180、年寄りの愚痴

年寄りとは、自分より年長者ということ。つまり、私も年寄りであり、そうでない。前置きは、ここまでにしておく。

さて、モーニングに入った店で奥から大きな声が聞こえてきた。「わしがよー、…でよー。」どんどん調子は良くなって、言いたい放題のパーソナリティ。話に出てくる近所の人や友人がいたら聞くに耐えない話にも、娘と母が肯定感を与え、息子が頷く。しかし、如何にも楽しそうだ。「いい加減にしてほしい。ここは店の中だ。年寄りの愚痴ほど…」と思って、気づいた。自分は、あの息子ほど親の愚痴を聞いてやっただろうか。

子どもの頃、父は週末ごとに酔い潰れて帰ってきては仕事の愚痴を言い、それを聞かぬ母に「お前は、ちっとも分かってない。世間知らずだ。」と荒れることもあった。それを見て、酒に飲まれることと愚痴は家に持ち込まないと決めていた。

家庭を持ってから「愚痴を言ってもいいよ。信用してくれてないの。」と犬も喰わぬ喧嘩もしたが、問題はそこではなかった。そんな親を見て育ったのか、近年自立した子どもたちも、仕事の愚痴をもらさない。帰りも遅く、休日出勤も多い。ストレスもたまっているだろうと心配する。そして、写真の中の父に「もう少し聞いてやったら良かったなあ。」と語りかけても笑っているばかりだ。

さて、家族の形もいろいろだ。自分で決めたことは貫きたいとも思う。

結局、年寄りの愚痴になってしまった。

(2019年10月15日@nortan)

169、仮想○○

新しい暗号資産が産ぶ声をあげようとしている。しかし、先進7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議は「現在の金融制度を揺るがしかねない。」「最高水準の規制が必要だ」と声明を出し、難産になりそうだ。Libra(リブラ)は、天秤座の意味をもつFacebookの仮想通貨(暗号資産)である。

このLibraはステーブルコインで、ドルやユーロ、円などの法定通貨を準備金とする。価値が急変動したビットコインより安定で信頼できるが、その分、1ドル=○リブラという単なる通貨の置き換え。つまり、法定通貨を根拠に、巨大企業が単位変換して発行するプライベート通貨だとも言える。確かに私たちにとっては便利になりそうだが、ある国の財務大臣は「過去の情報漏洩問題など、それほど信用できる企業なのか?」と牽制する。まるで、国家と巨大企業との静かな信用争いだ。それでは、何が問題であろうか。

まず、我が国の現金決算比率は60%で、それにかかるコストは年7~8兆円。これは、手数料として銀行の収入である。皆が仮想通貨で取引を始めると、既存銀行への手数料の流れがなくなる。これが、1つめのハードルだろう。

次に、資金が簡単に国境を越えてしまう。銀行に預金口座を持たなくても、安い手数料で簡単に送金し合える。世界で30億人近いFacebookの利用者や企業が自在にそれを行えば、仮想通貨ならぬ「仮想国家(経済圏)」の誕生である。これが、2つめのハードルだろう。

さて、未来はどうなっているだろうか。国家が自国通貨を仮想化・暗号資産化しない限り、この流れは止まらず、20年後のG7国際財務会議は、GAFA4大企業会議になっているかもしれない。

答えを、天秤の女神に尋ねてみた。すると、「仮想通貨には重さがないから天秤は傾かない。また、暗号だけに答えはヒ・ミ・ツ…」と返ってきた。

(2019年7月26日@nortan)

133、AICG

隣国でニュースキャスターという仕事が消滅しそうだ。日本でもNHKが、AIにニュースを読ませる試みをしているが、中国のAIではCGのニュースキャスターが本物と見間違わんばかりにリアルだ。本物のニュースキャスターの数十時間分の影像を与えて、表情を深層学習させたという。中国語の他に英語でも話せるというから、近い内にお気に入りのCGキャスターを選んで、好きな声や言語でニュースを見れるようになるだろう。ついに、CGはAICGに進化した。また、選手そっくりのキャラクターで野球やサッカーを楽しめるゲームソフトもあるから、将来はニュースだけでなく、スポーツ番組もAICG選手がプレイするかもしれない。

それほど遠くない未来、テレビに映る人物は全てAICG、窓も液晶画面でAICGの通行人を映し出し、外出しなくても友人が立体CGで隣に現れ、行きたい場所にもVRゴーグルで居ながらに行ける。6畳ほどの立方体の部屋の真ん中でソファーに腰を下ろしていれば、移動せずに何でもできるようになるかもしれない。食事は、注文すればドローンが運んでくる。どれだけ小さな立方体の部屋を作れるか、何日そこに居続けられるかをギネス記録として競い合うようになるかもしれない。これぞ、究極の人類の姿!?井伏鱒二の作品を借りて、『人類山椒魚化計画』とでも名づけよう。

さて、ようやくそんな生活に疑問をもった哲学者が、小さなCUBE-BOXから外に出てゴーグルをはずしたら、人類は自分だけで、見知らぬ知的生物たちが心配そうにこちらを見ていた。「あ(A)れは、い(I)ったい何だ!こ(C)んな現(G)実は、いやだ!」とならなければよいのだが…(2018年12月9日@nortan)

128、センチネル族

未開の島に神の教えを広めると旅立った冒険家が、帰らぬ人となった。多くの槍をうけた身体を回収・埋葬することも不可能という。文明から取り残され、新石器時代以前の生活を営む唯一の種族という。島の中心部は森林に覆われ、衛星写真でも生活の様子は窺い知れないが、近づいた者を見つけると全裸で砂浜に現れ、長い槍で威嚇してくる。漁の最中に眠り、浜に流されて命を失った漁師もいるようで、インド政府も種族を守るために全く干渉しないとしている。インフルエンザなどのウィルスを持ち込むと、250人程と推測される貴重な島民を絶滅させてしまう恐れがあるからだ。ネット上では人気のサイトも作られ、ドローンに向かって槍で威嚇する写真も公開されているが、センチネル族にしてみたら人気は迷惑だ。

ここまで知って、いろいろ想像してみた。

まず、「本当は私たちより高度な文明をもっている。」森林の中には、全リサイクル可能なエコシステムを備えた住居や学校・病院などの都市システムが発達していて、周囲の未開人類からそれを守ろうと原始人を演じている。名づけて、天空の城ラピュタ説。

次に、「言い伝えを守っているだけ。」石器時代に、インド大陸から競いを避けて島に移り住んだ。その時、この島に出入りする者は容赦なく死罪とせよ、と自分たちの文化と平和を守るために言い伝えた。名づけて、鎖国説。

そして、「本当の人類は自分たちだけで、島が宇宙の全てだと思っている。」海の向こうは大きな滝になっていて、近づいてくる自分たちに似た肌の白い変な布を纏った生物は、地球外からの侵略者だと信じて、必死に戦っている。名づけて、地球防衛説。

本当のところは、「話し合えば、分かりあえる。」とコミュニケーションを図りたいものだが、そのことに命をかける勇気はない。まずは、ペッパー君を送り込んでセンチネル語を学ばせたいものだが、彼らはどう受け取るだろうか。ますます、宇宙人の侵略だと確信するにちがいない。こんなことを想像していたら、私たちこそ「銀河系のセンチネル族」と思えてきた。随分昔に、銀河政府に保護?見放されているのかもしれない。(2018年11月25日@nortan)

127、終着駅

昭和23年に制定された通称墓埋法によって、死後の棲み家は墓地と決まっている。だから「その時が来たら、墓はいらんから、庭にでも埋めてほしい。」と言っていた父の願いを叶えれば、法律を犯すことになる。檀那寺で永代供養してもらうことも江戸時代以降のしきたりであったが、新しい土地では繋がりもない。そんなことで、墓地探し。今では民間の納骨堂や寺院からメールが送られてくる時代。選択肢も広がった。寺院の経営する納骨堂では、営業担当者に「とても人気があって、新しいお部屋を増設しました。」と音楽の流れるロッカー式地下納骨部屋を紹介された。また、都市型納骨堂の担当者は「私は長男なので、将来、実家の寺院墓地を守っていくつもりだが、本社のカード式墓参システムをお薦めします。」と率直に語ってくれた。こうした墓地探しの末に、市の運営する無宗派公園墓地に出会った。そして昨日、青く澄んだ空の下、納骨を済ませた。

