195、シムさん

2週間ほど、シュミレーションゲーム「SimCity」にハマってみた。City規模によって種類に差はあるが、原材料は無限にあり、それを工場で加工して建物を建設し、Cityを大きくしていく。住人が増えていくと税収も増える。また、住人であるシムたちの「水がないので、トイレが流せない!」などの呟きに応え、道路や上下水道などのインフラや公共施設を整備していく。これらの公共事業がうまく進行していればシムさんの満足度も増える。そして、「最高の市長だ!」なんて言われて、いつの間にか「自分は素晴しい政治家だ。」なんて気持ちになってくる。

画面には建物や車両の往来だけでなく、ピンチアウトしてみると住人シムが歩道を歩いているのも確認できる。それ以上拡大できないので小さな線であるが、車に劣らぬ速さで移動しているので人間でないのかもしれない。先日「渋滞が多い。道路を拡張してほしい。」という訴えがあった。オプションで通貨を購入すれば良いのだが(それをせずにゲームを楽しむと決めているので)、有無を言わさずそのビルを解体してやった。千人近いシムたちが私のCityから消えたが、結果「最高の市長だ!」という呟きと同時に、再び満足度が回復しはじめた。

住人シムが人間でないと思えば、市長として傲慢な権力を振るうことは心安い。不満シムたちを排除し、他Cityを訪問した時に貰えるお土産のアイテムや財を増やしてCityを大きくしていこう。あと数か月も続ければ、他の地域もアンロックでき、偉大な大統領にすらなれるかもしれない。

近頃、シムたちの「カジノを建設して、…」の呟きが出るようになった。どうしたものか?まずは、反対シムたちの排除だ。それから、他Cityからもらったアイテムを蓄えて…

SimCityは、本当によくできたシュミレーションゲームだ。

(2020年2月1日@nortan)

194、大母音推移

1400年から250年以上かけて起こった英語の発音変化である。グーテンベルクの活版印刷技術と重なって、綴りと発音との間に乖離が生じてしまった。原因は、黒死病で庶民の発音が優勢になったからとだか、口を大きく開けて発音しなくなったからだとか言われている。

name ナァーメ→ネェィム、

time ティーメ→タァィム、

home ホォーメ→ホォゥム、

now ヌゥー→ナァゥなど、

古英語は、現代英語とは全く異なる言葉だったようだ。しかし、面白いのは(アー)はエイ、eː(エー)はイー、iː(イー)はアイ、oː(オー)はオウと、推移がA(エイ)E(イー)I(アイ)O(オウ)の読みに一致していることだ。

さて、日本語でも口を大きく開けない「省エネ発声」が流行すれば、この推移は起こるのだろうか。もしもを考えてみた。

「母さん→けいさん、兄さん→ないさん」しっくりこない。「父さん→とうさん」もう起こっている?「姉さん→兄さん」これは、大変だ。

日本中が瞬時に繋がるネット情報社会。姉さんが兄さんになることはないが、言葉は生き物。誰かが勘違いやふざけて言い始めたことが受け入れられて、数年で一般的となる「ネット推移」が起こる可能性は、逆に高くなった。「全然~ない」が、10年程で「全然~」の肯定型も認知されるようになったように…

よし、それなら是非とも推移させたい言葉がある。

ブラック→ホワイト

他人は空気→公共道徳

自国ファースト→世界協調

権力忖度→公平公正 など

しかし、これらは「発声」や「ネット」ではない根本的治療が必要そうだ。

(2020年1月5日@nortan)

192、確かめる

例えば、移動手段。徒歩よりも馬、車、新幹線、飛行機。弥次喜多さんが4日かけて東海道を歩いた距離も、電車と新幹線で3時間だ。

また、計算時間。小石数えよりも筆算、算盤、電卓、コンピュータ。最近、従来のコンピュータで1万年かかる計算を、Googleの量子コンピュータが200秒で実行したそうだ。

私たちの文明は、「より速く」をキーワードに距離と時間の未体験社会を切り拓いてきたようだ。しかし、未体験なものごとは「確かめる」ことは必要。そこで、このキーワードで私たちの進化をとらえ直してみると、デジタル文明の次が見えてきた。

弥次喜多さんが見てきた伊勢参りでの土産話を確かめるには、同じ4日かけて移動するしかなかった。それが、今は移動すらせずにコンピュータ(スマホ)で検索できる。また、筆算で求めた計算結果が正しいかどうかもコンピュータで確かめられる。これらは、デジタル文明の恩恵である。

一方、量子コンピュータの答え。これは、どのようにして確かめることができるだろうか。

結局、従来のコンピュータに計算を続けさせて1万年後を待つしかない。これでは「確かめる」の意味を『生きているうちには、分からない』に変えてしまいかねない。また、たとえタイムマシンが発明されたとしても、理論的にタイムマシンは未来への一方通行だから、「確かめる」の意味は『真偽が分かっても戻ってこられない』になってしまう。つまり、デジタル文明の次は実際には確かめられず、50%正解のようにしか言えない確率文明だということが見えてきた。そもそも、量子コンピュータは、確率ビットで演算しているのだから、やはりデジタル文明の次はあらゆることが確かめられない「probability(確率)文明」に違いない。

ところで、Googleの量子コンピュータの200秒。調べてみると、人間には既知の計算を行ったようだ。つまり、1万年もかけずに解けるものらしい。何てことだ。量子コンピュータの計算は速いのではなく、超遅い。また、温度管理ができなければ、間違う確率も高いのが真実らしい。人間の方が、量子コンピュータよりも優れていたのだ。ネクストデジタル文明は「人間復活(ルネッサンス)文明」なのかもしれない。

さて、2020年の天気はどうだろうか。スマホで確かめようか。それとも、子どもの頃のように靴を跳ばして占おうか。probably、西の空に沈む夕日を眺めて「心で感じる」のが良さそうだ。

(2020年1月3日@nortan 元日の旭にルネッサンスを感じて)

187、中村哲さん

社会の病気を治す。そのために、この国には安全な水と農業のための水が必要だと、聴診器をショベルカーのハンドルに持ちかえたアフガニスタンの英雄は、日本の英雄でもあろう。日本よりガンダーラに近い地で柩に眠る中村さんと気丈に対面する奥様とそれを支える娘さんの映像は、日本人という共通点しかない私にも、職業を越えた生き方について考えさせてくれた。

中村さんが襲撃された理由を報じるニュースを理解すると、アフガニスタンの英雄は、同国と敵対する勢力にとっては恰好の攻撃の対象であったということらしい。中村さんもその危険を承知し、決して逃げ出さなかった。アフガニスタンに骨を埋める覚悟だったと思う。私には真似すらできない。

さて、英雄の反対は「凡人」とあった。平和主義フランス作家ロマン・ロランの名言に、

英雄とは、自分のできることをした人である。 ところが、凡人はそのできることをしないで できもしないことを望んでばかりいる。

とある。まさしく、中村さんは英雄であった。

世界でも有名な日本人とか、外国人が好きな日本とか、○○ランキングとか、経済力や学力を含めて世界での表面的順位を気にする私たち。そんな限られたことにこだわらず、自分のできることを精一杯した中村さんは、やはり偉大である。せめて、その遺志を忘れずに年齢を重ねていこうと思う。

(20191221@nortan)

186、漢字 or ひらがな

物の値段は、需要と供給のバランスで決まる。同様に、言葉もそうなのだろう。

先日、職場で年上の同僚から、彼のミスを「そんなに気にしなくてもいいと思う。」と話していたら、「首を吊って死ね。」と言われた。冗談だったにしても、他人に平気で「死ね」を使える時代なのだ。何度ゲームオーバーになってもリセットできるゲームが、そんな文化を生んでしまったと思っていた。しかし、ゲーム文化は私たちの精神世界をも確実に蝕んできていたのだ。お笑いブームで、「あほ・ばか」と言われることへの免疫がついてしまったように、10年20年後の日本人は「しね」と言われても、笑って「そんなこと、するか!」と返しているのだろう。つまり、テレビやメール・SNSなどで、以前は使用することをさけていた言葉の供給が需要を上回り、使う者にとって空気のような重みになったのだ。しかし、投げつけられた側は穏やかではない。

さて、これも職場の恫喝派同僚である。彼が「『~ください』は使うのをやめませんか。『~しなさい』で十分だと思う。」と発言したのを機に、改めて「ください」を調べてみた。やはり「ください」には2つの意味があった。身分制度として上の者に懇願する意と、「です・ます」のように丁寧語として相手に依頼する意である。だから、お客様に「~ください。」と使用するのを「~しなさい。」と換言すれば大変なことになる。

そこで、官公庁としては「下さい(漢字)」をgiveの意で、「ください(平仮名)」をpleaseの意で使い分けるようにしているらしい。つまり、漢字で表記するか平仮名で表記するかによって意味が90~180度変わってしまうのだ。確かに「あほ・ばか」も「阿呆・馬鹿」とは感じが違う。日本語は、随分難しい言語だ。

ところで、先日の「死ね」も「しね」だったのかもしれない。次回があったなら、

「私の答えは、今の言葉が平仮名なら『そんな、あほな!』、漢字なら『何でそんなこと言われなあかんのや!』です。できれば、話すと同時に文字で表記していただけるとありがたいです。ちなみに、この『ありがたい』は平仮名表記です。」

と論理的に言い返すのが良策か、黙って笑っているのが良策か、無視するのが良策か?大人の対応は難しい。

(2019年12月21日@nortan 感情的な地球人は論理的なバルカン人にはなれないようだ。)

184、White lie

西洋では社交辞令としてWhite lieが根付いているらしい。かつての日本には、この文化はなかった。子どもの頃に「嘘をつくと、閻魔大王に舌を抜かれる。」と教えられて育った日本人には、嘘はBlackのみでWhiteはなかったはずだ。強いて言えば、White lieは「嘘も方便」の方便に近いが、両者は同義なのだろうか。

方便とは仏教用語で、相手を悟りの道に教え導くための嘘である。仏典の原典によると、釈迦が我が子を亡くした女性に「死者を出したことのない家からカラシの種をもらってきたら、生きかえる薬を作ってやろう。」と方便を使う。女性はどの家にも生老病死があることを悟って、釈迦の弟子となったという逸話があるらしい。つまり、方便をつける者は悟りを開いた者(仏)だけになるし、つかれた者も悟りの道を歩む。やはり、方便は嘘とは違った。

さて、私たちがつけるのは方便ではなく、嘘の方だ。西洋文化を手本にし始めた明治維新から151年目。今の世の中にはさまざまな嘘があふれている。私たちは取り入れた文化を発展させることが得意なはずだ。ならば、BlackとWhiteの2色だけでなく、カラフルな色をつけても良いかもしれない。相手を思いやった嘘ならWhite、空気を読んだ嘘ならBlue、他愛もなくかわいい嘘ならYellow、恋人の気をひくための嘘ならPink、危険な嘘ならRedなど…そのうち嘘発見能力をもち、発言のたびに変色するAIバッチも開発され、胸につけることが流行するかもしれない。しかし、着用を義務づける法律が成立することはないだろうから安心してほしい。

(2019年10月23日@nortan)

183、いろいろな問題

先日のNHKでの放送、115万人以上のひきこもり。39歳までが54万人、40歳以上が61万人。全国自治体数1741で割ると、各市町村で平均600人以上のひきこもり問題をかかえていることになる。

この問題を担当する自治体職員が、「はじめは卓球など、コミュニケーションの場を設けて呼びかけたが誰も出席してくれなかった。一人ひとりの得意な技能を生かして地域産業を活性化させる場を創ったら、参加が増えたと同時に地域からも認められ期待される活動の場に成長した。」と語っていた。115万のひきこもりには、115万通りの背景がある。社会適応問題、いじめ問題、パワハラ問題…など。しかし、このように「活躍の場」を創造することが解決に繋がる事例も多いのではないだろうか。

また、「ひきこもりに悩む家族に付け込み、悪徳な方法で法外な金銭を要求する業者も存在する。自治体主導で必要な対策を早急に求める。」というNPO法人代表の話もあった。行政が、成人のひきこもりは個人や家族の問題だとして、後手後手している間に、業勢に付け込まれたと言えるかもしれない。老後2000万円問題は自助努力と言われたが、ひきこもり問題は家族問題なのだろうか。いや、どちらも社会問題だ。

ひきこもりが問題化し始めて30年。10才の不登校問題は40才の不就労問題に、20才の不就労問題は50才の8050問題に移行している。一緒にNHK放送を見ていた我が子の「俺もひきこもりたい。」にドキッとしつつ、また「自分も…」と感じながら「1億円の貯金ができてからにしなさい。」と返事しておいた。まず、そんなことは実現しえないから、少くとも年金が支給される70歳までは働きつづけなければなるまい。

このままでは、ひきこもり問題は「ひきこもりたい」問題にも発展しそうだ。逆に「働きたい」問題はないのだろうか。そのためには「自分の力が求められている。自分でなければ…」という有用感が特効薬だろう。しかし、それは過労死問題とも表裏一体だ。近年ようやく大きく取り上げられるようになった働き方改革。どうやら問題の根っこは、そこにもありそうだ。

さて、70歳以上になっても引退できない方が幸せなのかもしれない。いつまでも社会に求められているという生きがい問題。そのためにも、自分に秘められた小さな才能に、生涯向き合い続けなければなるまい。

もちろん、向き合うべき社会問題も多いが。

(2019年10月22日@nortan 令和はどんな時代になるだろう)

181、都市開催

1964年の前回東京オリンピック。大戦の焼け野原から、新幹線や高速道路、空港など国土整備など奇跡と言われる復興を成し遂げた。国民がひとつになるための祭典でもあった。我が父は都民ではないが、パラリンピックでボランティアを務めたことを語ってくれた。

そもそも、クーベルタンの提案によって1896年に始まった近代オリンピックは、当初は万国博覧会の付属イベント的性格をもっていた。また、オリンピズムによると「都市開催の祭典」である。当初は参加国も少なく、開催地に名乗りを上げる都市も少なかったという。それが、ロケットマンが降りて立った1984ロサンゼルスオリンピックで商業的に成功して以降、8年後12年後を争う熱狂となった。確か、IOC委員の買収なんて騒動もあった。

先日、2020TOKYOでのマラソンを札幌で行うという案がIOCから提示され、東京都知事が不快感を示した。近隣都市との共催案が出た時もそうであったが、最終決定権はIOCにあるのだろうから、近年の猛暑を踏まえると、オリンピック最終日にランナーは札幌ドームでゴールテープを切ることになるのだろう。

さて、先日の台風で東京都台東区の避難所に避難した男性らが「住所は?」と問われ、「北海道」とか「ない」と返答したことを理由に入場を拒否されたこと。マラソンとは関係ないだろうが、避難所まで都市開催になったのだろうか。

