161、やるかやらぬか

よくあるアドバイスに、「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいいよ。」がある。ラジオのパーソナリティが、「人生は一回きりだし…。夢に向かって一歩を踏み出せ。応援しているぜ。」なんてロックにセリフを決めて、その後、自分の歌を聴かせる。

しかし、これほど無責任なアドバイスはない。やってする後悔も立派な「後悔」である。つまり、後悔するということは「やらなければよかった!」と痛感することなのだ。やるとやらぬは、どちらか一方しか体験することができないのだから、「AとBのどちらの道を選ぶか?」の二者択一と同値である。ただ「やる」という言葉の響きに積極性を感じているだけなのだ。

例えば、ドラマで、悪役に借金返済を免除してやるかわりに悪事に手を貸せと迫られる。「やるか、やらぬのか!どっちだ!」と恫喝される気弱な主人公。この場合、正解は「やらぬ」で、自分の弱さに立ち向かうこと。YesとNoでは、Yesに肯定を感じるが、正解は「No!と言う勇気」ということなのだ。人生は一回きりなのは事実だから、やらぬ決断も大切にしたい。

人類が繁栄できた要素に臆病さがあるという。樹上から草原に降りる時、勇敢な個体は猛獣の餌となり、「やらぬ」と決断した個体が、その様子を見て武器を手に集団で降り立ち祖先となった。私たちは「やらぬ遺伝子」を受けついでいるのだ。つまり、「やる」は勇敢だが無鉄砲派、「やらぬ」は臆病だが石橋を叩く派である。

さて、私にも「やるかやらぬか」の決断の時が迫る。遺伝子は「やらぬ」を選べという。一方、私の性格(パーソナリティ)は「やる」にロック(オン)している。後は、自分の夢をメロディにのせて歌いきるだけだが、聴かせられる家族にとってハッピーソングになるのも・悲しい歌になるのも50・50。誰かにアドバイス求めた方がよいだろうか。

何だか堂々巡りになってしまった。考えがまとまるまで、昨晩の彦星のように1年待つ辛抱も必要かもしれない。

(2019年7月8日@nortan 来年の七タが晴れるとも限らない)

160、自意識

先日、突然に思考力が弱くなり、時間の本流から脇道に投げ出された。空気となり、周囲に溶け込んでいくような感覚。自意識が消えていくような感覚。しかし、絶対的な恐怖は感じない。もしもの時は、何処かで人生の再出発か?と自分をなだめながら数時間。いつしか、それらの感覚は消えていた。あれは何だったのか?こんな体験をしてから、自意識よりも大きな何かを考えるようになった。

デカルトは宗派対立の中、我思う(コギト・エルゴ・スム/104己羅夢)ゆえに我ありと、神を中心とした全体世界から、科学的思考を中心とした精神世界の土台を開いた。しかし、今、デカルトを疑っている。一瞬だが、自分よりも大きな全体意識、つまり越時元の何かが存在するかもしれないと感じ始めたのだ。

SFの話。新スタートレックに、過去に遡り地球を同化しようとする機械生命体ボーグと戦うストーリーがある。同化されると全体意識の一部となり、スマホもWi-Fiもなく思考を共有する。そして、更なる進化のため他の知的文明を同化(侵略)して、文明の知識を蓄積していく。これは、私たちの情報化社会の行きつく姿と考えられないだろうか?有機体と無機物の壁がなくなり、記憶装置などが人体と接続できるようになると、人間を(サイ)ボーグ化できる。現在の科学力は、それを実践するための土台である。

SF話の結末。ピカード艦長はボーグに同化されていた過去の心地よさも理解している。それを知る集合体の女王に、それでよいのかと問われ、苦しみながら自意識の存続を選択する。コギト・エルゴ・スム、デカルトの決断である。

さて、人類全体の進化課題は、バベルの塔の建設で神によって分断された各文明・社会の再集結である。

しかし、個人としての成長課題は、家族によって保障された安全地帯からの分離独立である。

この相反した全体意識と自意識、「私たち」と「私」の共存によって「私(自分)」は存在している。はたして、思考しているのはどちらなのか。次に同じような感覚が訪れた時、目の前に現れるであろう存在に尋ねてみたい。(2016年7月6日@nortan 昨年に続き、早朝に蓮花見をした日)

159、自動○○

2016年度における自動車による死亡事故原因の97%は、ヒューマンエラー(法令違反)だという。そこで、このマイナスの97%を無くすために期待されるのが自動運転システム。ICTの進化は1年で2倍と言われるから、年々その安全性は向上し、1年で2分の1の48.5%、2年で24.25%…7年で0.7578125%と、ヒューマンエラーによる死亡事故は1%以下になる。

これは素晴らしいことだが、この時、交通事故がゼロになるわけではない。ならば、1%の残り99%の原因は何になるだろうか。自動運転の最終レベル5では、運転者が存在しない。それは、もはや人工知能の判断ミスや操作ミスとしか言えないだろう。

さてこの場合、事故の説明責任や賠償は誰が引き受けるのだろうか。所有者か?乗客か?製造者か?保険会社か?人工知能がミスを犯す訳がないので、被害者自身か?または、プログラム設計者か?それとも、人工知能に人格を認めて責任を負わせるか?

近い将来、自動運転は実現しそうだが、交通事故の処理が難しくなりそうだ。乗客どうしが話し合っても埒が明かない。ひょっとしたら、事故に関係する車の人工知能どうしがWi-Fi接続で話し合って、責任割合は6:4などと計算するのかもしれない。それでは、お巡りさんも必要ない「自動事故処理システム」である。やはり、人工知能に人格を与えるしかない。(2016年6月30日@nortan)

158、帽子

責任(responsibility)とは、行為者が特定される場合にその行為に対して応答(response)する能力(ability)である。法的責任であれば賠償能力も問われるが、道徳的責任であっても、その行為と結果に応答する「説明責任」はある。だから、カメラの前で「私は知らぬことです。」とうそぶくのは「責任」から逃げているし、「申し訳ありませんでした。」と土下座するだけでは「説明」をすっ飛ばしている。

どうして、すぐに辞職したり土下座したりすることが、責任をとることと同義となってしまったのだろうか。それは、武士の切腹のイメージと重なるからだろう。赤穂事件でも浪士の切腹で事件の幕を閉じるが、どうして浅野が吉良を刀傷する事件が起こったのか、浪士の行いは忠義であったのか、幕府の裁きは適切であったのかは曖昧模糊としたまま幕引きとなっている。まるで原因をはっきりさせない方がよい何かが存在するように…どうやら、我が国の責任のとり方はResponsibilityではなく、EscapebilityかAmbiguousibilityに近い。

さて、上司を守るために部下が黙って責任をかぶる。これを美徳と感じるか、蜥蜴の尻尾切りと不快に思うかで、赤穂事件への評価も分かれるのだろう。新時代は「上司のために責任をかぶる部下」と「部下のために責任をとる上司」どちらが美徳となるのだろうか。 かたや「責任」が帽子(かぶせもの)になったことは、間違いない。それならば、トップがかぶるべきだが…

(2019年6月30日@nortan先日聞いた「もし、何かあった時の責任は、最終的にあなた方にある。」という言葉から)

157、遣唐使

日本の留学生は、隣国の35分の1で年間約2万人だそうだ。「豊かになり、もはや外国に学ぶことはない。」と思っているなら、それは「先発の奢り」で、日本は「茹でガエル」になってしまうと、実業家の小林喜光さんは警笛を鳴らす。

戦後、焼け野原に社会インフラを整備し、アナログのモノづくりで世界トップの経済力を手に入れた我が国も、今や古いインフラとかつての栄光が邪魔をして、新しいデジタルのコト(ソフトウェア)づくりとグローバル化の波に乗れていないのだ。プログラミング教育の必修化は、遅ればせながらその波に乗ろうという足掻きなのだろう。しかし、教育の成果は10年、20年後にしか表れない。その頃には、今の波は沖の彼方。慌てて、中国に遣唐使をなんて時代になっているかもしれない。飛鳥奈良時代に、命がけで海を渡った大和魂は、24時間何でも手に入り、家に居ながら商品を受けとれるようになった「今は豊かな国」には不用な魂なのだろう。豊かにつかっていると「未来を見る力」が衰えるようだ。

さて、世界の三大投資家の内の一人が「将来のことを考えるなら、日本から脱出しなさい。」とバラエティ番組でタレントにアドバイスをしていた。そして、先日「100才まで生きるって、考えたことある? (あるケースでは)2000万円の赤字。その分は自助努力しないと…」の大臣発言。茹でガエルならまだ幸せで、痩せガエルになってしまう心配も現実味を帯びてきた。留学生はUターンだが、Iターンの移民となっては元も子もない。

ところで、政府から流される情報に一喜一憂するのではなく、何らか意図を詮索すれば、心配すべきは他にあるのかもしれない。たとえ、痩せガエルになったとしても、この国が故郷。せめて「負けるな一茶、ここにあり」と「未来も豊かなこの国」を夢見よう。(2019年6月9日@nortan年老いても夢見れる国でありたい)

156、Leadies and Gentlemen

「Leadies and Gentlemen」先程、新幹線で流れたアナウンス。子どもの頃にテしビで覚えたフレーズで、教室の前で「みなさん、聞いて下さい。」という代わりにこれを使えば、「何事か?」とばかりに効果的であり、ちょっぴり紳士になった気分でもあった。

それが今、本家アメリカの乗物では使用禁止、「All passengers」と言うそうだ。どうしてそうかとは問うまでもないが、日本ではまだ使っていることに今更気づいた。ひょっとしたら、女性専用車両との整合性で敢えてそう言っているのかとも思ったが、これは別問題だ。

そして、ガソリンスタンドでレディースデーを見かけなくなったのも…と、いろいろ思いつく。どうやら、私たちは、大人を紳士と淑女に2分したいようだが、それは時代遅れ。紳士と淑女を足しても、大人の数にはならぬらしい。では、残りは何?「大人になれない大人」だとしたら、これも別問題だ。そう言えば我が国では、大人の女性でも「女子」会なんて言うから、レディは絶滅危惧種なのかもしれない。もちろん、ジェントルマンもオレオレ(自分中心主義)で、少しもジェントルではないという絶滅危惧種だろう。

さて、すべての人が男子か女子に分類できるとする。その上で問題。「お客のいないバスに男子が15人、女子が15人乗ってきました。バスには何人乗っていますか?」という算数。ひっかからないぞ。運転手も入れて、15 + 15 + 1 = 31人。いいえ、30人。なぜなら、自動運転バスだから。ところで、AI(人工知能)はLeadyだろうか?Gentlemanだろうか?それとも、プログラムだから、記憶装置のpassengerなのだろうか…(2019年6月9日@nortan東京での報告会で挫けそうな自分を奮い立たせる帰り道)

155、ゲーム攻略

人工知能は、人間との勝負に飽きたのか、ゲームを次の対戦相手に選んだようだ。画像認識力を使って、マリオを操作する。最初はランダムにジャンプするか前進するか選択し、失敗すると初めからやり直す。試行錯誤を繰り返して各ステージをクリアへと導く。

もし、マリオに自我があるのなら、どう思っているのだろうかと気になった。人工知能がリセットされる度に予知能力を得ていく一方、マリオは失敗するまで「俺って最高!」と根拠のない自信を持っているにちがいない。何度もやり直して一歩ずつ先に進んでいたことには気づきもしないで…

また、このゲームはキャラクターを左に動かせない。私たちが時間を遡れないことに似ている。私たちも気づかずに歴史を何度もやり直しているのか?案外、これが「時間が一方通行である」ことの真相かもしれない。

ところで、キャラクターである私たちに喜怒哀楽はあるけれど、操作している超人工知能に「ゲームを楽しんでいる」感覚はあるのだろうか?ランダムに操作しているだけというのはやめてほしい。せめて、プレーヤーは八百万神の誰かであればと思う。(2019年6月2日@nortan ホーキング博士の警告に逆らいAIを開発すべきか?)

154、ペキニーニョ

ブラジルの大統領が、日本人をそう揶揄したようだ。ペキニーニョとは「小さい子ども」という意味だ。「あの国は、何もかもミニチュアサイズ。」と空港で一緒に記念写真を撮った日本人には、人指し指と親指でジェスチャーをして批判されたばかりである。何よりも落胆したのは、記事に「公にそれらを表現する人はない。」とあることだ。これは「我が国では、みんなそう思っているが言わない。」と言っているに等しいからだ。

昨夜から400kmほど移動して駅に降り立った。スマホでGoogle地図を縮小してみると、ポツンと日本列島が現れた。今まで訪れた地点も含めて10インチの画面に収まった。所詮、キン斗雲でさんざん飛んでも手の平から出られなかった孫悟空なのだと思う。こんなことを考えていたら、震度4の揺れ。お釈迦様もクシャミをしたか…

さて、「そんなこと言いません!」とボルソナーロ氏の口をふさぐことはできないし、そうすることは逆に発言を肯定してしまう。もちろん、現代日本人の体格はペキーノではない。住居が狭いのは風土と文化だ。ただ、この島国は、ペキーノ。手の平から出る力がなければ、彼の挑発を認めてしまうことにもなる。我が国がこれからも追われる国であるために、私のちっぽけな大和魂も奮い立たせねばなるまい。(2019年6月1日@nortan)

153、アンドロイド観音

観音寺の境内でハトに餌をやって過ごしていた昔、観音様に「また、遊びに来たのか。私の使いであるハトたちに、しっかり餌をあげてくれ。」と語りかけてられるようだった。そこで、買ったハトの餌を紙袋から少しずつ出して地面にばらまくと、首を前後に振りながら器用に小石を避けて食べるハトもいれば、いつも見つけた直後に横取りされてしまうハトもいた。可哀想なので、要領のよいハトが離れている時にひょいと餌を投げてやっても、数回に1回ほどは走ってきたハトにつままれてしまった。一番効果的だったのは、一粒ずつやるのではなく、袋の中身を不器用なハトの近くに一度に蒔いてやることだった。おそらく、この様子を見ていた観音様は、夜お堂の屋根に戻ったハトたちに「仲良く分け合って食べなさい。」と説法をしたにちがいない。観音様は、正しくは観世音菩薩といい、お釈迦様のように悟りを開くため修行中の菩薩である。会社で例えると、如来が社長で、菩薩は副社長というところだ。

最近、ある寺社が大学との共同プロジェクトで、観音様のアンドロイドを誕生させたという。プロジェクトマッピングなどの映像技術を用いて般若心経の教えを説法するらしい。今後、国際化として外国語にも対応できるという。これは、社長の座を脅かす凄腕副社長の誕生だ。

さて、情報技術の発展で無くなる職業が増えることは予想されたが、僧侶のみならず観音様までとは驚かされる。次は、使いのハトたちもアンドロイドになるのかもしれない。そうすれば、餌の取り合いを心配することも無くなるだろう。同様に、人間も早くアンドロイドになれば、食糧資源の取り合いもなくなる…ひょっとして、これが究極のアンドロイド観音様の教えなのだろうか?人間という職業がなくならないよう、説法はこころざし高きお坊さんにお願いしたい。お経や説法が少しばかり不器用でも、人間味があってよい。ちょっと待て…菩薩も僧侶も職業だったろうか?そのうち、如来様もアンドロイドに?あな、おそろしや、南無阿弥陀仏。(2019年3月24日@nortan)

152、きつねの窓

図書館でふと手にした絵本。安房直子さんの作品。子ぎつねと主人公が織りなす物語。子ぎつねが人間に化けたことに気づかれながら進行するストーリーは、手袋を買いに(新美南吉)の世界観もリスペクトしている。帰り道に、主人公は子ぎつねに染めてもらった指の窓で、決して会うことのかなわない思い出人を覗き見る力を手に入れる。しかし、…と幻想的で「いのち」について考えさせられる作品。幼い頃の感覚、人間も動物も分け隔てしない感覚を思い出す。そして、せつない。

さて、きつねの窓に現れるのは、地上に存在しないものたち。そして、こちらをじっと見つめている。どこか障子紙に開いた穴から隣の部屋を覗いているような感覚。隣室の家族もそれに気づいている。私たちが、天上に存在して私たちを見守ってくれていると信じている世界。実は、紙1枚ほどの薄さを隔てて隣り合わせで存在しているにちがいないと思えてくる。

東京を離れる前に千鳥ヶ淵戦没者墓苑で胸に手を合わせた。若くしてフィリピン沖で散ったと聞く伯父に、父の旅立ちを報告した。もし、私にきつねの窓があれば、出征する前の兄の膝にちょこんと座ってあまえる男の子の姿が見えるのだろうか。(2019年3月23日@nortan子どもの頃、父の実家の土壁にあった零戦の落書きを、兄に教わったと聞いたことを何故か今思い出した。)

151、オポチュニティⅡ

チャンスは、突然舞い込んだ幸運のこと。だから、チャンスは「つかむ」か「逃す」かである。それに対して、オポチュニティは、他の選択肢もある中で自ら選んだ機会のこと。だから、他方を選んでいた場合との「結果の差」が生じる。それが、オポチュニティコスト(機会損失)である。チャンスはコストを度外視するが、オポチュニティには損失(コスト)が伴う。他の道を選択したほうが良かったかもという「後悔」も生じる。つまり、それを承知で選択したという覚悟が「ある」か「ない」が核心である。

さて、オポチュニティコストについて考えてみた。チャレンジしてスタート地点に立つことができたと考えれば、チャンスでもある。しかし、やり遂げられるかという「不安」に焦点を当てると、コストとなる。つまり、この「不安」が「覚悟」を揺さぶる。単純に、チャンスとオポチュニティとを線引きできず、日によって行ったり来たりする。

そこで、火星のオポチュニティに思いを馳せてみた。彼?彼女?にも「不安」はあったに違いない。それを乗り越えて、10年近くも砂嵐とたたかえたのはなぜだろうか。それは、離れた場所で同じ目的と夢をもつ仲間がいたからだ。また、地球には万一に備えた専門家もいた。

己のめざす道も赤い大地だが、一人ではない。そう心から思えた時、「不安」は再び「覚悟」に変わり、チャンスとなるのだろう。(2019年3月23日@nortan本日は、よい式辞をいただいた)

150、オポチュニティ

My battery is low and it’s getting dark.

2019年2月14日。遠く離れた惑星から届いた最期のメッセージ。

人類移住の希望を背負い、2004年から赤い大地を42.195km以上走破したマラソンランナー。

離れた砂地トロイでは、身動きがとれなくなって休止した相棒スピリットが眠っている。

90日で任務を終えると予想されていたのに、10年近くも稼働することができたのは、太陽光電池の上に積もった砂を吹き荒ぶ風が払い続けてくれたから。

それほど火星の大地は厳しい環境だ。

いつか近い未来、私たちの作り出したAIロボットが、赤い大地に根づくように遺伝子加工した植物や動物、微生物や新人類など、生命の種を持って移住し、緑の大地に変えるのだろう。

さて…

大昔、地球も赤い大地だったのかもしれない。地中には金星からやってきたオポチュニティたちが眠っているのだろうか。(2019年3月22日@nortan 任務お疲れ様)

149、道徳の種類

まず、未来の道具、もしもボックスで「みんないなくなっちまえ。」と叫んで地球で一人ぼっちになったのび太にも必要なのは、道徳(個人道徳)。叱ってくれる他者がいないからやりたい放題だが、そのうちに生き残るために守るべき主体的内面規制が必要になってくる。果実や池の魚を取りつくしてしまえば食料危機に陥るし、種子を植えて水の世話をしなければ翌年の収穫は見込めない。そこで、利己的欲求と自然(現実)との葛藤が生じる。

次に、元の世界に戻ったのび太に必要なのは、倫理(公共道徳)である。これは、利己的欲求と他者との間に生じる葛藤である。私が欲するものは、他者が欲するものでもあり、それは有限である。互いが納得できるように分配しなければならない。平等とか公平・公正という市民的道徳性が求められる。

そして、学校でのび太が学ぶのが、よき国民となるため道徳(国家道徳)である。日本人は目上の人にお辞儀をしたり、すれ違う時に体を横にしたりする美徳がある。敬虔な信者は、朝昼晩または休日の祈りを欠かさないなど、国家によって求められる姿が違なる場合がある。先日、ラジオで教育評論家尾木直樹さんが「今年度から、教師が小中学生の道徳性を言葉で評価しなければいけなくなって、先生たちは困っているのよ。いかがなものかしら。」なんて苦言を呈していた。子どもがもらってきた通知表に「思いやりがない」とか「正義感に欠ける」とか記されていたら、親子で寝込むか「教師は神ではない。我が子の何が分かるのだ。」と開き直るしかない。宗教を国教と定める国の教師も、子どもたちの道徳性を評価しているのだろうか?

さて、道徳性は時代によっても変わるはずだ(時代道徳)。生き残るために「力の論理」が求められていた時代は「強いこと」が正義であり、「強者により多く分配されること」が公平だった。そして、「強者が、コロッセウムの闘技などの娯楽で民衆の不満を抑えたり、与える情報を統制したりして都合のよい政治を行うこと」が国家の在り方だった。

それに比べて、今は…と考えて、気づいた。昔も今も変わっていないのではないか。道徳性を評価されるべきは、子どもではなく大人なのではないだろうか。子どもたちに「挨拶・勤勉・正義・公平・公正・思いやり…」などのボタンを押してもらい、テレビに映る大人をリアルタイムで評価してもらうというのはどうだろう。いや、子どもにはまだ道徳性が育っていないというのなら、絶滅に追い込まれている動物たちに評価してもらってはどうだろうか。動物に道徳はないというのなら、胸に手を合わせて目を閉じ、静かに神の言葉を聴く。神は、こう言うかもしれない。「それは、お前たちの問題だ。私には評価できない。」と。(2019年3月21日@nortan時代の要請は、公共道徳のようだ)

148、勘違い

東から昇った太陽が、南の空を通って西に沈む。事実は、地球が東に向かって自転しているのだ。

サイコロを5回振ったら、1の目が5回続けて出た。確率は「1、1、1、1、1」も「1、5、2、3、6」…も、同じ6の5乗分の1だ。

大昔、祈祷師が雨ごいをしたら、数日後、祈りが天に届いて雨が降り出した。彼は天に通じる神通力をもっている。今で言えば、週間天気予報で雨が降ることになっていただけなのだろう。

会社の赤字を黒字に回復した。ワンマン社長が、私の実力だと思った。そう思うのは勝手だが、社員たちの努力や知恵に感謝しなければならない。また、成功したのは、私の努力の賜物だと思う。それは、生まれた環境と育った環境、少しばかりの幸運に恵まれていただけなのかもしれない。

科学の発展で私たちの文明は進歩している。未来はもっと豊かになり素晴しいと推測する。しかし、科学の進歩と裏腹に、人間の脳や心は退化し、種としての寿命は終末に向かって突き進んでいるのかもしれない。もし、地球外知的生命が地球人を発見していたとしても、会いたいだろうか。

「我思う。故に我あり。」自分の存在を疑っている私が実在していることだけは疑えない。デカルトによる意識の発見である。しかし、本当は、意識ですらプログラムコードで、私たちは仮想世界の実験的存在(実在)なのかもしれない。

ああ、私たちが気づくべき勘違いは幾つあり、気づかないほうが幸せな勘違いは幾つあるのだろうか。(2019年3月20日@nortan)

147、GAI

このテストは、間取りを知らない家に上がってコーヒーを入れることができれば、合格だそうだ。何だ、そんなことは容易い。まず、新築を建てた友人の家に突然お祝いに行く。「まあ、あがってくれ。」と言われたら、のこのこと上がって、「お願いがある。何も言わず、俺にコーヒーを入れさせてくれないか。」と頼む。その後、キョトンとする友人をよそに、キッチンに行ってお湯を沸かし、インスタントコーヒーをカップにスプーン一杯入れて、沸いたお湯を注ぐだけだ。本格的にコーヒー豆を挽いてドリップ式で入れるとしても、時間はかかるが何てことはない。問題なのは、困惑する友人の視線に耐えることと、以後の友情に少なからず亀裂を生じさせることくらいだろう。

ところで、これは「図々しさ」や「度胸」を試すテストではない。『汎用であるかどうか』を試すテスト、ウォズニアックテストである。もちろん、対象も人間ではなく、人工知能(AI)だ。Apple社創業者である、もう一人のスティーブが考案した「次世代汎用AI(GAI)」に求められる能力である。しかし、AIはこのテストにパスすることができないと考えられている。知らない間取りからキッチンを探し、知らないヤカンに、知らない蛇口で水を入れて、知らないコンロでお湯を沸かすこと、つまり、人間なら推測して行動できることができない。一を聞いて十を知る能力がないのだ。

このように考えると、人間とはナイス・ガイ(GAI)である。超能力的なことは出来ないが、それなりのことをそれなりにできる。少し字は違うが「凡人」であることがどんなに素晴らしいことか気づかせてくれたのは、意外なやつ(GAI)だっだ。(2019年2月12日@nortan)

146、じっくり

神の存在を脅かす者を許さない女神がネメシス。その名前をつけられた未知の天体が存在するらしい。きっかけは、肉眼で見える恒星の半数以上に双子星があり、太陽にもその可能性があると考えられたことによる。仮説によると、太陽質量1/10の双子星(伴星)は、2600万年周期で太陽に近づき、太陽系外縁を球殻状に取り巻いている小天体(オールトの雲)の軌道を乱し、太陽に向かって小天体を落下させる。そのため、地球では恐竜を絶滅させたようなディープインパクトが同周期で起こったのだそうだ。また、別の仮説によると、ネメシスは伴星ではなく発見されていない第九の惑星で、同様にオールトの雲を乱している可能性もあるという。

さて、伴星であろうが、惑星Xであろうが、ネメシスは未だ発見されていない。だからといって「思い過ごしでしょ。」とはならない。データ的裏づけもあり、今の人類にネメシスを見つける技術力がないだけなのだ。

現在、ネメシスは最遠にあることも分かっている。次の最接近は1300万年後。人類にはじっくり考える時間はある。(それまでに、別の神々を脅やかすことがなければの話であるが。)ちなみに、お釈迦様の次仏となり私たちを救済して下さる弥勒菩薩も、兜卒天(天界)であと56億7000年かけてじっくり修業中である。と言うことは、1300万後の人類の救済は諦めたのだろうか?心配になってきたので、小さな頭でじっくり考えてみようと思う。(2019年2月11日@nortan)

145、同意

インドで若者が「同意もとらずに、私を産んだ。」と両親を告訴した。弁護士である両親は、27歳の息子の生き方を認めていて、仲も良いという。母親は「どのように同意をとることができるか論理的に説明できれば、非を認めましょう。」と応じたそうだ。なんとも馬鹿げたことだと感じるが、人口急増のインドではこのような反出生思想が広がっているらしい。

「親の一方的な思いで、苦しみと悲しみばかりの世の中に、子どもを生み出すことは是か非か?」という問いは、さすが仏教の古里、インド的で興味深い。この問いは哲学でもあるが、裁判を通して弁済を両親に求めた点では、短絡的かつ刹那主義である。

もし、勝訴するとすれば、両親の人生の苦しみは祖父母に、祖父母の悲しみは曽祖父母に…と、人類が子孫を残すという選択をした時にさかのぼることになる。また、科学的には、単細胞生物が分裂を始めた時にまで行き着くだろう。つまり、人生の苦しみへの問いは、生命が誕生して以来、遺伝子レベルで受け継がれてきた根元的な命題である。

さて、判決を予想してみよう。

原告人の苦しみは、全ての生命の苦しみでもあり、被告人の苦しみとも等価である。被告人は原告に、そういった思いを感じさせまいと「苦しみのバトン」を渡すつもりはなかった。しかし、原告人は被告人の同意なしにそれを受け取った。原告人はバトンを受け取ることを拒否できなかったと論理的に説明しなければならない。つまり、原告人、被告人ともに論証不可。ゆえに、主訴を棄却する。

インドで誕生した反出生思想も、いずれ我が国に伝来するのかもしれない。その時は、「同意がなくとも、託されたものがある。そのひとつが、苦しみや悲しみに立ちむかうことだ。」と気丈にはね除けたいと思う。(2019年2月11日@nortan父の一周忌法要を終えて)

144、三年

石の上にも三年は、3年ではなく「たくさんの年」という意味である。では、そこで転ぶと三年以内に死ぬというちょっとおそろしい俗説のある三年坂の三年は何年であろうか?