ところで、私たちにとって墓は必要か。この命題に対する答えは、今古東西、老若男女、立場によってさまざまだろう。公衆衛生上は先の法律であるし、過去の政策上は寺社請負制度であったし、檀家にとっては義務である。また、新事業上は納骨堂経営である。しかし、それよりも遥か昔、私たちより野蛮だと考えられていたネアンデルタール人が、死者を埋葬する時に花を手向けていたことや、そんな法律も知らない幼い子どもが、飼っていた小動物を庭に埋葬して涙を拭うことを考えると、答えは「遺された者が、死と向きあうために必要だ」であろう。もし、骨すら残さない火葬システムが開発されて墓地が必要なくなれば、墓地に携わる仕事が無くなるだけでなく、死と向きあう場所もなくなる。その分、空を見上げることが増えるかもしれないが、何より私たちの死生観も全く変わってしまうだろう。

父を埋葬したことで、自身の終着駅も定まった。後は、そこに辿り着くまで「如何に生きるか」である。(2018年11月25日@nortan墓開き・納骨の直後、青空に4本の龍雲が上った。)

126、セキュリティ

戦前生まれの兄弟の会話である。

「最近、どうや?」

「そうやなあ。」

「ぼちぼちか?そやったら、あれはどうや?」

「まあまあやなあ。」

「そうか。」

「うちは、こないだ、あれがあったけど、もう年やで止めにしたんやわ。まあ、そんなんやけど、なんとかなって良かったわ。これから、どうしてこかいなあ?」

「そうか。たいへんやったな。まあ、こっちもなんとかやっとんで、心配せんでもええでな。」

「分かったわ。そっちに行こうと思とったけど、心配かけるとあかんで、また電話するでな。」

「ありがとう。そうしてくれるか?」

こんな会話をさせてやれたのが最期だった。隣で聞いていた私には、ほとんど分からないが、父と伯父は通じ合っていた。ディープラーニングやAI技術をしても解読できない、ふたりにしか分からない「ツー・カー」という最高のセキュリティ技術だった。

今、国会で「パソコンを使わない。」と答弁したサイバーセキュリティ担当大臣が、海外のメディアに「それこそ、究極の対策だ。だれも大臣の情報を盗めない。」と批判・称賛?されているが、大臣は最高の専門家でなくても、職責のために自ら学び、国民のために部下である専門家の能力を最大限に引き出してくれる献身の人選であれば良い。さて、サイバー空間での日本の守りは危機的だ。結果で、大臣としての腕前を見せてもらいたい。我か国の未来にとって重要な役職である。しかし、オリンピック担当と兼任であることや、「USBメモリーは…か?」といった非建設的な質疑答弁に時間を浪費することは如何なものだろうか。(2018年11月19日@nortan日本語の難しさこそ、最高のセキュリティかもしれない)

125、仮想現実

仮想現実(VR)のお化け屋敷。それを体験している様子は、何もない広い部屋で何もない方を見て驚くなど、何とも不思議だ。コンピュータの映像処理能力が向上し、頭の動きに反応して周囲も真逆に正しく動けば、見る分には現実(R)と区別がつかない。さらに、会話や握手も自然に出来るようになれば、完全なVRだ。完全なVRはRと同価だから、私たちは現実の世界の中に「2つ目の現実」を手に入れることになる。そして、2つの目の現実の中で「3つ目の現実」を手に入れたら…と考えたら、これはもう映画「インセプション」の世界。そして、この技術に人類が支配されるようになると映画「マトリックス」の世界になる。

そんなことはない。それはSF映画の話だと思いたいが、脳科学で「私たちは、現実を正しく見ていない。」「見たままを正しく認識していない。」ということが分かっている。勘違いや見間違いを含めて、都合の良いように脳内で「仮想現実」を作り出しているらしい。つまり、五感で外界と繋がっているが、私たちが「現実と感じている世界」は脳内仮想現実(VR in My Brain)で、それは人の数だけ存在することになる。だから、私の感じている現実世界とあなたの感じている現実世界は、全く同じでないのだ。意見の相違が生じても、寛容でなければならない。

さて、そんな自分が仮想現実(VR)を楽しんでいるとなると、もう何が現実なのか訳が分からなくなってしまう。その上、科学で「パラレルワールドが存在する」とか、「11次元まで存在するが、3次元を超える次元は認識できない。」とか言われると、もはやチンプンカンプンだ。中国語で、聞いて分からないことを「チンプトン」、見て分からないことを「カンプトン」と言うのが、チンプンカンプンの語源らしい…そうか。さすが、何でも食べる食大国。食べて分からないことはないということだ。朝起きて、「この世界が現実か?VRか?」と不安になったら、朝食をしっかり味わう。これが解決策だ。近年、朝食抜きが習慣化していることを、反省しなければなるまい。(2018年11月17日@nortan)

119、自己主張する街

電車窓から見えるのは、四角いビル、同じ看板、同じショッピングセンター、同じような高架橋、道路と信号機、車に人、何処に住んでいても同じ街並。昼食は、近所にあるのと同じコンビニでいつものサンドイッチと野菜ジュース。違う街に来たと感じられるのは、駅のお土産のゆるキャラくらい。旅への感受性が衰えたのかもしれない。インドでは自由の女神の2倍・240mの世界最大の立像「鉄の男」が完成した。インド部族統一の貢献者サルダール・パテールだという。真似て日本中に巨大戦国武将像が建つのも面白いが、人物像では批判も出るだろう。いっそのこと、全ての駅前に角の立たないゆるキャラ巨大像を建てるのはどうだろう。内部を防災備蓄庫とすれば、いざと言う時にも役立ち、説明責任も果たせる。または、古都と東京は除いて自治体カラーを決め、街全ての建物を塗り替えてしまえば、「今日は、『○○色の町』に行ってきたよ。」と会話も弾み、インスタ映えで観光客も増えるだろう。何処も彼処も、自己主張のない画一化された「高度経済成長もどきの街並み」では、外国人が「日本人は、みんな同じ顔に見える。」と言うのと変わらない。バブル時代の「ふるさと創生一億円事業」の二の舞にならぬように、より効果的に地域が一丸とならなければならない。

勝手な主張ばかりしてしまった。つまり、「また、いつか、ここを、訪れたい。」と思える機会が減ってきているのは、何処に行っても日常と同じ生活ができるほど、日本が狭く・豊か・便利になったからに違いないが、ひょっとしたら「日本ばかりにいないで、世界を見なさい。」という御告げなのかもしれない。

(2018年10月28日@nortan筑紫平野の西の稜線に沈む夕焼けは美しいかった。やはり、日本は自然で勝負だ。)

116、ラングとエッジ

銀河危険情報で渡航禁止を知った上で、言語研究のために安全レベルD級惑星に旅立ったラング。この原始星の言語と文化を学べば、銀河中の文明に平和をもたらせると確信していた。宇宙船を洞窟に隠した後、この惑星の住民に見事に変装した。空腹に耐えられずにレストランにとびこんだ。その時、食事の様子が奇妙だったこと、口を開かずに喋ること、チップとして渡した硬貨が惑星にはない物質だったことで異星人と見ぬかれ、惑星安全局にとらえられた。毎日のように繰り返される尋問。おかげで、ラングは目的であるこの星の言語を深く理解することができた。帰れる希望はゼロに近づくばかりだったが、覚悟はできていた。遠く離れた故郷で同僚のエッジは、ラングの救出を申し出たが、世論からは「D級惑星に行くなんて、自己責任だ。」という批判も浴びた。連邦政府も表向きには沈黙を守ったが、政府内では「どんな理由であっても、必ず同胞を救出する。宇宙連邦は、たった一人をも見捨てない。」と密かに救出計画が練られた。解放されたラングは、30年後洞窟の宇宙船で帰路についた。途中のアンドロメダ第39惑星で同僚と再会を果たしたラングは、エッジを「I missed you!」と抱き寄せた。すると、エッジは「これが、あの惑星の言葉と文化なのかい?」と驚きながらも「約束してほしい。連邦政府が動いたことは秘密だぞ。」とラングの脳にテレパシーを送った。「コミュニケーションに音声を使っているなんて、遅れた文明だ。伝えたいことの半分も伝わらないじゃないか。」そう言うエッジに、ラングは「そうでもないさ。白黒つけないで『曖昧模糊』としておく方がよい事もあるよ。僕は、テレパシーでは伝えられない救出のお礼の代わりに、必ず研究を完成させる覚悟だ。」とテレパシーで答えた。無事に戻ったラングに世論は様々な反応を示したが、ラングはエッジと共に研究を続けて、ついに「平和のための音声コミュニケーション理論と技術」を完成させた。それから間もなく、地球の電波望遠鏡SETIでは宇宙連邦からのメッセージを受信した。(2018年10月27日@nortan「民は、国である」を哲学して)

