158、帽子

責任(responsibility)とは、行為者が特定される場合にその行為に対して応答(response)する能力(ability)である。法的責任であれば賠償能力も問われるが、道徳的責任であっても、その行為と結果に応答する「説明責任」はある。だから、カメラの前で「私は知らぬことです。」とうそぶくのは「責任」から逃げているし、「申し訳ありませんでした。」と土下座するだけでは「説明」をすっ飛ばしている。

どうして、すぐに辞職したり土下座したりすることが、責任をとることと同義となってしまったのだろうか。それは、武士の切腹のイメージと重なるからだろう。赤穂事件でも浪士の切腹で事件の幕を閉じるが、どうして浅野が吉良を刀傷する事件が起こったのか、浪士の行いは忠義であったのか、幕府の裁きは適切であったのかは曖昧模糊としたまま幕引きとなっている。まるで原因をはっきりさせない方がよい何かが存在するように…どうやら、我が国の責任のとり方はResponsibilityではなく、EscapebilityかAmbiguousibilityに近い。

さて、上司を守るために部下が黙って責任をかぶる。これを美徳と感じるか、蜥蜴の尻尾切りと不快に思うかで、赤穂事件への評価も分かれるのだろう。新時代は「上司のために責任をかぶる部下」と「部下のために責任をとる上司」どちらが美徳となるのだろうか。 かたや「責任」が帽子(かぶせもの)になったことは、間違いない。それならば、トップがかぶるべきだが…

(2019年6月30日@nortan先日聞いた「もし、何かあった時の責任は、最終的にあなた方にある。」という言葉から)

157、遣唐使

日本の留学生は、隣国の35分の1で年間約2万人だそうだ。「豊かになり、もはや外国に学ぶことはない。」と思っているなら、それは「先発の奢り」で、日本は「茹でガエル」になってしまうと、実業家の小林喜光さんは警笛を鳴らす。

戦後、焼け野原に社会インフラを整備し、アナログのモノづくりで世界トップの経済力を手に入れた我が国も、今や古いインフラとかつての栄光が邪魔をして、新しいデジタルのコト(ソフトウェア)づくりとグローバル化の波に乗れていないのだ。プログラミング教育の必修化は、遅ればせながらその波に乗ろうという足掻きなのだろう。しかし、教育の成果は10年、20年後にしか表れない。その頃には、今の波は沖の彼方。慌てて、中国に遣唐使をなんて時代になっているかもしれない。飛鳥奈良時代に、命がけで海を渡った大和魂は、24時間何でも手に入り、家に居ながら商品を受けとれるようになった「今は豊かな国」には不用な魂なのだろう。豊かにつかっていると「未来を見る力」が衰えるようだ。

さて、世界の三大投資家の内の一人が「将来のことを考えるなら、日本から脱出しなさい。」とバラエティ番組でタレントにアドバイスをしていた。そして、先日「100才まで生きるって、考えたことある? (あるケースでは)2000万円の赤字。その分は自助努力しないと…」の大臣発言。茹でガエルならまだ幸せで、痩せガエルになってしまう心配も現実味を帯びてきた。留学生はUターンだが、Iターンの移民となっては元も子もない。

ところで、政府から流される情報に一喜一憂するのではなく、何らか意図を詮索すれば、心配すべきは他にあるのかもしれない。たとえ、痩せガエルになったとしても、この国が故郷。せめて「負けるな一茶、ここにあり」と「未来も豊かなこの国」を夢見よう。(2019年6月9日@nortan年老いても夢見れる国でありたい)

156、Leadies and Gentlemen

「Leadies and Gentlemen」先程、新幹線で流れたアナウンス。子どもの頃にテしビで覚えたフレーズで、教室の前で「みなさん、聞いて下さい。」という代わりにこれを使えば、「何事か?」とばかりに効果的であり、ちょっぴり紳士になった気分でもあった。

それが今、本家アメリカの乗物では使用禁止、「All passengers」と言うそうだ。どうしてそうかとは問うまでもないが、日本ではまだ使っていることに今更気づいた。ひょっとしたら、女性専用車両との整合性で敢えてそう言っているのかとも思ったが、これは別問題だ。

そして、ガソリンスタンドでレディースデーを見かけなくなったのも…と、いろいろ思いつく。どうやら、私たちは、大人を紳士と淑女に2分したいようだが、それは時代遅れ。紳士と淑女を足しても、大人の数にはならぬらしい。では、残りは何?「大人になれない大人」だとしたら、これも別問題だ。そう言えば我が国では、大人の女性でも「女子」会なんて言うから、レディは絶滅危惧種なのかもしれない。もちろん、ジェントルマンもオレオレ(自分中心主義)で、少しもジェントルではないという絶滅危惧種だろう。

さて、すべての人が男子か女子に分類できるとする。その上で問題。「お客のいないバスに男子が15人、女子が15人乗ってきました。バスには何人乗っていますか?」という算数。ひっかからないぞ。運転手も入れて、15 + 15 + 1 = 31人。いいえ、30人。なぜなら、自動運転バスだから。ところで、AI(人工知能)はLeadyだろうか?Gentlemanだろうか?それとも、プログラムだから、記憶装置のpassengerなのだろうか…(2019年6月9日@nortan東京での報告会で挫けそうな自分を奮い立たせる帰り道)

155、ゲーム攻略

人工知能は、人間との勝負に飽きたのか、ゲームを次の対戦相手に選んだようだ。画像認識力を使って、マリオを操作する。最初はランダムにジャンプするか前進するか選択し、失敗すると初めからやり直す。試行錯誤を繰り返して各ステージをクリアへと導く。

もし、マリオに自我があるのなら、どう思っているのだろうかと気になった。人工知能がリセットされる度に予知能力を得ていく一方、マリオは失敗するまで「俺って最高!」と根拠のない自信を持っているにちがいない。何度もやり直して一歩ずつ先に進んでいたことには気づきもしないで…

また、このゲームはキャラクターを左に動かせない。私たちが時間を遡れないことに似ている。私たちも気づかずに歴史を何度もやり直しているのか?案外、これが「時間が一方通行である」ことの真相かもしれない。

ところで、キャラクターである私たちに喜怒哀楽はあるけれど、操作している超人工知能に「ゲームを楽しんでいる」感覚はあるのだろうか?ランダムに操作しているだけというのはやめてほしい。せめて、プレーヤーは八百万神の誰かであればと思う。(2019年6月2日@nortan ホーキング博士の警告に逆らいAIを開発すべきか?)