オリンピックが都市開催であるのは、国家の対立(つまり、第一次大戦)への反省からでもある。しかし、万国博覧会にしても、オリンピックにしても、その他諸々の会にしても、都市開催であることが都市間の対立になっているように思う。誘致活動に尽力したのは東京都であることは確かだが、住所が何処であるかによって「国民の心に壁ができた」のであれば、56年前と真逆の祭典になってしまわないだろうか。

(2019年10月20日@nortan)

180、年寄りの愚痴

年寄りとは、自分より年長者ということ。つまり、私も年寄りであり、そうでない。前置きは、ここまでにしておく。

さて、モーニングに入った店で奥から大きな声が聞こえてきた。「わしがよー、…でよー。」どんどん調子は良くなって、言いたい放題のパーソナリティ。話に出てくる近所の人や友人がいたら聞くに耐えない話にも、娘と母が肯定感を与え、息子が頷く。しかし、如何にも楽しそうだ。「いい加減にしてほしい。ここは店の中だ。年寄りの愚痴ほど…」と思って、気づいた。自分は、あの息子ほど親の愚痴を聞いてやっただろうか。

子どもの頃、父は週末ごとに酔い潰れて帰ってきては仕事の愚痴を言い、それを聞かぬ母に「お前は、ちっとも分かってない。世間知らずだ。」と荒れることもあった。それを見て、酒に飲まれることと愚痴は家に持ち込まないと決めていた。

家庭を持ってから「愚痴を言ってもいいよ。信用してくれてないの。」と犬も喰わぬ喧嘩もしたが、問題はそこではなかった。そんな親を見て育ったのか、近年自立した子どもたちも、仕事の愚痴をもらさない。帰りも遅く、休日出勤も多い。ストレスもたまっているだろうと心配する。そして、写真の中の父に「もう少し聞いてやったら良かったなあ。」と語りかけても笑っているばかりだ。

さて、家族の形もいろいろだ。自分で決めたことは貫きたいとも思う。

結局、年寄りの愚痴になってしまった。

(2019年10月15日@nortan)

179、紅白青

饅頭・歌合戦など我が国で祝い事を中心に配色されるのが紅白である。赤を紅に置き換えるのは、赤の音が惜(せき)と重なるからだそうだ。

日本では、紅白は源氏の白旗と平氏の赤旗がルーツだとか、赤飯がルーツだとか様々に言われている。一方、世界に目をむければ、ワインが紅白である。自然醗酵酒であるワインの歴史は古く、メリポタミア文明に遡る。その後、ギリシャを通してローマ時代にワインが広まった。赤と白の違いは品種と醗酵のタイミングだ。

2015年にスペインでGik(ギク)というワインが発売されたそうだ。アントシアニンにジーンズの天然染料インディゴが合わさると鮮やかな青色になる。しかし、青はワインの伝統に反するとの抗議を受け、99%ワイン(ワインではない)という微妙な位置に落ち着いたそうだ。水の惑星地球にとって青は大切な色だ。青ワインも100%ワインと認めてはどうだろうか。

そして、平和の祭典であるオリンピックを前に、世界中の代表が、赤白に「地球の青」を加えた三色のワインで「平和と協力と尊重」の乾杯ができないものだろうか。そうすれば、Gik(ギク)惜(しゃく)した関係も改善するに違いない。

(2019年10月14日@nortan)

178、鏡映反転

鏡を見た時、左右反対になるのに、どうして上下反対にならないのかは難問だそうだ。

そんなの、目が左右についているからだと答えられそうだが、片目を閉じても左右対称になるし、首を横に傾けても上下対称にはならない。ひょっとしたら、私たちの宇宙には左右対称になっても、上下対称にはなれないのかもしれない。

そこで、「鏡映反転―紀元前からの謎を解く(高野陽太郎)」を読んだ。大昔より様々な説が出ては反論されてきたとある。その中で「反対になるのは三次元の中の『奥行き』で、左右・上下の二次元は変わっていない。」「鏡に映る自分の姿に、他人との対面経験を当てはめて考え、左右反対だと認知する。」に納得させられた。これらも文字の投影などで反証されるそうだが、実は反対になっていたのは「左右」ではなく「前後」だったことに驚いた。

さて、同書に、前後が反対にならずに自分の後ろ姿が映る鏡の挿し絵があった。面白い。そんな鏡も、自分を見つめるには必要かもしれないと思った。

そうだ。後ろに鏡を置いて、自分の生き様を見てみようか。それとも、鏡の奥に広がる幅を測ってみようか。そうすれば、人生の「奥行き」も見えてくるかもしれない。

鏡映反転は、人生を哲学するために神様が与えた難問だった。

(2019年10月14日@nortan)

176、自発的対称性の破れ

2008年ノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎先生の理論。

宇宙は、電子場やクォーク場などのいくつかの『場』から成り立っている。そして、それぞれ波の性質をもっている。波ゆえに、波のない状態は均衡状態でエネルギーゼロだが、実はそれよりも低エネルギーの安定状態が存在している。そして、芯を下に垂直に立てた鉛筆が必ず倒れるように、自発的に非対称な性質に落ち着く。つまり「正と負が打ち消しあってゼロになるのではなく、偶発的にどちらかに傾き、素粒子(世界)の性質や質量を決めている」と理解した。

確かに、右利きと左利きの人数は同数でなく非対称だ。また、コインの表裏も、両面が同じ刻印のレアコインが存在するなど僅かに非対称だ。他にも、男女の出生数、昼夜の時間など、現実世界の二項は必ずどちらかに傾いている。

それでは、正義と悪の対立はどうだろうか。「正義は必ず勝つ」なんて言うことがあるが、それも偶発的に決まるのだとしたら、先のセリフは「勝った方が正義なのだ」に換言しなければならない。ああ、『人間の場』だけは、物理法則の適用外であってほしい。

(2019年10月14日@nortan 「負けるが勝ち」の意味を考えながら)

175、パワー

「わしの志が受け取れないと言うのか。どうなるか覚悟できとるな。」と恫喝する助役。「誰につけばいいか、分かっとるだろうな。」と職場のいじめ体質を作った校長。最近のニュースから権力者の言葉を抜き出すとゾッとする。

ファースト主義で世界は権力忖度志向に変わってしまったのかと問えば、「人間の内面は昔から変わらぬ」という答えが一番しっくりくるのかもしれない。

一方で「人間は、その精神世界も進化(深化)させてきた」と信じたい心も確かに存在する。

しかし、脳の容量は25万年前から約1500ccで変化していなかったが、ここ3万年でテニスボール1個分縮小しているという研究で、先のニュースにも納得させられてしまう。

待てよ、アインシュタイン曰く「質量は光速の2乗をかけるとエネルギーに変換できる」のだから、人類はこの3万年で、テニスボール1個分の精神パワーを得たと考えることもできる。よかった。私たちは退化したのではなく、進化していたのだ。

ただ、問題なのは、そのパワーの使い方なのだけれども…

(2019年10月10日@nortan)

173、オワコン

椀子蕎麦で「お椀、こんで終わり」ではない。2010年頃に、一時流行したが今や誰も見向きしなくなった「終わったコンテンツ」をそう言い始めたらしいが、オワコンという言葉自体、今や10年足らずでオワコンだそうだ。

遅れ馳せながらこの言葉を知った時、フェルミのパラドックスを考えていた。フェルミは「だから、宇宙人は私たち人類だけかもしれない。」と論じたが、私は「地球は、宇宙文明の中でオワコン?!」がしっくりきた。有史以来、同種で競いを好む知的らしき生物に愛想を尽かしたか、あんな所に行くなんて…と飽き飽きしたのだろう。一方、環境を破壊し、自ら絶滅に突き進むことを心配して環境保護惑星に指定されているという「動物園説」もあるらしいが…

さて最近、新研究が発表された。「恒星間距離が飛行に効率的になるまで、1000万年単位で待っている。つまり、今の期間は間氷期ならぬ、その「間宇宙人渡来期」だという。それなら、あと500万年前後で近隣恒星系惑星からのファースト・コンタクトがあるのだろうか?

その時の地球主が人類であることを期待するが、数年前からの自国ファーストの強まりに、あと10年足らずで人類がオワコンになってしまわないか心配だ。

ちょうど、スマホでBluetooth接続した車オーディオから「Dragon Night」(SEKAI NO OWARI)が流れてきた。最近、家族や自分に関係するナンバーの車の後ろになることが多いのも、何かの啓示かもしれない。世界平和のオワりがコンように…

(2019年9月29日@nortan)

171、アルゴリトミ

9世紀中東の数学書が、5世紀の間ヨーロッパの大学で教科書として使われていた。「アルゴリトミ」(著者であるアル・フワリズミー曰く)というラテン語が、アルゴリズムの語源になった。これは、インドでの計算を紹介したもので、今でこそ世界標準であるアラビア数字0~9の記号(これもインド発明)による十進位取法。つまり、アルゴリズムとは「計算」である。

それでは、計算とは何か?「四則演算でしょ!」と簡単ではない。「コンピュータの思考!」確かにアルゴリズムなくしてPCは何もできないが、根元的ではない…こんなことを考えていたら、うたた寝に落ちた。

うたた寝に 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき

と、小町のような平安美人が現れたのではなく、髭をたくわえたギリシャ哲人。

「真実に至るための道のりである!」

と、大声で教示られて覚醒した。

ピタゴラス学派にとって、「世の中は数(有理数)でできている。」が教義であった。計算によって求めるものは「真実」である。そうだ。アルゴリズムとは、「確実に正しく真実(正解)に至ることが保証される道のり(計算手続)」だ。

例えば、ユークリッドの互除法。確実に2数の最大公約数を求められる。そして、ガウス少年の発見した1 + 2 + 3 + … + n = (1 + n) × n ÷ 2。計算だけに限らず、PCなど電化製品に付属するマニュアル。故障したかなと思った時に解決してくれる。そして、専門家や経験者(子どもにとったら大人)も解決に至る道を示してくれる。ひょっとしたら、人生もアルゴリズムか?!答えがあるのか?

しかし、マニュアルでは解決できずにリセットしたり、廃棄したりすることもある。専門家にも分からないことや大人が間違っていることもある。ピタゴラスも√2などの無理数に敗北した。2乗して-1になるiを含む複素数は、計算の道具として使えても大きさを比べることすらできない。

そうか、人生はアルゴリズム(計算)ではない。だから、答え(真実)もなければ、計算手続(確実な生き方)もない。そして、他人と大小(価値)を比べることもできない。人生は、iだ。

うたた寝で真実を教示してくれたのは、ピタゴラスではなく、愛(i)に生きた小町だったのかもしれない。

(2019年8月2日@nortan)

170、科学相談

夏のラジオから流れてくる、35年も続く放送。「動物も夢をみるのですか?」「植物にも心はあるのですか?」など。その答えを、各分野の専門家が、やさしい言葉で一生懸命に説明しても、子どもたちには難しいこともある。「分かった?」の後の「うん?!」は、YesにならないNo。これからも、子どもたちの科学への不思議は尽きない。

さて、地球から聴こえてくる祈り。「地球温暖化を私たちは解決できるのでしょうか。」「人類は、宇宙へ文明を拡大できるのでしょうか。」など。その答えを、宇宙の神々が、理解できる現象で伝えようとしても、人類にとっては難しいこともある。25日、ニアミスだったと胸を撫で下ろした小惑星の大接近(月・地球間の5分の1)。大きさは、6600万年前に比べて約100分の1だが、発見されたのは最接近の前日。私たちが知ったのは29日。緊急ニュースとして発表されることもなく、ひとつの都市が消滅することもなかった。そして、神々からのメッセージであるかもしれないこの地球近傍小惑星につけられた名前は「2019 OK」。ちっともOK(Yes/うん)でない。だだ、「うん」だけに「運」はあった。今後も、私たちの宇宙への不安は尽きない。

(2019年7月30日@nortan 2020はOKでないかもしれない)

168、ぼっち

プライムで映画を鑑賞した。北欧映画(字幕)であるが、言葉の壁を感じない。ジャンルは、泣けるコメディ。どこか、日本映画「男はつらいよ」に似て、周囲に迷惑なほど不器用で一途な愛。スウェーデンでは、5人に1人が鑑賞したという。日本人と北欧人は繋がっているのかもしれない。

ぼっちと言えば、「一人ぼっち」や「ぼっち飯」など、我か国ではマイナスイメージになる。余程、集団でいることを良しとする文化、群れることを不思議に思わぬ文化なのだろうか。

そもそも、ぼっちとは既存宗派や教団に属さない「法師」のことで、時の政権に弾圧されながらも忍耐強く布教し、日本仏教の礎となっていく行基や空海などを連想する。また、スティーブ・ジョブスやNHK「プロジェクトX」で取り上げられた挑戦者たちも、ある時期「ぼっち」であった。つまり、何かを成し遂げる者は、ぼっちからの出発だったということだ。

だから、ぼっちであると自覚したとしても、夢があるなら気にすることはない。2O2OTOKYOを目指す選手の中にも、ぼっちはいるはずだ。武田鉄也主演「金八先生」の主題歌のひとつに「一人ぼっちになるためのスタートライン」という歌詞がある。他人と違うことを恐れて群れ、空気を読んで誰かに同調したり忖度したりするより、「(志のある)ぼっち」であれと若い世代を応援したい。そのためには、私も寅さんでなければなるまい。北欧映画「幸せなひとりぼっち」を見て泣けた理由は、志ぼっちだった。

(2019年7月25日@nortan)

167、川の魚

久しぶりの山の自然。川に渡された小橋の中に立った。昨夜まで降り続いた雨で、少し勢いのある水が岩間を泡と音を立てながら、上下左右と流れ下ってくる。

ここに来ると、いつも川上を見ている。くるりと回れば、少し緩やかな去りゆく流れを見れるのに…まるで、川を登る魚のよう。橋に立ち上流を眺めるのは、遺伝子に刻まれた「魚の記憶」か?音に反応し危険を回避する「動物の本能」か?それとも、時の流れに逆らい「過去への追憶(ノスタルジア)」か?こんなことを考えながら、半転してみた。何だか不思議な感覚、この先どこに行き着くのかという不安と同時に、静かな死を感じた。下流には生命の誕生にとって、母なる海が広がる。川魚が、そこに流されることは死を意味する。

私たちは死んだ後、川魚に生まれかわって、時間の流れを遡るのかもしれない。鱗は、頭から尾に向いている。流れに逆らうことは運命だ。そして、時の上流まで泳ぎついたら、再び私の時間を生き直す。

さて、久しぶりだと感じた橋の上。実は、何億万回も立っていたのかもしれない。そして、上流へと遡る「魚の私」に、ノスタルジジックに語りかけていたのだろう。「今度は、もう少し器用に生きろよ。」と。(2019年7月25日@nortan 人生が繰り返されているなら、何を学んでいるのだろうか)

163、シンボルグラウンディング

まず、赤ん坊が「あー」と言いながら母親に手を伸ばそうとしていたら、赤ん坊の頭の中の「あー」フォルダに、五感でとらえた母親イメージが保存される。

次に、父親イメージも似たように動くものとして、同じ「あー」に保存される。この時、赤ん坊にとって父親も母親も同じものである。しかし、そのうち両者の違いに気づき、フォルダ「あー」の中にフォルダ「m」と「p」が作られて「ママー」「パパー」に各々のイメージが分類され直す。これ以降、父親と母親は別のものになる。

ものごとを区別して認知できるのは、名前や記号と世界を結びつけ、各々のフォルダにイメージを保存しているからだ。私たちの認知を、コンピュータのしくみに例えると説明しやすい。

しかし、例えられたコンピータにとって、このシンボルグラウンディングは容易いことではない。言葉とイメージが結びつかないのだ。

AI赤ん坊ロボット?を購入し育てていくとしよう。父親と母親の違いを、自分に話しかける時間の長短とか、見た目の違いとか、数値に置き換えて区別することはできるだろう。しかし、常識とされる母親イメージ・父親イメージが獲得できないのだ。AIに「常識」は通用しない。ならば、AIを実用化するにあたって、AIに常識を教えるよりも、常識をAIの言葉に翻訳した方が近道だ。

さて、母親とは…父親とは…と考え始めて、性の多様性・同性婚など近年の様々な人権問題に気づいた。未来の家族はどうなっているのだろうか?昔の常識は、未来の常識ではなさそうだ。「あー!」人間の常識もあてにならぬようだ。まずは、常識を疑うことからAI(人工知能)の設計を始めなければならない。(2019年7月16日@nortan AIは人間に似ていなければ駄目なのか?)