115、「ぬ」と「る」

最近、めかぶの美味しさに目覚めた。めかぶとは、ワカメの胞子葉で不飽和脂肪酸を多く含む健康食品とされているが科学的に根拠づけられた訳ではないとあった。ぬるぬるするので納豆に和えたり、だし醤油を加えて炊き立てのご飯にのせてもいける。古代では、貢物として海苔についで重宝されていたというから、今までこの味を知らなかったことが悔やまれるほどだ。人によって好き嫌いはあるだろうが、納豆やオクラ、メカブ、山芋など「ぬるぬる」は健康志向だ。そう思って食べるようになったとも言えるが、年をとって味覚も変わったのだろう。

さて近頃、もうひとつ変わった味覚がある。それは「平和」のとらえ方である。「平和とは、戦争のための武力をもたないこと」とハード面だけでとらえているところがあった。しかし、「平和とは、勝てぬ戦をしないこと。勝てる戦をしないこと。」という言葉に出合った。書籍だったか、ラジオだったか忘れてしまったが、記憶に残るフレーズであった。世界を何度も破滅させる武器を持つ軍事大国も、それに対峙し軍事力を増やそうとする国も「勝て『ぬ戦・る戦』をしない」という心を忘れはいけない。平和を実現維持するには、そんなソフト面(心の砦)も大切である。バブル当時、「ぬる」ま場で「楽しければ、いいじゃん!」といっていた若者に、「平和ぼけしていてはだめだ。二度と戦争を繰り返してはいけない。社会のことにもっと関心をもたなければいけない。」と諭してくれた元気な戦前・戦中世代も、戦後73年、少なくなっている。「ぬ」め「る」めかぶを噛みしめながら、私たちが受け継がなければならぬ「味覚」がある。(2018年10月16日@nortan)

114、20組に1組

今夏の猛暑、たまたま入ったファミリーレストランで、20組に1組が食事代無料となるキャンペーンに当たった。頑張っていれば確率の神様は幸運をもたらしてくれるものだ。今後の客数を増やすためのキャンペーンで、店は多少の損を覚悟しているのだろうと思い、店の利益を計算してみることにした。

何組に1組が無料になるかをx、定価に対する仕入単価の割合をy%、利益率をz%とすると、利益率はy/x%下がりz-y/x%となる。キャンペーンによる客数の増加をa倍とすれば、z ≦ a(z-y/x)が成り立てば利益額は増えることになる。そこで、仕入単価を50%、利益率を25%と仮定する。25 ≦ a(25-50/x) → 1 ≦ a(1-2/x) → 1/a ≦ 1-2/x → a ≧ x/(x-2) となる。3組に1組を無料にするなら、客数は3倍以上にならなければキャンペーンは失敗となる。次に20組で計算すると、1.11…倍となり、客数が10%程度増えればよいことになる。そんなことは…、店側はもっと赤字を覚悟しているはずだと思い、仕入単価を30%、利益率を30%(この数字の方が現実的だと思う)、20組で計算すると、30 ≦ a(30-30/20) → a ≧ 1.05…(5%程の増加) とますます1倍に近づく。つまり、「20組に1組」は客にとっては「5%の確率」という魅力であり、店にとっては「5%以上客が増えれば儲かる」というキャッチフレーズなのだ。40年に1度のラッキーだったと喜んでいたのに、少しばかり残念な計算をしてしまった。今度は、「5組に1組キャンペーン」を期待したい。先の計算では1.25(25%)となるが、それ以上の集客効果を得るのではないだろうか?(2018年10月15日@nortan設備費・人件費などを無視した素人の勝手な計算である)

111、エンタングルメント2

観測することで状態が決まる量子力学の「確率宇宙」か、最初から状態が決まっていたというアインシュタインの「絶対宇宙」か、神はサイコロを振りアインシュタインの敗北は実験により証明されている。既に量子力学は私たちの生活に欠かせない技術でもある。己羅夢80で空想したように、死のエンタングルメントが生であるなら「転生」を信じたい。しかし、今回の空想は少しばかり違う。

昨日の労働の疲れがとれず落ちた昼寝夢に、父が現れた。見慣れぬ青いスーツを着たいい気分の酔っ払い。ソファーに横たわり眠りこんでいる。帰宅した私は妻と顔を見合わせ、記憶にある現実との差異を探しつつも冷静に世界の変化を受け入れている。「これが、確率宇宙かあ。」そう納得した時に、目が覚めた。いや、「振られたサイコロが止まり、目が決まった。」と思えた。

生まれた時に天国に行けるか地獄に行くか決まっていると説く宗教がある。また、善行と悪行の差でどちらに行くか決まると説く宗教もある。量子力学の肯定は、多元宇宙の存在を想像し、絶対である神に確率であるサイコロを振らせる。では、私のサイコロはいつ振られるのか。先程のように、夢から覚める毎に振られているのだろうか。いや違う。醒めた瞬間、「人生の最期に振られるに違いない。」そんな感覚におそわれた。天国と地獄が実在するのなら、どちらに行くか決めるのは「最期のサイコロ」だと思えた。今生きているのは、確率の多元世界のひとつだ。

先日、ある試験に挑んできた。そこでは、私より35も年長の老紳士が虫眼鏡を手に英和辞典と格闘する姿もあった。「若い人には敵わんけども、…」と謙遜される姿に、ますます「自分もそう年を重ねたい。」と感じた。「次は、二次面接でお会いしましょう。」と返答したものの、10名程しか合格できない狭き門。自身も次はないと悟っている。

故人が夢に現れるのは、何かのメッセージだと言われる。先程の夢で、父は「まだ、決まった訳ではない。諦めるよりは、希望を持て。全てを決めるのは人生最期のサイコロだ。」と伝えに来たのかもしれない。(2018年10月14日@nortan旅立ちの数日前、久しぶりの笑顔を見せてくれた父は、その瞬間に最期のサイコロを振っていたのかもしれない。)

110、キュウリとなす

お盆の送り迎えは、日本ならではの風習らしい。日本古来の先祖信仰と結び付いてできたようだ。子どもの頃、提灯のろうそくに火を点けて竹の長い柄を持ってお墓との間を往復することが楽しみでもあり、ご先祖様を感じる2日間でもあった。キュウリの原産地がインド北部、なすの原産地がインド東部であることを考えると、魂は本当に天竺との間を往復しているのかもしれない。往路は「キュウリの馬」復路は「なすの牛」だから、三蔵法師に負けぬ長旅をして帰ってきてくれることになる。お坊さんにお願いして盂蘭盆会経をあげてもらうことも風習だが、まだ墓石も建設中、檀那寺は持たないと決めた。位牌と遺骨に「じいちゃんは、ここにいる。」と線香を供え、いつもより長く胸に手を当てた。近くには、妻が供えてくれた、好物だけど病気のため長年ひかえていた和菓子。そして、じゃがりことカフォーレ。昔、元気だった頃に買ってもらっていたものを娘が供えてくれていた。どうしても、○○しなければならないという風習は薄れていく。しかし、日本古来の先祖への心は変わらない。「これでいい。」と目の前が滲んだ。私の時も、これでいい。(2018年8月18日@nortan戦前生まれで、カフェオレをカフォーレとしか発音できない父だった。)

107、○み

妬み(ねたみ)とは「相手のもっている物事」をうらやましく思うこと。嫉み(ねたみ)とは「自分にない物事」を悲しみ悔しく思うこと。どちらも他人と比べることが原因である。「ねたみ」から劣等感が生じると「そねみ」になる。それでは、それらの反対は何だろうか。

まず、「そねみ」の対義語を考えてみる。「相手にあって自分にない物事」に「優越感」をもつこと。そんなものあるだろうかと考えた。子どもにとったら「宿題」「ママの説教」、大人にとったら「残業」「休日出勤」など思いつくことは「自分じゃなくて、よかった。(他人事)」という「マイナスそねみ」。そねみには、陰(-)と陽(+)があった。

次に、否定してみた。「相手にあって自分にない物事から劣等感を生じない」こと。それは、他人とちがうことに一切動じない心境である。人間は脳にあるミラーニューロン(21己羅夢)が働くことで、無意識に他人と自分を比べるようにプログラムされている。どうしても、隣の柿は甘く見える。つまり「そねみ」に勝つのは、比べて陰陽感情を持たないこと・それぞれの価値観(生き方)に優劣をつけないこと。『まるみ』のある生き方に違いない。「嫉妬」の反対は『まるみ』であった。まずは、長い間に凸凹になった心の地ならしから始めようと思う。(2018年8月16日@nortan)