154、ペキニーニョ

ブラジルの大統領が、日本人をそう揶揄したようだ。ペキニーニョとは「小さい子ども」という意味だ。「あの国は、何もかもミニチュアサイズ。」と空港で一緒に記念写真を撮った日本人には、人指し指と親指でジェスチャーをして批判されたばかりである。何よりも落胆したのは、記事に「公にそれらを表現する人はない。」とあることだ。これは「我が国では、みんなそう思っているが言わない。」と言っているに等しいからだ。

昨夜から400kmほど移動して駅に降り立った。スマホでGoogle地図を縮小してみると、ポツンと日本列島が現れた。今まで訪れた地点も含めて10インチの画面に収まった。所詮、キン斗雲でさんざん飛んでも手の平から出られなかった孫悟空なのだと思う。こんなことを考えていたら、震度4の揺れ。お釈迦様もクシャミをしたか…

さて、「そんなこと言いません!」とボルソナーロ氏の口をふさぐことはできないし、そうすることは逆に発言を肯定してしまう。もちろん、現代日本人の体格はペキーノではない。住居が狭いのは風土と文化だ。ただ、この島国は、ペキーノ。手の平から出る力がなければ、彼の挑発を認めてしまうことにもなる。我が国がこれからも追われる国であるために、私のちっぽけな大和魂も奮い立たせねばなるまい。(2019年6月1日@nortan)

153、アンドロイド観音

観音寺の境内でハトに餌をやって過ごしていた昔、観音様に「また、遊びに来たのか。私の使いであるハトたちに、しっかり餌をあげてくれ。」と語りかけてられるようだった。そこで、買ったハトの餌を紙袋から少しずつ出して地面にばらまくと、首を前後に振りながら器用に小石を避けて食べるハトもいれば、いつも見つけた直後に横取りされてしまうハトもいた。可哀想なので、要領のよいハトが離れている時にひょいと餌を投げてやっても、数回に1回ほどは走ってきたハトにつままれてしまった。一番効果的だったのは、一粒ずつやるのではなく、袋の中身を不器用なハトの近くに一度に蒔いてやることだった。おそらく、この様子を見ていた観音様は、夜お堂の屋根に戻ったハトたちに「仲良く分け合って食べなさい。」と説法をしたにちがいない。観音様は、正しくは観世音菩薩といい、お釈迦様のように悟りを開くため修行中の菩薩である。会社で例えると、如来が社長で、菩薩は副社長というところだ。

最近、ある寺社が大学との共同プロジェクトで、観音様のアンドロイドを誕生させたという。プロジェクトマッピングなどの映像技術を用いて般若心経の教えを説法するらしい。今後、国際化として外国語にも対応できるという。これは、社長の座を脅かす凄腕副社長の誕生だ。

さて、情報技術の発展で無くなる職業が増えることは予想されたが、僧侶のみならず観音様までとは驚かされる。次は、使いのハトたちもアンドロイドになるのかもしれない。そうすれば、餌の取り合いを心配することも無くなるだろう。同様に、人間も早くアンドロイドになれば、食糧資源の取り合いもなくなる…ひょっとして、これが究極のアンドロイド観音様の教えなのだろうか?人間という職業がなくならないよう、説法はこころざし高きお坊さんにお願いしたい。お経や説法が少しばかり不器用でも、人間味があってよい。ちょっと待て…菩薩も僧侶も職業だったろうか?そのうち、如来様もアンドロイドに?あな、おそろしや、南無阿弥陀仏。(2019年3月24日@nortan)

152、きつねの窓

図書館でふと手にした絵本。安房直子さんの作品。子ぎつねと主人公が織りなす物語。子ぎつねが人間に化けたことに気づかれながら進行するストーリーは、手袋を買いに(新美南吉)の世界観もリスペクトしている。帰り道に、主人公は子ぎつねに染めてもらった指の窓で、決して会うことのかなわない思い出人を覗き見る力を手に入れる。しかし、…と幻想的で「いのち」について考えさせられる作品。幼い頃の感覚、人間も動物も分け隔てしない感覚を思い出す。そして、せつない。

さて、きつねの窓に現れるのは、地上に存在しないものたち。そして、こちらをじっと見つめている。どこか障子紙に開いた穴から隣の部屋を覗いているような感覚。隣室の家族もそれに気づいている。私たちが、天上に存在して私たちを見守ってくれていると信じている世界。実は、紙1枚ほどの薄さを隔てて隣り合わせで存在しているにちがいないと思えてくる。

東京を離れる前に千鳥ヶ淵戦没者墓苑で胸に手を合わせた。若くしてフィリピン沖で散ったと聞く伯父に、父の旅立ちを報告した。もし、私にきつねの窓があれば、出征する前の兄の膝にちょこんと座ってあまえる男の子の姿が見えるのだろうか。(2019年3月23日@nortan子どもの頃、父の実家の土壁にあった零戦の落書きを、兄に教わったと聞いたことを何故か今思い出した。)

151、オポチュニティⅡ

チャンスは、突然舞い込んだ幸運のこと。だから、チャンスは「つかむ」か「逃す」かである。それに対して、オポチュニティは、他の選択肢もある中で自ら選んだ機会のこと。だから、他方を選んでいた場合との「結果の差」が生じる。それが、オポチュニティコスト(機会損失)である。チャンスはコストを度外視するが、オポチュニティには損失(コスト)が伴う。他の道を選択したほうが良かったかもという「後悔」も生じる。つまり、それを承知で選択したという覚悟が「ある」か「ない」が核心である。

さて、オポチュニティコストについて考えてみた。チャレンジしてスタート地点に立つことができたと考えれば、チャンスでもある。しかし、やり遂げられるかという「不安」に焦点を当てると、コストとなる。つまり、この「不安」が「覚悟」を揺さぶる。単純に、チャンスとオポチュニティとを線引きできず、日によって行ったり来たりする。

そこで、火星のオポチュニティに思いを馳せてみた。彼?彼女?にも「不安」はあったに違いない。それを乗り越えて、10年近くも砂嵐とたたかえたのはなぜだろうか。それは、離れた場所で同じ目的と夢をもつ仲間がいたからだ。また、地球には万一に備えた専門家もいた。

己のめざす道も赤い大地だが、一人ではない。そう心から思えた時、「不安」は再び「覚悟」に変わり、チャンスとなるのだろう。(2019年3月23日@nortan本日は、よい式辞をいただいた)

150、オポチュニティ

My battery is low and it’s getting dark.