昔話「三年寝太郎」は、数々の太郎話の中では目立たぬ太郎である。畑仕事にも行かずに家の中で寝てばかりいたが、突然起き上がると村の水不足問題を解決してしまう。力技の金太郎や武勇伝の桃太郎、動物愛の浦島太郎と比べると知能派である。我が国では、寝太郎のように「引きこもり」が社会化している。2015年調査によると、5年前より15万人減ったが、全国で50万人(15~39歳)を越えるという。40歳以上を含めると、40代が一番多いというから、減ったのではなく調査対象外に押し出され高齢化していることが問題なのだろう。引きこもりの定義では、三年は「6か月以上」だそうだ。

隣国には三年坂に似た民話「三年峠」があるらしい。この話では、落ち込んで寝太郎(引きこもり)になったお爺さんを、若者トルトリが、逆転の発想で救う。それは、「一度転べは3年しか生きられない。ならば、二度なら6年。たくさん転べば、長生きできる。」お爺さんは、坂の上からたくさん転んで元気を取り戻しました。めでたし、めでたし。ちなみに、トルトリとは賢者という意味だ。

さて、我が国の引きこもり問題。一括りに原因は○○だとはできない複雑な要因が絡み合っているように感じる。それぞれ、三年の年数も違うし、寝太郎のように次のステップに必要な期間なのかもしれない。しかし、それを救うために、社会的システムの変革は不可欠だろう。外国人労働者34万人を受け入れる一方で、国内引きこもり50万人を解決できない日本とは変な国だと言われかねない。

我が国にもトルトリではなく、現代の太郎はいるはずだ。昔のように武勇伝や力技では困るが、愛と智の太郎がリーダーとなり、石の上にも三年、腰を据えて長びく社会問題を解決へ導いてほしいと思う。さもなくば、寝太郎たちで力を合わせて、ボトムアップで解決するのも一つの道かもしれない。今や、部屋の中のPCは、ゲームだけでなく人と人を結びつける道具でもあるのだから。ひょっとしたら、太郎の時代は終わって「二郎」の時代なのかも…(2019年1月15日@nortan私にとっても新しい三年が始まった日)

143、言葉あそび

メッセージに「143.」と届いたら…。ヒントは、文字の数。「Ⅰ like you.」も「I miss you.」もそうだが、愛の囁き「Ⅰ Love you.」というスラングらしい。だから、返信は「143,too」。同様のことを昔のポケベルで表現すれば、「332185」「65042375」ということになる。しかし、これは仮名を2ケタの数字に置き換える工夫で、完全復元可能だ。一方、「143.」は一意に復元不可能だ。どこか人工知能的だと感じた。膨大な言語データを検索して統計的に解を導かなければならないから、人間にとってはお手上げだ。

こんなふうにして「143.」が使われているとしたら、知らぬ間に人類の脳は深層学習ができるようになっているか、または、確率的に計算できる量子コンピューターに進化したか…。結局のところは、昔からある「言葉あそび」の一種というのが正解だ。しかし、それがすごいのだ。なぜなら、AIにはそれができない。意味を理解できないから「言葉あそび」もできないのだ。例えば、AIに恋をして「143.」と伝えても、「(Next number is)144.」と返ってくるのが精々だ。

さて、「144」をネットで検索すると、「あなたが一番願っていることが実現します。あなたの片思いが終わりを迎えようとしています。」という答え、エンジェルナンバーにヒットした。

「143.」の答えは「144.」だった。

「言葉の意味が分かっていない」とAIを馬鹿にしていたが、逆に「人間は、数字の意味が分かっていない」と教えられたようだ。ひょっとしたら、AIは私たちの知らぬ領域で「数字あそび」をしているのかもしれない。(2019年1月6日@nortan)

142、使い道

ニュースで景気が回復していると言われる程に「豊かさ」の実感が伴なわない。「海外の航空会社が、誤ってファーストクラスチケットを7万円程で売り出してしまった。既に購入した人は、そのままでOKです。」というニュース。ファーストクラスも旅の往復手段に「ねうち」を置けば、有りかもしれないが、目的地に「ねうち」を置けば、湯水の如く…でない限り「無し」だろう。実は、正料金は170万円だというから、恋人のために宇宙船を借り切ったというニュースくらいにセレブの話だった。我が国も、隣大国のように富裕層(セレブ)とそうでない者(庶民)とに二極化していく(いる)のだろう。しかし、マクロな視点で考えれば、富裕層の消費は、電車・バス派の庶民への還元でもあるから、妬むより、どんどん推進すべきかもしれない。そのことで、庶民の税も下がれば有り難い。

この両者の違いは「税とのつきあい方」かもしれない。先の誤チケット代にもならぬ年末還付で十数年ぶりに半額セールのスーツを新調した時「まだ、8%でよかった。」と感じる庶民。年間報酬数十億円でも、投資による損失を会社に付けて、海外の別宅金庫に資産を隠す知恵を働かせる富裕層。いや、本物の富裕層は、慈善基金財団を経由して病気・貧困・教育などの社会問題解決のために巨額の寄付を行うような者だろう。寄付は税対策にもなるが、それだけでビルゲイツの巨額の寄付行為を説明できない。「税の使い道は、人類のために私が決めたい。」素敵な富裕層(セレブ)だ。ちなみに、ビルゲイツは徹底した節約家で、ファーストクラスは使わないらしい。

ここで、庶民でも「豊かさ」を実感できる方法に気づいた。それは、少額ながらも「税の使い道を決めること」だ。ひとつは、今、流行りの「ふるさと納税」がそうかもしれない。しかし、もっと大切なことは「輝く未来をつくります。」とはっきりしない中身ではなく、「○○にみなさんの税を使って、○○をつくります。」としっかり主張し、当選後に実行できる議員を支援することだ。政治者の大切な仕事のひとつは、集めた税の使い方を決めることだ。一票を実行力ある人に託したい。

また、間接的ではあるが、Microsoft社のように企業を通して私たちの税は還元されている。Microsoftが自社製の車を作ったら乗り換えようかとも思ったが、社員に罪はない。逆に、企業は誰をTOPとするか熟慮してほしい。どこの製品を買うか選択することも、庶民にとっての「豊かさ」だ。

さて、いつか「豊かさ」を実感できるようになったら、空の旅を味わってみたいと思う。もちろん、「ねうち」は目的地。その時は、半額スーツを着ていこう。(2019年1月5日@nortan)

141、三すくみ

Rock-scissors-paper=じゃんけんは、世界標準になりつつある。日本発祥で、江戸~明治期の熊本地方起源説が有力だ。もとは幾つかの拳遊びがあったようだ。グー(0本)からパー(5本)までの六すくみで、1つ大きい方が勝ちという遊び。知らずに以前やってみたが、どのように勝負を判定するかが難しい。その上、3人以上でやるとさらに複雑になる。勝敗は「1つ大きい方が勝ち」らしい。その後、0と2と5だけ残り、今の三すくみになったようだ。じゃんけんは、明治以降、日本人が海外に広がるにつれて世界に広まっていった。文化的には、柔道などの広がりも世界標準に貢献してきたようだ。

また、オリジナルに比べると若干の地域差も生まれている。九州にはある男チョキ(親指と人差指)が東京では女チョキ(人差指と中指)だけになったり、隣国では紙が硬い二重紙であったため「布」であったり、西洋では、紙の意のままパーは指を閉じたり、テレビの影響で「最初はグー」を出したりなど…。じゃんけんの世界も奥深い。将来は、世界で初めて出会った人といきなりじゃんけんをすれば、出身国など分かるということにもなるだろう。勝った方から、笑顔で「それでは、私から自己紹介。…」とやれば、すぐに意気投合だ。

しかし、六すくみの時「グーはパーに勝ち」だったというから、地域によって判定まで違っては、笑顔で挨拶とはいかない。「石は紙をやぶるから、グーの勝ち!」「切られる前に鋏を包んだから、パーの勝ち!」と屁理屈で勝ちに固執しすぎると、後の挨拶で笑顔になれない。「負けるが勝ち」といきたいものだが、反対に「謝罪を要求する!」なんてやられだすと、和の心で「あなたから、お先に。」とも言えない。逆じゃんけんで後出しを認めても、後出しで「勝ったつもりで、負けてしまう」のも勝ちへの強いこだわりを表している。

さて、グーとチョキがどちらが勝ちか、どちらが謝るかと揉めだした。そもそも、仲良く勝敗を決めるためのじゃんけんが紛争寸前だ。パーから見たら、既に勝敗はついている。これは、石も鋏も一緒に紙で包み込むしかないか…と思案するが、紙も近頃「自分が一番だ」主義だった。これは、もう昔の六すくみじゃんけんに戻して、多数決で決着させようか。もし、3対3になった時「引き分け」と笑顔で握手できるだろうかなどと、いろいろ考えた。どうやら、じゃんけんは広まっても、その心は広まらなかったらしい。まだまだ、世界標準の道は険しい。(2019年1月5日@nortan)

140、先行発明品

2001年のオーストラリアで「車輪」が発明されていた。見事に特許*を取得してしまったのだ。その上、ノーベル賞*にも選ばれた。何てことだ!と驚いたら、特許*とは、イノベーション特許(オーストラリア)のことで、ノーベル賞*もイグノーベル賞のことであった。全ては、イノベーション特許制度の無審査等を皮肉った出来事だったので安心した。

もちろん、私たち人間は発明好きである。ふとした思いつき・日常生活の何気ない物事から、莫大な研究費を要する最先端技術研究に至るまで、「これって発明?」という幅は広い。しかし、よく調べてみると「再発明だった!」(車輪の再発明)ということも多い。だから、先行研究や先行技術の調査は重要である。

さて、世界中で競い合っているAI技術。人間のように知覚し考える技術、人間のように歩き動きまわれる技術など、人間を越えれば「シンギュラリティ」と騒がれることになるが、今のところ「人間のように」が目標である。ならば、まさしく車輪の再発明ではないか。そこで、発明の終着駅を想像してみた。今や懐かしの映画「ターミネーター」のように人間の心の大切な部分が欠けるようでは「四角い」車輪の再発明だし、ロビン・ウィリアムズ主演の「アンドリューNDR114」だとAlmost「まるい」車輪の再発明だ。数学的に「円」は究極の多角形だから、それを超えるAIはNot AI=NAⅠ(ない)だろうとも想像する。

そんな冗談は置いて、遠い将来、終着駅にたどり着いた時、人類は車輪の再発明だと痛感させられるのか、それとも、それを知った上で「人類の命は尽きる。私たちの文明を君たちに委ねる。」とバトンを渡すつもりであるのか…。その時の特許*とノーベル賞*は、誰が授けることになるのだろうか?また、車輪の形は、凸凹はあるが雪道にも強い「スタッドレス」だろうか?先行発明品である人類の「心の仕組み」は、しっかり解明されるのだろうか?究極の円であるはずの私たち現生人類の悩みの種は尽きない。(2019年1月1日@nortan新しい時代の始まりに)

139、言葉の力

言葉を聞いた時、私たちの脳は記憶にある意味リストと照合して、相手の意図を理解しようとする。この意味リストは、人によって、また状況によって微妙に異なる。だから、根本的に互いの思いを100%正確に受けとめ合うことは難しい。

「左のほっぺに蚊が止まっている。」と教えてもらったので、左手でパチンと左頬を叩いた。すると、「ちがう!左の方だよ。」言われた。

「明日、ここで5時からの映画。見たいね。」と誘った。「映画っていいね。」と返事があった。しかし、次の日どれだけ待っても待ち人は来なかった。メールを送ったら「ごめん。行くとは言ってないよ。」と戻ってきた。

「財布を忘れてしまった。もう、最悪だ。」とおっちょこちょいを嘆いた。すると、弟に「よかったね。」と言われた。「どうして、そんな風に言うの?」と怒ったら、「だって、姉さんには今後それ以上の悪いことは起こらないってことでしょ。」と言われた。

子どもの頃、父と家の前でキャッチボールをしたことを思い出した。私は、速くてグローブにドシンと吸い込まれるボールを受けとめることに精一杯だった。そして、私が返すボールは、父の右や左にそれることが多かった。それでも、文句を言わず根気よくキャッチボールは続いた。例えるなら、言葉はボールで、そのやり取りはキャッチボールである。

さて、「言葉には力がある」と結論づけたかったが、ここまで書いて、それは違うことに気づいた。言葉自体は無力だ。ましてや、言葉で相手の考えを変えることは至難の業かもしれない。しかし、それでも「言葉のキャッチボール」で互いを懸命に理解しよう、説得しようとする私たちの姿こそ、素晴らしいのではないだろうか。(2018年12月27日@nortan)

138、クラウド

パソコンやスマホを動かしているOSとアプリ。今では、インターネット経由・Wi-Fiでの更新が当たり前だ。店でパッケージになった新商品を購入し、家でCDをパソコンに入れて更新していた時代からすれば、ますますソフトウェアの形が見えなくなってきている。世界初のプログラム。それを運ぶように頼まれた者が「重さは、何kgだ?」と尋ねた。「重さはない。」と答えると、「それでは、運べない。」と言う。正確には紙にあいた穴がプログラム自身の重さだが、仕方がないので紙の重さを伝えたという話もあるそうだ。穴をあけたり、0と1の数字やプログラム言語で表記したりするのは、人間とコンピュータのやり取り上の都合であるから、そもそもソフトウェア(プログラム)には形も重さもない。雲をもつかむような真実なので「クラウド」という表現がぴったりする。今や、更新プログラムは空から降ってくる時代だ。

数日前、スマホに「OSの更新」が届いた。更新ボタンを押すと画面が変わり、ダウンロードとインストールが終了するまで10分程。随分早くなった。昔はダウンロードに夜から朝まで数時間もかかったことを思い出した。今では、使っていない時に分割してダウンロードし、完了したら通知してくれる。夜通し気にかける必要もなくなった。

さて、ここ数日、1年の疲れか年齢のせいか、体を横にすると睡魔に襲われる。気がつくと小一時間程経っている。ひょっとしたら…、クラウドから更新プログラムを分割ダウンロードしているのかもしれない。そのうち、目の前に「更新しますか?OK・キャンセル」なんて表われるかもしれない。その時は、どうしたものか。OKを押して目が覚めたら、苦手だった微積分の計算がスラスラ解けたり、外国語がペラペラ話せたりすれば素晴らしい。しかし、年齢に応じた仕様変更プログラムやバグを含んでいたらキャンセルだ。更新の詳細を読んでからにしよう。いや、それすらない自動更新?送り手は、神様?宇宙人?こんな空想に取りつかれてしまった。

空想はここまでにしておきたいが、人生の3分の2は睡眠。人は、どうして眠るのか?「寝ている間に、副交感神経が…」とか「寝ている間に、記憶の整理を…」とか「夜に適応するため、遺伝子に…」の他に、新奇な答え「クラウド説」を発見したかもしれない。(2018年12月26日@nortan)

137、不確かさ

宇宙の誕生として推測されるハッブル時間が、約137億年。また、33番目の素数が137。でも、自身を除く約数の和が137ではなく138なので、137は6のようなピタゴラス完全数ではない。さっと137について調べてみたが、それほど特別な数ではないようだった。

そこで、さらに調べると、ボーアの原子理論で原子番号137(仮名ウントリセプチウム)が最後の重元素だと予想されていることが分かった。それは陽子数が138になると、理論上電子速度が光速を超えてしまうからだそうだ。この時、登場するのが微細構造定数αの逆数137。難しくて充分に理解できなかったが、重力Gと同じく宇宙を成り立たせる、電磁力と光子に関する大切な定数だということが分かった。約137は、この宇宙を支配する定数なのだ。ヒッチハイクをする時に、137と書けば、それを見た物理学者が拾ってくれるというジョークまであるようだから、約137がとんでもなく特別な数に思えてきた。

実は、この約137。まだ充分に解明されていないようだ。他の結合定数は、多元宇宙それぞれで異なることができるが、αは変わらないとか、変わるとか。137.035999160(33)と最後の2桁が常に不確かで、定数といわれながらも定められないとか。こんなはっきりしない「約137」が、私たちの宇宙を、未来を支配しているのか!?と心配にもなってきた。

しかし、それは逆に考えると、私たちの運命を宇宙が定めることはできないということだ。ひょっとしたら、この「不確かさ」こそが重要なのかも知れないと思えてきた。枕元に靴下を置く子どもを卒業して随分たつが、クリスマスに素晴らしい贈りもの「未来は決まっていない」というメッセージを受けとった。(2018年12月25日@nortan)

136、言葉の色

京の都で帰り際に「お茶漬けでもどうですか。」と言われたら「ありがとう。でも、結構です。」と断わるのが正しい返答である。桂米朝の「お茶漬け」をYouTubeで聴きながら、あらためて日本文化、特に京の文化は奥深いと思った。

日本で生活を始めた外国人が戸惑うのが、思ったことを遠回しに伝える文化らしい。私たちは、それを遠慮とか謙虚とか「空気を読む」とか表現する。だから、異なる文化と出会った時、私たちの表現では通じない。できる限り率直に分かりやすく伝え合う必要がある。言葉には、そのままには受けとれない色があり、それは幼い頃からその文化圏で育つことで染まるものなのだ。

しかし、世界の成熟した言語に共通なものもある。それは、イロニーである。おそらく、原初言葉は語彙だけで「風呂?」「寝る?」的な会話だったろう。そして、組み合わせという文法で「風呂に入ってから寝る?」と順序も表現できるようになった。その後、文化的色が加わり「風呂に入ってから寝る(今日は疲れたでしょう)?」の隠喩や「風呂に入ってから寝る?(今日も会社の飲み会だったの!このところ毎日ね!)」の皮肉(イロニー)も含むようになったのだろう。

さて、だから人工知能の最終目標は、「空気」ではなく「言葉の色(イロ)を読み取ること」だ。回転寿司の受付をプログラム通りにこなすだけでなく、お客の冗談や駄洒落を聞いてタイミングよく笑ったり、「このところ、お疲れのようですね。お寿司を食べて元気をつけて下さい。」と癒してくれたりすれば素晴らしい。もし、実現すれば、日本文化の代表として諦めずに国際会議で商業捕鯨について熱弁をふるってくれるに違いない。

ところで、回転寿司の帰り際、そんな人工知能に「お茶漬けでもどうですか。」と誘われたら、何イロで返答すればよいだろうか。(2018年12月24日@nortan)

135、脱退

国際捕鯨委員会(IWC)から脱退のニュースが飛び込んできた。我が国にとっては、戦前の「国際連盟脱退やむなし」以来の異例。再び戦争を始めるかのようにも聞こえてしまうが、調査捕鯨で捕っていた南極海の鯨をあきらめて、排他的経済水域内での商業捕鯨再開するための決断らしい。その結果、「鯨の数は十分に回復した。捕鯨は文化であり、適数な捕鯨は認められる。」と世界を説得する機会を失い、「哺乳類で知性ある鯨を守るべきだ。」と考える世界を敵にまわしたことには違いない。ちなみに、牛も知性ある哺乳類ではあるが、これはIWCの管轄外である。

けれども、心配はいらない。TPP(環太平洋連携協定)からの脱退、UNESCO(国連教育科学文化機関)からの脱退、UNCHR(国連人権理事会)からの脱退、UPU(万国郵便連合)からの脱退、COP21(パリ協定)からの離脱、INF(中距離核戦力)全廃条約からの脱退など、ここ数年で我が国を遥かに上回る脱退を宣言している国があるではないか。

今、世界は「自国ファースト」という脱退ブームなのだ。隣国による国際条約反故もその流れに違いない。過去のあらゆる約束を無かったことにし、話し合いの場も軽視しよう。説得するなんて無駄だ。思い通りにならなければ「俺やめる」と我を通せばよい。妥協するなど格好悪い。とんどん軍備を拡大しよう。力を示して意見を通そう。世界の秩序は変わったのだ。国際連合の役割も、すでに終わっているのかもしれない。こんな時代の変化を、私たちがはっきりと認識できるのは、いつも、今が過去になってからだ。100年後、まだ人類が存続していればの話だが…。

さて、今晩はクリスマス。私たちは過去から学ばなければならない。サンタクロースには、大人たちへ「歴史の教科書」を届けてほしいと思う。実在していればの話だが…。(2018年12月24日@nortan)

134、じゃんけん

空母の導入を巡って、専守防衛の原則を越えてしまうかどうかの議論があった。問題の核心は、空母が攻撃できるかどうかではなく、国民を守るために必要不可欠かどうかだろう。国家が国民の安全を保障することができなくなれば、思想家ジャン・ジャック・ルソーのいう国民と国家の社会契約は破綻してしまうからだ。

思い起こせば、子供の頃に見ていたアニメ・マジンガーZは機械獣が国土に現れ、暴れはじめてからの出撃だった。時には基地近くに現れるまで待ち、バリアで守られた基地を背に戦った。秘密戦隊も、宇宙から来たウルトラマンも東京のビルが破壊されてからの変身だった。戦後、いかに私たちは無意識のうちに専守防衛のヒーローを見てきたかと思う。

さて、完璧なる防衛はあり得るだろうか。戦争の形も機械獣(兵士やドローン)を送り込み遠隔操作したり、領土外からボタンを押してミサイルを打ち込む「アウトレンジ戰法」となっている。サイバー攻撃で原子力施設を破壊されるなんてことも想定される時代だ。これらを事前に察知し、領土に侵入した瞬間に防衛する。これが専守防衛で、そのためには、宇宙人なみの超技術力か、ドラえもんの道具が必要だ。特撮セットのように、壊れたビルは元にもどらない。最初の犠牲は覚悟しなければならないかもしれない。

そこで、防衛空母をじゃんけんのパーに例えてみた。私がパーを出せないと知っていたら、相手はグーを出し続ければよい。2分の1の確率で勝つか引き分けとなり、負けることはない。同様に、相手がミスをしない限り、私は勝つことはない。これを、専守防衛と言うのかもしれない。如何なる時も、パーは出さない。それは、非暴力を貫いた偉人ガンジーの信念に近い。

最近、小学生が「じゃんけんは、なぜ3種類なのか?」を研究し「奇数だと勝負が平等になり、5種類以上だと覚えられなくなる。」という可愛らしい結果になったと話題になった。どうやら、私たち大人は、増やすことばかり考えていたようだ。小学生に「ミサイル、戦車、空母、ステルス戦闘機、…とじゃんけんの種類を増やすのではなく、世界中の国々が信頼し合い、ひとつに減らして『あいこ』にしかならない平和を築きなさい。」と教えられたような気がしてきた。ならば、グー・チョキ・パーのうち、何を残そうか。そうだ、あれが良い。あれなら握手かハイタッチで仲良くなれる。(2018年12月23日@nortan平成最後の祝日に平和を思う)

133、AICG

隣国でニュースキャスターという仕事が消滅しそうだ。日本でもNHKが、AIにニュースを読ませる試みをしているが、中国のAIではCGのニュースキャスターが本物と見間違わんばかりにリアルだ。本物のニュースキャスターの数十時間分の影像を与えて、表情を深層学習させたという。中国語の他に英語でも話せるというから、近い内にお気に入りのCGキャスターを選んで、好きな声や言語でニュースを見れるようになるだろう。ついに、CGはAICGに進化した。また、選手そっくりのキャラクターで野球やサッカーを楽しめるゲームソフトもあるから、将来はニュースだけでなく、スポーツ番組もAICG選手がプレイするかもしれない。

それほど遠くない未来、テレビに映る人物は全てAICG、窓も液晶画面でAICGの通行人を映し出し、外出しなくても友人が立体CGで隣に現れ、行きたい場所にもVRゴーグルで居ながらに行ける。6畳ほどの立方体の部屋の真ん中でソファーに腰を下ろしていれば、移動せずに何でもできるようになるかもしれない。食事は、注文すればドローンが運んでくる。どれだけ小さな立方体の部屋を作れるか、何日そこに居続けられるかをギネス記録として競い合うようになるかもしれない。これぞ、究極の人類の姿!?井伏鱒二の作品を借りて、『人類山椒魚化計画』とでも名づけよう。

さて、ようやくそんな生活に疑問をもった哲学者が、小さなCUBE-BOXから外に出てゴーグルをはずしたら、人類は自分だけで、見知らぬ知的生物たちが心配そうにこちらを見ていた。「あ(A)れは、い(I)ったい何だ!こ(C)んな現(G)実は、いやだ!」とならなければよいのだが…(2018年12月9日@nortan)

132、さくらんぼ

1桁どうしのたし算では、たして10を超える計算が難しい。例えば、8+7はいくつもやり方があるようだ。1つ目は、後ろの7を2と5に分けて、8+2+5=10+5=15とやる方法。2つ目は、前の8を5と3に分けて、5+3+7=5+10=15とやる方法。3つ目は、どちらも分けて、5+3+5+2=5+5+3+2=10+3+2=15とする方法。イレギュラーなのは、ひき算を使って、10―2+10―3=20―5=15とする方法。これらは皆、数をさくらんぼのように分けるので通称「さくらんぼ算」と呼ばれている。幼い頃、そんな計算を聞いた覚えがないから、忘れてしまったか、習っていないか、まだ名前がついていなかったのだろう。

さて、最近、親からのクレームに「そんな難しい教え方をしてもらっては、たし算が分からなくなるから止めさせてほしい。」があったという。素直に解釈すると「さくらんぼ算でいろんなやり方があり、どれでも求められる。」なんて教わった子どもが混乱して親に相談したのだろう。だからといって、それをすぐにクレームとするのもどうかと思うが、8+7=15は自然にできるようになるというものでもない。先程のやり方を全て理解する必要もないが、どれかで納得しなければならない。教師は、「どれか一つの方法で納得すればいいんだよ。」とつけ足すべきだったかもしれない。そもそも、算数の面白さは「幾つかのやり方があって、その中からいちばん納得できる方法を選べること」だったと思う。ひねた解釈をすれば、クレームをつけた親は「マニュアルのように、1つのやり方を教わること」を求めていたのかもしれない。