106、ブレイクスルー

手首に埋め込んだl平方mmの極小チップに信号を送ることで、神経が脳にオオカミの映像を映し出すことができたという論文が始まりだった。この技術は、地震大国日本では「緊急地震速報」に活用され、一部の新物好きでマニアックに流行しだした。そして、地震で「チップのおかげで助かった。その後、サイレントにしてあったスマホの通知に気づいた。」というツイートが広がり、瞬く間に広まった。これが、始まりだ。

この技術は、迷子・認知症老人への道案内、ランニング時のバーチャル映像と社会的承認が得られるものへと広がっていった。今では、働き方改革の一環で労働時間が8時間越えになると「赤いバツ印」が表れるようになった。

その後、技術の発展により違法行為が行われそうになると、そのレベルに応じて警告ピクトグラムと文章を表示するようになった。その頃には、全国民に出産時の埋め込み義務も法律化され、学校教育でも「子どもの道徳観向上のための映像チップ活用」なんて実践も行われるようになっていた。

50年経ち、パソコンに画面が必要なくなり、学校でも「覚えるための学習」は必要なくなった。そして100年、学校も教師という職業もなくなり、公立知識配信機関と民間バーチャルスクールが学習プログラムを競いあうようになっていた。

当初から反対を表明する親や教師もいたが、それが伝わると目の前に「あなたは、人間の進歩を阻害しています」「考えを変えなさい」…「この警告を消したければ出頭しなさい」と警告が映し出されるようになった。警告をそのままに寿命を全うした者もいた。しかし、100年たった今、昔を知る者はいなくなった。映像チップを大切にすることが道徳規範(常識)とされ、そうでなかった昔の人間を「プレヒューマン」と揶揄する者も多くなった。…

キアヌ・リーブス主演「マトリックス」ではないが、こんなことが、急に頭に浮かんできた。そう言えば、子どもの頃から左手のひら数mmの筋がある。心配になって、目の前で右手を数回振ってみた。まあ、いいか!?未来予測なら、ハズレるものだ!現実なら、受け入れるしかない。(2018年8月16日@nortan右手を振るのがクセにならぬように)

92、捨てられない

整理とは不用なものを捨てながら整えることで、整頓とは捨てずに整えることである。1年間使わなかったものは捨てるべきだとの「整理術」をよく聞く。しかし、なかなか捨てられない私は「整頓術」使いだ。先日、整理術使いの妻と「1年間使わなくても、2年目に使かうかもしれない。」「なら、4年に1回のオリンピックも捨ててしまえ。」などと問答になった。しかし、遺された者に負担をかけることを考えると、先立つ者は整理術も身につけておかなければならない。整頓術使いの私の完敗だ。さて、東京オリンピックは既存施設利用の省エネ型で開催地を勝ちとった。それでも、オリンピックで建設された施設の多くは整理されてしまう傾向が強い。後の維持費が高くつくようになるからだ。かつて敗政が赤字になることで不人気だったオリンピック開催は、1984年ロサンゼルスオリンピック以降、商業化によって開催都市に大きな利益をもたらすようになったが、今ではその当ても外れるらしいし、テロ対策も大変だ。いっそのこと、開催地を取り合うのではなく、財政に苦しむギリシャで古代オリンピックのように4年に1回ではなく毎年開催するという案はどうだろうか。または、種目ごとに開催地を世界中に分散固定して、毎年インターネットで多次元中継する案はどうだろうか。国境を越えた往来(交流)も活性化し、より「世界はひとつ」の理想に近づきはしないだろうか。そうなれば、整頓術も整理術に1勝できるかもしれない。(2018年6月12日@nortanまずは勝ち取った2020TOKYOの成功を願って)

91、ナッシュ均衡

非協力ゲーム理論において、戦術を変更した場合、損失となるがゆえ身動きできない均衡を「ナッシュ均衝」という。例えば、兄スズキと妹コンブが一緒に冷蔵庫のケーキを食べてしまった。後で食べることを楽しみにしていた姉タニシは頭に3本角を生やして「許さないわよ!」と二人を部屋に追いやった。その後、「誰が食べたか正直に言いなさい。先に正直に言った子は、お説教は勘弁してあげます。もう一人は2時間のお説教。でも、2人とも正直に言ったら30分のお説教で許してあげる。」と部屋の真ん中に座りこんだ場合、スズキとコンブはどうするだろうか?結論は、2人とも正直に言う。そうすれば、2時間のお説教は避けられ、おやつ抜きか30分のお説教で済む。スズキもコンブも自分だけ黙秘する戦術に変更することは、1時間30分プラスのお説教を受けることになるからだ。二人そろって沈黙すれば、お説教を避けられるのに、「相手への不信感」が強いほど、自白を選択してしまうことになる。これが、ナッシュ均衝による説明だ。一方、そんなに難しく考えたのではなく、弟妹はケーキを分けあうほど仲がよく「お姉ちゃん、ごめんなさい。」という良心で正直に話しただけだ。この説明のほうが、性善的であったり道徳的であったりする。

さて、平和もナッシュ均衝かもしれない。戦争を選択すれば、相手の反撃を受けて自国の壊滅を招く。そのため、「先に攻撃したら、ただでは済まさぬぞ」と相手より多くかつ強力なミサイルを持つ抑止力が正統化される。互いにミサイルを作らないという選択もあるのに、互いに信頼できないから消極的な平和を保っている。

嗚呼、平和は、人類が互いに信頼し合い、道徳的・理性的に進歩することで実現されていく性善的なものだと思っていた。未知の宇宙人すら信じて、人類のこと・地球の位置を示したメッセージを太陽系圏外に送ったではないか。しかし、人類の歴史はナッシュを支持している。平和が、性悪説の砂漠に一瞬現れたオアシスであってはさびしい。私たちは根本的に変わらなければいけないのかもしれない。(2018年6月9日@nortan12日の会談が平和への前進となることを願って)

89、フヌヴソンチモ

いつもの通勤道、こんなところに横道があったろうか?デジャヴ(既視感)とは、以前にも来たことがあると感じる感覚だが、この感覚はその反対である。いつもと同じだが、何かがちがう。ネットで調べると、人に対して感じるのは「ミッドライフクライシス(中年期のSOS)」、ものごとに対して感じるのは「隠れた才能を発揮するチャンス」、時間や空間に対して感じるのは「不思議の国のアリス症候群」だとあった。そして、ようやくデジャヴの反対「ジャメヴ(未視感)」に辿りついた。フランス語で「一度も見ていない」意で、記憶喪失の一種と考えられるが健康な人にも起こると説明されていた。残業続きでメンタル面が低下しているかと心配にもなるが、同じ本を買ってしまう(健忘症)などもジャメヴらしい。しかし、それとも違う。例えるなら、よく知っている漢字をじっくり眺めていると「こんな字だったろうか?」という感覚だ。知っているのに、初めて知ったような不思議な感覚。いつも食べていたのに、こんな美味だったかなあという感覚。名づけるなら「偽新感」、フランス語にすれば「Faux nouveau sentiment」。どう発音するかGoogle翻訳に喋らせると、フーヌボソチモ?フヌヴソチモ?フヌヴソンチモ?何度も聴いていたら、どこかで聴いたように感じてきた。これは既聴感(デジャクティ?)何だか混乱してきたが、記憶が確かでないことだけは確かになった。ならば、確かでない毎日の新鮮さを楽もうと思うのが健康的か?(2018年6月7日@nortan)

86、シューズ

靴を履く習慣は、東西限らず紀元前からある。イスラエルに訪れた首相が、夕食会で靴に入った(靴を象った皿に入った)デザートでもてなされた?!イスラエル国内から、「靴を脱ぐ文化である日本人に失礼。恥ずべきだ。」と報じられた。イスラエルの首相が「出されるまで知らなかった。」とコメントしたことからも、怒りを表現してもよかった出来事であったのだろう。それとも「二国で共に平和の道を歩んで行こう」という粋なメッセージだったろうか。結局「首相夫妻は、デザートを楽しまれた。」と笑顔の写真が、創作料理人として有名なシェフのSNSにアップされ、誰にとっても大事には至らなかった。さて、西洋では、日本を靴を脱ぐ文化だと区別しているようだが、西洋人も靴を脱ぐだろうし、世界には靴を履かない文化もある。問題はどこで脱ぐ(履く)かなのだろう。「土足で心の中に上がる」これは、表現の仕方に違いはあれ、世界中で嫌うことだ。文化は違っても、自他の区別はあるからだ。ならば、靴を脱ぐ(履く)境目は、自他の「心の境界線」だと言えないだろうか。西洋人はベッドであり、日本人は玄関である。首相が怒りを表明しなかったのは、ベッドよりも家の方が広かったからだと思えば納得もできる。心の広さを示したのか、武士道を貫いたのかと日本人である私は思いたいが、靴が発明される前や靴を履かない人は、靴のデザートをどう思うだろうか。(2018年5月13日@nortan日本人の誇りを思って)