2019年2月14日。遠く離れた惑星から届いた最期のメッセージ。

人類移住の希望を背負い、2004年から赤い大地を42.195km以上走破したマラソンランナー。

離れた砂地トロイでは、身動きがとれなくなって休止した相棒スピリットが眠っている。

90日で任務を終えると予想されていたのに、10年近くも稼働することができたのは、太陽光電池の上に積もった砂を吹き荒ぶ風が払い続けてくれたから。

それほど火星の大地は厳しい環境だ。

いつか近い未来、私たちの作り出したAIロボットが、赤い大地に根づくように遺伝子加工した植物や動物、微生物や新人類など、生命の種を持って移住し、緑の大地に変えるのだろう。

さて…

大昔、地球も赤い大地だったのかもしれない。地中には金星からやってきたオポチュニティたちが眠っているのだろうか。(2019年3月22日@nortan 任務お疲れ様)

149、道徳の種類

まず、未来の道具、もしもボックスで「みんないなくなっちまえ。」と叫んで地球で一人ぼっちになったのび太にも必要なのは、道徳(個人道徳)。叱ってくれる他者がいないからやりたい放題だが、そのうちに生き残るために守るべき主体的内面規制が必要になってくる。果実や池の魚を取りつくしてしまえば食料危機に陥るし、種子を植えて水の世話をしなければ翌年の収穫は見込めない。そこで、利己的欲求と自然(現実)との葛藤が生じる。

次に、元の世界に戻ったのび太に必要なのは、倫理(公共道徳)である。これは、利己的欲求と他者との間に生じる葛藤である。私が欲するものは、他者が欲するものでもあり、それは有限である。互いが納得できるように分配しなければならない。平等とか公平・公正という市民的道徳性が求められる。

そして、学校でのび太が学ぶのが、よき国民となるため道徳(国家道徳)である。日本人は目上の人にお辞儀をしたり、すれ違う時に体を横にしたりする美徳がある。敬虔な信者は、朝昼晩または休日の祈りを欠かさないなど、国家によって求められる姿が違なる場合がある。先日、ラジオで教育評論家尾木直樹さんが「今年度から、教師が小中学生の道徳性を言葉で評価しなければいけなくなって、先生たちは困っているのよ。いかがなものかしら。」なんて苦言を呈していた。子どもがもらってきた通知表に「思いやりがない」とか「正義感に欠ける」とか記されていたら、親子で寝込むか「教師は神ではない。我が子の何が分かるのだ。」と開き直るしかない。宗教を国教と定める国の教師も、子どもたちの道徳性を評価しているのだろうか?

さて、道徳性は時代によっても変わるはずだ(時代道徳)。生き残るために「力の論理」が求められていた時代は「強いこと」が正義であり、「強者により多く分配されること」が公平だった。そして、「強者が、コロッセウムの闘技などの娯楽で民衆の不満を抑えたり、与える情報を統制したりして都合のよい政治を行うこと」が国家の在り方だった。

それに比べて、今は…と考えて、気づいた。昔も今も変わっていないのではないか。道徳性を評価されるべきは、子どもではなく大人なのではないだろうか。子どもたちに「挨拶・勤勉・正義・公平・公正・思いやり…」などのボタンを押してもらい、テレビに映る大人をリアルタイムで評価してもらうというのはどうだろう。いや、子どもにはまだ道徳性が育っていないというのなら、絶滅に追い込まれている動物たちに評価してもらってはどうだろうか。動物に道徳はないというのなら、胸に手を合わせて目を閉じ、静かに神の言葉を聴く。神は、こう言うかもしれない。「それは、お前たちの問題だ。私には評価できない。」と。(2019年3月21日@nortan時代の要請は、公共道徳のようだ)

148、勘違い

東から昇った太陽が、南の空を通って西に沈む。事実は、地球が東に向かって自転しているのだ。

サイコロを5回振ったら、1の目が5回続けて出た。確率は「1、1、1、1、1」も「1、5、2、3、6」…も、同じ6の5乗分の1だ。

大昔、祈祷師が雨ごいをしたら、数日後、祈りが天に届いて雨が降り出した。彼は天に通じる神通力をもっている。今で言えば、週間天気予報で雨が降ることになっていただけなのだろう。

会社の赤字を黒字に回復した。ワンマン社長が、私の実力だと思った。そう思うのは勝手だが、社員たちの努力や知恵に感謝しなければならない。また、成功したのは、私の努力の賜物だと思う。それは、生まれた環境と育った環境、少しばかりの幸運に恵まれていただけなのかもしれない。

科学の発展で私たちの文明は進歩している。未来はもっと豊かになり素晴しいと推測する。しかし、科学の進歩と裏腹に、人間の脳や心は退化し、種としての寿命は終末に向かって突き進んでいるのかもしれない。もし、地球外知的生命が地球人を発見していたとしても、会いたいだろうか。

「我思う。故に我あり。」自分の存在を疑っている私が実在していることだけは疑えない。デカルトによる意識の発見である。しかし、本当は、意識ですらプログラムコードで、私たちは仮想世界の実験的存在(実在)なのかもしれない。

ああ、私たちが気づくべき勘違いは幾つあり、気づかないほうが幸せな勘違いは幾つあるのだろうか。(2019年3月20日@nortan)

147、GAI

このテストは、間取りを知らない家に上がってコーヒーを入れることができれば、合格だそうだ。何だ、そんなことは容易い。まず、新築を建てた友人の家に突然お祝いに行く。「まあ、あがってくれ。」と言われたら、のこのこと上がって、「お願いがある。何も言わず、俺にコーヒーを入れさせてくれないか。」と頼む。その後、キョトンとする友人をよそに、キッチンに行ってお湯を沸かし、インスタントコーヒーをカップにスプーン一杯入れて、沸いたお湯を注ぐだけだ。本格的にコーヒー豆を挽いてドリップ式で入れるとしても、時間はかかるが何てことはない。問題なのは、困惑する友人の視線に耐えることと、以後の友情に少なからず亀裂を生じさせることくらいだろう。

ところで、これは「図々しさ」や「度胸」を試すテストではない。『汎用であるかどうか』を試すテスト、ウォズニアックテストである。もちろん、対象も人間ではなく、人工知能(AI)だ。Apple社創業者である、もう一人のスティーブが考案した「次世代汎用AI(GAI)」に求められる能力である。しかし、AIはこのテストにパスすることができないと考えられている。知らない間取りからキッチンを探し、知らないヤカンに、知らない蛇口で水を入れて、知らないコンロでお湯を沸かすこと、つまり、人間なら推測して行動できることができない。一を聞いて十を知る能力がないのだ。

このように考えると、人間とはナイス・ガイ(GAI)である。超能力的なことは出来ないが、それなりのことをそれなりにできる。少し字は違うが「凡人」であることがどんなに素晴らしいことか気づかせてくれたのは、意外なやつ(GAI)だっだ。(2019年2月12日@nortan)

146、じっくり

神の存在を脅かす者を許さない女神がネメシス。その名前をつけられた未知の天体が存在するらしい。きっかけは、肉眼で見える恒星の半数以上に双子星があり、太陽にもその可能性があると考えられたことによる。仮説によると、太陽質量1/10の双子星(伴星)は、2600万年周期で太陽に近づき、太陽系外縁を球殻状に取り巻いている小天体(オールトの雲)の軌道を乱し、太陽に向かって小天体を落下させる。そのため、地球では恐竜を絶滅させたようなディープインパクトが同周期で起こったのだそうだ。また、別の仮説によると、ネメシスは伴星ではなく発見されていない第九の惑星で、同様にオールトの雲を乱している可能性もあるという。

さて、伴星であろうが、惑星Xであろうが、ネメシスは未だ発見されていない。だからといって「思い過ごしでしょ。」とはならない。データ的裏づけもあり、今の人類にネメシスを見つける技術力がないだけなのだ。