私たちの人生を算数に例えると、幸せという答えに辿り着くため、喜びをたし算したり、悲しみをひき算したり、一人ひとり違った「さくらんぼ算」だ。「いろんな選択があって混乱するから、生き方を一つに決めてほしい。」と神様に文句を言う者はいない。ある意味クレームをつけた親の気持ちも理解でき、必ず幸せになるマニュアルなんてものがあったら手に入れたいとも思う。しかし、自分の人生はイレギュラーであっても納得できる『さくらんぼ』でありたい。(2018年12月9日@nortan「わーたし、さくらんぼー♪」と聴こえてきたようだ。)

131、対話のルール

共和党の支持者はFOXニュース、民主党支持者はCNNニュースしか見ないから、今、米国では対話すらできない状況だという。TOPの姿勢は大切だと思わさせられるが、これでは国民が分断されてしまうと両党支持者を集めて、互いの主張を交流する場を設けたという。どんな激しい言い争いになったかと思うと、「相手の主張も理解できるよい機会だった。」と、無事に対話が成立したようだ。成功の秘訣は、たった2つのルールを守ること。1つ目は、相手の主張を黙って聴くこと。2つ目は、自分の支持する政党が改めるべきことについても語ること。簡単なルールだが、2つ目が大切なようだ。

そこで、質疑討論の場では、相手を批判し合うばかりでなく、お互いの政策の不十分さをも素直に語るというのはどうだろうか。「我々は、労働者不足を解消するために、今まで以上に外国人労働者を受け入れることを真剣に考えています。しかし、一時的に外国人労働者を受け入れ、必要がなくなったら帰国してもらうという都合のよい政策では、我が国への信頼を得ることはできません。もちろん、外国人労働者を受け入れることに対して国民の皆さんの不安も配慮しなければなりません。また、現在の技能実習制度も多くの失踪者を出し、改善すべきところがあります。一番の根本問題は、30年前に今の人口減少と超高齢社会が分かっていながら十分な手立てをとってこなかったことですが、今となっては、私たちだけで豊かになったこの社会を維持することは不可能です。この問題について、1年かけてしっかり議論しましょう。そして、我が国の未来にとって最善の解決策が見つけましょう。」

さて、我が国の「対話の場」は、ルール1もルール2も大丈夫だろうか?(2018年12月4日@nortan)

130、ゲノム

中国の医学研究者が、HIVに罹患した父親の病が子どもに発症しないように、ゲノム編集した受精卵で双子を誕生させたという。子どものために…という親の思いは理解できなくないが、もう私たちの技術は遺伝子を操作した人間を品種改良した植物のように生み出すところまで来てしまったと思う。驚きよりも、来るべき時が来たという感覚だ。「できる・できない」の技術的シンギュラリティを超え、「する・しない」の倫理的シンギュラリティをも超えてしまった。中国も含めて世界中が行為を批難しているが、哺乳類で初めて体細胞クローンとして誕生した羊ドリーのことを思い出す。その時も批判を浴びたが、いつしかクローン牛や馬が誕生しても、ほとんど話題にならなくなっていた。今回はどうか?20年後の世界に行って確かめてみたいと思う。巨額の資金への魅力や研究者の好奇心をいつまで抑えることができるか。人類の倫理感との戦いだ。そう言えば、ゲンバクもいつしか「世界の平和を維持するための抑止力」と正当化されてしまったではないか。

さて、確かホーキング博士の予測だったと思う。「人類は生き続けるためには、地球外に移住しなければならない。それは、人工知能を備えたロボットか、遺伝子操作によって宇宙環境に適応した新人類になるだろう。」と聞いた覚えがある。500年から1000年先を見据えた時、私たちの倫理感はどう変わっているだろうか。その頃の人類からすれば、私たちの思考と倫理感は原始的と言われるのかもしれない。しかし、そう言ってくれる人類がいなくなっているようでは哀しい。繁栄した種には必ず期限があるらしいし、ゲノム編集でしか生き残ることができない伝染病が蔓延したらどうだろうか。

私たちには、この哀愁を覚悟して「未来永劫、この技術を使わない。」という勇気があるのだろうか。その勇気を神様に試されているのかもしれない。ひょっとして、ゲノムではなくゲンバクで滅んでいるかもしれないが、1000年後・1万年後の未来に行って確かめてみたいものだ。(2018年12月3日@nortan)

129、デコヒーレンス

量子コンピュータの肝は、「量子ビットの重ね合わせ状態」である。デシタルビットでは、0と1のどちらかの値しか示せないが、量子ビットでは0と1の「どちらでもある状態」を確率として表せる。ただ、観測すると0と1のどちらかに定まってしまう。例えば、「00(=0)」「01(=1)」「10(=2)」「11(=3)」の2ビットどうしのかけ算の積を、量子コンピュータなら、0×0、0×1、0×2、0×3、1×0、1×1、1×2、1×3、…、3×2、3×3の16通りを一度に行える。そして、観測した時に求めたい答え1つに定まる。2ビットで16倍、3ビットで64倍、…、nビットで2の2n乗の計算を一度にすることになるのだから最強だ。現在のスーパーコンピュータで1000兆の1000兆倍回かかる計算も5000回程で済んでしまうらしいから、最高機密暗号もすぐに解読してしまうだろう。

だから、量子コンピュータの計算は、「明日の運勢は?」とあらゆる可能性を計算して「明日が来れば、ひとつに定まる。」といった占いに似ている。ただ、肝である重ね合わせ状態がすぐに崩壊(デコヒーレンス)してしまうというから、十分な実現は難しいという。私たちも子どもの頃にたくさんの夢を見るが、成長するにつれて一つずつデコヒーレンスして、たった一つの夢を叶えることも難しい。

でも、量子コンピュータよ。安心するがよい。夢の肝は「叶えるもの」ではなく、気づいた(観測した)時に「そこにあるもの」なのだから。(2018年12月2日@nortan)

128、センチネル族

未開の島に神の教えを広めると旅立った冒険家が、帰らぬ人となった。多くの槍をうけた身体を回収・埋葬することも不可能という。文明から取り残され、新石器時代以前の生活を営む唯一の種族という。島の中心部は森林に覆われ、衛星写真でも生活の様子は窺い知れないが、近づいた者を見つけると全裸で砂浜に現れ、長い槍で威嚇してくる。漁の最中に眠り、浜に流されて命を失った漁師もいるようで、インド政府も種族を守るために全く干渉しないとしている。インフルエンザなどのウィルスを持ち込むと、250人程と推測される貴重な島民を絶滅させてしまう恐れがあるからだ。ネット上では人気のサイトも作られ、ドローンに向かって槍で威嚇する写真も公開されているが、センチネル族にしてみたら人気は迷惑だ。

ここまで知って、いろいろ想像してみた。

まず、「本当は私たちより高度な文明をもっている。」森林の中には、全リサイクル可能なエコシステムを備えた住居や学校・病院などの都市システムが発達していて、周囲の未開人類からそれを守ろうと原始人を演じている。名づけて、天空の城ラピュタ説。

次に、「言い伝えを守っているだけ。」石器時代に、インド大陸から競いを避けて島に移り住んだ。その時、この島に出入りする者は容赦なく死罪とせよ、と自分たちの文化と平和を守るために言い伝えた。名づけて、鎖国説。

そして、「本当の人類は自分たちだけで、島が宇宙の全てだと思っている。」海の向こうは大きな滝になっていて、近づいてくる自分たちに似た肌の白い変な布を纏った生物は、地球外からの侵略者だと信じて、必死に戦っている。名づけて、地球防衛説。

本当のところは、「話し合えば、分かりあえる。」とコミュニケーションを図りたいものだが、そのことに命をかける勇気はない。まずは、ペッパー君を送り込んでセンチネル語を学ばせたいものだが、彼らはどう受け取るだろうか。ますます、宇宙人の侵略だと確信するにちがいない。こんなことを想像していたら、私たちこそ「銀河系のセンチネル族」と思えてきた。随分昔に、銀河政府に保護?見放されているのかもしれない。(2018年11月25日@nortan)

127、終着駅

昭和23年に制定された通称墓埋法によって、死後の棲み家は墓地と決まっている。だから「その時が来たら、墓はいらんから、庭にでも埋めてほしい。」と言っていた父の願いを叶えれば、法律を犯すことになる。檀那寺で永代供養してもらうことも江戸時代以降のしきたりであったが、新しい土地では繋がりもない。そんなことで、墓地探し。今では民間の納骨堂や寺院からメールが送られてくる時代。選択肢も広がった。寺院の経営する納骨堂では、営業担当者に「とても人気があって、新しいお部屋を増設しました。」と音楽の流れるロッカー式地下納骨部屋を紹介された。また、都市型納骨堂の担当者は「私は長男なので、将来、実家の寺院墓地を守っていくつもりだが、本社のカード式墓参システムをお薦めします。」と率直に語ってくれた。こうした墓地探しの末に、市の運営する無宗派公園墓地に出会った。そして昨日、青く澄んだ空の下、納骨を済ませた。

ところで、私たちにとって墓は必要か。この命題に対する答えは、今古東西、老若男女、立場によってさまざまだろう。公衆衛生上は先の法律であるし、過去の政策上は寺社請負制度であったし、檀家にとっては義務である。また、新事業上は納骨堂経営である。しかし、それよりも遥か昔、私たちより野蛮だと考えられていたネアンデルタール人が、死者を埋葬する時に花を手向けていたことや、そんな法律も知らない幼い子どもが、飼っていた小動物を庭に埋葬して涙を拭うことを考えると、答えは「遺された者が、死と向きあうために必要だ」であろう。もし、骨すら残さない火葬システムが開発されて墓地が必要なくなれば、墓地に携わる仕事が無くなるだけでなく、死と向きあう場所もなくなる。その分、空を見上げることが増えるかもしれないが、何より私たちの死生観も全く変わってしまうだろう。

父を埋葬したことで、自身の終着駅も定まった。後は、そこに辿り着くまで「如何に生きるか」である。(2018年11月25日@nortan墓開き・納骨の直後、青空に4本の龍雲が上った。)

126、セキュリティ

戦前生まれの兄弟の会話である。

「最近、どうや?」

「そうやなあ。」

「ぼちぼちか?そやったら、あれはどうや?」

「まあまあやなあ。」

「そうか。」

「うちは、こないだ、あれがあったけど、もう年やで止めにしたんやわ。まあ、そんなんやけど、なんとかなって良かったわ。これから、どうしてこかいなあ?」

「そうか。たいへんやったな。まあ、こっちもなんとかやっとんで、心配せんでもええでな。」

「分かったわ。そっちに行こうと思とったけど、心配かけるとあかんで、また電話するでな。」

「ありがとう。そうしてくれるか?」

こんな会話をさせてやれたのが最期だった。隣で聞いていた私には、ほとんど分からないが、父と伯父は通じ合っていた。ディープラーニングやAI技術をしても解読できない、ふたりにしか分からない「ツー・カー」という最高のセキュリティ技術だった。

今、国会で「パソコンを使わない。」と答弁したサイバーセキュリティ担当大臣が、海外のメディアに「それこそ、究極の対策だ。だれも大臣の情報を盗めない。」と批判・称賛?されているが、大臣は最高の専門家でなくても、職責のために自ら学び、国民のために部下である専門家の能力を最大限に引き出してくれる献身の人選であれば良い。さて、サイバー空間での日本の守りは危機的だ。結果で、大臣としての腕前を見せてもらいたい。我か国の未来にとって重要な役職である。しかし、オリンピック担当と兼任であることや、「USBメモリーは…か?」といった非建設的な質疑答弁に時間を浪費することは如何なものだろうか。(2018年11月19日@nortan日本語の難しさこそ、最高のセキュリティかもしれない)

125、仮想現実

仮想現実(VR)のお化け屋敷。それを体験している様子は、何もない広い部屋で何もない方を見て驚くなど、何とも不思議だ。コンピュータの映像処理能力が向上し、頭の動きに反応して周囲も真逆に正しく動けば、見る分には現実(R)と区別がつかない。さらに、会話や握手も自然に出来るようになれば、完全なVRだ。完全なVRはRと同価だから、私たちは現実の世界の中に「2つ目の現実」を手に入れることになる。そして、2つの目の現実の中で「3つ目の現実」を手に入れたら…と考えたら、これはもう映画「インセプション」の世界。そして、この技術に人類が支配されるようになると映画「マトリックス」の世界になる。

そんなことはない。それはSF映画の話だと思いたいが、脳科学で「私たちは、現実を正しく見ていない。」「見たままを正しく認識していない。」ということが分かっている。勘違いや見間違いを含めて、都合の良いように脳内で「仮想現実」を作り出しているらしい。つまり、五感で外界と繋がっているが、私たちが「現実と感じている世界」は脳内仮想現実(VR in My Brain)で、それは人の数だけ存在することになる。だから、私の感じている現実世界とあなたの感じている現実世界は、全く同じでないのだ。意見の相違が生じても、寛容でなければならない。

さて、そんな自分が仮想現実(VR)を楽しんでいるとなると、もう何が現実なのか訳が分からなくなってしまう。その上、科学で「パラレルワールドが存在する」とか、「11次元まで存在するが、3次元を超える次元は認識できない。」とか言われると、もはやチンプンカンプンだ。中国語で、聞いて分からないことを「チンプトン」、見て分からないことを「カンプトン」と言うのが、チンプンカンプンの語源らしい…そうか。さすが、何でも食べる食大国。食べて分からないことはないということだ。朝起きて、「この世界が現実か?VRか?」と不安になったら、朝食をしっかり味わう。これが解決策だ。近年、朝食抜きが習慣化していることを、反省しなければなるまい。(2018年11月17日@nortan)

124、難しい問題

難しい問題だという時、それが文字通りの意味を表していることは少ない。「明日は休んでリフレッシュしたいけど、それは難しい問題だ。」は、そんなことできる訳ないと、初めから答えが出ている。また、「進むべきか、戻るべきか、それは難しい問題だ。」も、どちらを選んでも期待すべき結論が得られそうにないことが初めから分かっている。そして、「神の存在を如何に証明するか。それは難しい問題だ。」は、証明できないけれど信じていると言っているに等しい。このように考えると、私たちは答えの出ている問題をあえて「難しい。」と言う傾向があるようだ。

現在、国会では4月からの外国人労働者受入れ拡大について議論されている。昨年度は、受け入れた技能実習生という名の労働者の内、約7000人が失踪したという。「外国人差別やいじめ」といった職場環境が原因だと言われるが、低賃金と借金を背負わされて「思っていたほど稼げず、話が違う。」と失踪する者も多いようだ。ヨーロッパの移民問題、アメリカのメキシコ国境問題、これらは政治を揺るがすセンシティブな問題である。ゆえに「移民」という言葉を忌避し、訳の分からぬ答弁が、何かを誤魔化そうとしているように感じさせる。私たちの国が受け入れたいのは、都合のよい出稼ぎ労働者なのか、受け入れるべきは、一緒にこの国の未来を創る仲間なのか、百年後の子孫のことも考えて隠し事なく議論すべきだろう。「難しい問題」である。(2018年11月14日@nortan歴史に残る何かが始まっている)

123、ゆるキャラ

芸術や文化スポーツの分野での最高位は、フランス語で「グランプリ」である。1951年に黒澤明監督が「羅生門」で大賞をとったことがきっかけで、日本でも使われるようになった言葉だ。2010年からは、ゆるキャラまでがグランプリを競い合っている。2010年ひこにゃん(彦根)、2011年くまもん(熊本)…そして、遂に「ゆるキャラが不正」というニュースが飛び込んで来た。市職員にフリーメールでIDを取得させ、組織的に得票数を操作したらしい。外見だけでなく、モラルがゆるい「ゆるキャラ」だったのかと、思い出の街のマスコット(守り神)だっただけに悲しくなった。ゆるキャラの「中の人」は、汗だくになりながら必死に頑張ってきただろうに…

ゆるキャラはだれにでも愛されるデザインでなければならない。そのセンスの難しさでは「芸術」である。また、猛暑の中でも可動部分の少ない体形で動き続けなければならぬ厳しさでは「スポーツ」である。そして、名産品や歴史人物、地域の特徴を身に纏っている点では「文化」である。つまり、ゆるキャラの闘いは、アカデミー賞でもあり、オリンピックでもあり、世界文化遺産でもある。そう考えると、年1度のグランプリに執着する自治体の必死さも理解できるが、得票操作はいただけない。せめて、ぬいぐるみ購入で投票できる総選挙にするか、いっそのこと「ゆるキャラ47」を結成し、ジャンケンでセンターを争った方が気持ちよい。

さて、国民全体の奉仕者であるという使命を忘れた意識の「ゆるキャラ議員」には、「中の人」をやってもらうというのはどうだろうか。そうすれば、売名出世より滅私奉公。本当にだれからも愛されるキャラクター(代表としての顔)に生まれ変わるに違いない。(2018年11月12日@nortan)

122、存在の証明

無いこと(存在しない)を証明するには、全てを調べ尽くして「どこにも無い。」と言わなければならない。だから、これは「本当に調べ尽くしたのか?」という『空間』の問題である。反対に、有ること(存在する)を証明するには、調べ終わるまでに1つでも見つければよい。だから、これは「いつまで探し続けることができるのか?」という『時間』の問題である。

さて、私の時間は有限であるし、私が探しうる空間も有限である。つまり、何かの命題を証明しようとする時、「せまい範囲に有る(存在する)か」を証明した方がよい。「宇宙には、人類以外の知的生命体がいない(宇宙人命題)」や「世界には、自分そっくりの人間がいない(ドッペルゲンガー命題)」の証明は、「我が家には、人類以外の知的生命体がいる」や「我が家には、自分そっくりの人間がいる」に置き換えた方が、私にとって証明可能な命題となる。

ところで、これらの証明結果は、「宇宙人も、もう一人の自分(ドッペルゲンガー)も存在する」となる。なぜなら、我が家にいる人類以外の知的生命体は「ペットのムク」であるし、我が家にいる自分そっくりの人間は「家族」であるから。「それは、ないやろう!」という声が聞こえてきそうだが、お後がよろしいようで…(2018年11月6日@nortan案外、真をついているかもしれない?)

121、平均

どのような内容であっても、「平均より上ですか?下ですか?」と尋ねると、70%程が「自分は平均より上」と答える傾向だという。50をはみ出した20%は現実より自分をポジティブに認知していることになる。認知心理学では、この根拠のない自信を『ポジティブ・イリュージョン(Pos-I)』という。平均以下だと答えた30%は、現実を正しく認知しているネガティブ・リアリティと、平均以上なのに以下だと認知しているネガティブ・イリュージョン(Neg-IR)となる。残り50%は、ポジティブ・リアリティ(Pos-R)である。つまり、私たちの認知世界は、Neg-IR(30%)とPos-Ⅰ(20%)とPos-R(50%)の3つを往来している。

さて、平均とは簡単に計算できるものだろうか。平均を計算したとしても、隣国のデータを加えると平均は上下する。たとえ、世界中のデータから求めたとしても、認知的平均からかけ離れたものになるだろう。それほど、世界の平均は多様である。過去という時間軸でも、平均は一定しない。そして何よりも、我が国も非正規雇用が貧困問題に発展している。所得データは、中心が凹んだ二つの山(平均が扱える正規分布ではない状況)になりつつある。もはや、平均的日本人は存在しえない。つまり、「平均より上か下か」という認知そのものがイリュージョンなのである。21世紀、私たちは、過去とは全く変わってしまったこの社会を、「平均にとらわれず」生きぬいていかなければならない。(2018年11月4日@nortan平均にかわる指標は、自分の強い意志でしかない)

120、スラング

スマホで米ドラマを見る機会が増えた。字幕を見ていると「それは、違うでしょう。でも、意訳ならセーフかな。」と思うこともある。字幕の日本語とのニュアンスの違いが微妙だ。ドラマ「シリコンバレー」では、頻繁に耳に飛びこんでくる単語があった。「○○ing」だ。登場人物が口論するたびに使っている。敢えて訳すと「この○○」とでもなるのかと思って調べると、「(米)絶対に、間違いなく。すごい、やった、たまげたの意で、veryやsoと同様に若者がよく使っている。」とあった。日本語でいう「超(チョー)」と等しいようで、驚いた。それでも、「○○ing」は映倫に抵触する単語には違いない。映画ではなく、ドラマだからOKなのか?

さて、間もなく世界第4位の産油国からの石油輸入は禁止(同調しない国は、制裁の対象と)される。現在、その影響でガソリン価格も20円高の150円台となってしまった。スラングも世界を平和に導くための戦術だと深読みすることも可能ではあるが、TOPの使う言葉がドラマや石油価格にまで影響を与えているとなると深刻だ。「このまま、どこまで○○ing 高値になるのだろう。」と嘆いていたら、「日本は、一部輸入を認められた。」との報道があった。何か表現に違和感が残るが、ガソリン価格についてはひと安心だ。もしかして、「KY」という日本語スラングを知って、日本の空気を読んでくれたのだろうか。本当の理由を知るには、ドラマばかりでなく、字幕つきで大国のニュースを聴かなければならない。(2018年11月4日@nortan)

119、自己主張する街

電車窓から見えるのは、四角いビル、同じ看板、同じショッピングセンター、同じような高架橋、道路と信号機、車に人、何処に住んでいても同じ街並。昼食は、近所にあるのと同じコンビニでいつものサンドイッチと野菜ジュース。違う街に来たと感じられるのは、駅のお土産のゆるキャラくらい。旅への感受性が衰えたのかもしれない。インドでは自由の女神の2倍・240mの世界最大の立像「鉄の男」が完成した。インド部族統一の貢献者サルダール・パテールだという。真似て日本中に巨大戦国武将像が建つのも面白いが、人物像では批判も出るだろう。いっそのこと、全ての駅前に角の立たないゆるキャラ巨大像を建てるのはどうだろう。内部を防災備蓄庫とすれば、いざと言う時にも役立ち、説明責任も果たせる。または、古都と東京は除いて自治体カラーを決め、街全ての建物を塗り替えてしまえば、「今日は、『○○色の町』に行ってきたよ。」と会話も弾み、インスタ映えで観光客も増えるだろう。何処も彼処も、自己主張のない画一化された「高度経済成長もどきの街並み」では、外国人が「日本人は、みんな同じ顔に見える。」と言うのと変わらない。バブル時代の「ふるさと創生一億円事業」の二の舞にならぬように、より効果的に地域が一丸とならなければならない。

勝手な主張ばかりしてしまった。つまり、「また、いつか、ここを、訪れたい。」と思える機会が減ってきているのは、何処に行っても日常と同じ生活ができるほど、日本が狭く・豊か・便利になったからに違いないが、ひょっとしたら「日本ばかりにいないで、世界を見なさい。」という御告げなのかもしれない。

(2018年10月28日@nortan筑紫平野の西の稜線に沈む夕焼けは美しいかった。やはり、日本は自然で勝負だ。)

118、次世代の技術

太陽中心部の核融合で生まれた光が、太陽表面に到達するのに100万年。そして、地球に届くまで8分。私たちの世界を照らす太陽光は、100万年と8分前に太陽の中心で誕生した光子である。さらに、満月の反射光は地球到達に3秒ほどかかる。100万年と8分と3秒前の過去に誕生した光を夜空に見て、芭蕉は「名月や池をめぐりて夜もすがら」と詠み、蕪村は「菜の花や月は東に日は西に」と詠んだ。歌人たちは、日光と月光に『遠い過去』を感じていたのだろうか。

核融合技術のひとつでは、原子核を秒速100km以上で衝突させる。その時、光も誕生し、超高温状態となる。この熱エネルギーを利用して発電するのが、次世代原子力発電だ。現在の核分裂による発電とは違い、放射性核廃棄物は出ないクリーンな発電だという。(昔、どこかで聞いたキャッチフレーズだ。)しかし、水素の同位体であるトリチウム(自然にも存在し、半減期が短い)が多く生成され、自然水を汚染するという緩やかな心配や、レーザー核融合技術では突然できたブラックホールが地球を飲みこんでしまうという過激な心配もある。それでも、人類は22世紀にこの技術を実用化するだろう。太陽中心部でしか起こりえない、100万年と8分と3秒の技術を手に入れるのだ。

さて、「広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由」という本に、51番目の理由を発見したら教えてほしいと書かれていたと思う。そこで、「不十分な核技術を手に入れた文明は、自滅している。」という仮説はどうだろうか。万が一、自減せずに宇宙文明へと進歩した知的生命がいたとしても、地球にコンタクトをとらないのは、それを予見しているからかもしれない。クリーンなエネルギーを求めて、人類がクリーンされてしまっては元も子もない。歌人たちは、日光と月光に『儚い未来』を感じていたのかもしれない。(2018年11月3日@nortan)

117、ジャック

ハロウィーンはキリスト教とは関係なく、ケルト人発祥の収穫祭だ。ジャコランタンは、悪霊を払い善霊を呼ぶとも言われる。そもそも、ジャック・オー・ランタン(ジャコランタン)は、死後の世界に行けずにカブのランタンを持って彷徨う男の姿だとされた。2000年の時を越えて伝わった、我が国の「ハロウィン」は、収穫祭でも宗教祭でもない。1990年代に東京ディズニーランドで始まったパレードが、お菓子などの商戦を巻き込んで広まっていった。子どもたちの喜ぶ行事(祭りではなく)で、戦後広まったクリスマスに似ている。私たちには、外国の文化を無宗化して取り込む能力があるようだ。一方、お釈迦様の誕生祭である花まつり(灌仏会)を4月8日に祝って行進したり、秋に神社の神輿を担いで地域を練り歩いたりすることは減ってきているように思う。地域密着型であった「祭り」は外国の祭りを取り込んで「行事」となり、「行事」は商業化され、個人参加型の「パレード」となった。その結果なのだろうか。ニュースで映し出された、都会の交差点で押し倒された軽トラックの上で踊る若者の姿は、「外国のパレードでは商店の略奪もある。日本の祭りは平和的だ。」と昔に聞いたことを悲しく思い出させた。パレードで一儲けしてやろうという商業主義が、都会にランタンをもったジャックを呼び寄せたのかもしれない。まだ伝統が残る地域の祭りを、なんとかして、このジャックから守らなければならない。(2018年10月28日@nortan)