82、神の思惑

神が与えた課題。地球の先住民であった恐竜たちがそれを解けたか、解けなかったか。化石は絶滅の事実しか語らない。プレートテクトニクスで地殻も2億年でマグマとなって溶けてしまうというから、私たちの知りえる過去も、海洋の地殻から引き剥がされて隆起した一部の情報のみである。ひょっとしたら、課題を解決して痕跡を残さず宇宙に進出した存在があったかもしれない。私たちは、思うほど地球の過去を知らない。

神が与えた課題。他の文明人がそれを解けたか、解けなかったか。歴史は記録にある事実しか残さない。滅亡した(させられた)文明は、遺跡しか残さない。ジャングルの中に、私たちの知らない文明が存在したかもしれない。ひょっとしたら、滅びずに課題を解決して宇宙に進出した文明があったかもしれない。私たちは、思うほど過去の文明を知らない。

神の課題は、ホーキング博士の言うように「滅亡を逃れるために、宇宙に進出すること」だろう。私たちは、46億年、この地球でそれを解決した者はなく、私たち人類がそれを実現させられると信じている。しかし、神の課題は過去に解決済みなのかもしれない。現人類は思うほど神に期待されていないのかもしれない。そう考えれば、対立や戦争の歴史にも説明がつく。まずは、期待されうる文明人にならなければならぬ。私たちは、思うほど神の思惑を知らない。(2018年5日6日@nortan米朝首脳会談に平和を願って)

81、やおよろず

3月14日、ホーキング博士も宇宙に旅立った。宇宙物理学における天才。輪廻転生とタイムトラベルを信じると、アインシュタイン博士の誕生日に逝ったホーキング博士は、アインシュタインに転生したかもしれないとも想像する。ホーキング博士の理論の幾つかは、数式上証明できても、現在の科学力では検証することができない。博士は未来に検証を委ねた「予言者」とも言える。科学も宗教も人類の存在(人生)と宇宙の姿(この世)を追求する。また、どちらも証明できないものがある。宇宙の姿と死後の世界、どちらも信じるしかない。「科学」は「宗教」でもある。さて、冷たくなった子どもを抱き続けた猿の母親、主人を待ち続けた忠犬はち。科学も宗教ももたない動物たちは、命の無常をどう受けとめるのだろうか。40年前、愛犬トコは家の周囲を回って門のところで横たわった。静かな最期だった。そうか。私たちは、考えて理解しようとするから悩む。私の誕生後、初めての家族旅行だったと聞いて、父の旅立ちを報告するために訪れた日光東照宮。有名な三猿は、見ざる・言わざる・聞かざる。馬を守るための彫刻だそうだが、もう一匹の猿が隠れていたのかもしれない。「考えざる」つまり、「心で感じ、あるが馬(まま)を受け入れよ。」2か月もかかったが、ようやく一つのことに気づけたようだ。信じることは感じることなり。これからは、やおよろずの神々が語りかけてくる言葉を、少しでも多く受けとめられるだろうか。(2018年3月-5月5日@nortan)

80、エンタングルメント

もつれ合った2つの量子(エンタングルメント)を別々の場所に置く。そして、片一方を観測すると、もう片一方の状態も決まるという。例えば、こちらの量子がプラスになれば、もう一方はマイナスというように…たとえ何億光年離れていても、観測した一方の情報は、もう一方に影響するらしい。アインシュタインは、左右の手袋に例えて「片方が右手なら、もう一方は最初から左手に決まっていた。神はサイコロを振らない!」と対抗したようたが、観測実験では、サイコロに軍配が上がったようだ。この量子理論を使うと、テレポーテーションも可能になる。絡み合った量子をそれぞれ満たしたボックスを遠く離れたA・B地点に置く。A地点のボックスに入った私の情報を読み取り、B地点に送る。その後、A地点の私を消滅させれば、B地点で私が合成される仕組みだそうだ。ミクロの量子レベルでは、実験が成功しているというから、やはり神はサイコロを振るのだ。もし、私たちの地球とエンタングルメントな別の地球が夜空にあるのなら、地球で観測したことと対称な出来事が、そこでは起こっているにちがいない。幾つかの病気と闘いながら、文句も言わず、二日に一度の透析にも耐え、孫が結婚するまでは永生きしたいと言っていた父が逝った。「死」の対称が「生」だとすれば、別の地球では別の父が病から回復したか誕生したにちがいない。いずれにしても、今日、父は星に逝った。(2018年3月9日@nortan父の介護に献身してくれた妻に感謝)

78、逆に

中学時代に、担任の先生から「3の法則って知ってるか。三日坊主というだろ。まずは何でも3日間続けてみろ。そして、3年…」と『継続は力なり』を教わった。それから、この言葉と格闘してきたがほとんど全敗。そこで、自分には3が合わない。2だ!3より1少ない分、実践できるだろうと、15年ほど前「2の法則」を座右の銘とした。まずは2日間続けてみることで「やる気」の確認。次は、2週間、これで「続けることのハードル」が下がる。そして、2か月。そろそろ「初心者」の仲間入り。次は、2年。その分野では「マニア」と名乗ることもできる。そして、20年目を迎えたら「プロフェッショナル」。他の人に伝えて200年続いたら「伝統」。2000年絶えなければ、自分が始めたことは「文化」になっているはず。伝統や文化になったことは自分で確かめることはできないが、その鎖の出発点にいたと言える。この「2の法則」に「逆に」を当てはめてみた。子どもの頃もらったルービックキューブ、自力解決できたのが約20年後。次に挑戦した4×4×4のリベンジに約2年。やはり2年はかかると意気込んだ5×5×5のプロフェッサーが、今まで覚えたことが役立ったおかげで約2か月。その後、構造が単純ゆえに一番難しいと遠ざけていた2×2×2に、意外に2日。2週間の初心者期間だけはどこかに行ってしまったが、うまく当てはまった。これを「逆2(に)の法則」と名づけた。さて、ここ2か月間、50?40?30肩に悩まされている。初心者期間を越えたので整形外科を受診したら、「年だから対処療法しかありません。リハビリを頑張って下さい。」というような診断で落ち込みかけた。そこで「逆2(に)」を使ってみた。年齢を「逆に」数える。名づけて『挑戦年齢』。何か新しいことに挑戦してやるぞという余年を数える。例えば、今何歳でもチャレンジ意欲がなければ、挑戦年齢0才。平均寿命を80歳とすれば、40の不惑でも挑戦年齢0~40才までさまざまということになる。私の挑戦年齢は?と計算すると、実年齢より若くなった。「やったー!」挑戦年齢を維持するためにも、諦めかけていた正十二面立体パズルに再び挑戦しよう。おや、挑戦年齢は大きい方がよいはずだが…と気づいた。しかし、元気がでてきた。「逆2(に)」も座右の銘にしようと思う。右肩の痛みは2週間でとれるだろうか?(2017年12月31日@nortan逆に1年を振り返る日)

77、事実と真実

人類が地球の住人であることは事実である。地球が太陽を回っていることは真実のようだが、何十億年も先には過去の事実になる。それでは、真実とは何か?1+1が2になることが真実だろうと結論づけようとしても、砂場で小さな砂山を2つ作って合わせれば1+1=1となる。「それは、ないやろう~。」と言っても、話の土台が違えば真は偽・偽は真である。コペルニクスが地動説を唱え、ブルーノが無限の宇宙と神の偉大さを信じ、ガリレオが望遠鏡で発見した科学という信仰も、良き疑う心を持たない者にとっては中世の異端審判と変わりない。真実(真理)を追究する科学ですら、良疑心なければ単なる事実となる。科学的には、真実は「誰からも、過去も未来も変わらないこと」事実は「今、起こっていること」と解釈できる。そこで土台を科学から哲学に変えれば、事実には「客観的」がつくことがあり、真実には「私にとって」がつくことがある。だから、事実は「ひとつ」真実は「人によっていくつも」あるように感じる。探偵アニメで「真実はひとつ!」というセリフがあるが、これは「(逆に)真実がたくさんあるけれど本当はひとつなんだよ。」ということなのだろう。私たちが事実と真実をいろんな解釈で使っていることは間違いないが、この混沌を何とか解決したい。そもそも、事実と真実は同じことなのではないかと根本的に解決を試みようとしても、事実=fact、真実=truthと受け入れられない。しばらく考えて、「どちらも私たちが追い求めているもの」と考えたが、事実は「時に、それから目をそむけたくなることもある。」と思った。そうだ。「事実と真実は違う!これが事実(真実)だ。」という解決はどうだろう。日常生活に事実や真実の追究はあまり必要ないか?また出発点に戻ってしまったが、今日は大晦日、明日からは1年の再スタート。お後がよろしいようで。(2017年12月31日@nortan)