現在、ネメシスは最遠にあることも分かっている。次の最接近は1300万年後。人類にはじっくり考える時間はある。(それまでに、別の神々を脅やかすことがなければの話であるが。)ちなみに、お釈迦様の次仏となり私たちを救済して下さる弥勒菩薩も、兜卒天(天界)であと56億7000年かけてじっくり修業中である。と言うことは、1300万後の人類の救済は諦めたのだろうか?心配になってきたので、小さな頭でじっくり考えてみようと思う。(2019年2月11日@nortan)

145、同意

インドで若者が「同意もとらずに、私を産んだ。」と両親を告訴した。弁護士である両親は、27歳の息子の生き方を認めていて、仲も良いという。母親は「どのように同意をとることができるか論理的に説明できれば、非を認めましょう。」と応じたそうだ。なんとも馬鹿げたことだと感じるが、人口急増のインドではこのような反出生思想が広がっているらしい。

「親の一方的な思いで、苦しみと悲しみばかりの世の中に、子どもを生み出すことは是か非か?」という問いは、さすが仏教の古里、インド的で興味深い。この問いは哲学でもあるが、裁判を通して弁済を両親に求めた点では、短絡的かつ刹那主義である。

もし、勝訴するとすれば、両親の人生の苦しみは祖父母に、祖父母の悲しみは曽祖父母に…と、人類が子孫を残すという選択をした時にさかのぼることになる。また、科学的には、単細胞生物が分裂を始めた時にまで行き着くだろう。つまり、人生の苦しみへの問いは、生命が誕生して以来、遺伝子レベルで受け継がれてきた根元的な命題である。

さて、判決を予想してみよう。

原告人の苦しみは、全ての生命の苦しみでもあり、被告人の苦しみとも等価である。被告人は原告に、そういった思いを感じさせまいと「苦しみのバトン」を渡すつもりはなかった。しかし、原告人は被告人の同意なしにそれを受け取った。原告人はバトンを受け取ることを拒否できなかったと論理的に説明しなければならない。つまり、原告人、被告人ともに論証不可。ゆえに、主訴を棄却する。

インドで誕生した反出生思想も、いずれ我が国に伝来するのかもしれない。その時は、「同意がなくとも、託されたものがある。そのひとつが、苦しみや悲しみに立ちむかうことだ。」と気丈にはね除けたいと思う。(2019年2月11日@nortan父の一周忌法要を終えて)

138、クラウド

パソコンやスマホを動かしているOSとアプリ。今では、インターネット経由・Wi-Fiでの更新が当たり前だ。店でパッケージになった新商品を購入し、家でCDをパソコンに入れて更新していた時代からすれば、ますますソフトウェアの形が見えなくなってきている。世界初のプログラム。それを運ぶように頼まれた者が「重さは、何kgだ?」と尋ねた。「重さはない。」と答えると、「それでは、運べない。」と言う。正確には紙にあいた穴がプログラム自身の重さだが、仕方がないので紙の重さを伝えたという話もあるそうだ。穴をあけたり、0と1の数字やプログラム言語で表記したりするのは、人間とコンピュータのやり取り上の都合であるから、そもそもソフトウェア(プログラム)には形も重さもない。雲をもつかむような真実なので「クラウド」という表現がぴったりする。今や、更新プログラムは空から降ってくる時代だ。

数日前、スマホに「OSの更新」が届いた。更新ボタンを押すと画面が変わり、ダウンロードとインストールが終了するまで10分程。随分早くなった。昔はダウンロードに夜から朝まで数時間もかかったことを思い出した。今では、使っていない時に分割してダウンロードし、完了したら通知してくれる。夜通し気にかける必要もなくなった。

さて、ここ数日、1年の疲れか年齢のせいか、体を横にすると睡魔に襲われる。気がつくと小一時間程経っている。ひょっとしたら…、クラウドから更新プログラムを分割ダウンロードしているのかもしれない。そのうち、目の前に「更新しますか?OK・キャンセル」なんて表われるかもしれない。その時は、どうしたものか。OKを押して目が覚めたら、苦手だった微積分の計算がスラスラ解けたり、外国語がペラペラ話せたりすれば素晴らしい。しかし、年齢に応じた仕様変更プログラムやバグを含んでいたらキャンセルだ。更新の詳細を読んでからにしよう。いや、それすらない自動更新?送り手は、神様?宇宙人?こんな空想に取りつかれてしまった。

空想はここまでにしておきたいが、人生の3分の2は睡眠。人は、どうして眠るのか?「寝ている間に、副交感神経が…」とか「寝ている間に、記憶の整理を…」とか「夜に適応するため、遺伝子に…」の他に、新奇な答え「クラウド説」を発見したかもしれない。(2018年12月26日@nortan)

137、不確かさ

宇宙の誕生として推測されるハッブル時間が、約137億年。また、33番目の素数が137。でも、自身を除く約数の和が137ではなく138なので、137は6のようなピタゴラス完全数ではない。さっと137について調べてみたが、それほど特別な数ではないようだった。

そこで、さらに調べると、ボーアの原子理論で原子番号137(仮名ウントリセプチウム)が最後の重元素だと予想されていることが分かった。それは陽子数が138になると、理論上電子速度が光速を超えてしまうからだそうだ。この時、登場するのが微細構造定数αの逆数137。難しくて充分に理解できなかったが、重力Gと同じく宇宙を成り立たせる、電磁力と光子に関する大切な定数だということが分かった。約137は、この宇宙を支配する定数なのだ。ヒッチハイクをする時に、137と書けば、それを見た物理学者が拾ってくれるというジョークまであるようだから、約137がとんでもなく特別な数に思えてきた。

実は、この約137。まだ充分に解明されていないようだ。他の結合定数は、多元宇宙それぞれで異なることができるが、αは変わらないとか、変わるとか。137.035999160(33)と最後の2桁が常に不確かで、定数といわれながらも定められないとか。こんなはっきりしない「約137」が、私たちの宇宙を、未来を支配しているのか!?と心配にもなってきた。

しかし、それは逆に考えると、私たちの運命を宇宙が定めることはできないということだ。ひょっとしたら、この「不確かさ」こそが重要なのかも知れないと思えてきた。枕元に靴下を置く子どもを卒業して随分たつが、クリスマスに素晴らしい贈りもの「未来は決まっていない」というメッセージを受けとった。(2018年12月25日@nortan)

107、○み

妬み(ねたみ)とは「相手のもっている物事」をうらやましく思うこと。嫉み(ねたみ)とは「自分にない物事」を悲しみ悔しく思うこと。どちらも他人と比べることが原因である。「ねたみ」から劣等感が生じると「そねみ」になる。それでは、それらの反対は何だろうか。

まず、「そねみ」の対義語を考えてみる。「相手にあって自分にない物事」に「優越感」をもつこと。そんなものあるだろうかと考えた。子どもにとったら「宿題」「ママの説教」、大人にとったら「残業」「休日出勤」など思いつくことは「自分じゃなくて、よかった。(他人事)」という「マイナスそねみ」。そねみには、陰(-)と陽(+)があった。