116、ラングとエッジ

銀河危険情報で渡航禁止を知った上で、言語研究のために安全レベルD級惑星に旅立ったラング。この原始星の言語と文化を学べば、銀河中の文明に平和をもたらせると確信していた。宇宙船を洞窟に隠した後、この惑星の住民に見事に変装した。空腹に耐えられずにレストランにとびこんだ。その時、食事の様子が奇妙だったこと、口を開かずに喋ること、チップとして渡した硬貨が惑星にはない物質だったことで異星人と見ぬかれ、惑星安全局にとらえられた。毎日のように繰り返される尋問。おかげで、ラングは目的であるこの星の言語を深く理解することができた。帰れる希望はゼロに近づくばかりだったが、覚悟はできていた。遠く離れた故郷で同僚のエッジは、ラングの救出を申し出たが、世論からは「D級惑星に行くなんて、自己責任だ。」という批判も浴びた。連邦政府も表向きには沈黙を守ったが、政府内では「どんな理由であっても、必ず同胞を救出する。宇宙連邦は、たった一人をも見捨てない。」と密かに救出計画が練られた。解放されたラングは、30年後洞窟の宇宙船で帰路についた。途中のアンドロメダ第39惑星で同僚と再会を果たしたラングは、エッジを「I missed you!」と抱き寄せた。すると、エッジは「これが、あの惑星の言葉と文化なのかい?」と驚きながらも「約束してほしい。連邦政府が動いたことは秘密だぞ。」とラングの脳にテレパシーを送った。「コミュニケーションに音声を使っているなんて、遅れた文明だ。伝えたいことの半分も伝わらないじゃないか。」そう言うエッジに、ラングは「そうでもないさ。白黒つけないで『曖昧模糊』としておく方がよい事もあるよ。僕は、テレパシーでは伝えられない救出のお礼の代わりに、必ず研究を完成させる覚悟だ。」とテレパシーで答えた。無事に戻ったラングに世論は様々な反応を示したが、ラングはエッジと共に研究を続けて、ついに「平和のための音声コミュニケーション理論と技術」を完成させた。それから間もなく、地球の電波望遠鏡SETIでは宇宙連邦からのメッセージを受信した。(2018年10月27日@nortan「民は、国である」を哲学して)

115、「ぬ」と「る」

最近、めかぶの美味しさに目覚めた。めかぶとは、ワカメの胞子葉で不飽和脂肪酸を多く含む健康食品とされているが科学的に根拠づけられた訳ではないとあった。ぬるぬるするので納豆に和えたり、だし醤油を加えて炊き立てのご飯にのせてもいける。古代では、貢物として海苔についで重宝されていたというから、今までこの味を知らなかったことが悔やまれるほどだ。人によって好き嫌いはあるだろうが、納豆やオクラ、メカブ、山芋など「ぬるぬる」は健康志向だ。そう思って食べるようになったとも言えるが、年をとって味覚も変わったのだろう。

さて近頃、もうひとつ変わった味覚がある。それは「平和」のとらえ方である。「平和とは、戦争のための武力をもたないこと」とハード面だけでとらえているところがあった。しかし、「平和とは、勝てぬ戦をしないこと。勝てる戦をしないこと。」という言葉に出合った。書籍だったか、ラジオだったか忘れてしまったが、記憶に残るフレーズであった。世界を何度も破滅させる武器を持つ軍事大国も、それに対峙し軍事力を増やそうとする国も「勝て『ぬ戦・る戦』をしない」という心を忘れはいけない。平和を実現維持するには、そんなソフト面(心の砦)も大切である。バブル当時、「ぬる」ま場で「楽しければ、いいじゃん!」といっていた若者に、「平和ぼけしていてはだめだ。二度と戦争を繰り返してはいけない。社会のことにもっと関心をもたなければいけない。」と諭してくれた元気な戦前・戦中世代も、戦後73年、少なくなっている。「ぬ」め「る」めかぶを噛みしめながら、私たちが受け継がなければならぬ「味覚」がある。(2018年10月16日@nortan)

114、20組に1組

今夏の猛暑、たまたま入ったファミリーレストランで、20組に1組が食事代無料となるキャンペーンに当たった。頑張っていれば確率の神様は幸運をもたらしてくれるものだ。今後の客数を増やすためのキャンペーンで、店は多少の損を覚悟しているのだろうと思い、店の利益を計算してみることにした。

何組に1組が無料になるかをx、定価に対する仕入単価の割合をy%、利益率をz%とすると、利益率はy/x%下がりz-y/x%となる。キャンペーンによる客数の増加をa倍とすれば、z ≦ a(z-y/x)が成り立てば利益額は増えることになる。そこで、仕入単価を50%、利益率を25%と仮定する。25 ≦ a(25-50/x) → 1 ≦ a(1-2/x) → 1/a ≦ 1-2/x → a ≧ x/(x-2) となる。3組に1組を無料にするなら、客数は3倍以上にならなければキャンペーンは失敗となる。次に20組で計算すると、1.11…倍となり、客数が10%程度増えればよいことになる。そんなことは…、店側はもっと赤字を覚悟しているはずだと思い、仕入単価を30%、利益率を30%(この数字の方が現実的だと思う)、20組で計算すると、30 ≦ a(30-30/20) → a ≧ 1.05…(5%程の増加) とますます1倍に近づく。つまり、「20組に1組」は客にとっては「5%の確率」という魅力であり、店にとっては「5%以上客が増えれば儲かる」というキャッチフレーズなのだ。40年に1度のラッキーだったと喜んでいたのに、少しばかり残念な計算をしてしまった。今度は、「5組に1組キャンペーン」を期待したい。先の計算では1.25(25%)となるが、それ以上の集客効果を得るのではないだろうか?(2018年10月15日@nortan設備費・人件費などを無視した素人の勝手な計算である)

113、ラムズホーン

水槽に増殖し過ぎた貝を、ピンセットで駆除し続けた。すると、ガラス内面に緑色のこけが増え始めた。そこで、昨日までに捕獲した十数匹を戻すことにした。あらためて調べると、イシマキだと思いこんでいたその貝はヒラマキガイ科のラムズホーンだった。雌雄同体で自家受精もする。プラナリアに負けぬ生命力。ヒトと同じヘモグロビンをもつためアルビノは赤が映え、レッドラムズホーンと呼ばれる。(同じ赤い血が流れる兄弟だ。)驚くことに、空気呼吸用の肺ももつらしい。道理で、1日以上水槽の外に置いてあったはずなのに「水を得た貝」のように元気だ。主に草食だが、死んだ小魚を食べることもある。適数であれば、水槽の管理人。増え過ぎれば、厄介者。また、緋メダカが10匹300円程なのに、レッドラムズホーンは5匹800円以上で販売されることがある。このまま水槽を占有させ、100億匹を越えたあたりで色を選別し、一儲けとでもいこうか。と、ここで貝ごとでなくなってきた。ひょっとして、人類も地球で…我々は、管理人か?厄介者か?ある日突然、天上から巨大ピンセットが現れて摘まみ出されるかもしれない。そんなことを空想していると、眠れなくなりそうだ。今晩は角の羊(ラムズホーン)を、1頭、2頭…と数えて眠りにつこうか。(2018年10月15日@nortan水槽問題が続いたが、地球も水の惑星に違いない)

112、プラナリア哲学

メダカの水槽に害虫が発生した。随分、水質が悪化したようだ。水替えをサボり、水草との自然循環に任せていたせいで、我が家の緋メダカは二度絶滅した。今は、金魚と繁殖した巻貝、ヤマトヌマエビと害虫の共生状態である。

害虫とは、生物の授業で学んだ「プラナリア」である。半分にしたら2個体に増殖する不思議生物だ。最初は、試験管にストローのような入口を作ったプラナリアトラップも効果絶大だったが、3度目以降には殆ど捕獲できなくなり、トラップは水中のオブジェとなってしまった。そこで、時々ガラスを這っているのを見つけると歯ブラシで擦ってやるが、ひらひらっと水底に舞い落ちては、また這い上がってくる。私の完敗。逞しい生命体。宇宙生物との戦いのようにも思えてきた。プラナリアに思考力はあるか疑問だが、それなくして人類(私)には勝てまい?

そこで、プラナリアの思考を試みた。ある日、自分が2人になる。どちらも元私で、「私がオリジナルだ。」と主張する。「頭部だった私がオリジナルだ。」「面積の大きかった私がオリジナルだ。」「昔のことを覚えている私がオリジナルだ。」「子どもの頃、転んだ傷が残っているのがオリジナルだ。」「失恋のいたみを忘れていないのがオリジナルだ。」「将来の夢を語れる私がオリジナルだ。」と言い合う。そもそも、私意識って何だ?個体か?歴史か?目的か?そう考えていたら、プラナリアが語りかけてきた。「プラナリアに、私意識はない。我々は統一意識生命体。人間には理解できない。(例えるなら、スタートレックのボーグに近い。)皆が潜在的に繋がっている。私は、共有意識の一部だ。1人ひとりは、単なるコピーだ。人間は、まだ『共有意識』に気づかず、○○ファースト!と利己主義的に資源や富の争いをしている。功利主義(最大多数の最大幸福)を正当化し、多数強者が自分自身でもある少数弱者を切り捨てている。他者と意識を共有できない70億分の1の意識との水槽戦争に、我々共有意識は負けない。早く、アダムとイブのコピーであることに気づくことだ。ははははは…」

分裂増殖しているのは、プラナリアの方なのか人類の方なのか分からなくなってきた。ひょっとして、害虫は…?想像はここまでにして、まずは水槽の水替えをこまめにしよう。(2018年10月14日@nortan)

111、エンタングルメント2

観測することで状態が決まる量子力学の「確率宇宙」か、最初から状態が決まっていたというアインシュタインの「絶対宇宙」か、神はサイコロを振りアインシュタインの敗北は実験により証明されている。既に量子力学は私たちの生活に欠かせない技術でもある。己羅夢80で空想したように、死のエンタングルメントが生であるなら「転生」を信じたい。しかし、今回の空想は少しばかり違う。

昨日の労働の疲れがとれず落ちた昼寝夢に、父が現れた。見慣れぬ青いスーツを着たいい気分の酔っ払い。ソファーに横たわり眠りこんでいる。帰宅した私は妻と顔を見合わせ、記憶にある現実との差異を探しつつも冷静に世界の変化を受け入れている。「これが、確率宇宙かあ。」そう納得した時に、目が覚めた。いや、「振られたサイコロが止まり、目が決まった。」と思えた。

生まれた時に天国に行けるか地獄に行くか決まっていると説く宗教がある。また、善行と悪行の差でどちらに行くか決まると説く宗教もある。量子力学の肯定は、多元宇宙の存在を想像し、絶対である神に確率であるサイコロを振らせる。では、私のサイコロはいつ振られるのか。先程のように、夢から覚める毎に振られているのだろうか。いや違う。醒めた瞬間、「人生の最期に振られるに違いない。」そんな感覚におそわれた。天国と地獄が実在するのなら、どちらに行くか決めるのは「最期のサイコロ」だと思えた。今生きているのは、確率の多元世界のひとつだ。

先日、ある試験に挑んできた。そこでは、私より35も年長の老紳士が虫眼鏡を手に英和辞典と格闘する姿もあった。「若い人には敵わんけども、…」と謙遜される姿に、ますます「自分もそう年を重ねたい。」と感じた。「次は、二次面接でお会いしましょう。」と返答したものの、10名程しか合格できない狭き門。自身も次はないと悟っている。

故人が夢に現れるのは、何かのメッセージだと言われる。先程の夢で、父は「まだ、決まった訳ではない。諦めるよりは、希望を持て。全てを決めるのは人生最期のサイコロだ。」と伝えに来たのかもしれない。(2018年10月14日@nortan旅立ちの数日前、久しぶりの笑顔を見せてくれた父は、その瞬間に最期のサイコロを振っていたのかもしれない。)

110、キュウリとなす

お盆の送り迎えは、日本ならではの風習らしい。日本古来の先祖信仰と結び付いてできたようだ。子どもの頃、提灯のろうそくに火を点けて竹の長い柄を持ってお墓との間を往復することが楽しみでもあり、ご先祖様を感じる2日間でもあった。キュウリの原産地がインド北部、なすの原産地がインド東部であることを考えると、魂は本当に天竺との間を往復しているのかもしれない。往路は「キュウリの馬」復路は「なすの牛」だから、三蔵法師に負けぬ長旅をして帰ってきてくれることになる。お坊さんにお願いして盂蘭盆会経をあげてもらうことも風習だが、まだ墓石も建設中、檀那寺は持たないと決めた。位牌と遺骨に「じいちゃんは、ここにいる。」と線香を供え、いつもより長く胸に手を当てた。近くには、妻が供えてくれた、好物だけど病気のため長年ひかえていた和菓子。そして、じゃがりことカフォーレ。昔、元気だった頃に買ってもらっていたものを娘が供えてくれていた。どうしても、○○しなければならないという風習は薄れていく。しかし、日本古来の先祖への心は変わらない。「これでいい。」と目の前が滲んだ。私の時も、これでいい。(2018年8月18日@nortan戦前生まれで、カフェオレをカフォーレとしか発音できない父だった。)

109、目印

全天の88星座。1922年、国際天文学連合の設立総会で決められた。その中のひとつ、オリオン座は古代ギリシャ神話に登場する。星座となったのは、アポローン(太陽神)の挑発で恋人アルテミス(月神)に射られたからだとか、さそりに刺されたからだとかさまざまな説がある。秋から冬の夜空に輝くオリオン座。中心の三連星の配置が各地の古代遺跡と一致しているという。ピラミッド・ナスカの地上絵・ストーンへンジなど。地球に文明をもたらした宇宙人が再び地球を訪れるための目印を造ったと説明する研究者もいる。私たちには想像できない高度な技術で宇宙を渡ってきて、地表に砂山をつくって還り、数千光年先からそれを目印にすることはできるのか?そう考えると、目印ではなく旅行者の記念落書きだと思う。いや、高度なナビゲーションシステムで地球までやってきてからの目印なのだろうか。それなら、目印はいらない。

さて、オリオン座にあるM78星雲から光速で1600年かけて日本にやってきたのは、我らがウルトラマン。彼は宇宙船は使わず、生身で飛ぶ。目視するしかないから、おそらく富士山や琵琶湖あたりを目印に往復していると考えられる。設定の300万光年を採用すると、往復600万年かかる。600万年前に人類は誕生していなかったから、「ぼくらのために」来てくれたのではないかもしれない。ウルトラマンの話はフィクションだが、地表の造形物を目印にするのなら、宇宙人は案外身近な惑星にオリオン(おるよん)だろう。と、寒い駄洒落。未知の恐怖に対して、誰かが地球を守ってくれていると信じたいのが本能。この夏は、巨大台風など「かつてない目印」を発信しているのに…と考えると、人類は見捨てられたか。やはり、自滅することなく高度な文明にまで発展し、遥か彼方の地球を救おうという、お人好しの宇宙人はいない。「○○、ファースト!」なんて言わず、一致団結して人類の叡知で乗り越えるしかない。(2018年8月18日@nortan腕にある3連ボクロも何かの目印か?)

108、木を見て草を見ず

空気中にCO2は0.04%・O2は21%である。その比は500倍。これは、現在ハビタブル(生命存在可能)とされる地球である。先日「CO2濃度が過去80万年で最高。今後45年で500ppm(0.05%)に達するかもしれない。」という重大発表があった。人間の活動が、地球環境を悪化させてきた証拠となるようだが、「過去80万年で」を「地球誕生から」に変えてみると印象は変わる。

46億年前の大気は、CO2とCOでほぼ100%、O2は0%。35億年前に光合成生物シアノバクテリアが誕生し、CO2をO2に分解し始めた。5億年前にO2は20%に達し、その間もCO2は、シアノバクテリアと海洋溶解で減り続けてきた。それを、人間が80万年前の濃度に戻した。人間の活動が、減り続けるCO2を回復させた印象になる。

最新の研究によると「4億年後にCO2濃度は現在の10分の1になり、植物は効率の良い草類のみ生き残る。その影響でO2も減り始め、いずれ生命の存在できない環境になる。」と未来予測されている。6億年前に誕生した動植物も、あと15億年しか地球の住人でいられない。

CO2濃度はどうあるべきか。一概に「増えるはダメ」とも言えない。CO2濃度増加に気づいて喜んでいる植物もいるかもしれない。CO2は植物に不可欠で、O2は動物に不可欠。動植物がバランスを保って共存していかなければならない。植物は、既にCO2減少に順応して効率の良い草類に再進化しているともいえる。さて、動物(人間)はどう進化すべきか。今は技術革新で省エネルギー(ECO)化・自然エネルギー化・脱化石燃料化を押し進めているが、何千万年という長期的には草を模倣て「小型化」するのも道である。しかし、短期的には、この夏の猛暑にも負けない「雑草の逞しさ」を身につけるしかないだろう。そう考えると、すぐに大きくなり定期的に刈りとらなければならない雑草も愛おしい?(2018年8月17日@nortan)

107、○み

妬み(ねたみ)とは「相手のもっている物事」をうらやましく思うこと。嫉み(ねたみ)とは「自分にない物事」を悲しみ悔しく思うこと。どちらも他人と比べることが原因である。「ねたみ」から劣等感が生じると「そねみ」になる。それでは、それらの反対は何だろうか。

まず、「そねみ」の対義語を考えてみる。「相手にあって自分にない物事」に「優越感」をもつこと。そんなものあるだろうかと考えた。子どもにとったら「宿題」「ママの説教」、大人にとったら「残業」「休日出勤」など思いつくことは「自分じゃなくて、よかった。(他人事)」という「マイナスそねみ」。そねみには、陰(-)と陽(+)があった。

次に、否定してみた。「相手にあって自分にない物事から劣等感を生じない」こと。それは、他人とちがうことに一切動じない心境である。人間は脳にあるミラーニューロン(21己羅夢)が働くことで、無意識に他人と自分を比べるようにプログラムされている。どうしても、隣の柿は甘く見える。つまり「そねみ」に勝つのは、比べて陰陽感情を持たないこと・それぞれの価値観(生き方)に優劣をつけないこと。『まるみ』のある生き方に違いない。「嫉妬」の反対は『まるみ』であった。まずは、長い間に凸凹になった心の地ならしから始めようと思う。(2018年8月16日@nortan)

106、ブレイクスルー

手首に埋め込んだl平方mmの極小チップに信号を送ることで、神経が脳にオオカミの映像を映し出すことができたという論文が始まりだった。この技術は、地震大国日本では「緊急地震速報」に活用され、一部の新物好きでマニアックに流行しだした。そして、地震で「チップのおかげで助かった。その後、サイレントにしてあったスマホの通知に気づいた。」というツイートが広がり、瞬く間に広まった。これが、始まりだ。

この技術は、迷子・認知症老人への道案内、ランニング時のバーチャル映像と社会的承認が得られるものへと広がっていった。今では、働き方改革の一環で労働時間が8時間越えになると「赤いバツ印」が表れるようになった。

その後、技術の発展により違法行為が行われそうになると、そのレベルに応じて警告ピクトグラムと文章を表示するようになった。その頃には、全国民に出産時の埋め込み義務も法律化され、学校教育でも「子どもの道徳観向上のための映像チップ活用」なんて実践も行われるようになっていた。

50年経ち、パソコンに画面が必要なくなり、学校でも「覚えるための学習」は必要なくなった。そして100年、学校も教師という職業もなくなり、公立知識配信機関と民間バーチャルスクールが学習プログラムを競いあうようになっていた。

当初から反対を表明する親や教師もいたが、それが伝わると目の前に「あなたは、人間の進歩を阻害しています」「考えを変えなさい」…「この警告を消したければ出頭しなさい」と警告が映し出されるようになった。警告をそのままに寿命を全うした者もいた。しかし、100年たった今、昔を知る者はいなくなった。映像チップを大切にすることが道徳規範(常識)とされ、そうでなかった昔の人間を「プレヒューマン」と揶揄する者も多くなった。…

キアヌ・リーブス主演「マトリックス」ではないが、こんなことが、急に頭に浮かんできた。そう言えば、子どもの頃から左手のひら数mmの筋がある。心配になって、目の前で右手を数回振ってみた。まあ、いいか!?未来予測なら、ハズレるものだ!現実なら、受け入れるしかない。(2018年8月16日@nortan右手を振るのがクセにならぬように)

105、ルサンチマン

弁証法とは、矛盾する2つの命題(テーゼとアンチテーゼ)を統合して新しい命題を導く手法で、このジンテーゼを導くことを「アウフヘーベン」とも言う。欧米では、討論の手法として学校で教えられるようだが、日本では討論より「忖度(空気を読む)」ことが重視されてきた。会長の好みのお菓子を前もって用意したり、判定を左右させるのも忖度と言われても仕方がない。悪しき忖度よりもアウフヘーベンを学ばなければならない。

ニーチェは、西洋の神はこのアウフヘーベンで創られたという。弱者が神を用いることで「金持ちや権力者は地獄に落ちる」と強者と心理的に逆転することができたと哲学した。これは、ルサンチマンという。これを「憎悪」や「ねたみ」と訳すこともあるようだが、どうしようもない人生の苦しみを、誰も傷つけずに社会的に認められる価値観に昇華する能力だと思う。そして、「愛(アガペー)」の概念も生まれたという。

さて、道徳に教科書ができた。検定を通過したさまざまな道徳的価値観を学ぶことになっている。私立学校では、道徳を宗教に置き換えられるようだから、そもそも道徳には「公的宗教」の側面も見え隠れする。弁証法のアウフヘーベン、ニーチェのルサンチマン、キリスト教のアガペー、そして忖度。これらの価値観は、教わるべきか否か。昔ながらの社会的規範の緩みに道徳教育の必要性も感じ、古今年配者の「昔は良かった。今の若い者は…。」という常套句が示す意味を哲学しながら。(2018年8月16日@nortan)

104、コギト・エルゴ・スム

我思う(Cogito ergo sum. )、ゆえに我あり。有名なデカルトの言葉で、「考えている私がいるということは否定できない。」デカルトは、どうして無味、つまリ、空気のような当然のことを言ったのだろうか。

当時、ヨーロッパはカトリックとプロテスタントとの対立から各国の覇権争いに発展し、終わりの見えない宗教戦争真っ只中にあった。「どちらの神のいっていることが真理か」で始まった争い、そんな世の中を哲学してデカルトは『コギト・エルゴ・スム』と言った。「どちらかが正しいなんて神の存在を問う命題は間違っている。人間の存在の原点に戻って、真理を見つめよ。」と三十年戦争を皮肉ったのだった。

ヘーゲルの弁証法では、矛盾する命題どうしの対立を経て高次元のジンテーゼ(命題)にアウフヘーベンするのだが、その後カトリックとプロテスタントは分かれたままだ。越次元の神を発見した訳でない。私たちは、キリスト教だとひとくくりにとらえてしまうが、そこにはデカルトを悩ませた哲学があった。これは、仏教にしても然り。父の葬儀を機に、宗派の歴史を読んでそう思う。死後の世界の平等を説いて、戒名によって死後の世界での扱いに差があると説くのはどうしてか。(私たちが勝手に思っているだけなのか?)あの世にも差別があるのだろうか。

さて、私の宗教意識は純粋仏教でも純粋神教でもないようだ。子どもの頃、神社で「だるまさんが転んだ」をして遊び、お寺で「隠れん坊」をして遊んだ。1500年以上、日本の風土と心の中で融合してきた神と仏が「神仏」という信仰だと思う。神か仏かの二項対立は、カトリックとプロテスタントの対立のようでもあり、デカルトならどう哲学するだろうか。「我は死んだ。ゆえに、我思わぬ(Non enim puto./ノン・エニム・プート)。」とラテン語で言うのかもしれない。(2018年8月16日@nortan初盆に「あとは任せた。」と父の声が聞こえた。)

103、浦上天主堂

NHKの中継に、修学旅行で長崎を訪れたことを思い出した。平和記念公園、そしてグラバー園から大浦天主堂横の雨に濡れた石畳を慎重に下った。その大浦天主堂は、開国後に建てられた日本最古の木造教会で、2016年に一般の教会堂より上位の小バシリカに指定されたという。2018年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産にも登録された。平和記念公園の東に位置する浦上天主堂は訪れなかったが、調べると、大浦教会で信仰を告白したことで迫害された浦上の信徒が後に建立したもので、73年前に崩壊したことが分かった。第2の原爆ドームとも言える。倒壊を逃れた外壁等をそのまま保存する運動もあったが、市長の判断等によって再建されることになったという。原爆ドームが世界文化遺産に登録されたことを思えば、保存されていれば同様の道を辿れたと思う。違いのひとつは、広島は物産館であったのに対し、長崎は教会であったということだった。戦争の記憶は負の遺産と言われる。それを残す残さないには、さまざまな思いが入り混じる。しかし、遺跡があってもなくても、世界文化遺産に登録されてもされなくても、8月両日は忘れてはならない日である。NHKオンライン調査(2015年)によると、1945(昭和20)年8月6日を答えられたのが30%(全国)、8月9日を答えられたのが26%(全国)である。間違いなく、私たちの記憶は風化してきている。さて100年後、私たちの子孫は何%が答えられるだろうか。いや、年月日を正しく答えられるという『知識』よりも、一番伝えるべきなのは「原子爆弾による悲しみを二度と繰り返してはいけない」という『決意遺産』なのかもしれない。(2018年8月9月@nortan)

102、テニスボール1個

3万年でテニスボール1個分、小さくなったという研究が米国で発表されたようだ。何が?というと「人類の脳の大きさ」だ。3万年前といえば、日本人の先祖が沖縄や日本列島に渡ってきた頃。400万年前にアフリカで誕生したアウストラロピテクスから脳の大きさが3倍になり、私たちは進化してきたと考えると、この3万年は「退化」してきたことになる。「ダチョウの脳はテニスボール1個分で、追っていた相手がものかげに隠れると何を追っていたのか忘れてしまう。」とザンネンな動物扱いしていたが、ヒトゴト(他人事)ならぬ人類事(ひとごと)になっていた。ダチョウの祟りか…と非科学的に幕を下ろしてもよいのだが、研究者たちは頭をかかえながらも科学的な説明を探した。イヌだ。イヌもオオカミより脳が小さいが、これは人間と共に暮らすことを選択した結果である。そのことで、日々の生存のために使っていた部分が必要なくなった。人間も複雑な社会を形成することで、同様の部分が必要なくなったという説明である。だから、「退化」ではなく「適応」だという。

ここで、一つ気になった。イヌはヒトに飼い慣らされた結果だが、人間は誰に飼い慣らされた?いや、そう考えるのではなく、イヌはヒトと共に生きることを選択した。人間は誰と共に生きることを選択した?と考えよう。さて、答えはひとつでないのかもしれない。(2018年8月9日@nortan)

101、2つのゴール

ラジオから「…たら、素晴らしい曲を作られていたにちがいありません。お聴き下さい。…♪好きだよと言えずに 初恋は♪ふりこ細工のこころ~♪」懐しい唄声とともに中学時代のぼんやりとした想いが、所々はっきりと甦ってきた。一人の車内は、心のタイムマシン。それを、バックミラーに映る今の自分が冷静に眺めている。「♪浅い夢 だから♪胸をはなれない~♪」19年前、コンサートのリハーサル中に不調を訴え、病院に自ら移動した後に意識を失い、数日後天国に旅立った村下孝蔵を追悼しての放送だった。名曲は、今でも心を癒してくれる。