76、お笑い

上り階段で思わずこけた時、「大丈夫?」と声をかけたりかけられたりすることもあるが、怪我がない場合には「くすっ」と笑ったり笑われたりすることもある。互いの関係性や、意外性が引き出す笑いだ。「何で笑うんだ!」と怒ることも容易いが、「ちょっと躓いちゃった。俺も年だなあ。」と返す方が紳士的だ。そこで「笑い」について考えてみた。昔、土曜8時に毎週のように楽しんでいた番組では、こういったズッコケの笑いが多かったように思う。また、その後のお笑いブームでは、奇抜な格好をして破天荒なことをしたり、相方にツッコミを入れるコントや漫才が一世を風靡した。それは、お馬鹿タレントという呼び名を生み出した。クイズ番組などで如何に変に間違い「お前、あほか!」と言われることでテレビに映り人気を手に入れる。つまり、これらはズッコケたり変な格好をしたり馬鹿を演じたりすることで笑いを取る『ピエロの笑い』である。次に、落語や漫才、かけ問答など話を聞き終わった後に「そう来たか!」と納得させられてしまう『落ちのある笑い』だ。これは、笑わせようとする者と笑ってやろうとする者とが話の世界を共有しなければならない。古典落語などは、時代を超えて私たちを楽しませてくれる。そして、最後に『風刺の笑い』だ。歴史教科書で日清戦争をロシアが眺めている絵を見たのが最初だったと思うが、今でもビジネス誌で海外新聞が大統領を風刺しているイラストを見ることがある。これは権力に立ち向かう世論の笑いだ。このように考えてみて、笑いには方向性があることに気づいた。弱者・職業タレント・強者…など。最近、「誰も傷つけないネタ」と自負する漫才師や「権力に立ち向かうネタ」に挑む漫才師がニュースのネタになっていた。真の笑いは、何処に向けるべきか?そう考えて、もうひとつの笑いを思い出した。階段で躓いたり、タンスの角に足の小指をぶつけたりしても、なかなか笑えないが『笑う門には福来たる』。もうすぐ新年。笑いを過去の自分に向けて、新しい自分に生まれ変わろう。それなら、誰も傷つけることはない。(2017年12月28日@nortan)

75、シンギュラリティ

気象予測では、特異日をシンギュラリティという。しかし、「体育の日(10月10日)は晴天になる」というのはシンギュラリティではないらしい。前後日と比べて統計的に説明できないほどの特異差が必要なのだ。つまり、体育の日の前後もよく晴れるということらしい。一方、「9月17日と26日は、台風上陸のシンギュラリティ」だ。科学的には説明できないが、統計的にはなぜか集中しているらしい。つまり、統計的に有意差を認められる日がシンギュラリティである。また、人類は2045年にシンギュラリティを迎えると言われている。未来学者レイ・カーツワイル(米)が予言した年である。私たちの技術は景気や戦争などの社会情勢に左右されずに指数的に進歩し、行き着くところまで行くと、それを越える想像できない新技術が発明されてきた。それを統計的に予測すると、2045年はAIテクノロジーと脳が生化学的に融合し今の人類には想像できない思考力を手に入れる年となるそうだ。そのためのプレ・シンギュラリティは7年後の2025年。AIは人間の思考と区別できないAGIと進化し、脳とAGIを同期する研究が始まる。そして28年後、毛細血管を通るほど小さくなった思考チップを脳に取り込み、インターネットに繋がったデジタル思考も行えるようになるらしい。それ以後は、人類がAGIを道具として使いこなすポストヒューマンに進化するのか、AGIに支配されるのか。SF映画のようである。「そんなことシンジュラレンテェー(信じられんてー)」とボケてみて、日本では「明日から正月3日までは、お笑い番組のシンギュラリティ」だと気づいた。人工知能には落語や漫才コントの面白味が理解できるのだろうか。できるのならば、未来もユーモラスになるかもしれない。(2017年12月28日@nortan)

73、三兎二兎一兎

職場に着く直前、車内は昔の流行曲に包まれた。久しぶりのAMラジオ。25年タイムスリップした感覚。当時、私にとって背伸びした流行曲のひとつ。いくつかのフレーズが、25年の時を越えた矢となって、心の中に飛び込んできた。「いくつのしゃぼん玉を打ち上げるのだろう♪」子どもの頃、大人たちが古い曲を「なつメロ」と呼んで聴いていたことを懐古趣味だと決めつけていた。そうではなかった。曲の方が時間を越えて、大人たちの心に届いていたのだ。名曲はメロディに乗って時を越える!「逃げ場所のない覚悟が夢にかわった♪」若い頃このフレーズは無用だったが、今は必要だ。「三兎を追わねば一兎をも得ず」と意気込んでいたが、やはり諺は的を射ている。「二兎を追う者は…」私に残されたしゃぼん玉は「一兎」か。スマホにダウンロードした長渕剛が、「それを逃すな」と私の覚悟を問いかけてくる。(2017年12月16日@nortan子どもたちが成人となった翌日)

71、トリアージ(ュ)

第2次世界大戦時、野戦病院では再び戦える兵士が優先されていた。回復不能な兵士は印をつけられ、治療は後回わしとなった。戦争効率化システムがトリアージであった。そのトリアージが、災害医療で見直されているという。緑・黄・赤・黒の4色のカード。容態にあわせてカードが切りとられていく。歩けるか?→A呼吸しているか?→B呼吸数はどうか?→C脈はどうか?→D意識レベルはどうか?→E治療不能と、フローチャートによって色判定される。緑なら待機、黄なら準緊急治療、赤なら緊急治療、黒なら死亡又は治療不能。緊急性の高い者から治療されるシステムだが、時には「助かる見込みのない重傷者を見捨てる非人道的システムにもなりうる。全ての患者を救うという職業倫理に反する。」と批判する医者もいるようだ。(平時にもそんな医者と出会いたいと思う。)愛する者の治療が設備的にも人的にも不能で後回わしとなった割り切れなさを想像する。しかし、大災害時には仕方がないシステムかもしれないとも思う。サンデル教授が投げかけるように、「最大多数の幸福」を優先させることが、公共の利益にとって合理的判断なのだろう。さて、ヒーロー映画で、巨大な悪が街を破壊し人々を大混乱に落とし入れている時、ヒーローの優先救出順位はヒロインである。救出の最中に役名もセリフもない人々が苦しんでいることを想像するが、ヒーロー(Hero)にトリアージは関係ないのだろう。当然ヒーローの能力にも限界があるし、人々に「申し訳ありません。しばらくお待ち下さい。」と謝罪してからヒロイン救出に向かい、間に合わなかったというヒーローも残念である。そもそも、彼はヒロインにとっての「He-Law」であり「We-Law」でない。だから、トリアージュ(とりあえず)、私たち(We)で大災害に備える法(Law)を整備し、スーパーマンに任せるのではなく、皆で助けあえるようにすることが現実的だ。(2017年12月4日@nortanスーパームーンの夜)