次に、否定してみた。「相手にあって自分にない物事から劣等感を生じない」こと。それは、他人とちがうことに一切動じない心境である。人間は脳にあるミラーニューロン(21己羅夢)が働くことで、無意識に他人と自分を比べるようにプログラムされている。どうしても、隣の柿は甘く見える。つまり「そねみ」に勝つのは、比べて陰陽感情を持たないこと・それぞれの価値観(生き方)に優劣をつけないこと。『まるみ』のある生き方に違いない。「嫉妬」の反対は『まるみ』であった。まずは、長い間に凸凹になった心の地ならしから始めようと思う。(2018年8月16日@nortan)

98、水ノ国

国連最新予測によると2055年には世界人口が100億人を越える(1万年前の1万倍、31年前から2倍)。その全人口が米国なみの生活を維持するには、地球5個分の資源が必要だという。運の良いことに、2013年シェールガス革命により地下資源枯渇のタイムリミットは約100年伸びたというが、「水資源」は増えていない。発展途上国では、水道設備などのインフラ整備も課題で、海外企業がチャンスと参入しはじめている。日本では水インフラは公共(設備)事業であるため、設計から設備・運営までトータルで支援できる民間企業が育っておらず、海外「水メジャー」に太刀打ちできていない。しかし、海水淡水化技術ではトップレベルの実力を持っている。福岡の「まみずピア」では、逆浸透方式で5万㎥(25万人分)/日と日本最大の規模を誇っている。サウジアラビアなどで行われている「多段フラッシュ(蒸発と冷却)」技術もあるが膨大な熱エネルギーが必要で効率が悪い。石油資源大国だからこそ選択できる方法だ。また、イスラエルでは、逆浸透膜方式で淡水化した水を利用後の下水を85%近く潅漑用に再利用している(日本は2%程度)。下水再利用は海水淡水化コストの1/3ですむとはいえ、これを飲用にするには火星に移住するほどの決意がいる。

このように、水資源獲得競争と海水淡水化の時代は始まっているのだ。以前、知らぬ間に日本の水源地が外国資本に売られていたことで「これでは、いけない!」と話題になったことがある。水道水を日常的に飲用できる私たちは、水資源の貴重さを忘れていたようだ。『地球上で人間が使える淡水は2.5%で、飲用に使えるのは1%に満たない。』水インフラの輸出では海外「水メジャー」に太刀打ちできていないが、国内でペットボトルの水を大量に生産し輸出することはできる。水は「ただ」ではなく資源なのだ。カジノをつくるのもいいが、世界中に「おいしい水」を届ける「水資源大国、日本」になるのはどうか。(2018年7月23日@nortan「おいしい水」でTOKYO2020おもてなし)

97、リコール

消費者庁が 2009年に設置されてから、消費者側に寄り添った企業努力が当然となっている。経済産業省「消費生活用製品安全法」によるリコール命令は、ナショナル石油暖房機(2005)、パロマ給湯器(2006)、TDK加湿器(2013)の3件で、その他は自主的なリコールだそうだ。企業イメージを第一に考えると、製品の欠陥を「なる(べく)早(く)」発見し自主回収修理(交換)した方がよい。かといって、自主リコールが続くのも考えものだ。また、製品回収とまでいかなくても、新型製品へのマイナーチェンジ(改良)を頻繁に行って、消費者に自主的買い換えをアピールするのもリコールの一種かもしれない。昔、パソコンの世界では、新OSが出るたびに新OSとそれに対応したソフトを買い換えるのが当然であった。しかし、今や無料アップデートが当然である。ハード(機械)が壊れない限り、ソフトも進化対応していく。

さて、2018年夏は今までにない猛暑。いや、猛暑というより酷暑である。この観測史上記録となる猛酷暑を、何処にリコールすべきか。消費者庁が4例目として太陽に命令できないのなら、太陽の方から「なる早」で自主リコールをしてほしいものだと思う。それは無茶なクレームだから、自分の体(ハード)を最高気温40°Cに耐えられるようマイナーチェンジしよう。しかし、これも無理な課題だ。結局、クーラーのある部屋に閉じ籠るか、来年以降も続くだろう酷暑に負けない精神(ソフト)に無料アップデートするしかない。(2018年7月22日@nortanハードが壊れる前に)

94、家族のかたち

「どうして、家族でもないのにおじさんのことを『おじさん』と呼ぶのか分かる?」これは、最近視聴し始めた海外ドラマで、母親が父親の本業を娘に暗示させるセリフだ。家族を「(イタリアン)ファミリー」に置き換えると、どういうことか分かってもらえるだろう。民法には親族の定義(血族6親等以内+配偶者+姻族3親等以内)はあるが、家族の範囲は定められていない。また、法律による適用範囲もさまざまである。だから、同居=家族から氏家=家族、世界一家(人類)=家族まで、すべて家族の考え方であってよい。第5回全国家庭動向調査(妻を対象とした家族であるために重要だと考えることの割合)では、「困ったときに助け合う(1位)」「精神的なきずながある(2位)」「互いにありのままでいられる(3位)」が上位を占め、「血のつながりがある(4位)」「日常生活を共にする(5位)」「法的なつながりがある(6位)」「経済的なつながりがある(最下位)」が続いている。このことから、現代日本人の家族とは、「自然と助け合うための絆を感じられる存在」のことだともいえる。一方、5年に1度の国勢調査では、単独世帯数が毎回増加傾向にあるそうだ。前回調査でも約10%の増加(65歳以上が約4分の1/国勢調査)であった。若者の貧困や老人の孤独死が問題となっていることとも無関係ではなさそうだ。このことを含めて考えると、私たちが「自然と助け合うための絆を感じられる存在」の範囲は意外に狭く、玄関を出ない。「ちょっとお醤油をかして下さい。」とチャイムを鳴らすよりは、コンビニに並んだ方が気安い時代。どうやら、物質的豊かさや便利さが「家族」の範囲を狭くしているようだ。さて、精神的な絆に玄関を開けさせるにはどうしたらよいだろうか。地域にスポーツチームを結成して共に応援する。愛される地域ゆるキャラをつくる。食堂つき公共銭湯をつくる。地域SNSで交流の場をつくるなど、いろいろ新しく「つくること」が思い浮かぶ。(政略なら外敵をつくるのがよいかもしれない。)そうだ。その前に大切なことがあった。ファミリーのボスではないが、まずは地域の中で「おじさん」と呼ばれることだ。(2018年7月15日@nortan)