161、やるかやらぬか

よくあるアドバイスに、「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいいよ。」がある。ラジオのパーソナリティが、「人生は一回きりだし…。夢に向かって一歩を踏み出せ。応援しているぜ。」なんてロックにセリフを決めて、その後、自分の歌を聴かせる。

しかし、これほど無責任なアドバイスはない。やってする後悔も立派な「後悔」である。つまり、後悔するということは「やらなければよかった!」と痛感することなのだ。やるとやらぬは、どちらか一方しか体験することができないのだから、「AとBのどちらの道を選ぶか?」の二者択一と同値である。ただ「やる」という言葉の響きに積極性を感じているだけなのだ。

例えば、ドラマで、悪役に借金返済を免除してやるかわりに悪事に手を貸せと迫られる。「やるか、やらぬのか!どっちだ!」と恫喝される気弱な主人公。この場合、正解は「やらぬ」で、自分の弱さに立ち向かうこと。YesとNoでは、Yesに肯定を感じるが、正解は「No!と言う勇気」ということなのだ。人生は一回きりなのは事実だから、やらぬ決断も大切にしたい。

人類が繁栄できた要素に臆病さがあるという。樹上から草原に降りる時、勇敢な個体は猛獣の餌となり、「やらぬ」と決断した個体が、その様子を見て武器を手に集団で降り立ち祖先となった。私たちは「やらぬ遺伝子」を受けついでいるのだ。つまり、「やる」は勇敢だが無鉄砲派、「やらぬ」は臆病だが石橋を叩く派である。

さて、私にも「やるかやらぬか」の決断の時が迫る。遺伝子は「やらぬ」を選べという。一方、私の性格(パーソナリティ)は「やる」にロック(オン)している。後は、自分の夢をメロディにのせて歌いきるだけだが、聴かせられる家族にとってハッピーソングになるのも・悲しい歌になるのも50・50。誰かにアドバイス求めた方がよいだろうか。

何だか堂々巡りになってしまった。考えがまとまるまで、昨晩の彦星のように1年待つ辛抱も必要かもしれない。

(2019年7月8日@nortan 来年の七タが晴れるとも限らない)

158、帽子

責任(responsibility)とは、行為者が特定される場合にその行為に対して応答(response)する能力(ability)である。法的責任であれば賠償能力も問われるが、道徳的責任であっても、その行為と結果に応答する「説明責任」はある。だから、カメラの前で「私は知らぬことです。」とうそぶくのは「責任」から逃げているし、「申し訳ありませんでした。」と土下座するだけでは「説明」をすっ飛ばしている。

どうして、すぐに辞職したり土下座したりすることが、責任をとることと同義となってしまったのだろうか。それは、武士の切腹のイメージと重なるからだろう。赤穂事件でも浪士の切腹で事件の幕を閉じるが、どうして浅野が吉良を刀傷する事件が起こったのか、浪士の行いは忠義であったのか、幕府の裁きは適切であったのかは曖昧模糊としたまま幕引きとなっている。まるで原因をはっきりさせない方がよい何かが存在するように…どうやら、我が国の責任のとり方はResponsibilityではなく、EscapebilityかAmbiguousibilityに近い。

さて、上司を守るために部下が黙って責任をかぶる。これを美徳と感じるか、蜥蜴の尻尾切りと不快に思うかで、赤穂事件への評価も分かれるのだろう。新時代は「上司のために責任をかぶる部下」と「部下のために責任をとる上司」どちらが美徳となるのだろうか。 かたや「責任」が帽子(かぶせもの)になったことは、間違いない。それならば、トップがかぶるべきだが…

(2019年6月30日@nortan先日聞いた「もし、何かあった時の責任は、最終的にあなた方にある。」という言葉から)

157、遣唐使

日本の留学生は、隣国の35分の1で年間約2万人だそうだ。「豊かになり、もはや外国に学ぶことはない。」と思っているなら、それは「先発の奢り」で、日本は「茹でガエル」になってしまうと、実業家の小林喜光さんは警笛を鳴らす。

戦後、焼け野原に社会インフラを整備し、アナログのモノづくりで世界トップの経済力を手に入れた我が国も、今や古いインフラとかつての栄光が邪魔をして、新しいデジタルのコト(ソフトウェア)づくりとグローバル化の波に乗れていないのだ。プログラミング教育の必修化は、遅ればせながらその波に乗ろうという足掻きなのだろう。しかし、教育の成果は10年、20年後にしか表れない。その頃には、今の波は沖の彼方。慌てて、中国に遣唐使をなんて時代になっているかもしれない。飛鳥奈良時代に、命がけで海を渡った大和魂は、24時間何でも手に入り、家に居ながら商品を受けとれるようになった「今は豊かな国」には不用な魂なのだろう。豊かにつかっていると「未来を見る力」が衰えるようだ。

さて、世界の三大投資家の内の一人が「将来のことを考えるなら、日本から脱出しなさい。」とバラエティ番組でタレントにアドバイスをしていた。そして、先日「100才まで生きるって、考えたことある? (あるケースでは)2000万円の赤字。その分は自助努力しないと…」の大臣発言。茹でガエルならまだ幸せで、痩せガエルになってしまう心配も現実味を帯びてきた。留学生はUターンだが、Iターンの移民となっては元も子もない。

ところで、政府から流される情報に一喜一憂するのではなく、何らか意図を詮索すれば、心配すべきは他にあるのかもしれない。たとえ、痩せガエルになったとしても、この国が故郷。せめて「負けるな一茶、ここにあり」と「未来も豊かなこの国」を夢見よう。(2019年6月9日@nortan年老いても夢見れる国でありたい)

153、アンドロイド観音

観音寺の境内でハトに餌をやって過ごしていた昔、観音様に「また、遊びに来たのか。私の使いであるハトたちに、しっかり餌をあげてくれ。」と語りかけてられるようだった。そこで、買ったハトの餌を紙袋から少しずつ出して地面にばらまくと、首を前後に振りながら器用に小石を避けて食べるハトもいれば、いつも見つけた直後に横取りされてしまうハトもいた。可哀想なので、要領のよいハトが離れている時にひょいと餌を投げてやっても、数回に1回ほどは走ってきたハトにつままれてしまった。一番効果的だったのは、一粒ずつやるのではなく、袋の中身を不器用なハトの近くに一度に蒔いてやることだった。おそらく、この様子を見ていた観音様は、夜お堂の屋根に戻ったハトたちに「仲良く分け合って食べなさい。」と説法をしたにちがいない。観音様は、正しくは観世音菩薩といい、お釈迦様のように悟りを開くため修行中の菩薩である。会社で例えると、如来が社長で、菩薩は副社長というところだ。

最近、ある寺社が大学との共同プロジェクトで、観音様のアンドロイドを誕生させたという。プロジェクトマッピングなどの映像技術を用いて般若心経の教えを説法するらしい。今後、国際化として外国語にも対応できるという。これは、社長の座を脅かす凄腕副社長の誕生だ。

さて、情報技術の発展で無くなる職業が増えることは予想されたが、僧侶のみならず観音様までとは驚かされる。次は、使いのハトたちもアンドロイドになるのかもしれない。そうすれば、餌の取り合いを心配することも無くなるだろう。同様に、人間も早くアンドロイドになれば、食糧資源の取り合いもなくなる…ひょっとして、これが究極のアンドロイド観音様の教えなのだろうか?人間という職業がなくならないよう、説法はこころざし高きお坊さんにお願いしたい。お経や説法が少しばかり不器用でも、人間味があってよい。ちょっと待て…菩薩も僧侶も職業だったろうか?そのうち、如来様もアンドロイドに?あな、おそろしや、南無阿弥陀仏。(2019年3月24日@nortan)

149、道徳の種類

まず、未来の道具、もしもボックスで「みんないなくなっちまえ。」と叫んで地球で一人ぼっちになったのび太にも必要なのは、道徳(個人道徳)。叱ってくれる他者がいないからやりたい放題だが、そのうちに生き残るために守るべき主体的内面規制が必要になってくる。果実や池の魚を取りつくしてしまえば食料危機に陥るし、種子を植えて水の世話をしなければ翌年の収穫は見込めない。そこで、利己的欲求と自然(現実)との葛藤が生じる。

次に、元の世界に戻ったのび太に必要なのは、倫理(公共道徳)である。これは、利己的欲求と他者との間に生じる葛藤である。私が欲するものは、他者が欲するものでもあり、それは有限である。互いが納得できるように分配しなければならない。平等とか公平・公正という市民的道徳性が求められる。

そして、学校でのび太が学ぶのが、よき国民となるため道徳(国家道徳)である。日本人は目上の人にお辞儀をしたり、すれ違う時に体を横にしたりする美徳がある。敬虔な信者は、朝昼晩または休日の祈りを欠かさないなど、国家によって求められる姿が違なる場合がある。先日、ラジオで教育評論家尾木直樹さんが「今年度から、教師が小中学生の道徳性を言葉で評価しなければいけなくなって、先生たちは困っているのよ。いかがなものかしら。」なんて苦言を呈していた。子どもがもらってきた通知表に「思いやりがない」とか「正義感に欠ける」とか記されていたら、親子で寝込むか「教師は神ではない。我が子の何が分かるのだ。」と開き直るしかない。宗教を国教と定める国の教師も、子どもたちの道徳性を評価しているのだろうか?

さて、道徳性は時代によっても変わるはずだ(時代道徳)。生き残るために「力の論理」が求められていた時代は「強いこと」が正義であり、「強者により多く分配されること」が公平だった。そして、「強者が、コロッセウムの闘技などの娯楽で民衆の不満を抑えたり、与える情報を統制したりして都合のよい政治を行うこと」が国家の在り方だった。

それに比べて、今は…と考えて、気づいた。昔も今も変わっていないのではないか。道徳性を評価されるべきは、子どもではなく大人なのではないだろうか。子どもたちに「挨拶・勤勉・正義・公平・公正・思いやり…」などのボタンを押してもらい、テレビに映る大人をリアルタイムで評価してもらうというのはどうだろう。いや、子どもにはまだ道徳性が育っていないというのなら、絶滅に追い込まれている動物たちに評価してもらってはどうだろうか。動物に道徳はないというのなら、胸に手を合わせて目を閉じ、静かに神の言葉を聴く。神は、こう言うかもしれない。「それは、お前たちの問題だ。私には評価できない。」と。(2019年3月21日@nortan時代の要請は、公共道徳のようだ)

148、勘違い

東から昇った太陽が、南の空を通って西に沈む。事実は、地球が東に向かって自転しているのだ。

サイコロを5回振ったら、1の目が5回続けて出た。確率は「1、1、1、1、1」も「1、5、2、3、6」…も、同じ6の5乗分の1だ。

大昔、祈祷師が雨ごいをしたら、数日後、祈りが天に届いて雨が降り出した。彼は天に通じる神通力をもっている。今で言えば、週間天気予報で雨が降ることになっていただけなのだろう。

会社の赤字を黒字に回復した。ワンマン社長が、私の実力だと思った。そう思うのは勝手だが、社員たちの努力や知恵に感謝しなければならない。また、成功したのは、私の努力の賜物だと思う。それは、生まれた環境と育った環境、少しばかりの幸運に恵まれていただけなのかもしれない。

科学の発展で私たちの文明は進歩している。未来はもっと豊かになり素晴しいと推測する。しかし、科学の進歩と裏腹に、人間の脳や心は退化し、種としての寿命は終末に向かって突き進んでいるのかもしれない。もし、地球外知的生命が地球人を発見していたとしても、会いたいだろうか。

「我思う。故に我あり。」自分の存在を疑っている私が実在していることだけは疑えない。デカルトによる意識の発見である。しかし、本当は、意識ですらプログラムコードで、私たちは仮想世界の実験的存在(実在)なのかもしれない。

ああ、私たちが気づくべき勘違いは幾つあり、気づかないほうが幸せな勘違いは幾つあるのだろうか。(2019年3月20日@nortan)

147、GAI

このテストは、間取りを知らない家に上がってコーヒーを入れることができれば、合格だそうだ。何だ、そんなことは容易い。まず、新築を建てた友人の家に突然お祝いに行く。「まあ、あがってくれ。」と言われたら、のこのこと上がって、「お願いがある。何も言わず、俺にコーヒーを入れさせてくれないか。」と頼む。その後、キョトンとする友人をよそに、キッチンに行ってお湯を沸かし、インスタントコーヒーをカップにスプーン一杯入れて、沸いたお湯を注ぐだけだ。本格的にコーヒー豆を挽いてドリップ式で入れるとしても、時間はかかるが何てことはない。問題なのは、困惑する友人の視線に耐えることと、以後の友情に少なからず亀裂を生じさせることくらいだろう。

ところで、これは「図々しさ」や「度胸」を試すテストではない。『汎用であるかどうか』を試すテスト、ウォズニアックテストである。もちろん、対象も人間ではなく、人工知能(AI)だ。Apple社創業者である、もう一人のスティーブが考案した「次世代汎用AI(GAI)」に求められる能力である。しかし、AIはこのテストにパスすることができないと考えられている。知らない間取りからキッチンを探し、知らないヤカンに、知らない蛇口で水を入れて、知らないコンロでお湯を沸かすこと、つまり、人間なら推測して行動できることができない。一を聞いて十を知る能力がないのだ。

このように考えると、人間とはナイス・ガイ(GAI)である。超能力的なことは出来ないが、それなりのことをそれなりにできる。少し字は違うが「凡人」であることがどんなに素晴らしいことか気づかせてくれたのは、意外なやつ(GAI)だっだ。(2019年2月12日@nortan)

144、三年

石の上にも三年は、3年ではなく「たくさんの年」という意味である。では、そこで転ぶと三年以内に死ぬというちょっとおそろしい俗説のある三年坂の三年は何年であろうか?