70、壁の物語

2匹の金魚。エサを食べ続け、6年ほどかけて手のひらほどの大きさになった。大きめの水槽に移すと、フナ型がひらひら型を追いかけるようになったので、透明な下敷で水槽の真ん中を仕切ることにした。ひらひら型を目指してフナ型は幾度も見えない壁の突破を試みた。ついには隙間を発見し、ひらひら型と並んで泳ぐことに成功した。こんなことを繰り返すうちに、透明な下敷は水を吸って白く濁り、はっきり認識できるようになった。もはや、水槽と下敷の隙間は明らかになった。役目を終え、白く縮み汚れた下敷きは取り除かれた。取り除くとフナ型がひらひら型を追いまわすことはなく、1つの水槽で和やかに泳ぐようになった。これは、金魚の恋の物語でない。「壁」の物語だ。私たちの前方にもいつの間にか「透明な壁」は現れ、それに気づいた頃には崩れ始め、知らぬうちに消えてしまう。3才、小学1年、10才、中学1年、受験、18、20、22、…、中年、…と最後の壁まで、次から次へと現われては消えていく。もしかしたら、見えない何かが、私たちを突き動かすために「透明な壁」を置いているのかもしれない。すぐに乗り越えられなくても、安心しよう。道は「上」ばかりではない。その壁と向き合っているうちに壁は縮み、通り抜ける隙間が「横」に見えてくる。時には目の「前」にドアがあり、今までの苦労と努力で手に入れた鍵で開くかもしれない。時には、天上から手が入ってきて取り除いてくれるかもしれない。さて、水槽の壁を取り除いたのは私だったが、あの時、私の壁を取り除いてくれたのは誰だったろうか。(2017年12月3日@nortan麒麟オブジェのある場所で)

65、対話

話し方を意識した方がよいとアドバイスを受けた。そこで、自分の話し方を客観視してみようとしたができなかった。あらためて「話し方」は無意識の技であると実感した。技術的・表面的に変化させるのではなく、自己の内面から変えることが大切なのだろう。まずは、無意識という心の部屋で遠慮がちにソファに腰かけている『話し方』という名の分身に対話を試みた。「大丈夫かい?」これでは、弱々しい。「おい、自分。自信がないのか?」まだまだだ。「こら、俺。何やってんだ!」これでは、「話し方」を追い込んでしまうかもしれない。「話し方」からは返事がない。すると突然、「話し方」がソファから立ち上がって反論してきた。「しばらく、話すのをやめたらどうだ。」これで、ようやく対話らしくなってきた。「それでは、仕事にならない。」「二人三脚で歩んできたではないか。」「語尾が上がったり下がったりするのは、自分の弱さを隠しきれてないからだ。」「その気になれば、どんな話し方でも演じてやれるよ。」「それでは、自分が何だか分からなくなってしまうだろう?」と、ここまで対話して気づいた。何やってるんだ。そんなことを気にしているからいかんのだ。大統領選にでも立候補するつもりなのか?役者に転職するつもりなのか?すると、「ようやく、分かったか。」と「話し方」はソファに腰を下ろした。語尾の変化は、私の生き方に関係あるようだ。今度は『生き方』との対話を試み(心見)ようか。(2017年11月3日@nortan)

64、自分探し

朝5時半、無人駅のホームのベンチ。藍色の空、蛍光灯の灯り、鳥たちの鳴き声、1人、2人と足音。遠くから踏切の音。「ピンポン、まもなく電車が来ます。」プシューとドアが開いて、近くの席に腰を下ろした。ドアが閉まると始まった乗客の会話。向かいには、単行本の文字を指で追うネクタイ姿の警備員。次の駅で傘を手に降りていった。彼女には日常なのだろう。次の駅で降りて、大阪行きの特急に乗り込んだ。窓の外のベンチには、競い合うようにおにぎりをほおばってお茶で流しこむ2人連れ。電車のアナウンスが流れる。日本語に続いて英語、中国語、ハングル。車窓から流れる街を眺め、時おり乗客のおしゃべりに気を取られる。スマホ画面上の時刻は6時38分。このまま周囲を観察しながら過ごせそうな気がする。こうやって五感に集中していると、旅に出た気分である。「自分探しの旅」とは「他者観察の旅」なのだろう。自分に自信がもてなくなった時、他者の中に自分と同じものを見つけることで一歩前進できるのだと思う。何日も旅に出られなくても、l時間の心の旅なら週末に実践できそうだ。(2017年10月30日@nortan出張先に向かう電車の中で)

53、通過点

夢は見るものか・語るものか・歩むものか・変わるものか・つかむものか・託すものか。そもそも「夢」は、眠りに落ちた時に現れる「幻想」でしかなかった。人知を越えた力が、人間に「見させられるもの」だった。私たちは、その内容が正夢とならないよう、また、なるように両手を合わせた。実現しないというネガティブなイメージを感じるのは、それが根底にあるからだろう。それが、明治時代に「Dream」と出会った。「実現させたい目標」というポジティブなイメージが流れこんできた。海外へ活動拠点を移し、4257安打という大記録を打ち立てたイチロー選手。「夢」を「Dream」に見事変換させ続けている。日米合算数ゆえに様々な評価があるのも理解した上で、その先を見すえている。夢は見るものでなく「通過するもの」だと語りかけてくる。さて、Dreamには「自分に実現させる力があるか。努力し続ける力があるか。」の視点が不可欠だ。また、「次の目標地点を設定する力」も大切である。子どもの頃、何度も繰り返し見ていた「念じるだけで空に浮かび、進むために必死にクロールしいる夢」では、前者が欠けているし、そもそもどこへ行こうとしていたのだろうか?偉大な選手が、その名のごとく「1」からはじめて辿り着いた「4257」にも「2」があり「3」があった。次の目標は「50才、5000安打」と聞く。今回の4257は、1億2000万人が「ともに見させてもらった」夢だ。記録を破られた偉大な選手1人に、それを祝う懐の大きさがなくてもいいじゃないか。さて、私の「1」は何なのだろう。今晩、夢に現れるよう両手をあわせてみよう!?(2016年6月18日@nortan)

51、早いもの勝ち?

アキレスと亀のパラドックスは、ハンディキャップをもらって先にスタートした亀をアキレスは絶対に追いこせないというギリシャ時代からある話。「亀のいた地点にアキレスが追いついた時、亀は必ず前に進んでいること」を無限に繰り返すからだ。確かにその通りだが、これが宇宙の真理なら、競争の世界では常に「早いもの勝ち」になってしまう。さて、亀とアキレスの間を無限に分割することができるのだろうか。距離も時間も…この話が実際には成立しないという事実は、無限分割は不可能で、最小単位が存在することを示していると考える。それを便宜上1(単位)とする。0.001でも1(×10の-3乗・単位)、必ず最小単位は「1」である。1が存在するから、1 + 1 = 2 を基本として、2や3や4が生まれる。それが積み重なって億や兆、無限大となる。だから時間も積み重なり、流れる。もし最小単位が「0」ならば、1すらも生まれず「時間は流れない」ということになる。『宇宙の始まりは0の喪失』だったのかもしれない。さて、最小単位は、1000分の1秒かもしれないし、1億分の1秒かもしれないが、確かに時間には最小単位がある。アキレスと亀は、時間階段の上で競争していたのだ。階段だから、ある単位時間後に必ず同じ段に並ぶ。そして、アキレスが追いこしていく。時間は、階段なのだ。この瞬間と次の瞬間は不連続で、階段を上るごとく一瞬に「ぴょん」と移りかわる。例えるなら、空間のパラパラ漫画だ。読者がその手を止めれば時間は止まるのかもしれない。現在、物理学者も「時間は存在しない。」とか「非連続である。」と考えはじめている。読者である神様から見れば、私たちはロボットのように動いているのだろうか。確かに年齢のせいか、膝や足首の動きがかたくなってきた。痛みがあると亀のような動きになる。時間が止まっている間にアキレス腱に潤滑油でも差してもらえないだろうか。うむ…アキレスと亀の話は、こういうことだったのか!?(2016年6月13日@nortan)

49、懺悔

懺悔(ざんげ)という言葉を知ったのはバラエティ番組で、水をかぶせられたり桶が落ちてきたりする演出だった。それが、自らの罪の告白で魂の救済を求めるキリスト教の文化だと知ったのは、しばらく経ってアメリカ映画を見るようになってからだ。さて、宗教的な視点は横に置いて、親が子どもに「正直に言いなさい。」と白状させるのも一種の懺悔である。圧力に屈するか親の愛を信じて、子どもが正直に答えるとする。その後の親の姿勢には2通りあるだろう。「よく正直に言えたね。次は正しく行動するんだぞ。」とその反省を受けとめるのがひとつ。そして、もうひとつが「嘘が許されるのなら、神様なんていらない。反省しなさい。」と叱りつけ、お仕置きをする。親の愛情の幅には、こんなにも広い格差がある。自主性の尊重だとか厳しさだとか、親の立場での理由づけはできるが、子の立場からしたらどうだろうか。「うちの親は甘い。正直に言えば何でも許される。」かもしれないし、「うちの親は、結局正直に言っても言わなくても同じだ。」かもしれない。前者の親の言葉に「正直に言って良かった。」後者の親の言葉に「厳しく叱るほど自分のことを大切に思っていてくれたんだ。」と子どもが感動し劇的に成長するというほど『躾(しつけ)』という名の家庭教育は簡単ではない。北海道で親に置き去りにされ行方不明になっていた子が発見されたというニュースに安堵させられるとともに、親という責任について考えさせられた。新聞は「虐待だ。」とか「とても子ども思いの親だった。」とか勝手に水をがぶせているが、親子の関係は神のみぞ見ているのだろう。過去にもどってやり直すことができるのなら、思いっきり叱ってやりたいだとか、思いっきり抱きしめてやりたいだとか、そういう後悔を心の中に積み重ねることで、親も成長させ(躾)られているのだと思う。暗く狭いボックスの中で懺悔するのではなく、子の笑顔が親にとって一番の救済である。無事でよかった。(2016年6月4日@nortan)