93、成人年齢

成人年齢を2022年度から18歳ヘ引き下げる民法改正法案が可決された。「欧米諸国に合わせて」とか「若者の自立を促す」とか後からついてくる理由もある。そもそも、民法は国内法であるし、自立は年齢到達で達成できるものでもない。例えば、プエルトリコは14歳、ネパールは16歳、シンガポールやアルゼンチンは21歳である。また、明治9年太政官布告第41号で20歳を成人と定める以前は、11~16歳で男子が元服、女子が元服(裳着)を行っていた。農村では18~19歳で成人となることが慣例であったようだ。もし、生物学的な理由があるのなら身体的成熟によって個々に成人するべきだろうし、社会的な理由があるのなら何らかの試験に合格した者から順に成人すべきである。さらに、平均寿命が延びていることを理由にあげれば、成人年齢を引き下げるのではなく「引き上げる」ことの方が論理的に妥当である。江戸時代に平均寿命50歳で15歳なら、今は平均寿命84歳で25歳である。日本の労働人口減少が理由ならば、将来は15歳成人へ引き下げられるかもしれない。結局、時代や国内事情によって決めるのだろう。そうだ。「成人届出制度」はどうだろう。義務教育を終えたら25歳までの間に家族と話し合い、本人の成人となる覚悟を尊重して「成人届」を共同提出する。納税・勤労・教育などの義務や選挙などの権利、職業選択などの自由と選択に伴う責任、自立することの意味など、成人について深く深く考える機会にもなるはずだ。数年前に何処かで「今が楽しければいいしぃ。」「政治なんて興味ないっす。」という新成人を嘆いて「今の年齢は昔の7がけ。28歳でようやく昔の20歳(成人)だ。」と聞いたことを思い出した。そもそも、子どもは「早く大人になりたい」と夢みるものだし、大人は「もっと子ども時代を楽しめばよかった」と後悔するものだ。ならば、「子ども(離成人)届」も必要だ。定年齢まで働いた後、社会的義務を猶予され、余生で第二の子ども時代を楽しめるなら、未成人も成人も離成人も納得だろう。つまり、「同一年齢一斉成人制」より「異年齢成人選択制」の方が自立と責任を促せはしないだろうか。そうすれば、働き方改革など社会の枠組みに関する議論を大切にする成人ももっと増えるだろう。

(2018年7月7日@nortan全国的大雨災害を心配して)

91、ナッシュ均衡

非協力ゲーム理論において、戦術を変更した場合、損失となるがゆえ身動きできない均衡を「ナッシュ均衝」という。例えば、兄スズキと妹コンブが一緒に冷蔵庫のケーキを食べてしまった。後で食べることを楽しみにしていた姉タニシは頭に3本角を生やして「許さないわよ!」と二人を部屋に追いやった。その後、「誰が食べたか正直に言いなさい。先に正直に言った子は、お説教は勘弁してあげます。もう一人は2時間のお説教。でも、2人とも正直に言ったら30分のお説教で許してあげる。」と部屋の真ん中に座りこんだ場合、スズキとコンブはどうするだろうか?結論は、2人とも正直に言う。そうすれば、2時間のお説教は避けられ、おやつ抜きか30分のお説教で済む。スズキもコンブも自分だけ黙秘する戦術に変更することは、1時間30分プラスのお説教を受けることになるからだ。二人そろって沈黙すれば、お説教を避けられるのに、「相手への不信感」が強いほど、自白を選択してしまうことになる。これが、ナッシュ均衝による説明だ。一方、そんなに難しく考えたのではなく、弟妹はケーキを分けあうほど仲がよく「お姉ちゃん、ごめんなさい。」という良心で正直に話しただけだ。この説明のほうが、性善的であったり道徳的であったりする。

さて、平和もナッシュ均衝かもしれない。戦争を選択すれば、相手の反撃を受けて自国の壊滅を招く。そのため、「先に攻撃したら、ただでは済まさぬぞ」と相手より多くかつ強力なミサイルを持つ抑止力が正統化される。互いにミサイルを作らないという選択もあるのに、互いに信頼できないから消極的な平和を保っている。

嗚呼、平和は、人類が互いに信頼し合い、道徳的・理性的に進歩することで実現されていく性善的なものだと思っていた。未知の宇宙人すら信じて、人類のこと・地球の位置を示したメッセージを太陽系圏外に送ったではないか。しかし、人類の歴史はナッシュを支持している。平和が、性悪説の砂漠に一瞬現れたオアシスであってはさびしい。私たちは根本的に変わらなければいけないのかもしれない。(2018年6月9日@nortan12日の会談が平和への前進となることを願って)

89、フヌヴソンチモ

いつもの通勤道、こんなところに横道があったろうか?デジャヴ(既視感)とは、以前にも来たことがあると感じる感覚だが、この感覚はその反対である。いつもと同じだが、何かがちがう。ネットで調べると、人に対して感じるのは「ミッドライフクライシス(中年期のSOS)」、ものごとに対して感じるのは「隠れた才能を発揮するチャンス」、時間や空間に対して感じるのは「不思議の国のアリス症候群」だとあった。そして、ようやくデジャヴの反対「ジャメヴ(未視感)」に辿りついた。フランス語で「一度も見ていない」意で、記憶喪失の一種と考えられるが健康な人にも起こると説明されていた。残業続きでメンタル面が低下しているかと心配にもなるが、同じ本を買ってしまう(健忘症)などもジャメヴらしい。しかし、それとも違う。例えるなら、よく知っている漢字をじっくり眺めていると「こんな字だったろうか?」という感覚だ。知っているのに、初めて知ったような不思議な感覚。いつも食べていたのに、こんな美味だったかなあという感覚。名づけるなら「偽新感」、フランス語にすれば「Faux nouveau sentiment」。どう発音するかGoogle翻訳に喋らせると、フーヌボソチモ?フヌヴソチモ?フヌヴソンチモ?何度も聴いていたら、どこかで聴いたように感じてきた。これは既聴感(デジャクティ?)何だか混乱してきたが、記憶が確かでないことだけは確かになった。ならば、確かでない毎日の新鮮さを楽もうと思うのが健康的か?(2018年6月7日@nortan)

78、逆に

中学時代に、担任の先生から「3の法則って知ってるか。三日坊主というだろ。まずは何でも3日間続けてみろ。そして、3年…」と『継続は力なり』を教わった。それから、この言葉と格闘してきたがほとんど全敗。そこで、自分には3が合わない。2だ!3より1少ない分、実践できるだろうと、15年ほど前「2の法則」を座右の銘とした。まずは2日間続けてみることで「やる気」の確認。次は、2週間、これで「続けることのハードル」が下がる。そして、2か月。そろそろ「初心者」の仲間入り。次は、2年。その分野では「マニア」と名乗ることもできる。そして、20年目を迎えたら「プロフェッショナル」。他の人に伝えて200年続いたら「伝統」。2000年絶えなければ、自分が始めたことは「文化」になっているはず。伝統や文化になったことは自分で確かめることはできないが、その鎖の出発点にいたと言える。この「2の法則」に「逆に」を当てはめてみた。子どもの頃もらったルービックキューブ、自力解決できたのが約20年後。次に挑戦した4×4×4のリベンジに約2年。やはり2年はかかると意気込んだ5×5×5のプロフェッサーが、今まで覚えたことが役立ったおかげで約2か月。その後、構造が単純ゆえに一番難しいと遠ざけていた2×2×2に、意外に2日。2週間の初心者期間だけはどこかに行ってしまったが、うまく当てはまった。これを「逆2(に)の法則」と名づけた。さて、ここ2か月間、50?40?30肩に悩まされている。初心者期間を越えたので整形外科を受診したら、「年だから対処療法しかありません。リハビリを頑張って下さい。」というような診断で落ち込みかけた。そこで「逆2(に)」を使ってみた。年齢を「逆に」数える。名づけて『挑戦年齢』。何か新しいことに挑戦してやるぞという余年を数える。例えば、今何歳でもチャレンジ意欲がなければ、挑戦年齢0才。平均寿命を80歳とすれば、40の不惑でも挑戦年齢0~40才までさまざまということになる。私の挑戦年齢は?と計算すると、実年齢より若くなった。「やったー!」挑戦年齢を維持するためにも、諦めかけていた正十二面立体パズルに再び挑戦しよう。おや、挑戦年齢は大きい方がよいはずだが…と気づいた。しかし、元気がでてきた。「逆2(に)」も座右の銘にしようと思う。右肩の痛みは2週間でとれるだろうか?(2017年12月31日@nortan逆に1年を振り返る日)