昔話「三年寝太郎」は、数々の太郎話の中では目立たぬ太郎である。畑仕事にも行かずに家の中で寝てばかりいたが、突然起き上がると村の水不足問題を解決してしまう。力技の金太郎や武勇伝の桃太郎、動物愛の浦島太郎と比べると知能派である。我が国では、寝太郎のように「引きこもり」が社会化している。2015年調査によると、5年前より15万人減ったが、全国で50万人(15~39歳)を越えるという。40歳以上を含めると、40代が一番多いというから、減ったのではなく調査対象外に押し出され高齢化していることが問題なのだろう。引きこもりの定義では、三年は「6か月以上」だそうだ。

隣国には三年坂に似た民話「三年峠」があるらしい。この話では、落ち込んで寝太郎(引きこもり)になったお爺さんを、若者トルトリが、逆転の発想で救う。それは、「一度転べは3年しか生きられない。ならば、二度なら6年。たくさん転べば、長生きできる。」お爺さんは、坂の上からたくさん転んで元気を取り戻しました。めでたし、めでたし。ちなみに、トルトリとは賢者という意味だ。

さて、我が国の引きこもり問題。一括りに原因は○○だとはできない複雑な要因が絡み合っているように感じる。それぞれ、三年の年数も違うし、寝太郎のように次のステップに必要な期間なのかもしれない。しかし、それを救うために、社会的システムの変革は不可欠だろう。外国人労働者34万人を受け入れる一方で、国内引きこもり50万人を解決できない日本とは変な国だと言われかねない。

我が国にもトルトリではなく、現代の太郎はいるはずだ。昔のように武勇伝や力技では困るが、愛と智の太郎がリーダーとなり、石の上にも三年、腰を据えて長びく社会問題を解決へ導いてほしいと思う。さもなくば、寝太郎たちで力を合わせて、ボトムアップで解決するのも一つの道かもしれない。今や、部屋の中のPCは、ゲームだけでなく人と人を結びつける道具でもあるのだから。ひょっとしたら、太郎の時代は終わって「二郎」の時代なのかも…(2019年1月15日@nortan私にとっても新しい三年が始まった日)

140、先行発明品

2001年のオーストラリアで「車輪」が発明されていた。見事に特許*を取得してしまったのだ。その上、ノーベル賞*にも選ばれた。何てことだ!と驚いたら、特許*とは、イノベーション特許(オーストラリア)のことで、ノーベル賞*もイグノーベル賞のことであった。全ては、イノベーション特許制度の無審査等を皮肉った出来事だったので安心した。

もちろん、私たち人間は発明好きである。ふとした思いつき・日常生活の何気ない物事から、莫大な研究費を要する最先端技術研究に至るまで、「これって発明?」という幅は広い。しかし、よく調べてみると「再発明だった!」(車輪の再発明)ということも多い。だから、先行研究や先行技術の調査は重要である。

さて、世界中で競い合っているAI技術。人間のように知覚し考える技術、人間のように歩き動きまわれる技術など、人間を越えれば「シンギュラリティ」と騒がれることになるが、今のところ「人間のように」が目標である。ならば、まさしく車輪の再発明ではないか。そこで、発明の終着駅を想像してみた。今や懐かしの映画「ターミネーター」のように人間の心の大切な部分が欠けるようでは「四角い」車輪の再発明だし、ロビン・ウィリアムズ主演の「アンドリューNDR114」だとAlmost「まるい」車輪の再発明だ。数学的に「円」は究極の多角形だから、それを超えるAIはNot AI=NAⅠ(ない)だろうとも想像する。

そんな冗談は置いて、遠い将来、終着駅にたどり着いた時、人類は車輪の再発明だと痛感させられるのか、それとも、それを知った上で「人類の命は尽きる。私たちの文明を君たちに委ねる。」とバトンを渡すつもりであるのか…。その時の特許*とノーベル賞*は、誰が授けることになるのだろうか?また、車輪の形は、凸凹はあるが雪道にも強い「スタッドレス」だろうか?先行発明品である人類の「心の仕組み」は、しっかり解明されるのだろうか?究極の円であるはずの私たち現生人類の悩みの種は尽きない。(2019年1月1日@nortan新しい時代の始まりに)

139、言葉の力

言葉を聞いた時、私たちの脳は記憶にある意味リストと照合して、相手の意図を理解しようとする。この意味リストは、人によって、また状況によって微妙に異なる。だから、根本的に互いの思いを100%正確に受けとめ合うことは難しい。

「左のほっぺに蚊が止まっている。」と教えてもらったので、左手でパチンと左頬を叩いた。すると、「ちがう!左の方だよ。」言われた。

「明日、ここで5時からの映画。見たいね。」と誘った。「映画っていいね。」と返事があった。しかし、次の日どれだけ待っても待ち人は来なかった。メールを送ったら「ごめん。行くとは言ってないよ。」と戻ってきた。

「財布を忘れてしまった。もう、最悪だ。」とおっちょこちょいを嘆いた。すると、弟に「よかったね。」と言われた。「どうして、そんな風に言うの?」と怒ったら、「だって、姉さんには今後それ以上の悪いことは起こらないってことでしょ。」と言われた。

子どもの頃、父と家の前でキャッチボールをしたことを思い出した。私は、速くてグローブにドシンと吸い込まれるボールを受けとめることに精一杯だった。そして、私が返すボールは、父の右や左にそれることが多かった。それでも、文句を言わず根気よくキャッチボールは続いた。例えるなら、言葉はボールで、そのやり取りはキャッチボールである。

さて、「言葉には力がある」と結論づけたかったが、ここまで書いて、それは違うことに気づいた。言葉自体は無力だ。ましてや、言葉で相手の考えを変えることは至難の業かもしれない。しかし、それでも「言葉のキャッチボール」で互いを懸命に理解しよう、説得しようとする私たちの姿こそ、素晴らしいのではないだろうか。(2018年12月27日@nortan)

138、クラウド

パソコンやスマホを動かしているOSとアプリ。今では、インターネット経由・Wi-Fiでの更新が当たり前だ。店でパッケージになった新商品を購入し、家でCDをパソコンに入れて更新していた時代からすれば、ますますソフトウェアの形が見えなくなってきている。世界初のプログラム。それを運ぶように頼まれた者が「重さは、何kgだ?」と尋ねた。「重さはない。」と答えると、「それでは、運べない。」と言う。正確には紙にあいた穴がプログラム自身の重さだが、仕方がないので紙の重さを伝えたという話もあるそうだ。穴をあけたり、0と1の数字やプログラム言語で表記したりするのは、人間とコンピュータのやり取り上の都合であるから、そもそもソフトウェア(プログラム)には形も重さもない。雲をもつかむような真実なので「クラウド」という表現がぴったりする。今や、更新プログラムは空から降ってくる時代だ。

数日前、スマホに「OSの更新」が届いた。更新ボタンを押すと画面が変わり、ダウンロードとインストールが終了するまで10分程。随分早くなった。昔はダウンロードに夜から朝まで数時間もかかったことを思い出した。今では、使っていない時に分割してダウンロードし、完了したら通知してくれる。夜通し気にかける必要もなくなった。

さて、ここ数日、1年の疲れか年齢のせいか、体を横にすると睡魔に襲われる。気がつくと小一時間程経っている。ひょっとしたら…、クラウドから更新プログラムを分割ダウンロードしているのかもしれない。そのうち、目の前に「更新しますか?OK・キャンセル」なんて表われるかもしれない。その時は、どうしたものか。OKを押して目が覚めたら、苦手だった微積分の計算がスラスラ解けたり、外国語がペラペラ話せたりすれば素晴らしい。しかし、年齢に応じた仕様変更プログラムやバグを含んでいたらキャンセルだ。更新の詳細を読んでからにしよう。いや、それすらない自動更新?送り手は、神様?宇宙人?こんな空想に取りつかれてしまった。

空想はここまでにしておきたいが、人生の3分の2は睡眠。人は、どうして眠るのか?「寝ている間に、副交感神経が…」とか「寝ている間に、記憶の整理を…」とか「夜に適応するため、遺伝子に…」の他に、新奇な答え「クラウド説」を発見したかもしれない。(2018年12月26日@nortan)

131、対話のルール

共和党の支持者はFOXニュース、民主党支持者はCNNニュースしか見ないから、今、米国では対話すらできない状況だという。TOPの姿勢は大切だと思わさせられるが、これでは国民が分断されてしまうと両党支持者を集めて、互いの主張を交流する場を設けたという。どんな激しい言い争いになったかと思うと、「相手の主張も理解できるよい機会だった。」と、無事に対話が成立したようだ。成功の秘訣は、たった2つのルールを守ること。1つ目は、相手の主張を黙って聴くこと。2つ目は、自分の支持する政党が改めるべきことについても語ること。簡単なルールだが、2つ目が大切なようだ。

そこで、質疑討論の場では、相手を批判し合うばかりでなく、お互いの政策の不十分さをも素直に語るというのはどうだろうか。「我々は、労働者不足を解消するために、今まで以上に外国人労働者を受け入れることを真剣に考えています。しかし、一時的に外国人労働者を受け入れ、必要がなくなったら帰国してもらうという都合のよい政策では、我が国への信頼を得ることはできません。もちろん、外国人労働者を受け入れることに対して国民の皆さんの不安も配慮しなければなりません。また、現在の技能実習制度も多くの失踪者を出し、改善すべきところがあります。一番の根本問題は、30年前に今の人口減少と超高齢社会が分かっていながら十分な手立てをとってこなかったことですが、今となっては、私たちだけで豊かになったこの社会を維持することは不可能です。この問題について、1年かけてしっかり議論しましょう。そして、我が国の未来にとって最善の解決策が見つけましょう。」

さて、我が国の「対話の場」は、ルール1もルール2も大丈夫だろうか?(2018年12月4日@nortan)

127、終着駅

昭和23年に制定された通称墓埋法によって、死後の棲み家は墓地と決まっている。だから「その時が来たら、墓はいらんから、庭にでも埋めてほしい。」と言っていた父の願いを叶えれば、法律を犯すことになる。檀那寺で永代供養してもらうことも江戸時代以降のしきたりであったが、新しい土地では繋がりもない。そんなことで、墓地探し。今では民間の納骨堂や寺院からメールが送られてくる時代。選択肢も広がった。寺院の経営する納骨堂では、営業担当者に「とても人気があって、新しいお部屋を増設しました。」と音楽の流れるロッカー式地下納骨部屋を紹介された。また、都市型納骨堂の担当者は「私は長男なので、将来、実家の寺院墓地を守っていくつもりだが、本社のカード式墓参システムをお薦めします。」と率直に語ってくれた。こうした墓地探しの末に、市の運営する無宗派公園墓地に出会った。そして昨日、青く澄んだ空の下、納骨を済ませた。

ところで、私たちにとって墓は必要か。この命題に対する答えは、今古東西、老若男女、立場によってさまざまだろう。公衆衛生上は先の法律であるし、過去の政策上は寺社請負制度であったし、檀家にとっては義務である。また、新事業上は納骨堂経営である。しかし、それよりも遥か昔、私たちより野蛮だと考えられていたネアンデルタール人が、死者を埋葬する時に花を手向けていたことや、そんな法律も知らない幼い子どもが、飼っていた小動物を庭に埋葬して涙を拭うことを考えると、答えは「遺された者が、死と向きあうために必要だ」であろう。もし、骨すら残さない火葬システムが開発されて墓地が必要なくなれば、墓地に携わる仕事が無くなるだけでなく、死と向きあう場所もなくなる。その分、空を見上げることが増えるかもしれないが、何より私たちの死生観も全く変わってしまうだろう。

父を埋葬したことで、自身の終着駅も定まった。後は、そこに辿り着くまで「如何に生きるか」である。(2018年11月25日@nortan墓開き・納骨の直後、青空に4本の龍雲が上った。)

126、セキュリティ

戦前生まれの兄弟の会話である。

「最近、どうや?」

「そうやなあ。」

「ぼちぼちか?そやったら、あれはどうや?」

「まあまあやなあ。」

「そうか。」

「うちは、こないだ、あれがあったけど、もう年やで止めにしたんやわ。まあ、そんなんやけど、なんとかなって良かったわ。これから、どうしてこかいなあ?」

「そうか。たいへんやったな。まあ、こっちもなんとかやっとんで、心配せんでもええでな。」

「分かったわ。そっちに行こうと思とったけど、心配かけるとあかんで、また電話するでな。」

「ありがとう。そうしてくれるか?」

こんな会話をさせてやれたのが最期だった。隣で聞いていた私には、ほとんど分からないが、父と伯父は通じ合っていた。ディープラーニングやAI技術をしても解読できない、ふたりにしか分からない「ツー・カー」という最高のセキュリティ技術だった。

今、国会で「パソコンを使わない。」と答弁したサイバーセキュリティ担当大臣が、海外のメディアに「それこそ、究極の対策だ。だれも大臣の情報を盗めない。」と批判・称賛?されているが、大臣は最高の専門家でなくても、職責のために自ら学び、国民のために部下である専門家の能力を最大限に引き出してくれる献身の人選であれば良い。さて、サイバー空間での日本の守りは危機的だ。結果で、大臣としての腕前を見せてもらいたい。我か国の未来にとって重要な役職である。しかし、オリンピック担当と兼任であることや、「USBメモリーは…か?」といった非建設的な質疑答弁に時間を浪費することは如何なものだろうか。(2018年11月19日@nortan日本語の難しさこそ、最高のセキュリティかもしれない)

117、ジャック

ハロウィーンはキリスト教とは関係なく、ケルト人発祥の収穫祭だ。ジャコランタンは、悪霊を払い善霊を呼ぶとも言われる。そもそも、ジャック・オー・ランタン(ジャコランタン)は、死後の世界に行けずにカブのランタンを持って彷徨う男の姿だとされた。2000年の時を越えて伝わった、我が国の「ハロウィン」は、収穫祭でも宗教祭でもない。1990年代に東京ディズニーランドで始まったパレードが、お菓子などの商戦を巻き込んで広まっていった。子どもたちの喜ぶ行事(祭りではなく)で、戦後広まったクリスマスに似ている。私たちには、外国の文化を無宗化して取り込む能力があるようだ。一方、お釈迦様の誕生祭である花まつり(灌仏会)を4月8日に祝って行進したり、秋に神社の神輿を担いで地域を練り歩いたりすることは減ってきているように思う。地域密着型であった「祭り」は外国の祭りを取り込んで「行事」となり、「行事」は商業化され、個人参加型の「パレード」となった。その結果なのだろうか。ニュースで映し出された、都会の交差点で押し倒された軽トラックの上で踊る若者の姿は、「外国のパレードでは商店の略奪もある。日本の祭りは平和的だ。」と昔に聞いたことを悲しく思い出させた。パレードで一儲けしてやろうという商業主義が、都会にランタンをもったジャックを呼び寄せたのかもしれない。まだ伝統が残る地域の祭りを、なんとかして、このジャックから守らなければならない。(2018年10月28日@nortan)