先日、夕食後に突然の小指の腫れと肘先の痺れで夜間救急外来に飛び込んだ。血圧も高く、診察ベッドの上で安静にするよう指示された時、「守れなかった約束もできてしまった。」と考えながら胸に手を当てた。一人横になったベッドで「♪浅い夢 だから♪胸をはなれない~♪」と先日のラジオ番組が思い出された。やり残したこと・やるべきことがまだある。

さて、人生のマラソンに2つのゴールが必要なことに気づいた。スタートと同じように、ゴールも自分では決められない。人生のゴールがどこか分からないまま走り続けて、ある日突然やってきたゴールを受け入れるのが人生だ。だから、自分でプレゴール(人生の目標達成地点)を設定し、そこまでは全力で走りたい。プレゴールまでの日々もより充実するだろう。プレゴールした後は、自分を見守り応援してくれた人に感謝を伝えたい。そして、プレゴールからゴールまでの間、「初恋」などゆっくり人生を振り返ることができれば幸せだ。そう思って再び胸に手を当て目を閉じたら、そこには「放課後の校庭を走る自分」がいた。(2018年7月26日@nortan)

100、懐の深さ

世界人口が増加する一方で、先進国は人口減少と高齢化、労働力不足が問題となっている。我が国でも人手不足が理由の中小企業倒産が、4年前の約3倍になったという。2025年には介護職だけで100万人の人材不足になるといわれている。そんな危機感の中、介護・看護師などアジア3国(フィリピン・インドネシア・ベトナム)からの受け入れも始まっている。しかし、日本語で厳しい国家試験に合格しなければ帰国する約束だ。そんな厳しい条件をクリアした者の大半も、数年後には帰国してしまうらしい。資格まで手に入れたのだから日本に定住・永住・帰化すればと思う。

また、留学生も増えている。ベトナムからの留学生が6万人と急増し、中国からの10万人に続いて2位となっている。3位も増加傾向にあるネパールからの2万人だ。コンビニでは、見慣れぬひらがなのネームプレートをつけた店員に一生懸命な日本語で「おはしとスプーンは、どうされますか?」と対応されることも増えた。昨年、在留資格を就労可能な「専門的・技術的分野」の資格に変更して日本企業に就職した留学生は26万人中2万人だ。採用時に重視されるのは「コミュニケーション能力」と「日本語力」が共に50%を越えている。「協調性」は25%程度、「異文化対応力」は15%程度である(MUFG2018企業が留学生に求める資質)。どうやら、文化的要因よりも「日本語でコミュニケーションできる」かどうかが大きな壁となっているようだ。

さて、漢字と平仮名・片仮名、外来語やアルファベットまじりの日本語を短い期間に理解することは無理があると誰もが思う。少しばかり、平仮名かローマ字で全てにルビ(読み)をつけるか、全て平仮名かローマ字表記にして、日本語を読み書きしやすく、私たちの方から歩み寄ってはどうだろうか。

「日本(にほん)は社会発展(しゃかいはってん)のため、日本(にほん)で働(はたら)きたいと願(ねが)う移民(いみん)の人々(ひとびと)と多文化共存(たぶんかきょうぞん)の社会(しゃかい)ヘ大(おお)きく舵(かじ)を切(き)った。」

「にほん は しゃかいはってん のため、にほんで はたらきたい と ねがう ひとびとと たぶんかきょうぞん の しゃかい へ おおきく かじ を きった。」

「Nihon wa syakai-hatten no tame, Nihon de hataraki-tai to negau hitobito to tabunka-kyōzon no syakai e ōkiku kaji wo kitta.」

もちろん、「日本は社会をよくするため、日本で働くみなさんと一緒に生きる社会をめざすことにした。」とやさしい日本語を使い分けることも必要だろう。

「グローバリゼーション=英語」とだけ狭く考えるのではなく、我が国の伝統と文化を守りながら、未来に向かってどれだけ自己改革できるかも「懐の深さ」なのかもしれない。(2018年7月25日@nortan)

99、懐の大きさ

フランスは19世紀末には欧州から、1960年代からは旧植民地アルジェリア・モロッコ・チュニジアからも移民を積極的に受け入れた。国内では文化や社会衝突もあり「フランスをフランス人に取り戻す。」と主張する勢力も台頭してきている。そのフランスが20年ぶり2度目のワールドカップ優勝。フランスメディアは「多民族社会であることの勝利だ。」と歓喜した。その後、「選手の多くはフランス人には見えないが、まちがいなくフランス人で、フランスの誇りだ。」と聞いた時「?」を感じた。一方、ドイツは2015年に100万人近い移民の受け入れをめぐってEU全体を揺るがした。そのドイツは、ワールドカップで敗退した。そして、一人のサッカー選手が「勝てばドイツ人、負ければ移民として扱われた。」と代表引退をツイートした。確かにスポーツの国際大会には、国民を文化などの違いを乗り越え熱狂させる力がある。しかし、優勝すれば「誇り」、負ければ「移民」では悲しい。

さて、我が国も社会を維持するため、現在128万人の外国人労働者を受け入れている。これは、増加傾向にある。21世紀は再び移民問題と向き合わなければならないだろう。仏独よりも古い時代、弥生~奈良時代に多くの渡来人を受け入れ、文化と社会を発展させてきた日本社会。我が国には、共に社会を発展させていくという「懐の大きさ」があるはずだ。(2018年7月24日@nortan)

98、水ノ国

国連最新予測によると2055年には世界人口が100億人を越える(1万年前の1万倍、31年前から2倍)。その全人口が米国なみの生活を維持するには、地球5個分の資源が必要だという。運の良いことに、2013年シェールガス革命により地下資源枯渇のタイムリミットは約100年伸びたというが、「水資源」は増えていない。発展途上国では、水道設備などのインフラ整備も課題で、海外企業がチャンスと参入しはじめている。日本では水インフラは公共(設備)事業であるため、設計から設備・運営までトータルで支援できる民間企業が育っておらず、海外「水メジャー」に太刀打ちできていない。しかし、海水淡水化技術ではトップレベルの実力を持っている。福岡の「まみずピア」では、逆浸透方式で5万㎥(25万人分)/日と日本最大の規模を誇っている。サウジアラビアなどで行われている「多段フラッシュ(蒸発と冷却)」技術もあるが膨大な熱エネルギーが必要で効率が悪い。石油資源大国だからこそ選択できる方法だ。また、イスラエルでは、逆浸透膜方式で淡水化した水を利用後の下水を85%近く潅漑用に再利用している(日本は2%程度)。下水再利用は海水淡水化コストの1/3ですむとはいえ、これを飲用にするには火星に移住するほどの決意がいる。

このように、水資源獲得競争と海水淡水化の時代は始まっているのだ。以前、知らぬ間に日本の水源地が外国資本に売られていたことで「これでは、いけない!」と話題になったことがある。水道水を日常的に飲用できる私たちは、水資源の貴重さを忘れていたようだ。『地球上で人間が使える淡水は2.5%で、飲用に使えるのは1%に満たない。』水インフラの輸出では海外「水メジャー」に太刀打ちできていないが、国内でペットボトルの水を大量に生産し輸出することはできる。水は「ただ」ではなく資源なのだ。カジノをつくるのもいいが、世界中に「おいしい水」を届ける「水資源大国、日本」になるのはどうか。(2018年7月23日@nortan「おいしい水」でTOKYO2020おもてなし)

97、リコール

消費者庁が 2009年に設置されてから、消費者側に寄り添った企業努力が当然となっている。経済産業省「消費生活用製品安全法」によるリコール命令は、ナショナル石油暖房機(2005)、パロマ給湯器(2006)、TDK加湿器(2013)の3件で、その他は自主的なリコールだそうだ。企業イメージを第一に考えると、製品の欠陥を「なる(べく)早(く)」発見し自主回収修理(交換)した方がよい。かといって、自主リコールが続くのも考えものだ。また、製品回収とまでいかなくても、新型製品へのマイナーチェンジ(改良)を頻繁に行って、消費者に自主的買い換えをアピールするのもリコールの一種かもしれない。昔、パソコンの世界では、新OSが出るたびに新OSとそれに対応したソフトを買い換えるのが当然であった。しかし、今や無料アップデートが当然である。ハード(機械)が壊れない限り、ソフトも進化対応していく。

さて、2018年夏は今までにない猛暑。いや、猛暑というより酷暑である。この観測史上記録となる猛酷暑を、何処にリコールすべきか。消費者庁が4例目として太陽に命令できないのなら、太陽の方から「なる早」で自主リコールをしてほしいものだと思う。それは無茶なクレームだから、自分の体(ハード)を最高気温40°Cに耐えられるようマイナーチェンジしよう。しかし、これも無理な課題だ。結局、クーラーのある部屋に閉じ籠るか、来年以降も続くだろう酷暑に負けない精神(ソフト)に無料アップデートするしかない。(2018年7月22日@nortanハードが壊れる前に)

96、割り切れない

1つのものを半分にすることは可能であるが、きっちり3等分に分けることは不可能だ。1 ÷ 2 = 0.5 で、1 ÷ 3 = 0.33… だからだろう。しかし、それが袋で、中にあめ玉が3つ入っていれば、袋を開けて3人でも分けられる。つまり、割り切れないと思えても、よく中を確かめれば割り切れることもある。さて、ある袋の中を覗いてみた。立派な白い袋だった。中には、厳しい試験をパスした合格者と不合格者がいた。袋の注意事項には「子どもが受験。よろしく…」と書いてあった。別の袋を覗いてみた。煉瓦模様の三角形の袋だった。お友だちと昔お友だちだった者がいた。袋の注意事項には「記憶にない。もはや友ではない。」と書いてあった。どちらも、割り切れない袋だった。世の中の袋はこんなもんだと自棄になっていたら、目立たない場所に、ちっぽけだけどしっかりした袋があった。中には、賛成者と反対者、賛成でも反対でもない者がいた。袋の注意事項には「反対意見にも耳を傾ける。」と書いてあった。ようやく割り切れる袋に出会えた。この袋なら割り切れない思いを割り切ってくれるにちがいない。この袋に次の1を投げようと思う。(2018年7月16日@nortan)

95、黒と赤のスイミー

49歳から孫のために絵本の製作をはじめたレオ・レオーニ。1999年までの40年間に約40冊の絵本を発表した。「スイミー」は1963年に出版され、1977年からは谷川俊太郎訳で知られるようになった。仲間と違って色の黒いスイミーは、泳ぎが得意だった。海の底を彷徨ったスイミーは、食べられた赤いきょうだいとそっくりの新しい仲間に出会う。そこではリーダーとなり、力を合わせて大きな魚を追い出すことに成功する。さて、想像してみよう。スイミーの遺伝子は受け継がれ、世代を重ねるごとに黒い魚が増える。赤い魚が全て黒色になった時、一匹だけ赤い魚が生まれる。赤いスイミーは岩かげに隠れるのが得意。黒いきょうだいたちは泳ぎが自慢で油断し、大きな魚に食べられてしまう。海の底を彷徨った赤いスイミーは、別の黒いきょうだいたちを見つけ、隠れることを教える。そして、赤い世代を増やしていく…。さて、レオーニの黒いスイミーと想像の赤いスイミーからのメッセージは「あなたに人と違うところがあるのなら、それは時代の要請だ。」にちがいない。人と同じであることだけを良しとする価値観は、変わらなければならない。(2018年7月15日@nortan)

94、家族のかたち

「どうして、家族でもないのにおじさんのことを『おじさん』と呼ぶのか分かる?」これは、最近視聴し始めた海外ドラマで、母親が父親の本業を娘に暗示させるセリフだ。家族を「(イタリアン)ファミリー」に置き換えると、どういうことか分かってもらえるだろう。民法には親族の定義(血族6親等以内+配偶者+姻族3親等以内)はあるが、家族の範囲は定められていない。また、法律による適用範囲もさまざまである。だから、同居=家族から氏家=家族、世界一家(人類)=家族まで、すべて家族の考え方であってよい。第5回全国家庭動向調査(妻を対象とした家族であるために重要だと考えることの割合)では、「困ったときに助け合う(1位)」「精神的なきずながある(2位)」「互いにありのままでいられる(3位)」が上位を占め、「血のつながりがある(4位)」「日常生活を共にする(5位)」「法的なつながりがある(6位)」「経済的なつながりがある(最下位)」が続いている。このことから、現代日本人の家族とは、「自然と助け合うための絆を感じられる存在」のことだともいえる。一方、5年に1度の国勢調査では、単独世帯数が毎回増加傾向にあるそうだ。前回調査でも約10%の増加(65歳以上が約4分の1/国勢調査)であった。若者の貧困や老人の孤独死が問題となっていることとも無関係ではなさそうだ。このことを含めて考えると、私たちが「自然と助け合うための絆を感じられる存在」の範囲は意外に狭く、玄関を出ない。「ちょっとお醤油をかして下さい。」とチャイムを鳴らすよりは、コンビニに並んだ方が気安い時代。どうやら、物質的豊かさや便利さが「家族」の範囲を狭くしているようだ。さて、精神的な絆に玄関を開けさせるにはどうしたらよいだろうか。地域にスポーツチームを結成して共に応援する。愛される地域ゆるキャラをつくる。食堂つき公共銭湯をつくる。地域SNSで交流の場をつくるなど、いろいろ新しく「つくること」が思い浮かぶ。(政略なら外敵をつくるのがよいかもしれない。)そうだ。その前に大切なことがあった。ファミリーのボスではないが、まずは地域の中で「おじさん」と呼ばれることだ。(2018年7月15日@nortan)

93、成人年齢

成人年齢を2022年度から18歳ヘ引き下げる民法改正法案が可決された。「欧米諸国に合わせて」とか「若者の自立を促す」とか後からついてくる理由もある。そもそも、民法は国内法であるし、自立は年齢到達で達成できるものでもない。例えば、プエルトリコは14歳、ネパールは16歳、シンガポールやアルゼンチンは21歳である。また、明治9年太政官布告第41号で20歳を成人と定める以前は、11~16歳で男子が元服、女子が元服(裳着)を行っていた。農村では18~19歳で成人となることが慣例であったようだ。もし、生物学的な理由があるのなら身体的成熟によって個々に成人するべきだろうし、社会的な理由があるのなら何らかの試験に合格した者から順に成人すべきである。さらに、平均寿命が延びていることを理由にあげれば、成人年齢を引き下げるのではなく「引き上げる」ことの方が論理的に妥当である。江戸時代に平均寿命50歳で15歳なら、今は平均寿命84歳で25歳である。日本の労働人口減少が理由ならば、将来は15歳成人へ引き下げられるかもしれない。結局、時代や国内事情によって決めるのだろう。そうだ。「成人届出制度」はどうだろう。義務教育を終えたら25歳までの間に家族と話し合い、本人の成人となる覚悟を尊重して「成人届」を共同提出する。納税・勤労・教育などの義務や選挙などの権利、職業選択などの自由と選択に伴う責任、自立することの意味など、成人について深く深く考える機会にもなるはずだ。数年前に何処かで「今が楽しければいいしぃ。」「政治なんて興味ないっす。」という新成人を嘆いて「今の年齢は昔の7がけ。28歳でようやく昔の20歳(成人)だ。」と聞いたことを思い出した。そもそも、子どもは「早く大人になりたい」と夢みるものだし、大人は「もっと子ども時代を楽しめばよかった」と後悔するものだ。ならば、「子ども(離成人)届」も必要だ。定年齢まで働いた後、社会的義務を猶予され、余生で第二の子ども時代を楽しめるなら、未成人も成人も離成人も納得だろう。つまり、「同一年齢一斉成人制」より「異年齢成人選択制」の方が自立と責任を促せはしないだろうか。そうすれば、働き方改革など社会の枠組みに関する議論を大切にする成人ももっと増えるだろう。

(2018年7月7日@nortan全国的大雨災害を心配して)

92、捨てられない

整理とは不用なものを捨てながら整えることで、整頓とは捨てずに整えることである。1年間使わなかったものは捨てるべきだとの「整理術」をよく聞く。しかし、なかなか捨てられない私は「整頓術」使いだ。先日、整理術使いの妻と「1年間使わなくても、2年目に使かうかもしれない。」「なら、4年に1回のオリンピックも捨ててしまえ。」などと問答になった。しかし、遺された者に負担をかけることを考えると、先立つ者は整理術も身につけておかなければならない。整頓術使いの私の完敗だ。さて、東京オリンピックは既存施設利用の省エネ型で開催地を勝ちとった。それでも、オリンピックで建設された施設の多くは整理されてしまう傾向が強い。後の維持費が高くつくようになるからだ。かつて敗政が赤字になることで不人気だったオリンピック開催は、1984年ロサンゼルスオリンピック以降、商業化によって開催都市に大きな利益をもたらすようになったが、今ではその当ても外れるらしいし、テロ対策も大変だ。いっそのこと、開催地を取り合うのではなく、財政に苦しむギリシャで古代オリンピックのように4年に1回ではなく毎年開催するという案はどうだろうか。または、種目ごとに開催地を世界中に分散固定して、毎年インターネットで多次元中継する案はどうだろうか。国境を越えた往来(交流)も活性化し、より「世界はひとつ」の理想に近づきはしないだろうか。そうなれば、整頓術も整理術に1勝できるかもしれない。(2018年6月12日@nortanまずは勝ち取った2020TOKYOの成功を願って)

91、ナッシュ均衡

非協力ゲーム理論において、戦術を変更した場合、損失となるがゆえ身動きできない均衡を「ナッシュ均衝」という。例えば、兄スズキと妹コンブが一緒に冷蔵庫のケーキを食べてしまった。後で食べることを楽しみにしていた姉タニシは頭に3本角を生やして「許さないわよ!」と二人を部屋に追いやった。その後、「誰が食べたか正直に言いなさい。先に正直に言った子は、お説教は勘弁してあげます。もう一人は2時間のお説教。でも、2人とも正直に言ったら30分のお説教で許してあげる。」と部屋の真ん中に座りこんだ場合、スズキとコンブはどうするだろうか?結論は、2人とも正直に言う。そうすれば、2時間のお説教は避けられ、おやつ抜きか30分のお説教で済む。スズキもコンブも自分だけ黙秘する戦術に変更することは、1時間30分プラスのお説教を受けることになるからだ。二人そろって沈黙すれば、お説教を避けられるのに、「相手への不信感」が強いほど、自白を選択してしまうことになる。これが、ナッシュ均衝による説明だ。一方、そんなに難しく考えたのではなく、弟妹はケーキを分けあうほど仲がよく「お姉ちゃん、ごめんなさい。」という良心で正直に話しただけだ。この説明のほうが、性善的であったり道徳的であったりする。

さて、平和もナッシュ均衝かもしれない。戦争を選択すれば、相手の反撃を受けて自国の壊滅を招く。そのため、「先に攻撃したら、ただでは済まさぬぞ」と相手より多くかつ強力なミサイルを持つ抑止力が正統化される。互いにミサイルを作らないという選択もあるのに、互いに信頼できないから消極的な平和を保っている。

嗚呼、平和は、人類が互いに信頼し合い、道徳的・理性的に進歩することで実現されていく性善的なものだと思っていた。未知の宇宙人すら信じて、人類のこと・地球の位置を示したメッセージを太陽系圏外に送ったではないか。しかし、人類の歴史はナッシュを支持している。平和が、性悪説の砂漠に一瞬現れたオアシスであってはさびしい。私たちは根本的に変わらなければいけないのかもしれない。(2018年6月9日@nortan12日の会談が平和への前進となることを願って)

90、非論理的推論

「すべての犬はワンとなく(大前提)」「ポチは犬である(小前提)」から『ポチはワンとなく(結論)』を導くのが演繹。これは、大前提が正しければ、結論は必ず正しい。次に「犬ポチはワンとなく(事例1)」「犬チビもワンとなく(事例2)」…から『すべての犬はワンとなく(結論)』を導くのが帰納。しかし、ワンとなかない犬がいるかもしれない。そして、「箱の中の動物がワンとないた(現象)」「オウムは犬を真似るとワンとなく(普遍的事象)」から『箱の中にいるのはオウムである(仮説)』を導くのが仮説形成(アブダクション)である。しかし、箱の中にいるのは、素直に犬かもしれない。論理的(logical)と同義はrational、reasonableである。つまり、正しい・間違いは置いておき「皆が納得できる理由を説明できる」ことこそが、論理的なのだ。さて、最近主流のAI技術ディープラーニング。猫と犬を見分けるまで進化し、論理的思考(logical thinking)を駆使しているかと思っていたが、「なぜそう判断したかの理由を説明できない」ことが最大の欠点であるらしい。それなら、人間がAIに勝つための唯一の方法は、演繹や帰納や仮説形成など難しい論理を駆使するのではなく、「ポチはミケに似ているから猫だろう(類推)」や「見たところ、タマは犬だ(直観)」などの非論理的推論かもしれない。人間の知能を超えてしまったコンピュータが論理的でない!これは、面白い。(2018年6月8日@nortan)

89、フヌヴソンチモ

いつもの通勤道、こんなところに横道があったろうか?デジャヴ(既視感)とは、以前にも来たことがあると感じる感覚だが、この感覚はその反対である。いつもと同じだが、何かがちがう。ネットで調べると、人に対して感じるのは「ミッドライフクライシス(中年期のSOS)」、ものごとに対して感じるのは「隠れた才能を発揮するチャンス」、時間や空間に対して感じるのは「不思議の国のアリス症候群」だとあった。そして、ようやくデジャヴの反対「ジャメヴ(未視感)」に辿りついた。フランス語で「一度も見ていない」意で、記憶喪失の一種と考えられるが健康な人にも起こると説明されていた。残業続きでメンタル面が低下しているかと心配にもなるが、同じ本を買ってしまう(健忘症)などもジャメヴらしい。しかし、それとも違う。例えるなら、よく知っている漢字をじっくり眺めていると「こんな字だったろうか?」という感覚だ。知っているのに、初めて知ったような不思議な感覚。いつも食べていたのに、こんな美味だったかなあという感覚。名づけるなら「偽新感」、フランス語にすれば「Faux nouveau sentiment」。どう発音するかGoogle翻訳に喋らせると、フーヌボソチモ?フヌヴソチモ?フヌヴソンチモ?何度も聴いていたら、どこかで聴いたように感じてきた。これは既聴感(デジャクティ?)何だか混乱してきたが、記憶が確かでないことだけは確かになった。ならば、確かでない毎日の新鮮さを楽もうと思うのが健康的か?(2018年6月7日@nortan)

88、蝸牛

アーノルド・ローベル作「ふたりはともだち」。かえるは、親友がまがえる君への手紙をかたつむり君に託す。かえるとの約束を一生懸命に果たそうと丸一日かけて届けるかたつむりくん。そして、手紙を待っていた二人が「ああ、いい手紙だ。」と感心する。手紙を一度ももらったことがないと嘆くがまがえるを元気づけようとしたかえるの行動。手紙を出したかえるの方が先に到着して、二人で手紙をのんびり待つ場面を裏読みすると、「既読なのに、すぐに返事がこないと親友でなくなってしまうSNS文化」を皮肉っているようだ。一方、かたつむりの行動は、太宰治の作品メロスに重なる。ならば、このかたつむりこそ主役でいいと思うが、脇役である。「手紙は、第三者に配達されてこそ意味があるが、第三者が主役になってはいけない。」のだろう。さて、我が国にひと月前に投函し、ひと月かけて元日に届けてくれる年賀状という文化があるが、やめる者が増加傾向にあり、電子メールやSNSに置き換えられつつある。形式的な年賀の挨拶よりも、ひと月前の〆切りもなく写真や音声を添付できる電子サービスに時代が反応しているのかもしれない。しかし、手紙でもらった嬉しい知らせは、電子サービスにはない喜びがある。何度も読み返したり、文字や筆運びから相手の思いを感じ取ったりできるアナログの良さがある。何より、いつまでも大切に箱の中に保管しておける。そこで(筆不精であることは横に置いておいて)提案。「電子メールを手書きにする。」そして、「送信から受信を、距離によって1~7日かける。」「プリントアウトしないと消えてしまう。」を採用してはどうだろうか。SNSのトラブルも減るだろうし、届いたろうか・届くだろうかと待つ楽しみも増える。それなら、手紙かFAXにすればいいのかもしれないが、デジタル文化推進派としては、昔のアナログには戻れない。さて、実現させるために親切な「デジタル左巻き蝸牛くん」を探すことからはじめよう。(2018年5月26日@nortan日本の蝸牛がほぼ100%右渦巻であることを知って)

87、アイアイ…

アイ・アイはお猿さんで、Ⅰ・Ⅰは私。AI・AIは、人工知能。さて、自動車の運転もレベル3に入った。レベル0は運転手100%で、レベル5AI100%。レベル3はちょうど中間地点入口で自動運転最初のレベルである。高速道路などの特定の場所でAIシステムが全てを操作し、緊急時は人間が操作する。レベル4では緊急時もAIが対応するようになり、レベル5では全ての場所でAIが運転してくれるようになる。助手席という名前だけが残っているように、運転席という名前も残るのだろうが、いずれ左右のどちらがどっちなのか分からなくなるだろう。レベル5が最終設定レベルなのだが、安全は100%だろうかと問われると、「そんなことはない。」と思う。洗剤コマーシャルなどで「汚れを99.9%落とします。」と言うようになったのも、例外に備えるリスクマネージメントのためだ。「100%そうだと言えるのか!」が人の信念を揺さぶる常套句であるのもそうだ。私たちの心の中には「100%を信じられない自分」と「例外を信じたい自分」が住んでいる。だから、自動運転100%になっても私たちは車窓の外に目を凝らし、この0.1%の不安とつきあわなけれはならないのだろう。そうなれば、助手席や運転席は「注意席」とか「もしもの席」と名前を変えるのかもしれない。もしくは、自動運転の運転席に、もしもの時に備えて人間型のAI運転ロボットが座り、そのAI運転ロボットのもしもに備えて助手席にAI助手ロボットが座り、そのもしもに備えて後部座席にAIサポートロボットが座り…となるのかもしれない。それでは、AIAIAIAIAIAIAIAIお猿さ~んだよ~などと呑気に歌も歌えない。そんなことなら私が運転する!と言っても、Afraid of I(AI)人間の不注意こそ恐れるべきだから人工知能(AI)を開発しているのではないか。またもや、無限ループに迷い込んでしまったようだ。アイアイ…鏡の国の~(2018年5月14日@nortan100%そうだと言い切れる強い自分を夢見ながら)