68、飛去来器

飛去来器とはブーメランのこと。弓矢が発明されるまでは狩猟用や武器として使用されていたもので、オーストラリアのアボリジニが使っていたことで再認識され、アボリジニの民族としてのシンボルとも理解されるようになった。また、手元にもどってくるものは軽量で狩猟や戦闘にはむかず、戻ってこない重量ものをカイリーと言って区別する。カイリーの方が「お帰りー」と戻ってきそうだが、それを手で受けとめたら、投げた自分が大怪我をしてしまう。対して、ブーメランは鳥の群れを乱すため、空に向かって投げられたようだ。近頃、自らを辞任に追い込むなど幾つか話題になった出来事は「カイリー」であったり、世論を乱すための「ブーメラン」であったりしたのだと思う。「ブーメラン効果」を心理学的に使うと「懸命の説得にもかかわらず、説得される者の考えが反対になる現象」である。そもそも説得する者とされる者に意見の対立がなかった時や説得者に人徳がなかった時に起こるようだ。味方になるはずの者を説得して敵にまわしてしまうのは大失態。歴史の中にどれだけあったか想像してみると、アボリジニだけでなく私たちもブーメランの使い手なのかもしれない。さて、人に贈った言葉が戻ってきた。「これだという夢が見つかったら、そこに向かって思いっきり、惜しみなく努力を積み重ねて下さい。」この言葉を机に貼って勉強し試験に合格したという嬉しい手紙だ。受け取った時「夢を必死に追いかけているか!」と聞こえてきた。10年前に贈った言葉。私もブーメランの使い手であった。(2017年11月26日@nortan)

65、対話

話し方を意識した方がよいとアドバイスを受けた。そこで、自分の話し方を客観視してみようとしたができなかった。あらためて「話し方」は無意識の技であると実感した。技術的・表面的に変化させるのではなく、自己の内面から変えることが大切なのだろう。まずは、無意識という心の部屋で遠慮がちにソファに腰かけている『話し方』という名の分身に対話を試みた。「大丈夫かい?」これでは、弱々しい。「おい、自分。自信がないのか?」まだまだだ。「こら、俺。何やってんだ!」これでは、「話し方」を追い込んでしまうかもしれない。「話し方」からは返事がない。すると突然、「話し方」がソファから立ち上がって反論してきた。「しばらく、話すのをやめたらどうだ。」これで、ようやく対話らしくなってきた。「それでは、仕事にならない。」「二人三脚で歩んできたではないか。」「語尾が上がったり下がったりするのは、自分の弱さを隠しきれてないからだ。」「その気になれば、どんな話し方でも演じてやれるよ。」「それでは、自分が何だか分からなくなってしまうだろう?」と、ここまで対話して気づいた。何やってるんだ。そんなことを気にしているからいかんのだ。大統領選にでも立候補するつもりなのか?役者に転職するつもりなのか?すると、「ようやく、分かったか。」と「話し方」はソファに腰を下ろした。語尾の変化は、私の生き方に関係あるようだ。今度は『生き方』との対話を試み(心見)ようか。(2017年11月3日@nortan)

64、自分探し

朝5時半、無人駅のホームのベンチ。藍色の空、蛍光灯の灯り、鳥たちの鳴き声、1人、2人と足音。遠くから踏切の音。「ピンポン、まもなく電車が来ます。」プシューとドアが開いて、近くの席に腰を下ろした。ドアが閉まると始まった乗客の会話。向かいには、単行本の文字を指で追うネクタイ姿の警備員。次の駅で傘を手に降りていった。彼女には日常なのだろう。次の駅で降りて、大阪行きの特急に乗り込んだ。窓の外のベンチには、競い合うようにおにぎりをほおばってお茶で流しこむ2人連れ。電車のアナウンスが流れる。日本語に続いて英語、中国語、ハングル。車窓から流れる街を眺め、時おり乗客のおしゃべりに気を取られる。スマホ画面上の時刻は6時38分。このまま周囲を観察しながら過ごせそうな気がする。こうやって五感に集中していると、旅に出た気分である。「自分探しの旅」とは「他者観察の旅」なのだろう。自分に自信がもてなくなった時、他者の中に自分と同じものを見つけることで一歩前進できるのだと思う。何日も旅に出られなくても、l時間の心の旅なら週末に実践できそうだ。(2017年10月30日@nortan出張先に向かう電車の中で)

63、想像力

人の数だけ想像力はある。2025年の予測世界人口は100億。想像力の「数」は大台を越える。しかし、一つひとつの大きさが小さければ、果てしなく広がる草原に等しい。その中から空に向かった「大木」を育てなければならない。広がりと同時に高さも必要だ。地球のリセットボタン周期は、約1億年のようだ。前回はユカタン半島に隕石が衝突した。太陽系外縁部を覆う隕石群から定期的に隕石が降り注いでいて、地球大接近する周期が約2000万年、衝突する確率が1/5、つまり約1億年なのだと想像する。(己羅夢12:地質年代)現在はロスタイム、いつリセットされても不思議ではない?と想像しながら、最近のリセット発言を想う。リセットと言えば「生命はひとつ。ゲームのようにリセットできないから大切にしょう。」や「やる気はリセットできる。さあ、頑張ろう!」と使うことができるだろう。何がリセットできて何ができないのかは、単純ではなく哲学的かつ宗教的でもある。生まれ変わりを信じれば生命(魂)はリセットされるかもしれないし、やる気の減退を脳内化学反応の老化(変化)だと証明されてしまえばそう簡単にはリセットできない。先日「日本をリセット!」と書かれたポスターに出会った時、何時代にリセットしたいのかと違和感を覚えた。平安時代の貴族の世?戦国時代の武士の世?明治の富国強兵の世?それとも縄文時代?と自由に想像力を広げる分には楽しいのだが、リーダーの言葉として真面目にとらえると重い。ピカドンが落とされたあの時代をリセットしたいと願うが、時間の矢は戻らない。結局、気持ちを切り替えるために「リフレッシュ」の意味で使う分には罪がない。 焼き畑は「草の力」を利用した農法である。草が育てた肥沃な大地こそ「豊かな収穫」を約束する。ところが、化学肥料の発明でそんな面倒なことはしなくなった。草の力は利用されるのではなく、抜かれるものになった。同様に「草の根運動」は、たくさんの草の力を合わせて一本の「大木」(リーダー)を育てる運動といえるが、最近のリーダーは草の力に頼らずにメディアによる知名度という化学肥料に頼っているように思う。それは、ポスターでしか見たことのない候補者に一票を投じている自分にも原因はあるのだろう。そして、「自分も抜かれたのだ。」と想像する。さて、地球のリセットもロスタイムに入った。100億の力を結集して、科学・政治・文化など多様な「大木」を育てなければならない。人口爆発は、「神様が、人類を次のステージへと引き上げる発明・発見(イノベーション)の先頭に立ち、新しい世の中を創造できるリーダーの出現に賭けているのだろう。」と想像する。この期待に応えられなければ、我々の文明は、線香花火の最後の火玉となるかもしれない。まるで宇宙から見た夜の地球に輝く都市の灯りのようだ。私は何をリセットしなければならないのか、と想像して「いや、守らなければならないのだ。決して抜かれはしないぞ。」と草の心を燃やしてみた。(2017年10月28日@nortan明日の台風22号を心配しながら)