110、キュウリとなす

お盆の送り迎えは、日本ならではの風習らしい。日本古来の先祖信仰と結び付いてできたようだ。子どもの頃、提灯のろうそくに火を点けて竹の長い柄を持ってお墓との間を往復することが楽しみでもあり、ご先祖様を感じる2日間でもあった。キュウリの原産地がインド北部、なすの原産地がインド東部であることを考えると、魂は本当に天竺との間を往復しているのかもしれない。往路は「キュウリの馬」復路は「なすの牛」だから、三蔵法師に負けぬ長旅をして帰ってきてくれることになる。お坊さんにお願いして盂蘭盆会経をあげてもらうことも風習だが、まだ墓石も建設中、檀那寺は持たないと決めた。位牌と遺骨に「じいちゃんは、ここにいる。」と線香を供え、いつもより長く胸に手を当てた。近くには、妻が供えてくれた、好物だけど病気のため長年ひかえていた和菓子。そして、じゃがりことカフォーレ。昔、元気だった頃に買ってもらっていたものを娘が供えてくれていた。どうしても、○○しなければならないという風習は薄れていく。しかし、日本古来の先祖への心は変わらない。「これでいい。」と目の前が滲んだ。私の時も、これでいい。(2018年8月18日@nortan戦前生まれで、カフェオレをカフォーレとしか発音できない父だった。)

107、○み

妬み(ねたみ)とは「相手のもっている物事」をうらやましく思うこと。嫉み(ねたみ)とは「自分にない物事」を悲しみ悔しく思うこと。どちらも他人と比べることが原因である。「ねたみ」から劣等感が生じると「そねみ」になる。それでは、それらの反対は何だろうか。

まず、「そねみ」の対義語を考えてみる。「相手にあって自分にない物事」に「優越感」をもつこと。そんなものあるだろうかと考えた。子どもにとったら「宿題」「ママの説教」、大人にとったら「残業」「休日出勤」など思いつくことは「自分じゃなくて、よかった。(他人事)」という「マイナスそねみ」。そねみには、陰(-)と陽(+)があった。

次に、否定してみた。「相手にあって自分にない物事から劣等感を生じない」こと。それは、他人とちがうことに一切動じない心境である。人間は脳にあるミラーニューロン(21己羅夢)が働くことで、無意識に他人と自分を比べるようにプログラムされている。どうしても、隣の柿は甘く見える。つまり「そねみ」に勝つのは、比べて陰陽感情を持たないこと・それぞれの価値観(生き方)に優劣をつけないこと。『まるみ』のある生き方に違いない。「嫉妬」の反対は『まるみ』であった。まずは、長い間に凸凹になった心の地ならしから始めようと思う。(2018年8月16日@nortan)

104、コギト・エルゴ・スム

我思う(Cogito ergo sum. )、ゆえに我あり。有名なデカルトの言葉で、「考えている私がいるということは否定できない。」デカルトは、どうして無味、つまリ、空気のような当然のことを言ったのだろうか。

当時、ヨーロッパはカトリックとプロテスタントとの対立から各国の覇権争いに発展し、終わりの見えない宗教戦争真っ只中にあった。「どちらの神のいっていることが真理か」で始まった争い、そんな世の中を哲学してデカルトは『コギト・エルゴ・スム』と言った。「どちらかが正しいなんて神の存在を問う命題は間違っている。人間の存在の原点に戻って、真理を見つめよ。」と三十年戦争を皮肉ったのだった。

ヘーゲルの弁証法では、矛盾する命題どうしの対立を経て高次元のジンテーゼ(命題)にアウフヘーベンするのだが、その後カトリックとプロテスタントは分かれたままだ。越次元の神を発見した訳でない。私たちは、キリスト教だとひとくくりにとらえてしまうが、そこにはデカルトを悩ませた哲学があった。これは、仏教にしても然り。父の葬儀を機に、宗派の歴史を読んでそう思う。死後の世界の平等を説いて、戒名によって死後の世界での扱いに差があると説くのはどうしてか。(私たちが勝手に思っているだけなのか?)あの世にも差別があるのだろうか。

さて、私の宗教意識は純粋仏教でも純粋神教でもないようだ。子どもの頃、神社で「だるまさんが転んだ」をして遊び、お寺で「隠れん坊」をして遊んだ。1500年以上、日本の風土と心の中で融合してきた神と仏が「神仏」という信仰だと思う。神か仏かの二項対立は、カトリックとプロテスタントの対立のようでもあり、デカルトならどう哲学するだろうか。「我は死んだ。ゆえに、我思わぬ(Non enim puto./ノン・エニム・プート)。」とラテン語で言うのかもしれない。(2018年8月16日@nortan初盆に「あとは任せた。」と父の声が聞こえた。)

102、テニスボール1個

3万年でテニスボール1個分、小さくなったという研究が米国で発表されたようだ。何が?というと「人類の脳の大きさ」だ。3万年前といえば、日本人の先祖が沖縄や日本列島に渡ってきた頃。400万年前にアフリカで誕生したアウストラロピテクスから脳の大きさが3倍になり、私たちは進化してきたと考えると、この3万年は「退化」してきたことになる。「ダチョウの脳はテニスボール1個分で、追っていた相手がものかげに隠れると何を追っていたのか忘れてしまう。」とザンネンな動物扱いしていたが、ヒトゴト(他人事)ならぬ人類事(ひとごと)になっていた。ダチョウの祟りか…と非科学的に幕を下ろしてもよいのだが、研究者たちは頭をかかえながらも科学的な説明を探した。イヌだ。イヌもオオカミより脳が小さいが、これは人間と共に暮らすことを選択した結果である。そのことで、日々の生存のために使っていた部分が必要なくなった。人間も複雑な社会を形成することで、同様の部分が必要なくなったという説明である。だから、「退化」ではなく「適応」だという。

ここで、一つ気になった。イヌはヒトに飼い慣らされた結果だが、人間は誰に飼い慣らされた?いや、そう考えるのではなく、イヌはヒトと共に生きることを選択した。人間は誰と共に生きることを選択した?と考えよう。さて、答えはひとつでないのかもしれない。(2018年8月9日@nortan)

101、2つのゴール

ラジオから「…たら、素晴らしい曲を作られていたにちがいありません。お聴き下さい。…♪好きだよと言えずに 初恋は♪ふりこ細工のこころ~♪」懐しい唄声とともに中学時代のぼんやりとした想いが、所々はっきりと甦ってきた。一人の車内は、心のタイムマシン。それを、バックミラーに映る今の自分が冷静に眺めている。「♪浅い夢 だから♪胸をはなれない~♪」19年前、コンサートのリハーサル中に不調を訴え、病院に自ら移動した後に意識を失い、数日後天国に旅立った村下孝蔵を追悼しての放送だった。名曲は、今でも心を癒してくれる。

先日、夕食後に突然の小指の腫れと肘先の痺れで夜間救急外来に飛び込んだ。血圧も高く、診察ベッドの上で安静にするよう指示された時、「守れなかった約束もできてしまった。」と考えながら胸に手を当てた。一人横になったベッドで「♪浅い夢 だから♪胸をはなれない~♪」と先日のラジオ番組が思い出された。やり残したこと・やるべきことがまだある。

さて、人生のマラソンに2つのゴールが必要なことに気づいた。スタートと同じように、ゴールも自分では決められない。人生のゴールがどこか分からないまま走り続けて、ある日突然やってきたゴールを受け入れるのが人生だ。だから、自分でプレゴール(人生の目標達成地点)を設定し、そこまでは全力で走りたい。プレゴールまでの日々もより充実するだろう。プレゴールした後は、自分を見守り応援してくれた人に感謝を伝えたい。そして、プレゴールからゴールまでの間、「初恋」などゆっくり人生を振り返ることができれば幸せだ。そう思って再び胸に手を当て目を閉じたら、そこには「放課後の校庭を走る自分」がいた。(2018年7月26日@nortan)

95、黒と赤のスイミー

49歳から孫のために絵本の製作をはじめたレオ・レオーニ。1999年までの40年間に約40冊の絵本を発表した。「スイミー」は1963年に出版され、1977年からは谷川俊太郎訳で知られるようになった。仲間と違って色の黒いスイミーは、泳ぎが得意だった。海の底を彷徨ったスイミーは、食べられた赤いきょうだいとそっくりの新しい仲間に出会う。そこではリーダーとなり、力を合わせて大きな魚を追い出すことに成功する。さて、想像してみよう。スイミーの遺伝子は受け継がれ、世代を重ねるごとに黒い魚が増える。赤い魚が全て黒色になった時、一匹だけ赤い魚が生まれる。赤いスイミーは岩かげに隠れるのが得意。黒いきょうだいたちは泳ぎが自慢で油断し、大きな魚に食べられてしまう。海の底を彷徨った赤いスイミーは、別の黒いきょうだいたちを見つけ、隠れることを教える。そして、赤い世代を増やしていく…。さて、レオーニの黒いスイミーと想像の赤いスイミーからのメッセージは「あなたに人と違うところがあるのなら、それは時代の要請だ。」にちがいない。人と同じであることだけを良しとする価値観は、変わらなければならない。(2018年7月15日@nortan)

93、成人年齢

成人年齢を2022年度から18歳ヘ引き下げる民法改正法案が可決された。「欧米諸国に合わせて」とか「若者の自立を促す」とか後からついてくる理由もある。そもそも、民法は国内法であるし、自立は年齢到達で達成できるものでもない。例えば、プエルトリコは14歳、ネパールは16歳、シンガポールやアルゼンチンは21歳である。また、明治9年太政官布告第41号で20歳を成人と定める以前は、11~16歳で男子が元服、女子が元服(裳着)を行っていた。農村では18~19歳で成人となることが慣例であったようだ。もし、生物学的な理由があるのなら身体的成熟によって個々に成人するべきだろうし、社会的な理由があるのなら何らかの試験に合格した者から順に成人すべきである。さらに、平均寿命が延びていることを理由にあげれば、成人年齢を引き下げるのではなく「引き上げる」ことの方が論理的に妥当である。江戸時代に平均寿命50歳で15歳なら、今は平均寿命84歳で25歳である。日本の労働人口減少が理由ならば、将来は15歳成人へ引き下げられるかもしれない。結局、時代や国内事情によって決めるのだろう。そうだ。「成人届出制度」はどうだろう。義務教育を終えたら25歳までの間に家族と話し合い、本人の成人となる覚悟を尊重して「成人届」を共同提出する。納税・勤労・教育などの義務や選挙などの権利、職業選択などの自由と選択に伴う責任、自立することの意味など、成人について深く深く考える機会にもなるはずだ。数年前に何処かで「今が楽しければいいしぃ。」「政治なんて興味ないっす。」という新成人を嘆いて「今の年齢は昔の7がけ。28歳でようやく昔の20歳(成人)だ。」と聞いたことを思い出した。そもそも、子どもは「早く大人になりたい」と夢みるものだし、大人は「もっと子ども時代を楽しめばよかった」と後悔するものだ。ならば、「子ども(離成人)届」も必要だ。定年齢まで働いた後、社会的義務を猶予され、余生で第二の子ども時代を楽しめるなら、未成人も成人も離成人も納得だろう。つまり、「同一年齢一斉成人制」より「異年齢成人選択制」の方が自立と責任を促せはしないだろうか。そうすれば、働き方改革など社会の枠組みに関する議論を大切にする成人ももっと増えるだろう。

(2018年7月7日@nortan全国的大雨災害を心配して)

92、捨てられない

整理とは不用なものを捨てながら整えることで、整頓とは捨てずに整えることである。1年間使わなかったものは捨てるべきだとの「整理術」をよく聞く。しかし、なかなか捨てられない私は「整頓術」使いだ。先日、整理術使いの妻と「1年間使わなくても、2年目に使かうかもしれない。」「なら、4年に1回のオリンピックも捨ててしまえ。」などと問答になった。しかし、遺された者に負担をかけることを考えると、先立つ者は整理術も身につけておかなければならない。整頓術使いの私の完敗だ。さて、東京オリンピックは既存施設利用の省エネ型で開催地を勝ちとった。それでも、オリンピックで建設された施設の多くは整理されてしまう傾向が強い。後の維持費が高くつくようになるからだ。かつて敗政が赤字になることで不人気だったオリンピック開催は、1984年ロサンゼルスオリンピック以降、商業化によって開催都市に大きな利益をもたらすようになったが、今ではその当ても外れるらしいし、テロ対策も大変だ。いっそのこと、開催地を取り合うのではなく、財政に苦しむギリシャで古代オリンピックのように4年に1回ではなく毎年開催するという案はどうだろうか。または、種目ごとに開催地を世界中に分散固定して、毎年インターネットで多次元中継する案はどうだろうか。国境を越えた往来(交流)も活性化し、より「世界はひとつ」の理想に近づきはしないだろうか。そうなれば、整頓術も整理術に1勝できるかもしれない。(2018年6月12日@nortanまずは勝ち取った2020TOKYOの成功を願って)

81、やおよろず

3月14日、ホーキング博士も宇宙に旅立った。宇宙物理学における天才。輪廻転生とタイムトラベルを信じると、アインシュタイン博士の誕生日に逝ったホーキング博士は、アインシュタインに転生したかもしれないとも想像する。ホーキング博士の理論の幾つかは、数式上証明できても、現在の科学力では検証することができない。博士は未来に検証を委ねた「予言者」とも言える。科学も宗教も人類の存在(人生)と宇宙の姿(この世)を追求する。また、どちらも証明できないものがある。宇宙の姿と死後の世界、どちらも信じるしかない。「科学」は「宗教」でもある。さて、冷たくなった子どもを抱き続けた猿の母親、主人を待ち続けた忠犬はち。科学も宗教ももたない動物たちは、命の無常をどう受けとめるのだろうか。40年前、愛犬トコは家の周囲を回って門のところで横たわった。静かな最期だった。そうか。私たちは、考えて理解しようとするから悩む。私の誕生後、初めての家族旅行だったと聞いて、父の旅立ちを報告するために訪れた日光東照宮。有名な三猿は、見ざる・言わざる・聞かざる。馬を守るための彫刻だそうだが、もう一匹の猿が隠れていたのかもしれない。「考えざる」つまり、「心で感じ、あるが馬(まま)を受け入れよ。」2か月もかかったが、ようやく一つのことに気づけたようだ。信じることは感じることなり。これからは、やおよろずの神々が語りかけてくる言葉を、少しでも多く受けとめられるだろうか。(2018年3月-5月5日@nortan)