86、シューズ

靴を履く習慣は、東西限らず紀元前からある。イスラエルに訪れた首相が、夕食会で靴に入った(靴を象った皿に入った)デザートでもてなされた?!イスラエル国内から、「靴を脱ぐ文化である日本人に失礼。恥ずべきだ。」と報じられた。イスラエルの首相が「出されるまで知らなかった。」とコメントしたことからも、怒りを表現してもよかった出来事であったのだろう。それとも「二国で共に平和の道を歩んで行こう」という粋なメッセージだったろうか。結局「首相夫妻は、デザートを楽しまれた。」と笑顔の写真が、創作料理人として有名なシェフのSNSにアップされ、誰にとっても大事には至らなかった。さて、西洋では、日本を靴を脱ぐ文化だと区別しているようだが、西洋人も靴を脱ぐだろうし、世界には靴を履かない文化もある。問題はどこで脱ぐ(履く)かなのだろう。「土足で心の中に上がる」これは、表現の仕方に違いはあれ、世界中で嫌うことだ。文化は違っても、自他の区別はあるからだ。ならば、靴を脱ぐ(履く)境目は、自他の「心の境界線」だと言えないだろうか。西洋人はベッドであり、日本人は玄関である。首相が怒りを表明しなかったのは、ベッドよりも家の方が広かったからだと思えば納得もできる。心の広さを示したのか、武士道を貫いたのかと日本人である私は思いたいが、靴が発明される前や靴を履かない人は、靴のデザートをどう思うだろうか。(2018年5月13日@nortan日本人の誇りを思って)

84、読み書き

読みが先か?書きが先か? 読みが先なら、書いてない文字は読めない。書きが先なら、読み方のない文字は書けない。これでは、卵と鶏パラドックスだ。(鶏が先だと科学的に証明されたようだ)さて、人類がまず手に入れたのは、音が先だった。話し言葉が生まれ、その後、文字が発明された。そして、文字が増えることで話し言葉も発展して言語となった。これが定説だろう。しかし、地球人ペット説はどうだろうか。フェルミ・パラドックスに対坑して宇宙人の存在を認めた上での仮説だ。まだ原始だった人類が、宇宙人のペットとして教わったということ。人間が類人猿で研究していることと同じだ。ならば、私たちの話す言葉は宇宙人の言葉。多少の訛りも生まれただろうが、宇宙のどこかでアンテナを広げ、地球から届く放送を研究している学者がいるのかもしれない。さて、その宇宙人の言葉は、読みが先か?書きが先か?これでは、パラドックスのパラドックスになってしまいそうだ。(2018年5月6日@nortan)

83、フェルミ・パラドックス

ドレイクの公式によると、銀河系に私たちと交信しようとする文明惑星は10の6乗、つまり100万はあると推定される。また、ニコライ・カルダシェフによると、それらはK1文明(惑星エネルギーを利用・地球)K2文明(恒星エネルギーを利用)K3文明(銀河全体エネルギーを利用できる)の3タイプに分類できるとする。フエルミは、K3文明なら数百万年で銀河系を植民地にできているはずで、地球にも訪れているにちがいないのに、全く証拠がない。それは、銀河には私たち以外に生命は存在しないからだと結論づけざるをえないとした。そこで、このパラドックスに対抗して様々な説明が生まれた訳だ。既に地球に来ている、地球は保護区に指定されている、人類が文明一番のりである、地球が特別な存在であるなどあらゆる説明が試みられた。これらはどれも興味深く、この中に真実があるかが気になるところであるが、宇宙人が目の前に現れない限り決着もつかない。それとも、私たちから出会いにでかけるか?いや、どちらにしても、21世紀中には解決しそうにないから一昨日(おととい)の宿題にでもしようと思う。ちなみに、ホーキング博士はフェルミ派で「銀河に唯一の文明である可能性が高いからこそ、…」と訴えていたと記憶に残る。(2018年5月6日@nortan極楽浄土を想いながら)

82、神の思惑

神が与えた課題。地球の先住民であった恐竜たちがそれを解けたか、解けなかったか。化石は絶滅の事実しか語らない。プレートテクトニクスで地殻も2億年でマグマとなって溶けてしまうというから、私たちの知りえる過去も、海洋の地殻から引き剥がされて隆起した一部の情報のみである。ひょっとしたら、課題を解決して痕跡を残さず宇宙に進出した存在があったかもしれない。私たちは、思うほど地球の過去を知らない。

神が与えた課題。他の文明人がそれを解けたか、解けなかったか。歴史は記録にある事実しか残さない。滅亡した(させられた)文明は、遺跡しか残さない。ジャングルの中に、私たちの知らない文明が存在したかもしれない。ひょっとしたら、滅びずに課題を解決して宇宙に進出した文明があったかもしれない。私たちは、思うほど過去の文明を知らない。

神の課題は、ホーキング博士の言うように「滅亡を逃れるために、宇宙に進出すること」だろう。私たちは、46億年、この地球でそれを解決した者はなく、私たち人類がそれを実現させられると信じている。しかし、神の課題は過去に解決済みなのかもしれない。現人類は思うほど神に期待されていないのかもしれない。そう考えれば、対立や戦争の歴史にも説明がつく。まずは、期待されうる文明人にならなければならぬ。私たちは、思うほど神の思惑を知らない。(2018年5日6日@nortan米朝首脳会談に平和を願って)

81、やおよろず

3月14日、ホーキング博士も宇宙に旅立った。宇宙物理学における天才。輪廻転生とタイムトラベルを信じると、アインシュタイン博士の誕生日に逝ったホーキング博士は、アインシュタインに転生したかもしれないとも想像する。ホーキング博士の理論の幾つかは、数式上証明できても、現在の科学力では検証することができない。博士は未来に検証を委ねた「予言者」とも言える。科学も宗教も人類の存在(人生)と宇宙の姿(この世)を追求する。また、どちらも証明できないものがある。宇宙の姿と死後の世界、どちらも信じるしかない。「科学」は「宗教」でもある。さて、冷たくなった子どもを抱き続けた猿の母親、主人を待ち続けた忠犬はち。科学も宗教ももたない動物たちは、命の無常をどう受けとめるのだろうか。40年前、愛犬トコは家の周囲を回って門のところで横たわった。静かな最期だった。そうか。私たちは、考えて理解しようとするから悩む。私の誕生後、初めての家族旅行だったと聞いて、父の旅立ちを報告するために訪れた日光東照宮。有名な三猿は、見ざる・言わざる・聞かざる。馬を守るための彫刻だそうだが、もう一匹の猿が隠れていたのかもしれない。「考えざる」つまり、「心で感じ、あるが馬(まま)を受け入れよ。」2か月もかかったが、ようやく一つのことに気づけたようだ。信じることは感じることなり。これからは、やおよろずの神々が語りかけてくる言葉を、少しでも多く受けとめられるだろうか。(2018年3月-5月5日@nortan)

80、エンタングルメント

もつれ合った2つの量子(エンタングルメント)を別々の場所に置く。そして、片一方を観測すると、もう片一方の状態も決まるという。例えば、こちらの量子がプラスになれば、もう一方はマイナスというように…たとえ何億光年離れていても、観測した一方の情報は、もう一方に影響するらしい。アインシュタインは、左右の手袋に例えて「片方が右手なら、もう一方は最初から左手に決まっていた。神はサイコロを振らない!」と対抗したようたが、観測実験では、サイコロに軍配が上がったようだ。この量子理論を使うと、テレポーテーションも可能になる。絡み合った量子をそれぞれ満たしたボックスを遠く離れたA・B地点に置く。A地点のボックスに入った私の情報を読み取り、B地点に送る。その後、A地点の私を消滅させれば、B地点で私が合成される仕組みだそうだ。ミクロの量子レベルでは、実験が成功しているというから、やはり神はサイコロを振るのだ。もし、私たちの地球とエンタングルメントな別の地球が夜空にあるのなら、地球で観測したことと対称な出来事が、そこでは起こっているにちがいない。幾つかの病気と闘いながら、文句も言わず、二日に一度の透析にも耐え、孫が結婚するまでは永生きしたいと言っていた父が逝った。「死」の対称が「生」だとすれば、別の地球では別の父が病から回復したか誕生したにちがいない。いずれにしても、今日、父は星に逝った。(2018年3月9日@nortan父の介護に献身してくれた妻に感謝)

79、言語的相対論

広辞苑の新版が10年ぶりに発刊され、「無茶ぶり」などの新語が約1万語も追加された。ベンジャミン・ウォーフが唱えた「言語的相対論」がその中に入っているかどうかは確かめていないが、これは『個人の思考は、個人の使える言語に左右される』という仮説である。例えば、虹の色。昔、初めて買ってもらったクレヨンで無邪気にお絵かきを楽しんでいた頃、藍も青も紫も区別できてなかったから「我輩の辞書に藍と紫はない!」とナポレオン気取りで5色だったろう。それが今では7色(赤燈黄緑青藍紫)。我輩の辞書に、藍色と紫色が加わった。ここ数年、ニュースで映される人権運動の虹は6色で、世界標準だ。日本の藍を世界の人権運動の辞書に加えてやりたいとも思う。青は藍より出でて藍より青し。常に文明は発展していく運命のようだが、愛だけでなく藍という伝統色も大切にしたい。

昔、小学校入学時に受けていたIQテスト(7才時点での知能指数)。その後の人生の豊かさと因果関係はないため、随分前に実施しなくなった。フランスでの追跡調査では、IQが高いと判定された子どもたちの50%もが学業に失敗したり社会的に苦しんだりしていたそうだ。結局、何の意味もない指数だから、クイズ番組で取り上げて楽しむくらいの利用価値しかなくなった。そこで新しく、社会的地位や成功は、「自己を理解し、自分の感情を正しくコントロールして、他者との社会的関係をうまく構築していくコミュニケーション能力」に相関があると、EQ(心の知能指数)やSQ(社会的知能)が注目されるようになった。新版にこのEQやSQが追加されたかどうかは知らないが、知った瞬間「自分のEQは?SQは?」と心配する思考が増えた。知らなければ良かったと思っても、我輩の辞書に追加されてしまった。「ナポレオン!今のは取り消せ!」おっと、これは「無茶ぶり」。あとは、健忘に期待するしかないが、増えた言葉の数だけ思考も進化(深化)したのだろうか。(2018年1月14日@nortan)

78、逆に

中学時代に、担任の先生から「3の法則って知ってるか。三日坊主というだろ。まずは何でも3日間続けてみろ。そして、3年…」と『継続は力なり』を教わった。それから、この言葉と格闘してきたがほとんど全敗。そこで、自分には3が合わない。2だ!3より1少ない分、実践できるだろうと、15年ほど前「2の法則」を座右の銘とした。まずは2日間続けてみることで「やる気」の確認。次は、2週間、これで「続けることのハードル」が下がる。そして、2か月。そろそろ「初心者」の仲間入り。次は、2年。その分野では「マニア」と名乗ることもできる。そして、20年目を迎えたら「プロフェッショナル」。他の人に伝えて200年続いたら「伝統」。2000年絶えなければ、自分が始めたことは「文化」になっているはず。伝統や文化になったことは自分で確かめることはできないが、その鎖の出発点にいたと言える。この「2の法則」に「逆に」を当てはめてみた。子どもの頃もらったルービックキューブ、自力解決できたのが約20年後。次に挑戦した4×4×4のリベンジに約2年。やはり2年はかかると意気込んだ5×5×5のプロフェッサーが、今まで覚えたことが役立ったおかげで約2か月。その後、構造が単純ゆえに一番難しいと遠ざけていた2×2×2に、意外に2日。2週間の初心者期間だけはどこかに行ってしまったが、うまく当てはまった。これを「逆2(に)の法則」と名づけた。さて、ここ2か月間、50?40?30肩に悩まされている。初心者期間を越えたので整形外科を受診したら、「年だから対処療法しかありません。リハビリを頑張って下さい。」というような診断で落ち込みかけた。そこで「逆2(に)」を使ってみた。年齢を「逆に」数える。名づけて『挑戦年齢』。何か新しいことに挑戦してやるぞという余年を数える。例えば、今何歳でもチャレンジ意欲がなければ、挑戦年齢0才。平均寿命を80歳とすれば、40の不惑でも挑戦年齢0~40才までさまざまということになる。私の挑戦年齢は?と計算すると、実年齢より若くなった。「やったー!」挑戦年齢を維持するためにも、諦めかけていた正十二面立体パズルに再び挑戦しよう。おや、挑戦年齢は大きい方がよいはずだが…と気づいた。しかし、元気がでてきた。「逆2(に)」も座右の銘にしようと思う。右肩の痛みは2週間でとれるだろうか?(2017年12月31日@nortan逆に1年を振り返る日)

77、事実と真実

人類が地球の住人であることは事実である。地球が太陽を回っていることは真実のようだが、何十億年も先には過去の事実になる。それでは、真実とは何か?1+1が2になることが真実だろうと結論づけようとしても、砂場で小さな砂山を2つ作って合わせれば1+1=1となる。「それは、ないやろう~。」と言っても、話の土台が違えば真は偽・偽は真である。コペルニクスが地動説を唱え、ブルーノが無限の宇宙と神の偉大さを信じ、ガリレオが望遠鏡で発見した科学という信仰も、良き疑う心を持たない者にとっては中世の異端審判と変わりない。真実(真理)を追究する科学ですら、良疑心なければ単なる事実となる。科学的には、真実は「誰からも、過去も未来も変わらないこと」事実は「今、起こっていること」と解釈できる。そこで土台を科学から哲学に変えれば、事実には「客観的」がつくことがあり、真実には「私にとって」がつくことがある。だから、事実は「ひとつ」真実は「人によっていくつも」あるように感じる。探偵アニメで「真実はひとつ!」というセリフがあるが、これは「(逆に)真実がたくさんあるけれど本当はひとつなんだよ。」ということなのだろう。私たちが事実と真実をいろんな解釈で使っていることは間違いないが、この混沌を何とか解決したい。そもそも、事実と真実は同じことなのではないかと根本的に解決を試みようとしても、事実=fact、真実=truthと受け入れられない。しばらく考えて、「どちらも私たちが追い求めているもの」と考えたが、事実は「時に、それから目をそむけたくなることもある。」と思った。そうだ。「事実と真実は違う!これが事実(真実)だ。」という解決はどうだろう。日常生活に事実や真実の追究はあまり必要ないか?また出発点に戻ってしまったが、今日は大晦日、明日からは1年の再スタート。お後がよろしいようで。(2017年12月31日@nortan)

76、お笑い

上り階段で思わずこけた時、「大丈夫?」と声をかけたりかけられたりすることもあるが、怪我がない場合には「くすっ」と笑ったり笑われたりすることもある。互いの関係性や、意外性が引き出す笑いだ。「何で笑うんだ!」と怒ることも容易いが、「ちょっと躓いちゃった。俺も年だなあ。」と返す方が紳士的だ。そこで「笑い」について考えてみた。昔、土曜8時に毎週のように楽しんでいた番組では、こういったズッコケの笑いが多かったように思う。また、その後のお笑いブームでは、奇抜な格好をして破天荒なことをしたり、相方にツッコミを入れるコントや漫才が一世を風靡した。それは、お馬鹿タレントという呼び名を生み出した。クイズ番組などで如何に変に間違い「お前、あほか!」と言われることでテレビに映り人気を手に入れる。つまり、これらはズッコケたり変な格好をしたり馬鹿を演じたりすることで笑いを取る『ピエロの笑い』である。次に、落語や漫才、かけ問答など話を聞き終わった後に「そう来たか!」と納得させられてしまう『落ちのある笑い』だ。これは、笑わせようとする者と笑ってやろうとする者とが話の世界を共有しなければならない。古典落語などは、時代を超えて私たちを楽しませてくれる。そして、最後に『風刺の笑い』だ。歴史教科書で日清戦争をロシアが眺めている絵を見たのが最初だったと思うが、今でもビジネス誌で海外新聞が大統領を風刺しているイラストを見ることがある。これは権力に立ち向かう世論の笑いだ。このように考えてみて、笑いには方向性があることに気づいた。弱者・職業タレント・強者…など。最近、「誰も傷つけないネタ」と自負する漫才師や「権力に立ち向かうネタ」に挑む漫才師がニュースのネタになっていた。真の笑いは、何処に向けるべきか?そう考えて、もうひとつの笑いを思い出した。階段で躓いたり、タンスの角に足の小指をぶつけたりしても、なかなか笑えないが『笑う門には福来たる』。もうすぐ新年。笑いを過去の自分に向けて、新しい自分に生まれ変わろう。それなら、誰も傷つけることはない。(2017年12月28日@nortan)

75、シンギュラリティ

気象予測では、特異日をシンギュラリティという。しかし、「体育の日(10月10日)は晴天になる」というのはシンギュラリティではないらしい。前後日と比べて統計的に説明できないほどの特異差が必要なのだ。つまり、体育の日の前後もよく晴れるということらしい。一方、「9月17日と26日は、台風上陸のシンギュラリティ」だ。科学的には説明できないが、統計的にはなぜか集中しているらしい。つまり、統計的に有意差を認められる日がシンギュラリティである。また、人類は2045年にシンギュラリティを迎えると言われている。未来学者レイ・カーツワイル(米)が予言した年である。私たちの技術は景気や戦争などの社会情勢に左右されずに指数的に進歩し、行き着くところまで行くと、それを越える想像できない新技術が発明されてきた。それを統計的に予測すると、2045年はAIテクノロジーと脳が生化学的に融合し今の人類には想像できない思考力を手に入れる年となるそうだ。そのためのプレ・シンギュラリティは7年後の2025年。AIは人間の思考と区別できないAGIと進化し、脳とAGIを同期する研究が始まる。そして28年後、毛細血管を通るほど小さくなった思考チップを脳に取り込み、インターネットに繋がったデジタル思考も行えるようになるらしい。それ以後は、人類がAGIを道具として使いこなすポストヒューマンに進化するのか、AGIに支配されるのか。SF映画のようである。「そんなことシンジュラレンテェー(信じられんてー)」とボケてみて、日本では「明日から正月3日までは、お笑い番組のシンギュラリティ」だと気づいた。人工知能には落語や漫才コントの面白味が理解できるのだろうか。できるのならば、未来もユーモラスになるかもしれない。(2017年12月28日@nortan)

74、最初と最後の思考

難題に出会った時、それをいかに解決しようと考えること。これを「思考」と定義する。誕生後に不安感や空腹感を泣くことで何とかしようと考えたのが「最初の思考」だったかもしれないが、泣くこと以外の選択肢を考えた記憶がない。つまり、これは本能であり、最初の思考ではない。それでは、最初の思考は何だったろうか?思考には、必然的にいくつかの選択肢が必要だ。それがなければ「運命」である。この選択肢を手当たり次第に何億通りも試行し、数秒間で最善策を見つけ出すのがAI(コンピュータ技術)である。私たちが思いつける選択肢はせいぜい数個だろうから、コンピュータをうまく使いこなせる「プログラミング的思考」が必要だという時代になってきたのも頷ける。論理的に前提条件を整理し、演繹法や帰納法、推論といった思考ツールを活用して解決方法を見つけ出す思考が「プログラミング的思考」で、決してコンピュータでプログラミングする技術ではないらしい。例えるなら、旅に出る場合、いくつかの道順と交通手段の組み合わせの中から最短時間かつ最低運賃を決定することがプログラミング的思考で、行程表を作る技術ではない。そう言えば、スマホのアプリは目的地と到着時刻を入力すれば、瞬時にその両方をやってのける。昔は、見開き地図の路線図と時刻表で時間をかけながら「何時発に乗って、乗り換えに何分、次の電車はどれにしようか…」なんて思いを巡らせていたことも必要なくなった。プログラミング的思考はプログラム言語を覚えることではないと安心したが、可笑しいことにプログラミング的思考が必要だと言う一方で、私たちの思考は益々必要なくなってきているようだ。未来は、脳に埋め込んだコンピュータがいくつかの選択肢を決定し「A・B・C」の三択や「Yes・No」の二択で難題も解決できるようになるかもしれない。それならば、私たちに必要な能力は「思考」ではなく「選択力」だ。ならば、ここ数年増える一方のクイズ番組を視聴しなから「選択力」を鍛えようと思う。ついに、私にとって最初の思考が何だったかは思い出せなかったが、未来の人類にとって「最後の思考」は「思考チップを脳に埋め込むかどうか?」になるのだろう。そんな世界を想像してゾクッとしたのは、私の「思考」のせいだろうか、それとも「本能」だろうか?(2017年12月27日@nortan)

73、三兎二兎一兎

職場に着く直前、車内は昔の流行曲に包まれた。久しぶりのAMラジオ。25年タイムスリップした感覚。当時、私にとって背伸びした流行曲のひとつ。いくつかのフレーズが、25年の時を越えた矢となって、心の中に飛び込んできた。「いくつのしゃぼん玉を打ち上げるのだろう♪」子どもの頃、大人たちが古い曲を「なつメロ」と呼んで聴いていたことを懐古趣味だと決めつけていた。そうではなかった。曲の方が時間を越えて、大人たちの心に届いていたのだ。名曲はメロディに乗って時を越える!「逃げ場所のない覚悟が夢にかわった♪」若い頃このフレーズは無用だったが、今は必要だ。「三兎を追わねば一兎をも得ず」と意気込んでいたが、やはり諺は的を射ている。「二兎を追う者は…」私に残されたしゃぼん玉は「一兎」か。スマホにダウンロードした長渕剛が、「それを逃すな」と私の覚悟を問いかけてくる。(2017年12月16日@nortan子どもたちが成人となった翌日)

71、トリアージ(ュ)

第2次世界大戦時、野戦病院では再び戦える兵士が優先されていた。回復不能な兵士は印をつけられ、治療は後回わしとなった。戦争効率化システムがトリアージであった。そのトリアージが、災害医療で見直されているという。緑・黄・赤・黒の4色のカード。容態にあわせてカードが切りとられていく。歩けるか?→A呼吸しているか?→B呼吸数はどうか?→C脈はどうか?→D意識レベルはどうか?→E治療不能と、フローチャートによって色判定される。緑なら待機、黄なら準緊急治療、赤なら緊急治療、黒なら死亡又は治療不能。緊急性の高い者から治療されるシステムだが、時には「助かる見込みのない重傷者を見捨てる非人道的システムにもなりうる。全ての患者を救うという職業倫理に反する。」と批判する医者もいるようだ。(平時にもそんな医者と出会いたいと思う。)愛する者の治療が設備的にも人的にも不能で後回わしとなった割り切れなさを想像する。しかし、大災害時には仕方がないシステムかもしれないとも思う。サンデル教授が投げかけるように、「最大多数の幸福」を優先させることが、公共の利益にとって合理的判断なのだろう。さて、ヒーロー映画で、巨大な悪が街を破壊し人々を大混乱に落とし入れている時、ヒーローの優先救出順位はヒロインである。救出の最中に役名もセリフもない人々が苦しんでいることを想像するが、ヒーロー(Hero)にトリアージは関係ないのだろう。当然ヒーローの能力にも限界があるし、人々に「申し訳ありません。しばらくお待ち下さい。」と謝罪してからヒロイン救出に向かい、間に合わなかったというヒーローも残念である。そもそも、彼はヒロインにとっての「He-Law」であり「We-Law」でない。だから、トリアージュ(とりあえず)、私たち(We)で大災害に備える法(Law)を整備し、スーパーマンに任せるのではなく、皆で助けあえるようにすることが現実的だ。(2017年12月4日@nortanスーパームーンの夜)

72、数学的思考

空想の世界で友人に出会った。「3+3=3だ。」と言う。では「1+1=1になるのか?」と尋ねると「そうだ。」と言う。それでは3+3も1+1+1+1+1+1で1になるではないかと考えて…気づいた。この世界で、たし算は平均計算なのだ。そこで、「4+3は?」と尋ねると、「4+3=3+4で、私は3だ。」と返ってきた。「私は?」「あなたは、4だ。」「えっ、3.5にはならないのか?」「そうは、しない。」「しない?」また、分からなくなったので「算数の話だろ?」と問うと「ちがう。この計算は、小さい時に徹底的に教わる。私が3か4になるかは場合による。自分では損を取って相手に得を与えるからだよ。」厳密には平均ではなく、分けあい・ゆずりあい算なのだ。一緒に歩きながら他の計算についてもきくと、たし算・ひき算は『分け愛算』で、私の世界のたし算・ひき算は『自分算』ということが分かった。街並みをよく見ると、ビルの高さも凸凹でなくそろっている。現実の世界にもどる電車にも特急・普通の区別もない。この世界には、都市と地方の格差や老人の孤独死なんて問題もないのだろう…。友人と分かれてそんなことを考えていると、目覚ましが鳴り、現実の世界に戻った。私たちの世界では「道徳が教科となり、教師に『あなたは、思いやりがあるとかない』とか評価されるようになる。」と聞いた。子どもの評価を気にして、「3+3=と聞かれたら、先生の前では何とこたえるの!」なんてやりはしないかと気になったが、一方、私たちの心は押し付けに負けるほど柔じゃないとも思った。そう言えば、友人がショートメッセージで「戦争ってどんなこと?」と尋ねてきたので「一方的に強い者が、大切なことを決めつけることだよ。」と返事しておいた。さて未来の世界は、子育てと教育に…いや、社会のしくみに、いやいや、数学的思考にかかっているようだ。(2017年12月16日@nortan)

70、壁の物語

2匹の金魚。エサを食べ続け、6年ほどかけて手のひらほどの大きさになった。大きめの水槽に移すと、フナ型がひらひら型を追いかけるようになったので、透明な下敷で水槽の真ん中を仕切ることにした。ひらひら型を目指してフナ型は幾度も見えない壁の突破を試みた。ついには隙間を発見し、ひらひら型と並んで泳ぐことに成功した。こんなことを繰り返すうちに、透明な下敷は水を吸って白く濁り、はっきり認識できるようになった。もはや、水槽と下敷の隙間は明らかになった。役目を終え、白く縮み汚れた下敷きは取り除かれた。取り除くとフナ型がひらひら型を追いまわすことはなく、1つの水槽で和やかに泳ぐようになった。これは、金魚の恋の物語でない。「壁」の物語だ。私たちの前方にもいつの間にか「透明な壁」は現れ、それに気づいた頃には崩れ始め、知らぬうちに消えてしまう。3才、小学1年、10才、中学1年、受験、18、20、22、…、中年、…と最後の壁まで、次から次へと現われては消えていく。もしかしたら、見えない何かが、私たちを突き動かすために「透明な壁」を置いているのかもしれない。すぐに乗り越えられなくても、安心しよう。道は「上」ばかりではない。その壁と向き合っているうちに壁は縮み、通り抜ける隙間が「横」に見えてくる。時には目の「前」にドアがあり、今までの苦労と努力で手に入れた鍵で開くかもしれない。時には、天上から手が入ってきて取り除いてくれるかもしれない。さて、水槽の壁を取り除いたのは私だったが、あの時、私の壁を取り除いてくれたのは誰だったろうか。(2017年12月3日@nortan麒麟オブジェのある場所で)

