶滅は関係のない話ではあるが、山の貝は殻を閉じるかもしれない。(2015年11月29日@nortan)

6、ノジュール

泥岩の地層の中にぽっこりと突き出した石の塊、地層が削れると川に転がり落ちる。少し黄色みがかっていて木目が細かいので見つけやすい。中には高い確率でアンモナイトなどの化石が入っているので通称「化石のタイムカプセル」。収集家にとっては周知の事実だ。そうなるのは化石から染み出た炭酸カルシュウムが周囲より堅い球体を作るのが原因だそうだが、球体になるのはアンモナイトが海底に巣を掘る習性を獲得し、絶滅とともに化石となったからだとの主張もある。一方、オウムガイが今も生きた化石として存在しているのは、巣を作らずに海中を漂っていたからだそうだ。アンモナイトにとっては自然淘汰の進化であったはずだが…。私たちが絶滅して化石となるなら、どんな形のノジュールに包まれるのだろうか。見渡せば、住居や車など四角い箱に囲まれて生活しているのが私たちの文明なのだから、箱型のノジュールに閉じこめられるのだろうか。それとも、アンモナイトとは反対に硬いノジュールを捨てて、未来にも生き残り続ける道へと習性を変えることができるのだろうか。(2015年11月19日@nortan)

4、睡蓮

印象派の流れを創ったフランスの画家の展覧会が始まった。クロード・モネは、光と色彩の変化を追究した「光の画家」である。妻をモデルに「緑衣の女性」と対比して「ラ・ジャポネーズ」を発表したり、自ら手がけた「水の庭」に日本風の太鼓橋を渡したりするなど、日本の風物に魅せられていく。池の周囲には桜や竹、柳や藤も植え、睡蓮も日本から取り寄せたそうだ。睡蓮は、日本では未草(ヒツジグザ)とも呼ばれる。地下茎から水面に葉を伸ばし、夏~秋に白い花を水面に伸ばして咲かせる。ヒツジの刻(午後2時)ごろに花を咲かせるが、夜になると閉じて睡眠する。ゆえに、「水」蓮ではなく「睡」蓮である。3回ほど花を開いた後は、散るではなく、閉じたまま静かに沈んでいく。仏様の台座である蓮(ハス)との違いでもあり、日本の代名詞である桜の散り際とも対比できる。「桜、舞い散る。」「紅葉、舞い散る。」と圧倒的色彩を放つ風物ではなく、静かに白い花を水面に咲かせ、静かに消えていく睡蓮をモネは愛したのだろう。晩年は、それしか描かなかったと言われる睡蓮の連作は200作品にものぼる。モネの商売上手もあって、世界中の美術館や個人収集家のもとに存在する。モネは遺言として、「睡蓮」を展示する時は自分の他の作品と一緒に展示しないこと、作品と人の間に物を置かないことの約束を残した。先日より仏国では、夜も眠れぬほどの騒動である。日本の学生もホテルで外出禁止となり、美術館等の公共施設も閉鎖と聞く。モネの肖像画が「睡蓮連作を世界中から集めて、鑑賞してほしい。」と語りかけてくるようだ。人と人の間の垣根を取り払って。(2015年11月15日@nortan)