78、逆に

中学時代に、担任の先生から「3の法則って知ってるか。三日坊主というだろ。まずは何でも3日間続けてみろ。そして、3年…」と『継続は力なり』を教わった。それから、この言葉と格闘してきたがほとんど全敗。そこで、自分には3が合わない。2だ!3より1少ない分、実践できるだろうと、15年ほど前「2の法則」を座右の銘とした。まずは2日間続けてみることで「やる気」の確認。次は、2週間、これで「続けることのハードル」が下がる。そして、2か月。そろそろ「初心者」の仲間入り。次は、2年。その分野では「マニア」と名乗ることもできる。そして、20年目を迎えたら「プロフェッショナル」。他の人に伝えて200年続いたら「伝統」。2000年絶えなければ、自分が始めたことは「文化」になっているはず。伝統や文化になったことは自分で確かめることはできないが、その鎖の出発点にいたと言える。この「2の法則」に「逆に」を当てはめてみた。子どもの頃もらったルービックキューブ、自力解決できたのが約20年後。次に挑戦した4×4×4のリベンジに約2年。やはり2年はかかると意気込んだ5×5×5のプロフェッサーが、今まで覚えたことが役立ったおかげで約2か月。その後、構造が単純ゆえに一番難しいと遠ざけていた2×2×2に、意外に2日。2週間の初心者期間だけはどこかに行ってしまったが、うまく当てはまった。これを「逆2(に)の法則」と名づけた。さて、ここ2か月間、50?40?30肩に悩まされている。初心者期間を越えたので整形外科を受診したら、「年だから対処療法しかありません。リハビリを頑張って下さい。」というような診断で落ち込みかけた。そこで「逆2(に)」を使ってみた。年齢を「逆に」数える。名づけて『挑戦年齢』。何か新しいことに挑戦してやるぞという余年を数える。例えば、今何歳でもチャレンジ意欲がなければ、挑戦年齢0才。平均寿命を80歳とすれば、40の不惑でも挑戦年齢0~40才までさまざまということになる。私の挑戦年齢は?と計算すると、実年齢より若くなった。「やったー!」挑戦年齢を維持するためにも、諦めかけていた正十二面立体パズルに再び挑戦しよう。おや、挑戦年齢は大きい方がよいはずだが…と気づいた。しかし、元気がでてきた。「逆2(に)」も座右の銘にしようと思う。右肩の痛みは2週間でとれるだろうか?(2017年12月31日@nortan逆に1年を振り返る日)

76、お笑い

上り階段で思わずこけた時、「大丈夫?」と声をかけたりかけられたりすることもあるが、怪我がない場合には「くすっ」と笑ったり笑われたりすることもある。互いの関係性や、意外性が引き出す笑いだ。「何で笑うんだ!」と怒ることも容易いが、「ちょっと躓いちゃった。俺も年だなあ。」と返す方が紳士的だ。そこで「笑い」について考えてみた。昔、土曜8時に毎週のように楽しんでいた番組では、こういったズッコケの笑いが多かったように思う。また、その後のお笑いブームでは、奇抜な格好をして破天荒なことをしたり、相方にツッコミを入れるコントや漫才が一世を風靡した。それは、お馬鹿タレントという呼び名を生み出した。クイズ番組などで如何に変に間違い「お前、あほか!」と言われることでテレビに映り人気を手に入れる。つまり、これらはズッコケたり変な格好をしたり馬鹿を演じたりすることで笑いを取る『ピエロの笑い』である。次に、落語や漫才、かけ問答など話を聞き終わった後に「そう来たか!」と納得させられてしまう『落ちのある笑い』だ。これは、笑わせようとする者と笑ってやろうとする者とが話の世界を共有しなければならない。古典落語などは、時代を超えて私たちを楽しませてくれる。そして、最後に『風刺の笑い』だ。歴史教科書で日清戦争をロシアが眺めている絵を見たのが最初だったと思うが、今でもビジネス誌で海外新聞が大統領を風刺しているイラストを見ることがある。これは権力に立ち向かう世論の笑いだ。このように考えてみて、笑いには方向性があることに気づいた。弱者・職業タレント・強者…など。最近、「誰も傷つけないネタ」と自負する漫才師や「権力に立ち向かうネタ」に挑む漫才師がニュースのネタになっていた。真の笑いは、何処に向けるべきか?そう考えて、もうひとつの笑いを思い出した。階段で躓いたり、タンスの角に足の小指をぶつけたりしても、なかなか笑えないが『笑う門には福来たる』。もうすぐ新年。笑いを過去の自分に向けて、新しい自分に生まれ変わろう。それなら、誰も傷つけることはない。(2017年12月28日@nortan)

71、トリアージ(ュ)

第2次世界大戦時、野戦病院では再び戦える兵士が優先されていた。回復不能な兵士は印をつけられ、治療は後回わしとなった。戦争効率化システムがトリアージであった。そのトリアージが、災害医療で見直されているという。緑・黄・赤・黒の4色のカード。容態にあわせてカードが切りとられていく。歩けるか?→A呼吸しているか?→B呼吸数はどうか?→C脈はどうか?→D意識レベルはどうか?→E治療不能と、フローチャートによって色判定される。緑なら待機、黄なら準緊急治療、赤なら緊急治療、黒なら死亡又は治療不能。緊急性の高い者から治療されるシステムだが、時には「助かる見込みのない重傷者を見捨てる非人道的システムにもなりうる。全ての患者を救うという職業倫理に反する。」と批判する医者もいるようだ。(平時にもそんな医者と出会いたいと思う。)愛する者の治療が設備的にも人的にも不能で後回わしとなった割り切れなさを想像する。しかし、大災害時には仕方がないシステムかもしれないとも思う。サンデル教授が投げかけるように、「最大多数の幸福」を優先させることが、公共の利益にとって合理的判断なのだろう。さて、ヒーロー映画で、巨大な悪が街を破壊し人々を大混乱に落とし入れている時、ヒーローの優先救出順位はヒロインである。救出の最中に役名もセリフもない人々が苦しんでいることを想像するが、ヒーロー(Hero)にトリアージは関係ないのだろう。当然ヒーローの能力にも限界があるし、人々に「申し訳ありません。しばらくお待ち下さい。」と謝罪してからヒロイン救出に向かい、間に合わなかったというヒーローも残念である。そもそも、彼はヒロインにとっての「He-Law」であり「We-Law」でない。だから、トリアージュ(とりあえず)、私たち(We)で大災害に備える法(Law)を整備し、スーパーマンに任せるのではなく、皆で助けあえるようにすることが現実的だ。(2017年12月4日@nortanスーパームーンの夜)

68、飛去来器

飛去来器とはブーメランのこと。弓矢が発明されるまでは狩猟用や武器として使用されていたもので、オーストラリアのアボリジニが使っていたことで再認識され、アボリジニの民族としてのシンボルとも理解されるようになった。また、手元にもどってくるものは軽量で狩猟や戦闘にはむかず、戻ってこない重量ものをカイリーと言って区別する。カイリーの方が「お帰りー」と戻ってきそうだが、それを手で受けとめたら、投げた自分が大怪我をしてしまう。対して、ブーメランは鳥の群れを乱すため、空に向かって投げられたようだ。近頃、自らを辞任に追い込むなど幾つか話題になった出来事は「カイリー」であったり、世論を乱すための「ブーメラン」であったりしたのだと思う。「ブーメラン効果」を心理学的に使うと「懸命の説得にもかかわらず、説得される者の考えが反対になる現象」である。そもそも説得する者とされる者に意見の対立がなかった時や説得者に人徳がなかった時に起こるようだ。味方になるはずの者を説得して敵にまわしてしまうのは大失態。歴史の中にどれだけあったか想像してみると、アボリジニだけでなく私たちもブーメランの使い手なのかもしれない。さて、人に贈った言葉が戻ってきた。「これだという夢が見つかったら、そこに向かって思いっきり、惜しみなく努力を積み重ねて下さい。」この言葉を机に貼って勉強し試験に合格したという嬉しい手紙だ。受け取った時「夢を必死に追いかけているか!」と聞こえてきた。10年前に贈った言葉。私もブーメランの使い手であった。(2017年11月26日@nortan)

65、対話

話し方を意識した方がよいとアドバイスを受けた。そこで、自分の話し方を客観視してみようとしたができなかった。あらためて「話し方」は無意識の技であると実感した。技術的・表面的に変化させるのではなく、自己の内面から変えることが大切なのだろう。まずは、無意識という心の部屋で遠慮がちにソファに腰かけている『話し方』という名の分身に対話を試みた。「大丈夫かい?」これでは、弱々しい。「おい、自分。自信がないのか?」まだまだだ。「こら、俺。何やってんだ!」これでは、「話し方」を追い込んでしまうかもしれない。「話し方」からは返事がない。すると突然、「話し方」がソファから立ち上がって反論してきた。「しばらく、話すのをやめたらどうだ。」これで、ようやく対話らしくなってきた。「それでは、仕事にならない。」「二人三脚で歩んできたではないか。」「語尾が上がったり下がったりするのは、自分の弱さを隠しきれてないからだ。」「その気になれば、どんな話し方でも演じてやれるよ。」「それでは、自分が何だか分からなくなってしまうだろう?」と、ここまで対話して気づいた。何やってるんだ。そんなことを気にしているからいかんのだ。大統領選にでも立候補するつもりなのか?役者に転職するつもりなのか?すると、「ようやく、分かったか。」と「話し方」はソファに腰を下ろした。語尾の変化は、私の生き方に関係あるようだ。今度は『生き方』との対話を試み(心見)ようか。(2017年11月3日@nortan)

53、通過点

夢は見るものか・語るものか・歩むものか・変わるものか・つかむものか・託すものか。そもそも「夢」は、眠りに落ちた時に現れる「幻想」でしかなかった。人知を越えた力が、人間に「見させられるもの」だった。私たちは、その内容が正夢とならないよう、また、なるように両手を合わせた。実現しないというネガティブなイメージを感じるのは、それが根底にあるからだろう。それが、明治時代に「Dream」と出会った。「実現させたい目標」というポジティブなイメージが流れこんできた。海外へ活動拠点を移し、4257安打という大記録を打ち立てたイチロー選手。「夢」を「Dream」に見事変換させ続けている。日米合算数ゆえに様々な評価があるのも理解した上で、その先を見すえている。夢は見るものでなく「通過するもの」だと語りかけてくる。さて、Dreamには「自分に実現させる力があるか。努力し続ける力があるか。」の視点が不可欠だ。また、「次の目標地点を設定する力」も大切である。子どもの頃、何度も繰り返し見ていた「念じるだけで空に浮かび、進むために必死にクロールしいる夢」では、前者が欠けているし、そもそもどこへ行こうとしていたのだろうか?偉大な選手が、その名のごとく「1」からはじめて辿り着いた「4257」にも「2」があり「3」があった。次の目標は「50才、5000安打」と聞く。今回の4257は、1億2000万人が「ともに見させてもらった」夢だ。記録を破られた偉大な選手1人に、それを祝う懐の大きさがなくてもいいじゃないか。さて、私の「1」は何なのだろう。今晩、夢に現れるよう両手をあわせてみよう!?(2016年6月18日@nortan)

48、超言語

「エスペラント」という世界共通言語への取り組みがある。1880年代にロシアの眼科医ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが27才にして創案した人工言語である。彼は6年間もドイツ語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語・英語学習に費し、不規則性や例外が一切ない誰もが学び習得しやすい合理的言語を目指した。例えば、動詞(現在形)は-as、名詞は-o、形容詞は-aで必ず終わるというように。日本では1906年に二葉亭四迷が日本最初のエスペラントの教科書『世界語』を著し、宮澤賢治も「イートハーヴォ(-o)」とエスペラント風の名前を作品世界につけている。日本を含む世界各地にエスペテント協会があって、毎年世界エスペラント大会が開かれるほど人々を惹き付ける言語ではある。もし、エスペラント語を身につけられたら、世界中のエスペラント話者を訪ねながら世界旅行ができるという文化もある。しかし、エスペラントは日本語から遠い言語である。それは、西洋の言語がもとになっているからではなく、やはり日常で使わない言葉だからである。最近、興味をもってエスペラントの本を読んでみた。「I love you.」は「Mi amas vin.」その理念に関心はするものの身にはつきそうになかった。「Mi ne povis lerni Esperanton.(I was not able to learn Esperanto.)」さて、EUが統一言語として採用でもすれば、英語に代わる最大共通語になる可能性も高まるだろうが、独語・仏語・伊語・スペイン語と各国を納得させるのは難しいだろう。思い切ってインターネットでの公用語とするか、ロボット言語として採用しない限り、話者ランキング100位からメダル圏内への浮上は望めない。国際的には、このまま「英語」が主流となっていくことは間違いないだろう。日本も2年後には小学3年から英語学習が始まり、小学5年からは成績教科となる。日本語力が十分育っていないのに…という批判派と、国際競争に勝つための英語力は早くから学ばないと身につかないという推進派との折衷案が、小学1年ではなく小学3年になったのかもしれないと推測するが、いっそのこと3才から学ばせてはどうだろうか。漢字や日本語離れも加速して、200年後には『日本語を小学3年から学ばせるべきだ』という主張もでてくるだろう。そこで、未来のザメンホフになって考えを巡らせてみた。「母語も大切にしながら、皆が話したくなる共通語を作れないものか。」「うむ。それは無理だ。流行の歌にするか? 『言葉に~なら~ない~♪』そうだ! 言葉を発する前のイメージ(脳内思考領域の電気信号)だ。それを取り出し翻訳できるICチップを発明するしかない。言葉を用いず、無線通信で直接相手の脳の思考野にイメージを伝達する方法しかない。」未来のザメンホフは、脳科学者か情報技術者にちがいない。考えたことは一瞬で半径50m以内の相手に伝わる。もはやテレパシーならぬイメージ強制伝達である。思ったことは何でも伝わり放題。人混みの中では、頭の中で無数のテレビ番組を見ているような状態。そこから、自分の話し相手の映像だけを選別する。うむ、うまくエラベラレント!?そもそも……エスペラントとは「希望する者」という意味だそうだ。さて、未来のザメンホフが現実となっても「Mi volas.(I want)」希望するかどうかは保留にしておこう。(2016年5月24日@nortan)