61、セレンディピティ

この言葉、そもそもはイギリス人作家の造語で、300年ほどの歴史をもっている。スリランカの三人の王子が、旅の困難を幸運な出会いで切り抜けていく話から造られ、幸運な出会いをセレンディピティという。同じ造語でも「ナウい」は1世代(30年)もたたずに死語と呼ばれるようになったのだから、10世代以上も長生きで幸運な造語である。最近では、転じてネットサーフィンをしながら素晴しいアイデアの材料と出会うこともセレンディピティというようだ。街に出れば、スマホを片手に行き交う人に出会わないことはない時代である。100年後に振り返れば「21世紀らしさ」を象徴する生活スタイルなのだろう。私自身もそうであるが「隣の人は何する人ぞ」と観察してみれば、両手スマホのゲーム族、片手スマホのサーフィン族とチャット族、耳線スマホの音楽族など多族である。10年前なら幾つものポータブル機器をかばんに入れてなければできなかったことが片手サイズでできるのだから、あらためてイノベーションのパワーを実感する。「ブラジルの人、聞こえますかあ~」と地面に叫ばなくても、日本の裏側の人ともリアルタイム動画で繋がることもできるのだから、地球も片手サイズになったのかもしれない。また、良くも悪しくも問題となるネットでの出会い。村から外に出ることもほとんどなかった200年前に比べたら、人の出会いの垣根もデジタル技術が取り払い広げてくれたのだろう。でも…「街を歩きながらスマホで出会いを探していたら、運命の人が目の前を通り過ぎてしまった。」のでは、セレンディピティなのか「去リテ行キティ」なのか分からない。さて、セレンディピティは「常に、好機をのがさないように感性を高めておくこと」と解釈されることもある。そう考えると、街に出たら、スマホをかばんにしまって行き交う人々を観察するのが「ナウい」のかもしれない。(2017年10月21日@nortan東京に向かう新幹線の中で)

53、通過点

夢は見るものか・語るものか・歩むものか・変わるものか・つかむものか・託すものか。そもそも「夢」は、眠りに落ちた時に現れる「幻想」でしかなかった。人知を越えた力が、人間に「見させられるもの」だった。私たちは、その内容が正夢とならないよう、また、なるように両手を合わせた。実現しないというネガティブなイメージを感じるのは、それが根底にあるからだろう。それが、明治時代に「Dream」と出会った。「実現させたい目標」というポジティブなイメージが流れこんできた。海外へ活動拠点を移し、4257安打という大記録を打ち立てたイチロー選手。「夢」を「Dream」に見事変換させ続けている。日米合算数ゆえに様々な評価があるのも理解した上で、その先を見すえている。夢は見るものでなく「通過するもの」だと語りかけてくる。さて、Dreamには「自分に実現させる力があるか。努力し続ける力があるか。」の視点が不可欠だ。また、「次の目標地点を設定する力」も大切である。子どもの頃、何度も繰り返し見ていた「念じるだけで空に浮かび、進むために必死にクロールしいる夢」では、前者が欠けているし、そもそもどこへ行こうとしていたのだろうか?偉大な選手が、その名のごとく「1」からはじめて辿り着いた「4257」にも「2」があり「3」があった。次の目標は「50才、5000安打」と聞く。今回の4257は、1億2000万人が「ともに見させてもらった」夢だ。記録を破られた偉大な選手1人に、それを祝う懐の大きさがなくてもいいじゃないか。さて、私の「1」は何なのだろう。今晩、夢に現れるよう両手をあわせてみよう!?(2016年6月18日@nortan)

52、顔か頭か、それとも…

引導を渡すとは、仏の道へ進む決心をつけさせるために説法し「喝!」を入れる仏教用語の転用だ。宗派によっては、喝!も引導を渡すしきたりもないそうだから、渡したくても渡せないこともある。他教の信者なら、なおさらである。某自治体の知事は自ら辞任することになったが、前任者が「自分では決められないのでしょう。(かわいそうだ)」とコメントを発表していたことが印象的だった。また「(猫に)鈴をつける」もよく使われる諺で、よいアイデアだが実際には怖くて誰(鼠)も実行できないことの例えだ。ワンマンで利よりも害が長じてきた社長をおとなしくさせようとする場合に当てはまる。今回は、説法されたのか、鈴をつけられたのか。それにしても、組織のトップが交代する(させられる)ことが多い。プロスポーツの監督、株式会社の代表取締役、○○協会の会長、あらゆる「長」のつく役職、いろいろあっても交代しないのは「長」の手足から伸びた糸を操作している誰か、黒幕などと噂をされる者のようだが、世の中に「長」の数ほど黒幕がいたら大変だ。知らぬ間に、私も誰かの黒幕になっていなければならない。さて「うちの社長は会社の『顔』だ」と言うことがあるが、これは褒め言葉ではないように思う。よくある「1日○○長」なら「顔」でよいが、本来なら頭脳でなけれぱならない。かといって「会社の『頭』だ」とそのまま使えば、ワンマン頑固おやじでどうしようもない印象。顧客や社員の話を広く聴き決断できる存在でなければならないから「うちの社長は、会社の『耳』だ」というのが最大の賞賛になるのかもしれない。でも、社内のいたるところに盗聴マイクが仕込まれていそうで怖い。顔か頭か耳か口か。それとも、よく切(ら)れるから「しっぽ」なのか。兎も角、組織のトップであるほど、皆のために働く公人であるほど「広く見、広く聴き、正しく考え、真実を話し、惜しまず働く思想の持ち主」であってほしい。そうだ!「うちの社長は、会社の『心』だ。」がしっくりくる。いや「会社の『主』」には違いない?(2016年6月14日@nortan)