45、バべルの塔

漫画家・横山光輝氏の作品『バビル2世』で「コンピューターに守られた」超能力少年が住む塔ではない。そのモデル「旧約聖書の創世記」に登場する巨大な塔である。ノアの洪水の後、生き残った人々はバビロンの地で天にも届かんばかりの塔を造りはじめた。それを見ていた神さまは、団結させぬために人々の言葉を幾つかに分けることにした。結果、人々は互いを理解することができず、塔を放棄して各地に散らばっていった。この記述は、人類が幾つかの異なる言葉を話すようになった原因を説いている。「おー、神様。何てことを。今、外国語の学習に大変な苦労をするのは、そうだからなのですね。」しかし、人類は言葉の壁を乗り越えようとしている。インターネット・翻訳ソフトなどの情報技術を活用して。それだけでなく、人類の知はデータベースとしてまとめられつつある。何時でも何処からでも瞬時にその情報にアクセスする手段が『脳内バイオチップ』のようなものとして発明されれば、学ぶことからも解放されるるだろう。つまり、ネットワーク上のデータベースに問い合わせることで瞬時に答えを手に入れることができるようになる。人類は『集団意識』をもち、難しい判断は人類No.1棋士を破ったような優れた人工知能か、その道の達人サイトが脳間ネットワークを通じてアドバイスしてくれるようになるだろう。試験で「記憶力の競争」をする必要もなくなる。何と素晴しいことであろうか。人類は再び宇宙(そら)にむかって巨大な塔を築きはじめることだってできる、と。ここまで想像して「コンピューターに守られて…いる?いない?支配されている?」と背中にぞくっとするものを感じた。集団思考生物となった人類は、失敗や間違いが減る一方、自分で考えたり・想像したり・思いやったりする個人思考は退化するかもしれない。「おーー、神様。外国語を学ぶ苦労は、そのままに…子どもの頃、超能力で相手の心まで読みとってしまうバビル2世に憧れたけれど、今は、時間をかけて辞書を引きながら外国語の意味を想像したり、相手の気持ちを『思いやったりする』平凡な人間であることの方が、すごい超能力のように思えてきました。」(2016年5月14日@nortan)

33、新しい時を刻む

善と悪、男と女、大人と子ども、陰と陽、できるとできない、プラスとマイナス。数え上げるときりがない人間得意の2択思考である。1日も12時間ずつ午前と午後に分ける。「自分たちが昼に活動している時、裏側の人は夜だから眠りについている。」ということだろう…いや、労働時間は基本8時間。だから、働いているのが8時間、睡眠が8時間、残り自由選択(クリエイティブ)?が8時間。『地球も、1日を8時間ずつ3等分して回っている。』と考えたらどうか。例えば、1日の出発を日本(JP)とする。8時間遅れで同時刻をむかえるのがフランスのパリ(E U)である。さらに、8時間遅れでアメリカの中部デンバー(US)となる。そして、8時間で日本に戻る。ざっくり考えると、地球の活動時間は、日本(アジア)が労働時間の時、EU(ヨーロツハ°)が睡眠時間、US(アメリカ)がクリエイティブ時間。世界株取引市場とも一致する。pmとam分けやめ、8~16時をwt(8 working time)、16~24時をct(8 creative time)、0~8時をst(8 sleep time)とする。10:24 amは 2:24 wtで、8:00 wtになったら残業をせずに 0:00 ctに切りかえる。残業をによる疲労感に悩む私たちにとってナイスな提案である。LGBT、モラトリアム、グレーゾーン、2乗してマイナスになる虚数の存在など、世界も様々なことが2択思考では解決できないことに気づきはじめている。日本は昔(いにしえ)より「どちらともいえないもの(中道)」に寛容であった。グー・チョキ・パーとどれも強いとする3巴も勝者をどちらかに決めつけない相互尊重文化である。世界中の時計が 8st → 8wt → 8ct 表示になったら、平和の秒針も時を刻み始めるかもしれないと、成人の日に想像してみる。(2016年1月11日@nortan)

30、108

108とは、1^1 × 2^2 × 3^3 で表せる数、正五角形の内角、野球の硬式球の縫い目の数であるが、煩悩の数となるとややこしい。調べると32の食淫欲 + 28の物欲 +28の心欲 + 10の修惑(修行することで打ち消せる煩悩) + 10纏(〔てん〕善に向かうのをまと(纏)わりついて妨げる煩悩)となるらしいが、ブッダの説いた根本仏教では大きく3つの煩悩(三毒)と考えるらしい。「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」。貪は万物を必要以上に求める欲望、瞋は怒りの心、癡は真理に対する無知。これならシンプルで理解しやすい。ケン・シーガルがその著作『Think Simple』でApple社で働いた経験として、S・ジョブズの思考と成功を「シンプルであることは、複雑であることよりも難しい。」ことの厳しいまでの追求と実践だと語っていたことを思い出した。物ごとが成熟すると様々なことが具体化かつ複雑化してくるが、根本を理解していないと、修行を積まない私たちには覚えるだけのマニュアルになってしまうのだろう。ファーストフード店で40品ほど注文した有名人が「店内で食べられますか。それとも、お持ち帰りですか。」と尋ねられて怒りをぶちまけたという笑い話も、マニュアルありきの弊害なのだろうと瞋(じん)とくる。根本とはSimpleで強いものなのだ。新年が始まった。年末の除夜の鐘に3っの音色を感じとれるよう「とん!じん!ち!」の煩悩を少しでも無くすよう日々の修行を大切にしよう、と思いながら「今年は1日多いんだから、明日からにしよう。」と考える。「怠ける」という欲に負けた。まだまだ、私に修行は無理なようだ。(2016年1月1日@nortan)

26、スターの違い

スターウォーズの新作が公開されたが、どちらかといえばスタートレックの方のファンである。これらのSF宇宙ドラマの祖は、英国の「ドクター・フー」らしい。1960年代から英国の子どもたちに大人気というから、最近まで知らなかったのはWho?…私である。フーが電話BOXほどの、小さいけれど中はとてつもなく広い、不思議なポリスBOX「ターディス」で過去未来・別次元を秘かに旅するのに比べたら、スターウォーズとスタートレックは船団を組み、軍隊規律の世界。敵が現れ「打ち落とせ。」「イエス、サー。」上官の命令が絶対である。英国とアメリカとの文化の違いを感じる。さて、日本のSFドラマは?と考えると、ウルトラマン?地球防衛隊がいるものの、持ち時間3分の宇宙人の登場でハッピーエンド。カップラーメンの3分間と合わせてこの「あっという間」が日本の文化なのかと思う。そうではないはずだ!と思いを巡らす。そうだ、ドラえもんがいた。日常生活に溶け込み、子ども一緒に悩みを解決していく。いつもハツピーエンドとはならないが、科学の力を夢へと変える。これこそ日本の文化だと納得することにした。田中耕一さんの民間研究機関での受賞から、ノーベル賞も授賞続き。22世紀には猫型でなくとも、家庭用ロボットは実現しそうだ。さて、ここまで考えて頭に「スター」がついていないことに気づいた。うむ…我が国の文化を代表するSFドラマは………、スター・フェスティバル。年に1回だけ彦星が織姫に会えるドラマ。そうか、我が国の文化は季節の風物持。月見や桜、紅葉など季節の風物詩を待ちながら楽しむことだ。さて、今年は暖冬。初雪の楽しみは今だにお預け。何処からか雪を運ぶヒーローもなければ、「雪を降らせよ」と命令する上官もいない。今晩は、サンタのそりの滑り具合を子どもたちとともに心配しながら、よい知らせを根気強く待とうかと思う。(2015年12月24日@nortan)