44、ナポレオン考

フランス革命が生み出したのが「自由・平等・博愛とナポレオン」であった。ナポレオンは絶大な人気を背景に『皇帝』にまでのぼりつめた。フランスに勝利をもたらし続けることを約束して。「我輩に不可能はない。」は作り話だそうだが、結局は国民が作り出した英雄像に載せられただけなのかもしれない。昭和の時代、勝って当たり前のプレッシヤーを背負っていたプロスポーツチームの監督やプロ格闘家を連想してしまう。最近ではそのプレッシャーに負けてか、自らの選手生命や過去の栄光を無駄にしてしまったニュースも幾つかあった。人間はどんなに才能があっても『世間(評価)』には弱いものだとつくづく思う。その後のナポレオンは、反乱による退位とエルバ島への左遷、そして脱出、百日天下といわれる復活、ワーテルローの戦いでの決定的な敗戦を経て孤島セントヘレナへ幽閉、と劇的な人生を送る。ヨーロッパから遠く離れた孤島での生活は比較的自由ではあったようだが、5年間何を想い続けて最期を迎えたのだろうか。全てを自らの宿命(評価)と受け入れていたならば、真の英雄であったと言えるが…ちなみに英雄最期の言葉は、最初の妻「ジョゼフィーヌ」だったそうだ。それが真実であるなら、人間にとって最後に残る大切なものは『愛し愛された人』なのだとロマンチックに思う。ナポレオンの評価は、「英雄」から一連のナポレオン戦争で200万近くの死者を出した「悪魔」までと幅広い。現在フランスでは、豚にナポレオンと名付けることを禁止されているというから、その評価の複雑さがうかがえる。一方、今も正式なフランス民法であり、世界各国の民法に影響を与えた『ナポレオン法典』に、そのことは記してあったのだろうかと気になる。さて、どの組織でもトップに立つと自らの決断を推し進めることがある。『評価は、後世(歴史)が決める!』と意気込んでみるが、ペットに自分の名前をつけられた時、喜ぶべきか憂うべきか。それくらいは後世を待たず、自分で決めておきたいものである。思い通りにならないとすぐに「むかつく」「腹が立つ」とショートメッセージで繋がりあう世の中に、トッフ°であるなら評価など気にせずに『我が名を動物につけることを認める』と、せめて就業規則にでも書いておこうか。(2016年5月12日@nortan)

40、ハリエット・タブマン

人権活動家として知っていたのは、米国ではキング牧師やマルコムX、我が国では西光万吉である。ハリエットが米国2020年の新札の肖像画になるというニュースを知った時、正直だれ?の初感であった。女性として黒人として、そして何よりも黒人奴隷解放のために地下鉄道(秘密結社)の車挙として命の危険も顧みずに行動した活動家として評価されての決定。南部黒人奴隷の子として生を受け、地主の死を契機に北部へ脱出し、以後幾度も南部へ潜入して救出活動を続けた。救出には、黒人にしか分からぬメッセージを歌として用いた。その回数や救出人数には諸説あるが、南政府から懸賞金が懸けられるほどであった。1913年に93歳で臨終の際には、助けられた人々や仲間が集まり「スイング・ロウ・スウィート・チャリオット(戦闘馬車)」かって脱出の暗号とされた歌を歌った。ここまで調べて、我が国の2000円札は、どうなった?…1年前、銀行の両替で2000円札を注文することができたので、「ある所にはあるんだ」と分かった。沖縄を象徴画とし、平和と人権の大切さを未来へと伝える心、それと共にミレニアム(西暦2000年)を記念して政府提案として発行された法定紙幣。米国民全てがハリエットの名を知っていたとは思わないし、熱しやすくも冷めやすかったり、光がある反面に深い闇もあるのが、かの国だと思う。しかし、ハリエットの肖像画採用は草の根運動の成果だったそうだ。その点で、米国の20$紙幣は流通し続けるだろうが、我が国の新2000円札には課題があったのかもしれない。あらためて財布の中を確かめた。やはり2000円札はなかったが、その思いだけは心の中にしまっておきたい。(2016年5月3日@nortan)

39、一方的な貢献

30年ほど前から、アメリカ東海岸のカブトガニは年に60万匹ほど捕獲され、30%の血液を抜き取られて海に戻されている。3%ほどの個体は、この強制的な献血で命を落とすという統計も出ているが、「人類のために貢献できている。」と一方的評価を与えている。青色の血液が、ワクチンの細菌毒性検査試験として45分ほどで結果を出すのだ。それまでは大量に飼育したウサギの中から健康状態のよい2~3匹に、細菌が含まれると予想される溶液を注射し、体温が上昇したら汚染されたワクチンだと1日以上かけて判断していたそうだから、素晴しい発見である。そして、3億年も前の古生代から地球環境の変化にも耐え『生きた化石』と呼ばれるカブトガニは、食料として質と量、味の魅力にも欠けたことも理由として絶滅請負人である人類の時代にさえ絶滅しなかったのに、ウサギなどの実験動物に多少の安堵感を与えつつ、今絶滅に向かい始めているのかもしれない。ちなみに、瀬戸内海に生息する日本カブトガニは干潟の減少等を理由に絶滅危惧種である。また、同様に生きた化石であるゴキブリは国立虫類環境研究所によると1兆匹、人類の200倍の個体数だそうだ。何かしら人類に貢献できる潜在能力を発見しない限り、絶滅への道は遠い。いや、人類の生息環境がゴキブリに貢献しているのかも…と考えて、「400万年前から、人間はゴキブリのカブトガニであった。1人で200匹に貢献しているとは、さすが人間!」と一方的に評価してみた。(2016年5月3日@nortan)

38、水の記憶

「僕は 風に立つライオンでありたい。」は、さだまさし『風に立つライオン』のフレーズ。「暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく。」は中島みゆき『ファイト!』のフレーズ。両曲とも、くじけそうな自分の心への応援歌として聴き、口ずさむ。私にとっての名曲である。百獣の王のたてがみは風にむかうからこそ立派になびくのであると納得して、魚のうろこについて考えた。魚は陸上の脊椎動物の祖先である。海から川にのぼり、両生類・ハ虫類・(恐竜)鳥類、ホ乳類へと進化を遂げた。そこに魚の意思はあったのか?どうして陸をめざしたのか?天敵から身を守るための進化・適者生存たったといえるのかもしれないが、単純に『うろこの向きが原因』と考えた。魚のうろこは後ろ向きについている。ゆえに、魚となった時点で『流れに逆らわなければならない宿命だった』のだ。もし水の流れに逆わなければ、うろこは逆立って剥がれ落ちてボロボロになってしまう。地球の主役は、数々の絶滅と誕生を繰り返してきた動物ではなく、誕生してから天と地の間・陸と海の間を絶えることなく循環してきた『水』なのかもしれない。私たちの身体に入った水も、私たちの身体を循環して、私たちの記憶とともに大地にもどっていくのだろう。時には、紡錘形のうろことなって目から流れ落ちる水もある。人間も時の流れに逆って生きる宿命。顔も前向きについている。「前へ!」辛い出来事を乗り越える力もあるはずだ。「涙の数だけ強くなれるよ。アスファルトに咲く花のように。」は岡本真夜の『TOMORROW』のフレーズ。あなたの目からこぼれ落ちた涙も、名曲とともに水の記憶となって大地を循環し、いつかみんなの記憶となる。一人じゃない。(2016年5月1日@nortan)

35、空気や水のように

1995年の阪神淡路大震災、倒壊した高速道路や燃えつづける神戸の街の映像に衝撃を受ける中、職場で「ボランティアとして神戸の避難所に行こうという人はないか?」「どんなことをすればいいのですか?」「与えられる仕事は、水もなくトイレが大変なので、バケツで水を運んでのトイレ掃除だ。」と言われたことを思い出す。その時の職責を放り出して現地のトイレ掃除に行くべきかの選択を戸惑った。その後、新潟大震災、東北大震災でも襲い来る津波の衝撃的映像、そして今回の熊本大震災。被災地の人々が苦しみ助けを求められていることに違いはない。一方、この20年間にボランティアが何をすべきか、私たちの意識も高まってきたように思う。「ボランティアの現地への入場制限を行います。宿泊・食料・水・移動手段等は自らまかなって下さい。」「テレビ局等は、報道の競い合いのために被災者の心に土足で入りこまないでほしい。」「有名芸能人がお忍びで炊き出しに来てくれて嬉しかった。元気をもらった。」「当コンビニでのみなさんからの募金は2億円となり、両県に寄付しました。ありがとうございました。」「有名クリニックの社長が自家用ヘリコプターで東京から物資を運びこんだ。」「千羽鶴の気持ちは嬉しいが、保管場所がないので現地には送らないでほしい。」「自衛官を批判するツイートをした有名人がいるが、発生当初から必死に頑張っているのを知らないのか。」これらニュースやネット上に流れる言葉から、私にできるボランティアとは『空気や水のように目立たず当然に、我がことのように思い、社会生活や家庭生活も維持しながら、身の丈でできることを考え実行すること』だと気づかされる。政治家なら緊急の施策の実施、医薬品製造業ならそれらの搬送、避難所の職員なら避難所の運営。小中学年ならお小遣いの一部を募金箱へ、トイレットペーパーやペットボトルの水が現地へ多く流れるように購入を控えることだって立派なボランティアにちがいない。20年来の戸惑いは「日々不気味さを増し、来たる巨大地震」で居住地が現地となった時に解消するのかもしれない。その時、名前も知らされない多くの人たちの『空気や水のような善意』をしっかり受けとめられるよう、心の受信器を研ぎ澄ませておこうと思う。さて、阪神淡路が21年前・新潟が12年前・東北が5年前・熊本が今年。4年後の2020年には、それぞれ25年前(5の2乗)・16年前(4の2乗)・9年前(3の2乗)・4年前(2の2乗)となることに気づいた。単なる数字のことだが、次の大震災は東京オリンピックに向けて3年後、そしてその1年後…と恐れる。心を研ぎ澄まそうと言っておきながらも感が鈍っていることと、被災地の復興を願い、立ち寄ったコンビニの募金箱をチャリンと鳴らした。(2016年4月30日@nortan)

32、太陰暦

紀元前4000年のエジプト、夜星で一等明るい星シリウスが決まった位置に見えると、ナイル川が氾濫し肥沃な大地をもたらした。その期間365日を1年と定めてから使われてきた太陽暦。1582年には、ローマ教皇グレゴリウスが改良し、暦法の主流となってきた。400年間に97の閏年を挿入する。1年を365日+ 97/400 = 365.2425 日と計算し、誤差が+26.821秒という正確さが魅力である。日本は、1873(明治6)年から太陽暦を採用した。当初、太陰暦からの変暦による戸惑いもあったと聞くが、それから143年、デジタル時代となった今ではなくてはならない存在だ。しかし「閏(うるう)」なくして正確さを保てない。閏日を入れないと750年後には夏冬逆転するし、閏秒を入れないと12万年後には昼夜逆転してしまうそうだ。地球の自転は確実に遅くなっているようだし、公転軌道は10万年周期で変動するそうだ。誤差が1億年に1秒というセシウム原子時計がどんなに正確にな1秒を刻んでも、1日や1年の長さを実際に決めている地球の動きのほうが一定しない。そして昨年の7月のように、突然の閏秒の挿入でコンピュータシステム誤作動の原因となってしまう。元日、初日の出を前に南の空に下弦前の月と木星を拝んだ。木星は暁とともに見えなくなったが、年頭の大イベントを前に月が決まり悪そうに残っていた。「旧暦なら元日は、新月なんですけど…」と呟いているようで、自然現象あっての時間なんだと思った。日頃、1秒多いとか少ないとか時間に追われているような気がする。そこで、あまり見上げることのなかった月の表情(満ち欠け)を再評価して、旧暦(太陽太陰暦)を復活させてはどうだろうか。月は時に夜も照らしてくれるし、4年に1度の閏月で1月分増えれば、懐も閏(うる王)って、肥沃な大地をもたらすかもしれない。(2016年1月3日@nortan)

30、108

108とは、1^1 × 2^2 × 3^3 で表せる数、正五角形の内角、野球の硬式球の縫い目の数であるが、煩悩の数となるとややこしい。調べると32の食淫欲 + 28の物欲 +28の心欲 + 10の修惑(修行することで打ち消せる煩悩) + 10纏(〔てん〕善に向かうのをまと(纏)わりついて妨げる煩悩)となるらしいが、ブッダの説いた根本仏教では大きく3つの煩悩(三毒)と考えるらしい。「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」。貪は万物を必要以上に求める欲望、瞋は怒りの心、癡は真理に対する無知。これならシンプルで理解しやすい。ケン・シーガルがその著作『Think Simple』でApple社で働いた経験として、S・ジョブズの思考と成功を「シンプルであることは、複雑であることよりも難しい。」ことの厳しいまでの追求と実践だと語っていたことを思い出した。物ごとが成熟すると様々なことが具体化かつ複雑化してくるが、根本を理解していないと、修行を積まない私たちには覚えるだけのマニュアルになってしまうのだろう。ファーストフード店で40品ほど注文した有名人が「店内で食べられますか。それとも、お持ち帰りですか。」と尋ねられて怒りをぶちまけたという笑い話も、マニュアルありきの弊害なのだろうと瞋(じん)とくる。根本とはSimpleで強いものなのだ。新年が始まった。年末の除夜の鐘に3っの音色を感じとれるよう「とん!じん!ち!」の煩悩を少しでも無くすよう日々の修行を大切にしよう、と思いながら「今年は1日多いんだから、明日からにしよう。」と考える。「怠ける」という欲に負けた。まだまだ、私に修行は無理なようだ。(2016年1月1日@nortan)

25、誤見出し

財団は前年の運用利益を各分野のノーベル賞授賞者に還元し、人類の発展に寄与する。1901年から初まった世界的な賞である。我が国も計24名の受賞者を出し、ここ数年は毎年のようにニュースとなっている。喜ばしい授賞であるが、過去にジャン・ポール・サルトルが1964年文学賞を「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない。」と、レ・ドゥク・トが1973年平和賞を「ベトナムには、まだ平和が訪れていない。」と2人が辞退している。ちなみに最年少授賞者は、マララ・ユサフザイ17才で2014年平和賞である。ノーベルは、ダイナマイトを初めとする30にも及ぶ特許、兵器への利用など商業化に成功し莫大な富を築いた。1888年の新聞の誤見出し『死の商人、死す』と記事「瞬時に今までにない大量殺人兵器を発明した博士…」これを読むことになったノーベルは、自分がどう記憶されるか考え続け、ノーベル財団設立の遺言を書いた。研究や文学活動、社会平和活動に尽力した人々に賞が贈られることは、アルフレッド・ノーベル自身にとっても名誉回復活動なのだろう。他に有名な賞を数えてみると、世界的数学賞のフィールズ賞、音楽のグラミー賞、映画のアカデミー賞、テレビのエミー賞、そして、イグノーベル賞から会社のボーリング大会のブービー賞まで多種多様。ブービー賞を「私には値しない。」と辞退すれば笑いとなるだろうが、私たちはどんなに賞が好きなのだろうと思う。いや、「受」賞ではなく「授」賞と書くのだから、授けることが好きなのかもしれない。さて、大晦日も近い。大掃除に誤見出し(ゴミ出し)も大変である。名誉とか記憶とかは置いておいて、身近な人たちに決して辞退できない賞を授けようと思う。授賞会場は心の中、賞名は「ありがとうで賞」である。(2015年12月23日@nortan)