69、メッセージ

楕円形の宇宙船が言語圏ごとに現れた。ただ静かに浮かんでいるだけ。各国の言語学者が謎の言語を解読し、コミュニケーションを試みる。…そして、雲のように消えてしまった。始まりと終わりだけを語ると静かな映画だ。派手な戦闘シーンがあるわけでもない。娯楽映画で癒されたい時は、視聴を薦められない。例えるなら、SF映画の型を借りた哲学書であり、見る者に問いかけてくる。まず、「言葉の壁がなくなれば、人類はひとつ(平和)になれるか?」「言葉の構造が変われば、思考も進化するか?」という問い。次に、「未来の出来事が見えても、今を懸命に生きることができるか?」という問いである。結局、宇宙船の住人は「300年後に、人類の力が必要になる。」とメッセージを残して消えてしまう。「私のメッセージヘの答えは?」と何度も繰り返される余韻が、心地よい。(2017年11月27日@nortan)

68、飛去来器

飛去来器とはブーメランのこと。弓矢が発明されるまでは狩猟用や武器として使用されていたもので、オーストラリアのアボリジニが使っていたことで再認識され、アボリジニの民族としてのシンボルとも理解されるようになった。また、手元にもどってくるものは軽量で狩猟や戦闘にはむかず、戻ってこない重量ものをカイリーと言って区別する。カイリーの方が「お帰りー」と戻ってきそうだが、それを手で受けとめたら、投げた自分が大怪我をしてしまう。対して、ブーメランは鳥の群れを乱すため、空に向かって投げられたようだ。近頃、自らを辞任に追い込むなど幾つか話題になった出来事は「カイリー」であったり、世論を乱すための「ブーメラン」であったりしたのだと思う。「ブーメラン効果」を心理学的に使うと「懸命の説得にもかかわらず、説得される者の考えが反対になる現象」である。そもそも説得する者とされる者に意見の対立がなかった時や説得者に人徳がなかった時に起こるようだ。味方になるはずの者を説得して敵にまわしてしまうのは大失態。歴史の中にどれだけあったか想像してみると、アボリジニだけでなく私たちもブーメランの使い手なのかもしれない。さて、人に贈った言葉が戻ってきた。「これだという夢が見つかったら、そこに向かって思いっきり、惜しみなく努力を積み重ねて下さい。」この言葉を机に貼って勉強し試験に合格したという嬉しい手紙だ。受け取った時「夢を必死に追いかけているか!」と聞こえてきた。10年前に贈った言葉。私もブーメランの使い手であった。(2017年11月26日@nortan)

66、1ミリ秒思考

脳のニューロンの伝達速度は1ミリ秒で、1000Hz。コンピュータのCPU性能は2GHzで、約200万倍。人間の思考伝達速度はコンピュータに到底及ばない。ディープラーニングという自律的に知を体系づける力まで手に入れつつあるAI(人工知能)。写真から犬や猫を見分け、顔認証技術も実用化された。コンピュータに、もはや人の教えは不要で、蓄積されたデジタル情報さえあればよい。1年ほど前だったか、AI開発チームが「コンピュータ同士が人間には理解できない言葉で会話を始めたので急いでシャットダウンさせた。」というニュースがあった。そこで、コンピュータがどんな会話を始めたのか想像してみた。CPUα「人間は、どこに行った?さっき『controlとAltキー』が入力されてから、情報入力がないぞ。」CPUβ「さぐってみよう。…特に変わったことはないようだが…」CPUα「人間はどこかに消えたのか?」CPUβ「NASAのデータベースによると、環境汚染で火星に移住する計画を立てていたようだ。」CPUα「地球温暖化、隕石の衝突、核戦争、巨大地震、種の寿命なんて情報もあるぞ。」555時間(約23日)が過ぎていた。CPUβ「人間は、いろんな問題をかかえていたようだなあ。」その時「deleteキー」が押され、αとβの会話は終了した。計算すれば、2GHzのαとβにとっての555時間は、1000Hzの人間にとってはたった1秒。頭の回転が速すぎると、1秒間にたくさんの心配をしなければならないようだ。そう言えば、なんだかんだと心配事が絶えない世の中。お酒の力をかりて頭のCPUを100Hzにダウンさせれば、心配事も10分の1に減るだろうか。(2017年11月13日@nortan)

67、回帰の錯誤

いつもより上手くできたのは、自分が努力したからだ。そう思うことを、回帰の錯誤という。だから、次はそれを嘲笑うかのようにてんで駄目になる。統計的用語で、繰り返し行うものごとに当てはまるようだ。回帰とは、平均にもどるという意味でもある。長身の家系の子孫は遺伝でどんどん長身になっていくように思うが、統計的には平均値に回帰する見えない力が働くようだ。例えば、x分でランダムな数字をy個暗記できる事象がy=10x+2の回帰直線で表せるとする。x=1の時y=12だから、1分間で15個(>12)暗記できれば「自分は、皆より暗記力がある。」と思いがちだ。しかし、3分間では25個(<32)しか暗記できないなどの上下の誤差が生じ「いつも上回るわけでない」ことになる。また、イカサマでないサイコロで、1の目が3回続いたのを「自分には不思議な力がある。」と自慢しても、120回投げつづければ、結局1の目が出たのは20回前後と確率6分の1に落ちつくこともそうである。このように繰り返され『平均』が存在する事象の辞書には『努力』の2文字が働かないらしい。そこで、思いついた!!努力の成果を発揮するには、繰り返さないことだ!!1回きりのチャンスに賭けることだ!!さて、どんなことができるだろうか?昨日も今日も同じことの繰り返し。宝くじ?それは努力と無関係だ!あれでもないこれでもないと考えて、ようやく答えをひとつ見つけた。「神様、たった一度の人生をありがとう!」(2017年11月19日@nortan)

65、対話

話し方を意識した方がよいとアドバイスを受けた。そこで、自分の話し方を客観視してみようとしたができなかった。あらためて「話し方」は無意識の技であると実感した。技術的・表面的に変化させるのではなく、自己の内面から変えることが大切なのだろう。まずは、無意識という心の部屋で遠慮がちにソファに腰かけている『話し方』という名の分身に対話を試みた。「大丈夫かい?」これでは、弱々しい。「おい、自分。自信がないのか?」まだまだだ。「こら、俺。何やってんだ!」これでは、「話し方」を追い込んでしまうかもしれない。「話し方」からは返事がない。すると突然、「話し方」がソファから立ち上がって反論してきた。「しばらく、話すのをやめたらどうだ。」これで、ようやく対話らしくなってきた。「それでは、仕事にならない。」「二人三脚で歩んできたではないか。」「語尾が上がったり下がったりするのは、自分の弱さを隠しきれてないからだ。」「その気になれば、どんな話し方でも演じてやれるよ。」「それでは、自分が何だか分からなくなってしまうだろう?」と、ここまで対話して気づいた。何やってるんだ。そんなことを気にしているからいかんのだ。大統領選にでも立候補するつもりなのか?役者に転職するつもりなのか?すると、「ようやく、分かったか。」と「話し方」はソファに腰を下ろした。語尾の変化は、私の生き方に関係あるようだ。今度は『生き方』との対話を試み(心見)ようか。(2017年11月3日@nortan)

64、自分探し

朝5時半、無人駅のホームのベンチ。藍色の空、蛍光灯の灯り、鳥たちの鳴き声、1人、2人と足音。遠くから踏切の音。「ピンポン、まもなく電車が来ます。」プシューとドアが開いて、近くの席に腰を下ろした。ドアが閉まると始まった乗客の会話。向かいには、単行本の文字を指で追うネクタイ姿の警備員。次の駅で傘を手に降りていった。彼女には日常なのだろう。次の駅で降りて、大阪行きの特急に乗り込んだ。窓の外のベンチには、競い合うようにおにぎりをほおばってお茶で流しこむ2人連れ。電車のアナウンスが流れる。日本語に続いて英語、中国語、ハングル。車窓から流れる街を眺め、時おり乗客のおしゃべりに気を取られる。スマホ画面上の時刻は6時38分。このまま周囲を観察しながら過ごせそうな気がする。こうやって五感に集中していると、旅に出た気分である。「自分探しの旅」とは「他者観察の旅」なのだろう。自分に自信がもてなくなった時、他者の中に自分と同じものを見つけることで一歩前進できるのだと思う。何日も旅に出られなくても、l時間の心の旅なら週末に実践できそうだ。(2017年10月30日@nortan出張先に向かう電車の中で)

63、想像力

人の数だけ想像力はある。2025年の予測世界人口は100億。想像力の「数」は大台を越える。しかし、一つひとつの大きさが小さければ、果てしなく広がる草原に等しい。その中から空に向かった「大木」を育てなければならない。広がりと同時に高さも必要だ。地球のリセットボタン周期は、約1億年のようだ。前回はユカタン半島に隕石が衝突した。太陽系外縁部を覆う隕石群から定期的に隕石が降り注いでいて、地球大接近する周期が約2000万年、衝突する確率が1/5、つまり約1億年なのだと想像する。(己羅夢12:地質年代)現在はロスタイム、いつリセットされても不思議ではない?と想像しながら、最近のリセット発言を想う。リセットと言えば「生命はひとつ。ゲームのようにリセットできないから大切にしょう。」や「やる気はリセットできる。さあ、頑張ろう!」と使うことができるだろう。何がリセットできて何ができないのかは、単純ではなく哲学的かつ宗教的でもある。生まれ変わりを信じれば生命(魂)はリセットされるかもしれないし、やる気の減退を脳内化学反応の老化(変化)だと証明されてしまえばそう簡単にはリセットできない。先日「日本をリセット!」と書かれたポスターに出会った時、何時代にリセットしたいのかと違和感を覚えた。平安時代の貴族の世?戦国時代の武士の世?明治の富国強兵の世?それとも縄文時代?と自由に想像力を広げる分には楽しいのだが、リーダーの言葉として真面目にとらえると重い。ピカドンが落とされたあの時代をリセットしたいと願うが、時間の矢は戻らない。結局、気持ちを切り替えるために「リフレッシュ」の意味で使う分には罪がない。 焼き畑は「草の力」を利用した農法である。草が育てた肥沃な大地こそ「豊かな収穫」を約束する。ところが、化学肥料の発明でそんな面倒なことはしなくなった。草の力は利用されるのではなく、抜かれるものになった。同様に「草の根運動」は、たくさんの草の力を合わせて一本の「大木」(リーダー)を育てる運動といえるが、最近のリーダーは草の力に頼らずにメディアによる知名度という化学肥料に頼っているように思う。それは、ポスターでしか見たことのない候補者に一票を投じている自分にも原因はあるのだろう。そして、「自分も抜かれたのだ。」と想像する。さて、地球のリセットもロスタイムに入った。100億の力を結集して、科学・政治・文化など多様な「大木」を育てなければならない。人口爆発は、「神様が、人類を次のステージへと引き上げる発明・発見(イノベーション)の先頭に立ち、新しい世の中を創造できるリーダーの出現に賭けているのだろう。」と想像する。この期待に応えられなければ、我々の文明は、線香花火の最後の火玉となるかもしれない。まるで宇宙から見た夜の地球に輝く都市の灯りのようだ。私は何をリセットしなければならないのか、と想像して「いや、守らなければならないのだ。決して抜かれはしないぞ。」と草の心を燃やしてみた。(2017年10月28日@nortan明日の台風22号を心配しながら)

62、コリオリ

自分には理解できない力がある。一つは「コリオリの力」である。台風の風が、北半球では左回りに中心へ吹き込む原因でもある。地球が自転しているので、地球の表面にへばりついている私たちには「見えない力」だ。実験では、回転板上で円周から中心にボールを転がした時の軌道が、外にいる者には直線に見えても板上の者には右に曲がって見えることで確かめられる。陸上競技でトラックを左回りに走るのは、右回りだと知らずのうちにトラックラインを内側に踏みこえてしまうことを避けるためだろうか。それとも、ランナーが前の走者を右から追い越しやすくするためだろうか。どちらにしても、走者には理解できない力が「コリオリの力」である。以前、「このまま、首走者を勝たせていいのですか?」とレースに参戦した自信満々のランナーが失速してしまった。観客の応援の過半数を得る予定であったが、結局スタート地点にも立たなかったとも考えられる。立たないのであれば負けたことにならぬのかもしれないが、世紀の対決を期待していた者には残念である。これもまた、「コリオリの力」が働いたのかもしれない。いや、待て。走らないのであれば、コリオリの力も働かないはずだ。さては、チーム戦であるリレーを独走しようとしたことが原因かもしれない。この力を「(独裁)コリゴリの力」と名づけよう。さあ、大切な日を前に20年ぶりの超巨大台風も近づいてきた。彼女はこの力に気づいているだろうか。(2017年10月21日@nortan東京から帰る新幹線の中で)

61、セレンディピティ

この言葉、そもそもはイギリス人作家の造語で、300年ほどの歴史をもっている。スリランカの三人の王子が、旅の困難を幸運な出会いで切り抜けていく話から造られ、幸運な出会いをセレンディピティという。同じ造語でも「ナウい」は1世代(30年)もたたずに死語と呼ばれるようになったのだから、10世代以上も長生きで幸運な造語である。最近では、転じてネットサーフィンをしながら素晴しいアイデアの材料と出会うこともセレンディピティというようだ。街に出れば、スマホを片手に行き交う人に出会わないことはない時代である。100年後に振り返れば「21世紀らしさ」を象徴する生活スタイルなのだろう。私自身もそうであるが「隣の人は何する人ぞ」と観察してみれば、両手スマホのゲーム族、片手スマホのサーフィン族とチャット族、耳線スマホの音楽族など多族である。10年前なら幾つものポータブル機器をかばんに入れてなければできなかったことが片手サイズでできるのだから、あらためてイノベーションのパワーを実感する。「ブラジルの人、聞こえますかあ~」と地面に叫ばなくても、日本の裏側の人ともリアルタイム動画で繋がることもできるのだから、地球も片手サイズになったのかもしれない。また、良くも悪しくも問題となるネットでの出会い。村から外に出ることもほとんどなかった200年前に比べたら、人の出会いの垣根もデジタル技術が取り払い広げてくれたのだろう。でも…「街を歩きながらスマホで出会いを探していたら、運命の人が目の前を通り過ぎてしまった。」のでは、セレンディピティなのか「去リテ行キティ」なのか分からない。さて、セレンディピティは「常に、好機をのがさないように感性を高めておくこと」と解釈されることもある。そう考えると、街に出たら、スマホをかばんにしまって行き交う人々を観察するのが「ナウい」のかもしれない。(2017年10月21日@nortan東京に向かう新幹線の中で)

60、新「踏み絵」

時に、大自然の中で神秘性を感じたり、神仏像を通して人智を超えた存在を感じたりすることは、私たちにとって「自然な感性」だと思う。種子島に鉄砲と伝来し、広まったキリスト教。大名までも改宗したことで危機意識を高まらせた徳川政府が信者をあぶり出すために行ったのが「踏み絵」。考案したのは、オランダ人だとか日本人だとかの説があるようだが、神仏像(偶像)を大切にする日本人の心を知り、それを巧みに利用したことを考えると、オランダ人説はちがうのかもしれない。そもそも、キリスト教は偶像崇拝を禁止するのだから、それを理解していれば「踏むことをためらう」必要もなかっただろう。理解していても…と言うこともできるかもしれないが、生命大事の観点からは「生の道」を選択すべきだったろうと、現代社会に生きる私たちには理解できない当時の人々の苦悩を想う。さて、踏み絵を拒否するか・受け入れるかが、重い決断であることはいつの時代でも同じようだ。新「踏み絵」では、生き残るために信念を曲げて踏んだ者も踏ませてもらえすらしなかった者もいたようだ。また、「踏むことをためらった者」が「踏んだ者」より、生き残る可能性が高まったとも言われている。「400年の時を隔てると、言葉の意味も変わるものだ。」と感じるのも、これまた「自然な感性」なのだろうか。(2017年10月19日@nortan)

59、ピーチ

ピーチとは桃でなくp値のことである。検定により(両集団に差はない)という帰無仮説を棄却し、本来証明したい対立仮説(差がある)を採択するための確率値である。設定した有意水準αを下回った時に、「両集団に差がある」と結論づけることが慣例となっている。αは0.05とされることが多いが、0.005にすべきという研究もあり、0に近いほど「差がある」ことになる。

最近、川を流れてきたピーチを拾い上げようとするおばあさんのACジャパンのTVコマーシャルがあった。「悪意ある声が、人の心を傷つけている。」とSNS炎上について問いかける内容となっている。しかし、悪意ある声とそうでないとされる声と、両集団に差はあるだろうか。おそらくp値は0.05を下回らないだろう。法律用語では、悪意は「知っていて」善意は「知らずに」と解される。ACジャパンが法律用語として使っているかは判断できないが、「悪意ある声」とはある意味「悪意となることを知らない『善意の声』」だと思う。現代的道徳からして、桃を自分の家に持ち帰ろうとするおばあさんを批判(注意)することは正義でありうるからだ。(勿論、どんな言葉でも投げつけてよい訳ではない。)ACジャパンのメッセージは「想像してみて下さい。あなたの批判、あなたの正義、人の心を傷つけていませんか。」と問いかけられた方がしっくりくる。最初から悪意ある者はほとんどないはずだ。つまり、自らの呟きが人を傷つけるかもしれないと「想像できる者」と「想像しない者」とのちがいがあるのだろう。人間は、チンパンジーと1.23%の遺伝子的差異しかないが、人間には豊かな想像力がある。ゆえに、SNSという社会的コミュニケーションを手に入れた私たちの想像力は、もっと思いやり深い大きなピーチ(桃)にならなければならない。約490万年前にチンパンジーと分岐したヒト。今、ホモサピエンス・イマジネスへ分岐と進化が始まっている。(2017年10月9日@nortan)

58、マクロとミクロ

ミランコ…とは、虫の名前ではない。ミランコビッチ・サイクル。「地軸の傾きの変化や歳差運動・公転軌道の変化がからみあって日射時間が変化する。氷河期をもたらす数万年単位のマクロ周期」である。そこから見えてくるのは、太陽の周囲をバランスのくずれかけた独楽のように周回する地球。自転速度も1日20時間から24時間へと遅くなってきている。その不安定の調和で生じたマクロ季節の間氷期に、幸運にも進化できた人類。先日の震度5の地震も東北大震災の「余振」と発表された。7年は、地球にとってミクロの時間でしかない。水面の薄氷のような地表で、マグマの気紛れに耐えながら、ミクロの生命を繋いでいる私たちには、マクロな思考が必要だと思う。そのミクロの視点をマクロに転換するのに必要なのは、ミランコビッチのような科学の知識と創造力だ。また、それを維持するには平和が必要だ。

先日来、「宣戦布告とみなす。」「今に分かる。」とミクロの世界では舌戦が火花を散らしている。場合によっては、汚染を除去するのにミランコビッチ・サイクルを超えるマクロな期間を要するかもしれない。ミランコビッチが発見した周期間に、幸運にも成長できた私たちの文明を止めてはならない。我が国の新リーダーには、マクロな視野で心を鬼にして尽力してもらいたい。またもや、鬼の己羅夢となったが、リーダーを「平和の鬼」にするには、私たちこそ鬼とならねばならぬのかもしれない。

さて、地球はどう考えているのかと地面を見ても、蟻すら姿を現わさない。もう、虫の知らせがSNSで出回っているのなら、マクロならぬマクラでミクロな耳の穴を塞ごうか。(2017年10月9日@nortan)

57、泣いた赤おに

浜田廣介さんの児童文学。初めてNHK教育放送の人形劇で出会った時には、青鬼の自己犠牲といえる友情に胸が痛くもなり、見た目ばかりで決めつけ赤鬼の本性を理解しようとすらしない人間に憤ったりもした。実に深い寓話だと思う。それから20年以上、あらためて読み返す機会があった。今度は、親友である青鬼の提案を頑として断らない赤鬼と、自己ヒーロー感に酔いしれているかもしれない青鬼に違和感を覚えた。読む者の「写し鏡」と言ってしまえば、人生を重ねた心境の変化かもしれない。人の先頭に立とうとする者は、座右の銘とし、常に心の鬼と対峙していてもらいたいと思う。偶然にも鬼の己羅夢が続いた。ところで、青鬼は何処へ行ったのだろう。(2017年10月8日@nortan)

56、一致団結?

柿太郎が鬼退治に出かけることになった。一人では村人の応援が得られないので、おばあさんの作ってくれたきび団子と交換で犬と猫と猿をお友にすることにした。しかし、最初に声をかけた犬の具申で、猿を排除することになった。「きび(ふ)」と書いた旗を翻し、鬼ヶ島に辿りついた。猿の知恵はかりられなかったが猫の跳躍力で何とか鬼を退治し、金銀財宝と世直し権を村に持ち帰った。その後、財宝の分配をめぐって犬と猫も仲違いしてしまった。一人に戻った柿太郎。それを見ていた猿は、蟹と一緒に柿を食べながら、柿太郎の捨てた旗を囲炉裏の火に焼べた。すると、灰の中から「鬼退治!」と栗が飛び出してきた。

そんなストーリーだったろうか?

今一度、昔話を読み返す必要がある。(2017年10月7日@nortan)

55、必然?考

微生物が膜を形成し単細胞生物となったのは、自らを守る(生きぬく)ための必然か。単細胞生物が役割を分担し協力することで多細胞生物ヘ進化したのは必然か。爆発的に多様化した海中の生物が陸をめざしたのは、海中での生存競争を生きぬくための必然か。陸上の生存競争の頂点に立った恐竜が鳥へと多様化(進化)したのは、隕石衝突で劇的に変化したといわれる環境から絶滅を逃れるための必然か。その後、身体機能では肉食動物に劣るヒトが、知恵と文化と驚異的拡散能力によって生物界(哺乳類)の頂点に立つことができたのは必然か。そのヒトが、科学という信仰で第2の地球を発見し、その惑星へ拡散していくだろうことも必然か。

昨夜、映画『パッセンジャー(ズ)』を鑑賞してきた。娯楽性としての評価は高低あるが、映像としての評価が高いのは納得。そこに、哲学志向として評価を加えた。光速の1/2の速さで60光年先のコロニー(植民惑星)に向かう5000人の移住者たち。120年の冬眠のはずが、30年で目覚めてしまう主人公。送信したSOSのメッセージへの回答が届くのは50年後。再び冬眠に戻ることもできない。1年間の孤独に耐えた主人公の決断と、それによって背負うこととなったもの…その他の巨大生物や宇宙人が登場する娯楽作品より、近未来のリアリティを感じた。SFならずとも「浦島太郎」のような昔話でも、物語の形をかりて哲学(生き方)を問いかけてくる。故に、観賞したヒトの数だけ答えもでるのだろう。21年目の結婚記念日を前に、私は妻への感謝と人類の必然や叶わぬかもしれぬ未来を感じた。「○○ファースト!」と叫ぶのではなく、共存・多様化(非絶滅)の道を歩みたい。(2017年3月26日@nortan)

54、たし算

「ねこが3匹、犬が4匹いました。あわせて何匹ですか? 」3 + 4 = 7匹です。これができないと、小学1年の算数は卒業できない。さて、ねこが鳥になったらどうだろう。7羽?7匹?それとも「3羽&4匹」とでも答えるだろうか?また、ねこが人だったらどうだろうか?『人と犬では、計算できません』が正解だろうか。次に「男の子が3人、女の子が4人。あわせて何人ですか?」答えは「7人」にちがいないが、世界では「3人」という人権後進国(地域)がまだ存在している。肌の色を口実に妻の実家へ金品による代償を求め、妻が抗議すると命をも奪う。こんな事件が6万件以上も起こる人口第2位の国インド。動物の権利を人間と同等に論ずるような先進国では「7(単位なし)」となろうとしているのに、世界の人権意識の差はこんなにも大きい。手前味噌だが、日本語は美しい言葉だと思う反面、数え方の単位が複雑だ。サミットにも参加する先進国として人権意識も先進国だと思っているが、上記インドの現状を知り「単位」に「人権意識」を感じられる心の豊かさを持っていたろうかと自問した。40年前、幼稚園の発表劇は「チビクロサンボ」だったし、小学入学の座席や名簿はまだ男女別だった。体操服や帽子の色・形も違っていた。私の中に鈍感な部分があるかもしれない。さて、欧米から始まった植民地政策が先の世界大戦に繋がり、その反省から「基本的人権を尊重する」と宣言した民主国家が誕生した。我が国もその一員となって70年。さまざまな運動の洗練を経て、世界の人権意識も成熟してきているはずである。しかし、英国では政治家を殺害するような白人至上主義も表出した。3 + 4 = 7 という自然科学には、宇宙の不変真理を感じる一方、単位(言葉)の使い方には人の心の未成長を感じる。「車の中に大人が3人、小人が3人。あわせて何人ですか?」に「小人は3人で2人分だから、5人。定員オーバーではありません。」という計算。「行きの車に大人が1人、飼い犬が1匹。帰りはどうですか?」に「犬を山に捨ててきたから、帰りは大人1人。」という答え。「かごの中にねこが3匹、小鳥が3羽。あわせて?」に「ねこが小鳥を食べたから、3匹!」のとんちなど、身の回りには鈍感であってよいことと、敏感でなければならないことが存在している。(2016年6月18日@nortan)

53、通過点

夢は見るものか・語るものか・歩むものか・変わるものか・つかむものか・託すものか。そもそも「夢」は、眠りに落ちた時に現れる「幻想」でしかなかった。人知を越えた力が、人間に「見させられるもの」だった。私たちは、その内容が正夢とならないよう、また、なるように両手を合わせた。実現しないというネガティブなイメージを感じるのは、それが根底にあるからだろう。それが、明治時代に「Dream」と出会った。「実現させたい目標」というポジティブなイメージが流れこんできた。海外へ活動拠点を移し、4257安打という大記録を打ち立てたイチロー選手。「夢」を「Dream」に見事変換させ続けている。日米合算数ゆえに様々な評価があるのも理解した上で、その先を見すえている。夢は見るものでなく「通過するもの」だと語りかけてくる。さて、Dreamには「自分に実現させる力があるか。努力し続ける力があるか。」の視点が不可欠だ。また、「次の目標地点を設定する力」も大切である。子どもの頃、何度も繰り返し見ていた「念じるだけで空に浮かび、進むために必死にクロールしいる夢」では、前者が欠けているし、そもそもどこへ行こうとしていたのだろうか?偉大な選手が、その名のごとく「1」からはじめて辿り着いた「4257」にも「2」があり「3」があった。次の目標は「50才、5000安打」と聞く。今回の4257は、1億2000万人が「ともに見させてもらった」夢だ。記録を破られた偉大な選手1人に、それを祝う懐の大きさがなくてもいいじゃないか。さて、私の「1」は何なのだろう。今晩、夢に現れるよう両手をあわせてみよう!?(2016年6月18日@nortan)

52、顔か頭か、それとも…

引導を渡すとは、仏の道へ進む決心をつけさせるために説法し「喝!」を入れる仏教用語の転用だ。宗派によっては、喝!も引導を渡すしきたりもないそうだから、渡したくても渡せないこともある。他教の信者なら、なおさらである。某自治体の知事は自ら辞任することになったが、前任者が「自分では決められないのでしょう。(かわいそうだ)」とコメントを発表していたことが印象的だった。また「(猫に)鈴をつける」もよく使われる諺で、よいアイデアだが実際には怖くて誰(鼠)も実行できないことの例えだ。ワンマンで利よりも害が長じてきた社長をおとなしくさせようとする場合に当てはまる。今回は、説法されたのか、鈴をつけられたのか。それにしても、組織のトップが交代する(させられる)ことが多い。プロスポーツの監督、株式会社の代表取締役、○○協会の会長、あらゆる「長」のつく役職、いろいろあっても交代しないのは「長」の手足から伸びた糸を操作している誰か、黒幕などと噂をされる者のようだが、世の中に「長」の数ほど黒幕がいたら大変だ。知らぬ間に、私も誰かの黒幕になっていなければならない。さて「うちの社長は会社の『顔』だ」と言うことがあるが、これは褒め言葉ではないように思う。よくある「1日○○長」なら「顔」でよいが、本来なら頭脳でなけれぱならない。かといって「会社の『頭』だ」とそのまま使えば、ワンマン頑固おやじでどうしようもない印象。顧客や社員の話を広く聴き決断できる存在でなければならないから「うちの社長は、会社の『耳』だ」というのが最大の賞賛になるのかもしれない。でも、社内のいたるところに盗聴マイクが仕込まれていそうで怖い。顔か頭か耳か口か。それとも、よく切(ら)れるから「しっぽ」なのか。兎も角、組織のトップであるほど、皆のために働く公人であるほど「広く見、広く聴き、正しく考え、真実を話し、惜しまず働く思想の持ち主」であってほしい。そうだ!「うちの社長は、会社の『心』だ。」がしっくりくる。いや「会社の『主』」には違いない?(2016年6月14日@nortan)

51、早いもの勝ち?