24、鬼怒鳴門

鬼怒鳴門、ドナルド・キーン博士が遊び心で名刺にかかれた漢字名だそうだ。東日本大震災後、多くの外国人が放射能汚染を恐れて帰国しはじめていた。そのタイミングで、博士が日本国籍を取得し日本に永住することを決意されたとのニュース。「なぜ、日本人になるのか。ならなくても、想いは充分伝わる。」と感じていた。昨日、キーン博士の自伝を読んだ。幼い立ちからはじまり、太平洋戦争で海軍日本語学校への志願、日記解読作業で南の島に散った日本兵の心との出合い、日本文学研究や著作・翻訳活動を通して三島由紀夫などの多くの文学者たちとの交友など、自伝は震災の数か月前で終了しているが、日本と米国を往来する毎に深まっていく我国への思いを感じた。『日本人になる』という言葉が重みを増した。我々は日本で生まれたから「日本人である」が、この国で生活しながらその文化を本当に理解し、大切にしてきただろうか?博士の自伝は、そう問いかけできた。博士は日本に帰化された時、「鬼怒鳴門」ではなく「キーン・ドナルド」と片仮名を選んだ。無理矢理、漢字を当てるより、仮名文字こそ日本文化と見ぬかれたのだろうと思う。世界中の文化は優劣つけられるものではないが、博士のように外から見る視点も大切にするからこそ、日本文化は輝くのだろう。先日、平和で豊かな日本(世界)のために自分にできることを話しあった。ひとつ答えが見えた。「ある」を卒業し、日本人になろうと思う。(2015年12月20日@nortan)

17、そうかい

名優・笠智衆演じる主人公周吉。妻とみとの会話で静かに「そうかい…」と呟く場面が瞼と耳に残る。未来に残したい映画として、世界中で支持される小津監督の「東京物語」をようやく視聴することができた。1950年代初め、終戦を乗りこえ経済成長をはじめたばかりの日本の風景、街並み。モノクロームで、どことなく懐かしい。妻とみの葬儀後、仕事の忙しさを理由に東京に帰る子どもたちに「そうかい。もう帰るのかい。いやぁ一」とぽつりと呟く周吉。「もう少し、居ればいいのに。」とは決して言わない。経済成長まっしぐらの世の中、大切なものが家族から仕事に変わった。周吉にとって「いやぁー」が精一杯の自己主張だ。我が父も、10才の夏、ラジオで敗戦を聞いた世代。平素、我を主張する姿は見たことはないが。ただ1度だけ、退職前に酒に飲まれて息子に不満をぶつけたことはあった。その後は、結婚・転居・手術など人生の決断を「そうか。」と息子に委ね続けた。「東京物語」を2度見直した。周吉も旧友との久しぶりの酒に「わしも不満じゃ。」と心奥をもらすが、その後「それは親の欲と云うもんじゃ。」と自分を抑えこんでしまう。周吉の「そうかい…」と父の「そうか。」が重なった。見終わって、林檎の匂い(己羅夢11)というより、田んぼの土の匂いがした。戦後70年、豊かな日本に生まれかわることができたのは、必死に働いた世代があったからだけでなく、黙ってそれを見守り、新しい時代の肥やしとなった世代があったからだと理解する。透析と介護サービスの日々で、「今日は、どうだった?」の会話に「おう。」としか言わなくなった父に、モノクロームの時代を思う。(2015年12月10日@nortan)

16、73歳の大学生

受験情報紙を飾る73歳の大学生。インタビュー記事には「日本には参考書がない。みんな説明書で、ちっとも覚えられない。だから、自分で作っちゃった。そしたら、楽しくって、勉強が遊びになっちゃった。」子どもの頃、放送を楽しみにしていた「欽ちゃんのどこまでやるの」の萩本欽一さんらしい言葉だ。「ぼくは、就職は関係ないから、人生に本当に必要なことだけ学べる。単位を落としても、また学べると思ったら楽しい。」とも語っていた。30年前に祖母が「なかなか覚わらんけど、楽しみだ。」と中1数学講座の再放送を何度も根気よく視聴していたことを思い出した。「学び」の目的は何なのだろうと改めて思う。よい高校に行くため、よい大学に行くため、よい就職をするため…と、よいよいを繰り返すが、誰にとっての「よい」なのか。それをはっきりさせないから「自分に本当に必要なこと」を後まわしにしているのかもしれない。欽ちゃんのインタビューを「はい。」と手渡してきた娘も受験生。昨年、息子に言ったように「自分のやりたい道に進めばいい。」と見守ってやりたい気持ちが揺れ動くが、決めた。「子日く、四十にして惑わず。」天命を知るには少しばかり早いが、人生の学びを楽しむ姿を、欽ちゃんや祖母のように見せてやろう。子は、親の姿を見て決めればよい。(2015年12月6日@nortan)

11、林檎の匂い

小津安次郎監督の東京物語(1953年)が、イギリスの雑誌で世界一の映画に認定された。その理由のひとつは、優しさを感じさせるから。調べると、アジア映画TOP10の1位にもなっている。このニュースに、昭和の懐しさを感じながら、銀河鉄道の夜(宮沢賢治)を鑑賞した。中学時代に文庫本で読み、最近2度下見して、3度目の落ちついた鑑賞。東京物語よりも古い戦前の昭和と賢治の世界。サザンクロスに向かう列車に乗車しているように感じた時、突然「りんごの匂いがしてきた。」…「何か幸せなのか分かりません。どんなつらいことでも、それが正しい道を歩む中でのことなら…。」のセリフが心の中に飛び込んできた。林檎の仄かな匂いを感じられる心境、それが幸せなのだと理解した。つまっていた左目の涙腺から涙が流れた。賢治とは別の時代を生きていると決めつけていたが、人の心は何も変わっていないのだ。人の無意識のしぐさ、左に目線を移すのは過去を思い起こしているのだそうだ。人生の折り返し地点を越えると、左を見ることも多くなるのだろう。最近、動画配信サービスで外国テレビドラマにハマっていた。パラレルワールドや未来へのタイムトラベル。予想もしない展開に娯楽性、仕事の疲れを癒してくれたが、日常逃避、右ばかりを見ていたかもしれない。人生の折り返し地点を越えたと実感する年齢。過去の自分と向き合うために、林檎をかじりながら東京物語も鑑賞してみようと思う。(2015年11月28日@nortan)

10、素朴派

職業を別にもちながら、絵画を描いた19世紀~20世紀の画家を「素朴派」と呼ぶそうだ。アンリ・ルソーは、パリの税関職員でありながらの日曜画家だった。「眠るジプシー女」は中学生の頃、県立美術館で出合った記憶がある。有名な作品の多くは、絵に専念するために退職した50才代に描かれたものだ。ゴーギャンやピカソなど一部の画家に評価されたものの、広く評価されるようになったのは晩年だそうだ。先月、先輩が退職を契機に開かれた絵画個展に伺ってきた。当時から絵画制作の世界の話を聞かせてもらっては驚き、大学の講師枠にチャレンジしたことを聞いては、その志の高さに関心したことを思い出した。県立美術館の壁に展示された多くの作品の中で、当時の絵はどれですかと尋ねたら、そこには巨大なキャンバスに描かれた力強い山があった。日常の暗鬱としたものを晴らすために長野の山に一人登って打ち込んだ作品だそうだ。先輩の当時の年齢に追いついた私に「君も登ってこい。」と語りかけてくるが、麓にもおよばない。せめて、己の前に立ちはだかる壁を乗り越える力となるよう、その絵を瞼に残して館を後にした。20年前、目の前の壁に自己流で挑もうとしていた私に「来年は、一緒にやろう。」と温かい声をかけてくれた。その素朴な一言が、壁に負けない力となった。ルソーの「猿のいる熱帯の森」を鑑賞しながら、先輩も素朴派であったと感謝の気持ちが込み上げてくる。(2015年11月22日@nortan)

8、チップ

Tipとは、英語圏では「To Insure Promptness」と書かれた箱を「サービスを早く受けたい客」のために置いたことが始まりとされ、仏語圏と独語圏 では「これで一杯飲んでくれ」と金銭を渡したことが始まりとされている。我々の文化でいえば、優待料や心づけに相当するものだと理解できるが、両者の意味合いは大きく異なる。極端に言えば「私は特別扱いの客だ。」と「あなたの心づかいに感謝します。」になるだろう。東西文化の違いだろうと思っていたが、どうやら西洋ではもっと繊細な問題らしい。ロサンゼルスのレストランでクレジット支払いをした人物が、チップ記入欄に金額ではなく、払わないといった言葉を記入して店を出ていった。チップを払わない理由を語源からのみ考えると「私は特別扱いではなかった。」か「あなたに感謝するようなサービスは受けていない。」となるのだろうが、「アメリカ国民にしか払わない。」と書かれていたというから、背景は移民問題や差別問題ともかかわり複雑である。チップ文化ゆえに、労働対価が低く設定されていることも多いそうだ。日本では料金にサービス料が含まれるからTipを渡す文化は廃れたと言われる。しかし、レストランで支払を済ませる時に「ありがとう。」「ごちそうさま。」と客側からも声をかける文化はまだ廃れていない。サービスするとされるの関係にこだわらず「お互いさま」の文化。西洋文化からすると奇妙なのかもしれないが、もしチップ欄に「ありがとう」と記入していたらどうだったろうか。日本でしか生活したことのない私には推し測れない文化の違いがあるのかもしれないが。(2015年11月20日@nortan)

4、睡蓮

印象派の流れを創ったフランスの画家の展覧会が始まった。クロード・モネは、光と色彩の変化を追究した「光の画家」である。妻をモデルに「緑衣の女性」と対比して「ラ・ジャポネーズ」を発表したり、自ら手がけた「水の庭」に日本風の太鼓橋を渡したりするなど、日本の風物に魅せられていく。池の周囲には桜や竹、柳や藤も植え、睡蓮も日本から取り寄せたそうだ。睡蓮は、日本では未草(ヒツジグザ)とも呼ばれる。地下茎から水面に葉を伸ばし、夏~秋に白い花を水面に伸ばして咲かせる。ヒツジの刻(午後2時)ごろに花を咲かせるが、夜になると閉じて睡眠する。ゆえに、「水」蓮ではなく「睡」蓮である。3回ほど花を開いた後は、散るではなく、閉じたまま静かに沈んでいく。仏様の台座である蓮(ハス)との違いでもあり、日本の代名詞である桜の散り際とも対比できる。「桜、舞い散る。」「紅葉、舞い散る。」と圧倒的色彩を放つ風物ではなく、静かに白い花を水面に咲かせ、静かに消えていく睡蓮をモネは愛したのだろう。晩年は、それしか描かなかったと言われる睡蓮の連作は200作品にものぼる。モネの商売上手もあって、世界中の美術館や個人収集家のもとに存在する。モネは遺言として、「睡蓮」を展示する時は自分の他の作品と一緒に展示しないこと、作品と人の間に物を置かないことの約束を残した。先日より仏国では、夜も眠れぬほどの騒動である。日本の学生もホテルで外出禁止となり、美術館等の公共施設も閉鎖と聞く。モネの肖像画が「睡蓮連作を世界中から集めて、鑑賞してほしい。」と語りかけてくるようだ。人と人の間の垣根を取り払って。(2015年11月15日@nortan)

3、リンドバーグ

深代惇郎氏の天声人語で取り上げられた人物は、時代を越えた存在感がある。おかげで大西洋単独無着陸飛行を成し遂げた英雄リンドバーグと新たな出会いをすることができた。彼には飛行家の他にも、人工心臓還流ポンプの発明家、飛行機が戦争に使われるようになるだろうとの予言者、そして自国が戦争に参加することへの反対表明、その思いが理解されぬまま愛国心を示すために空軍パイロット、第2次大戦で見聞した非人道行為の告発者、晩年は自然環境の保全活動への投資家としての顔がある。彼にとって、どれが本当の顔であったか問うことに意味はない。私達が意味を感じる部分だけを取りあげているのである。12才を前に50名近くの歴史人物を教示し終えた。いかに人物の一面しか語れていなかったか。我が機もそろそろ燃料が尽きそうである。一度、己の顔を見つめるために、中継着陸地点を探そうと思う。(2015年11月14日@nortan)

2、ビルマの竪琴

竹山道雄氏の物語「ビルマの竪琴」、市川崑監督2度目の映画化を視聴したのは高校時代。その後教壇に立ち、世界の国名を学ぶ時「ビルマはミャンマーになった。」と話した。当時深くは突き詰めなかったが、それから25年間軟禁状態にありながらも民主化の戦いを続けてきたのがスーチー氏である。先日の選挙による国民民主連盟の勝利宣言と現大統領の受け入れ宣言。氏は熱く「現行憲法の下で私は大統領にはなれないが、今後のことは私がすべてを決め、大統領以上の存在になる。」と語ったと聞く。ミャンマーが民主化路線を進むことは間違いないだろうが、少しばかりの違和感を抱く。教室では明治維新から大正にかけての学習を終え、次は単元「太平洋に広がる戦争」ヘと進む。ミャンマーでの出来事を我が国の明治維新と例えるニュース解説も興味深い。この先、ミャンマーはどんな歴史を紡いでいくのか。富国強兵、殖産興業と続くのか。我々は歴史から学ぶべきことが多い。フィクションであっても、平和を願って僧となり英霊とビルマに残ることを決心した水島上等兵の竪琴の音が教えてくれることもある。(2015年11月13日@nortan)

1、五穀成長

穀の字を教え、五穀と熟語を示した。五穀とは「稲、粟(あわ)、麦、稗(ひえ)」ときて、はて、もうひとつは?と調べると「黍(きび)」と出た。そもそも、中国でも日本でも古来から一定せず「稲・麦・粟・大豆・小豆」『古事記』であったり「稲・麦・粟・稗・豆」『日本書紀』であったりするそうだ。Wikiペディアは便利で、キビは黄実から転じた読みで本当に黄い実をつける。また、古来のキビ団子と江戸時代に作られるようになった岡山(吉備)土産のきび団子とは別物であるらしいと、即座に調べることができた。道理で、吉備団子を土産に包装紙の紙で絵本まで作って育てた息子が従順なお供とならず、気持ちが一定しない立派な反抗期が訪れた訳である。それから4年、親の鬼面も必要なくなった。Wikiペディアのように即座ではなかったが、アルバイト先で年下の中学生の横柄な態度にもめげず、老紳士に「君は、いい笑顔をしているね。」と褒められたと語り、働くことの機微を感じ受け止められるようになった息子の成長を喜ぶ。黍のおかげか、吉備のおかげか。16年前に私が岡山駅で選んだのは「機微団子」だったと、反抗期あっての五穀豊穣を洒落てみる。(2015年11月9日@nortan)