アキレスと亀のパラドックスは、ハンディキャップをもらって先にスタートした亀をアキレスは絶対に追いこせないというギリシャ時代からある話。「亀のいた地点にアキレスが追いついた時、亀は必ず前に進んでいること」を無限に繰り返すからだ。確かにその通りだが、これが宇宙の真理なら、競争の世界では常に「早いもの勝ち」になってしまう。さて、亀とアキレスの間を無限に分割することができるのだろうか。距離も時間も…この話が実際には成立しないという事実は、無限分割は不可能で、最小単位が存在することを示していると考える。それを便宜上1(単位)とする。0.001でも1(×10の-3乗・単位)、必ず最小単位は「1」である。1が存在するから、1 + 1 = 2 を基本として、2や3や4が生まれる。それが積み重なって億や兆、無限大となる。だから時間も積み重なり、流れる。もし最小単位が「0」ならば、1すらも生まれず「時間は流れない」ということになる。『宇宙の始まりは0の喪失』だったのかもしれない。さて、最小単位は、1000分の1秒かもしれないし、1億分の1秒かもしれないが、確かに時間には最小単位がある。アキレスと亀は、時間階段の上で競争していたのだ。階段だから、ある単位時間後に必ず同じ段に並ぶ。そして、アキレスが追いこしていく。時間は、階段なのだ。この瞬間と次の瞬間は不連続で、階段を上るごとく一瞬に「ぴょん」と移りかわる。例えるなら、空間のパラパラ漫画だ。読者がその手を止めれば時間は止まるのかもしれない。現在、物理学者も「時間は存在しない。」とか「非連続である。」と考えはじめている。読者である神様から見れば、私たちはロボットのように動いているのだろうか。確かに年齢のせいか、膝や足首の動きがかたくなってきた。痛みがあると亀のような動きになる。時間が止まっている間にアキレス腱に潤滑油でも差してもらえないだろうか。うむ…アキレスと亀の話は、こういうことだったのか!?(2016年6月13日@nortan)

50、境目

30年前に結ばれたシェンゲン協定は、EUで国境を越える往来を自由にすることとなった。今ではEU近隣国の参加もある。そしてドイツでは、政策もあって人口に占める移民数は13%を越えた。我が国で当てはめると1500万人となる驚くべき数だ。フランスなども然り。EUの理想は、人ロ移動によって世界をひとつにするかもしれないが、我が国はもっと緩やかに・穏やかにと願う。そして、我が国の素晴らしい文化を…と考えて、自身の「境目」へのこだわりに気づく。そこで『境目』について考えた。例えば、土地の境は「県境」これは歩いて乗り越えられる。時間の境は「過去と未来」これは必然的に流れる。人の境は「私とあなた」これは相手を大切に思うことで通い合う。空と大地の境は「地平線」これは眺めれば存在するが、追いかけても逃げてしまう。いろいろな境目があるものだ。今、EU諸国は自由と排除の天秤、結束が試されている。一つ目の原因は、シリア内戦泥沼化による難民の受け入れ問題。二つ目の原因は、UK(イギリス)のEU脱退問題。前者はEUへの加盟をめざすトルコの働きかけが突破口となる可能性があるが、後者は不安要素が大きいようだ。結果次第では、我が国も大きな影響を受けかねない。先日、伊勢志摩サミット後の記者会見では語られなかったが、おそらく最重要議題だったはずだ。日常では、関心事を芸能ニュースにとられ、大切な「歴史の境目」に立っていることに気づかないでいるのかもしれない。さて、もう一つの境目に気づいた。毎朝目覚めることとベッドに入って目を閉じることの「夢と現実」ではなく、現実や理想の実現から目を背けるかどうかの生き方。日々の生活でも、どう「苦境」という境目を克服すべきか悩みはつきない。時には夢の世界に逃げこみたいこともある。「夢の世界とシェンゲン協定を結べばよいだろうか。それとも、チケットを買って入園ゲートをくぐればよいだろうか。」と境目のない老眼鏡をもつ年齢になった自分にぼやいてみる。(2016年6月12日@nortan)

49、懺悔

懺悔(ざんげ)という言葉を知ったのはバラエティ番組で、水をかぶせられたり桶が落ちてきたりする演出だった。それが、自らの罪の告白で魂の救済を求めるキリスト教の文化だと知ったのは、しばらく経ってアメリカ映画を見るようになってからだ。さて、宗教的な視点は横に置いて、親が子どもに「正直に言いなさい。」と白状させるのも一種の懺悔である。圧力に屈するか親の愛を信じて、子どもが正直に答えるとする。その後の親の姿勢には2通りあるだろう。「よく正直に言えたね。次は正しく行動するんだぞ。」とその反省を受けとめるのがひとつ。そして、もうひとつが「嘘が許されるのなら、神様なんていらない。反省しなさい。」と叱りつけ、お仕置きをする。親の愛情の幅には、こんなにも広い格差がある。自主性の尊重だとか厳しさだとか、親の立場での理由づけはできるが、子の立場からしたらどうだろうか。「うちの親は甘い。正直に言えば何でも許される。」かもしれないし、「うちの親は、結局正直に言っても言わなくても同じだ。」かもしれない。前者の親の言葉に「正直に言って良かった。」後者の親の言葉に「厳しく叱るほど自分のことを大切に思っていてくれたんだ。」と子どもが感動し劇的に成長するというほど『躾(しつけ)』という名の家庭教育は簡単ではない。北海道で親に置き去りにされ行方不明になっていた子が発見されたというニュースに安堵させられるとともに、親という責任について考えさせられた。新聞は「虐待だ。」とか「とても子ども思いの親だった。」とか勝手に水をがぶせているが、親子の関係は神のみぞ見ているのだろう。過去にもどってやり直すことができるのなら、思いっきり叱ってやりたいだとか、思いっきり抱きしめてやりたいだとか、そういう後悔を心の中に積み重ねることで、親も成長させ(躾)られているのだと思う。暗く狭いボックスの中で懺悔するのではなく、子の笑顔が親にとって一番の救済である。無事でよかった。(2016年6月4日@nortan)

48、超言語

「エスペラント」という世界共通言語への取り組みがある。1880年代にロシアの眼科医ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが27才にして創案した人工言語である。彼は6年間もドイツ語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語・英語学習に費し、不規則性や例外が一切ない誰もが学び習得しやすい合理的言語を目指した。例えば、動詞(現在形)は-as、名詞は-o、形容詞は-aで必ず終わるというように。日本では1906年に二葉亭四迷が日本最初のエスペラントの教科書『世界語』を著し、宮澤賢治も「イートハーヴォ(-o)」とエスペラント風の名前を作品世界につけている。日本を含む世界各地にエスペテント協会があって、毎年世界エスペラント大会が開かれるほど人々を惹き付ける言語ではある。もし、エスペラント語を身につけられたら、世界中のエスペラント話者を訪ねながら世界旅行ができるという文化もある。しかし、エスペラントは日本語から遠い言語である。それは、西洋の言語がもとになっているからではなく、やはり日常で使わない言葉だからである。最近、興味をもってエスペラントの本を読んでみた。「I love you.」は「Mi amas vin.」その理念に関心はするものの身にはつきそうになかった。「Mi ne povis lerni Esperanton.(I was not able to learn Esperanto.)」さて、EUが統一言語として採用でもすれば、英語に代わる最大共通語になる可能性も高まるだろうが、独語・仏語・伊語・スペイン語と各国を納得させるのは難しいだろう。思い切ってインターネットでの公用語とするか、ロボット言語として採用しない限り、話者ランキング100位からメダル圏内への浮上は望めない。国際的には、このまま「英語」が主流となっていくことは間違いないだろう。日本も2年後には小学3年から英語学習が始まり、小学5年からは成績教科となる。日本語力が十分育っていないのに…という批判派と、国際競争に勝つための英語力は早くから学ばないと身につかないという推進派との折衷案が、小学1年ではなく小学3年になったのかもしれないと推測するが、いっそのこと3才から学ばせてはどうだろうか。漢字や日本語離れも加速して、200年後には『日本語を小学3年から学ばせるべきだ』という主張もでてくるだろう。そこで、未来のザメンホフになって考えを巡らせてみた。「母語も大切にしながら、皆が話したくなる共通語を作れないものか。」「うむ。それは無理だ。流行の歌にするか? 『言葉に~なら~ない~♪』そうだ! 言葉を発する前のイメージ(脳内思考領域の電気信号)だ。それを取り出し翻訳できるICチップを発明するしかない。言葉を用いず、無線通信で直接相手の脳の思考野にイメージを伝達する方法しかない。」未来のザメンホフは、脳科学者か情報技術者にちがいない。考えたことは一瞬で半径50m以内の相手に伝わる。もはやテレパシーならぬイメージ強制伝達である。思ったことは何でも伝わり放題。人混みの中では、頭の中で無数のテレビ番組を見ているような状態。そこから、自分の話し相手の映像だけを選別する。うむ、うまくエラベラレント!?そもそも……エスペラントとは「希望する者」という意味だそうだ。さて、未来のザメンホフが現実となっても「Mi volas.(I want)」希望するかどうかは保留にしておこう。(2016年5月24日@nortan)

47、キリンの首

①「キリンの首は、どうして長くなったのか。」この発問は、間違っている。それは問いの中に「昔は短かったが」という暗黙の前提が含まれているからだ。そもそも、首の短いキリンが化石として発見されてはいない。また、キリンは水を飲む時、5mの高さから0mまで頭を上下させる。その時に目まいを起こさないように後頭部の毛細血管が発達しているそうだ。同様な形質がオカピーにも見られることから、首の短いキリンはオカピーだったと考えるのも間違いである。短い首から長い首に進化したのなら、その間に中くらいの長さの首のキリンが存在するはずだが、その証拠も発見されていない。キリンは、初めから首が長かったのだ。だとすれば初めの問いは、②「キリンの首は、なぜ長いのか。」となるべきであるが、実は、これもよろしくない。やはり「長いのは、一般的でない(変だ)。」という感情が入ってくるからである。キリンにしてみれば「どうして、人間の首は短くて変なのか。」と思っているにちがいない。結局、初めの問いは③「キリンの首は長い。それが、どうした?」となり、「そんなことは気にしなくてよい。それが、キリンだ。」が答えとなる。人は少なからず、他人と自分を比べて「私は、どうして○○○なのか。」という悩みに明け暮れている。そんな時は、久しぶりに動物園に足を運び、キリン舎の前で尋ねてみよう。5mの高さから「首が短いなんて気にしなくてもいいよ。それが人間なんだから。」と励ましてくれるに違いない。それでも元気が出ない場合は、ゾウ舎の前で……。動物園は、自分を見つめる場所だったと気づかさせられた。(2016年5月22日@nortan)

46、小鳥

「とにかく目標を達成しろ。やり方は、お前たちが考えろ。」これが日本が誇る会社の経営トップの言葉として真実なら、その企業は謝罪会見という絶滅を待つしかなかったのだろう。「競争なき社会は、堕落をもたらす。」「世界を相手に勝ち残る力が必要だ。」と単に競争を煽る風潮。「性能はより便利に、価格はより安く」というプレッシャー。圧倒的な格差を埋める力が自社にないことが分かった時、嘘と誤魔化しが誕生する。それは、「とにかくよい点をとりなさい。さもなければ…」と厳しく言われて、結果を出せなかった子どもがとった行動そのものである。内なる競争意識は大切でも、トップダウンの競争戦略が、結局は高い生産性をうまないという事実は認識されるべきである。何のための競争なのか。『めざすもの』は何なのか。今より世界が凸凹でMade in Japanがブランド(一人勝ち)であった疑似競争社会の頃は、競争を煽る雰囲気だけでも成果は出たのかもしれない。世界がフラットになり本当の競争社会となった今、「めざすのは○○だ。そのために必要だと考えることは何でも相談してほしい。」このように懐の広いビジョンを、トップは示したいものだ。経営者に求められる力は、権力を振りかざす傲慢力ではなく、目標設定力・推進力であり、社員に夢を見させて奮い立たせる力だということがはっきりした。そういう点でApple社のジョブズはカリスマだったのだろう。恐竜は鳥類に進化して、絶滅を生き延びた。我が国の誇るべき企業が鳥へと進化し、再出発してくれることを願う。さて、私は経営者ではないが、自分という会社の「小鳥」になろうと思う。(2016年5月22日@nortan)

45、バべルの塔

漫画家・横山光輝氏の作品『バビル2世』で「コンピューターに守られた」超能力少年が住む塔ではない。そのモデル「旧約聖書の創世記」に登場する巨大な塔である。ノアの洪水の後、生き残った人々はバビロンの地で天にも届かんばかりの塔を造りはじめた。それを見ていた神さまは、団結させぬために人々の言葉を幾つかに分けることにした。結果、人々は互いを理解することができず、塔を放棄して各地に散らばっていった。この記述は、人類が幾つかの異なる言葉を話すようになった原因を説いている。「おー、神様。何てことを。今、外国語の学習に大変な苦労をするのは、そうだからなのですね。」しかし、人類は言葉の壁を乗り越えようとしている。インターネット・翻訳ソフトなどの情報技術を活用して。それだけでなく、人類の知はデータベースとしてまとめられつつある。何時でも何処からでも瞬時にその情報にアクセスする手段が『脳内バイオチップ』のようなものとして発明されれば、学ぶことからも解放されるるだろう。つまり、ネットワーク上のデータベースに問い合わせることで瞬時に答えを手に入れることができるようになる。人類は『集団意識』をもち、難しい判断は人類No.1棋士を破ったような優れた人工知能か、その道の達人サイトが脳間ネットワークを通じてアドバイスしてくれるようになるだろう。試験で「記憶力の競争」をする必要もなくなる。何と素晴しいことであろうか。人類は再び宇宙(そら)にむかって巨大な塔を築きはじめることだってできる、と。ここまで想像して「コンピューターに守られて…いる?いない?支配されている?」と背中にぞくっとするものを感じた。集団思考生物となった人類は、失敗や間違いが減る一方、自分で考えたり・想像したり・思いやったりする個人思考は退化するかもしれない。「おーー、神様。外国語を学ぶ苦労は、そのままに…子どもの頃、超能力で相手の心まで読みとってしまうバビル2世に憧れたけれど、今は、時間をかけて辞書を引きながら外国語の意味を想像したり、相手の気持ちを『思いやったりする』平凡な人間であることの方が、すごい超能力のように思えてきました。」(2016年5月14日@nortan)

44、ナポレオン考

フランス革命が生み出したのが「自由・平等・博愛とナポレオン」であった。ナポレオンは絶大な人気を背景に『皇帝』にまでのぼりつめた。フランスに勝利をもたらし続けることを約束して。「我輩に不可能はない。」は作り話だそうだが、結局は国民が作り出した英雄像に載せられただけなのかもしれない。昭和の時代、勝って当たり前のプレッシヤーを背負っていたプロスポーツチームの監督やプロ格闘家を連想してしまう。最近ではそのプレッシャーに負けてか、自らの選手生命や過去の栄光を無駄にしてしまったニュースも幾つかあった。人間はどんなに才能があっても『世間(評価)』には弱いものだとつくづく思う。その後のナポレオンは、反乱による退位とエルバ島への左遷、そして脱出、百日天下といわれる復活、ワーテルローの戦いでの決定的な敗戦を経て孤島セントヘレナへ幽閉、と劇的な人生を送る。ヨーロッパから遠く離れた孤島での生活は比較的自由ではあったようだが、5年間何を想い続けて最期を迎えたのだろうか。全てを自らの宿命(評価)と受け入れていたならば、真の英雄であったと言えるが…ちなみに英雄最期の言葉は、最初の妻「ジョゼフィーヌ」だったそうだ。それが真実であるなら、人間にとって最後に残る大切なものは『愛し愛された人』なのだとロマンチックに思う。ナポレオンの評価は、「英雄」から一連のナポレオン戦争で200万近くの死者を出した「悪魔」までと幅広い。現在フランスでは、豚にナポレオンと名付けることを禁止されているというから、その評価の複雑さがうかがえる。一方、今も正式なフランス民法であり、世界各国の民法に影響を与えた『ナポレオン法典』に、そのことは記してあったのだろうかと気になる。さて、どの組織でもトップに立つと自らの決断を推し進めることがある。『評価は、後世(歴史)が決める!』と意気込んでみるが、ペットに自分の名前をつけられた時、喜ぶべきか憂うべきか。それくらいは後世を待たず、自分で決めておきたいものである。思い通りにならないとすぐに「むかつく」「腹が立つ」とショートメッセージで繋がりあう世の中に、トッフ°であるなら評価など気にせずに『我が名を動物につけることを認める』と、せめて就業規則にでも書いておこうか。(2016年5月12日@nortan)

43、バンガロール?

遅ればせながら、『フラット化する世界(トーマス・フリードマン)』を読んだ。グローバリゼーション1.0は「コロンブスによってはじまった旧世界と新世界を統一しようとする物理(国家)的な力」、グローバリゼーション2.0は「1800年代から2000年まで続いた多国籍企業による市場(貿易)の力」、グローバリゼーション3.0は今動きはじめた「情報テクノロジーによる個人の力」であると説いている。確かに、世界のサイズは狭く・近くなったと思う。 10数年前のグローバリゼーション2.0の末期、「下請会社は、人件費の安い国に移転する親会社についていくか、日本に残って苦しい中で頑張るかの選択なんや。」と、ある父親の悩みを聞いたことを思いだした。「今は中国じゃなく、東南アジアなんや。」とも聞いた。著者は、インドのバンガロールを例にあげて、アウトソーシング(部署の外注化)によって、ソフト面でもフラット化が進んでいるという。しかし、フラット(平ら)であろうか?企業である以上、利益を命題に経営する。例えるなら、傾いた床に落としたコインが、位置エネルギーを常に運動エネルギーに変換しながら低地に向かって転がり落ちることに似ている。傾いた床が「生活水準格差」であり、エネルギーが「利益」、高地が「先進国」で、低地が「途上国」だ。この傾きによって、70年前我が国は高度経済成長の道を歩き始め、先進国(高地)の仲間入りを果たした。世界がフラットでなかったから、つかめたチャンスであったと思う。現在の企業の海外移転(多国籍化)は「傾きが急になったために、企業自体も転げ落ちた状況」なのではないだろうか。もしフラットであれば、先の父親の知人も、国内で下請けを続けられたはずなのだ。また著者は、政治は国の利益優先という反グローバル化圧力が働く。企業も大企業になるほど、柔軟性が落ちる。これからは、テクノロジーと英語力(求められる言語力)を手に入れた『個人』が世界をフラットにするグローバリゼーション3.0の時代だという。…さて、納得させられる点も疑問が湧く点もあったのは、私の思考がフラットではなく凸凹だからかもしれないと駄洒落た頭の中で、バンガロールがこだまして「(日本)ガンバローネ」と聞こえてきた。(2016年5月10日@nortan)

42、34年前に

我が国のこどもの数(15才未満)が、34年連続の減少となったという統計が出た。しかし、34年前の子どもは今の大人。子育て世代の減少も34年遅れで統計上の数になるのだから、減少の始まった34年前に予想できたことである。「現在の合計特殊出生率が、1.4を下まわったこと」を問題にするが、これもまた然り。先進国にとって、豊かさとセットの人口減少は、とうに織り込み済である。一方、アフリカ諸国(5.0以上、最高は7.0)や人口第2位のインド(2.6)の出生率が高いことは対称的で、人口維持のための『2.08』を大きく上まわっている。2050年には、世界人口は100億人を越えると言われる。その時の日本の人口は既に1億人を下回わり、『もし世界が100人の村だったら、日本人は1人』ということになる。さて、超少子化と超高齢化の最先端をいく我が国にとっては、そのたった1人の住人は確率的にも高齢者ということになる。「わしは、まだまだ若い者には負けん!」と頑固な年寄りであるか、「昔は、○○じゃったのう。」と思い出話好きな年寄りであるか、最先端のテクノロジーを身体にまとったスーパー年寄りであるか。34年後(2050年)の日本人は、どんな老人となっているか? そして何よりも、他99人の住人の尊敬を受けるに値する日本人であるか。その鍵をにぎっているのは、『34年前の今』なのかもしれない。(2015年5月9日:こどもの日に思う@nortan)

41、素人ひも理論

ちょっとややこしい想像をしてみた。空間をX(横)、Y(縦)、Z(高さ)の3つの座軸で表現できるゆえに、私たちの空間は3次元。紙のように平面で、XとYの2軸しかない世界があれば、そこに住む生き物は2次元空間生物である。2次元生物であるAさんは、友だちBさんを見た時にどのように見れるのだろうか?横を向いた時に、Bさんの横顔が直線として見えるはずである。Bさんの正面から顔を見るために、前に行こうったって、高さ(Z軸)がない。重なることすらできない。すなわち、1次元の直線にしか見ることができないのではないか。漫画を2次元の楽しみとして見られるのは、プラス1次元の世界・3次元生物である私たちだからである。ここに『○次元の世界では、対象を○- 1次元でしか認識できない。』と定義する。私たちの世界に当てはめてみると、Bさんを見た時にBさんを2次元である写真のようにしか認識できないということになる。しかし、ちょっと待ってほしい。Bさんにぐるりと360度回ってもらえば、3次元のBさんを認識することができるではないか!そこで疑問が湧いてきた。導かれた結論は『3次元を認識できるということは、私たちは4次元世界の生き物である。』ならば、もう1つの軸はどこに隠されているのだろうか? ひも理論と呼ばれ注目される物理理論では、「最低でも、私たちの世界は11次元で、残りの次元は小さく折りたたまれていて見ることができない。」と説明する。「さすが、物理学者の考えることには敵わない。」と、ここで撤退してもよいが、あえてやめる。X、Y、Zも原点Oを通っているのだから、折りたたまれているのでは説明できなく、原点Oを通っているはずだと素人反論してみる。「ならば、どこにある?」と問われそうなので、「私たちには見えないのだ。」と答えてみる。その理由を「遠いところにあるからだ。」と説明する。つけ加えて、「残りの1つはT軸で、4次元空間がはじまった時に存在し、今となっては見えない。つまり、T軸は『時間の流れ』なのだ。」と素人博士ぶってみる。「X、Y、Zの軸座標をもった電車が、T軸という線路座標の上を、原点0を始点にどこかに向かって走っている。私たちは電車の中にいる乗客なのでT軸は見ることができないのだ。」と例えてみる。さらに「未来からT軸を原点に向かって反対に進む電車(別の宇宙)もあるかもしれない。もし、駅に降りて乗り換えることができたら過去にも戻れるだろう。」と想像してみる。私に証明する術や、誤りに気づく能力はない。本棚に飾ってある『超弦理論・M理論』を理解したいと夢見るが、凡人として想像するだけなら自由で楽しい。「ひょっとしたら、T軸は山の手線で……」(2016年5月3日@nortan)

40、ハリエット・タブマン

人権活動家として知っていたのは、米国ではキング牧師やマルコムX、我が国では西光万吉である。ハリエットが米国2020年の新札の肖像画になるというニュースを知った時、正直だれ?の初感であった。女性として黒人として、そして何よりも黒人奴隷解放のために地下鉄道(秘密結社)の車挙として命の危険も顧みずに行動した活動家として評価されての決定。南部黒人奴隷の子として生を受け、地主の死を契機に北部へ脱出し、以後幾度も南部へ潜入して救出活動を続けた。救出には、黒人にしか分からぬメッセージを歌として用いた。その回数や救出人数には諸説あるが、南政府から懸賞金が懸けられるほどであった。1913年に93歳で臨終の際には、助けられた人々や仲間が集まり「スイング・ロウ・スウィート・チャリオット(戦闘馬車)」かって脱出の暗号とされた歌を歌った。ここまで調べて、我が国の2000円札は、どうなった?…1年前、銀行の両替で2000円札を注文することができたので、「ある所にはあるんだ」と分かった。沖縄を象徴画とし、平和と人権の大切さを未来へと伝える心、それと共にミレニアム(西暦2000年)を記念して政府提案として発行された法定紙幣。米国民全てがハリエットの名を知っていたとは思わないし、熱しやすくも冷めやすかったり、光がある反面に深い闇もあるのが、かの国だと思う。しかし、ハリエットの肖像画採用は草の根運動の成果だったそうだ。その点で、米国の20$紙幣は流通し続けるだろうが、我が国の新2000円札には課題があったのかもしれない。あらためて財布の中を確かめた。やはり2000円札はなかったが、その思いだけは心の中にしまっておきたい。(2016年5月3日@nortan)

39、一方的な貢献

30年ほど前から、アメリカ東海岸のカブトガニは年に60万匹ほど捕獲され、30%の血液を抜き取られて海に戻されている。3%ほどの個体は、この強制的な献血で命を落とすという統計も出ているが、「人類のために貢献できている。」と一方的評価を与えている。青色の血液が、ワクチンの細菌毒性検査試験として45分ほどで結果を出すのだ。それまでは大量に飼育したウサギの中から健康状態のよい2~3匹に、細菌が含まれると予想される溶液を注射し、体温が上昇したら汚染されたワクチンだと1日以上かけて判断していたそうだから、素晴しい発見である。そして、3億年も前の古生代から地球環境の変化にも耐え『生きた化石』と呼ばれるカブトガニは、食料として質と量、味の魅力にも欠けたことも理由として絶滅請負人である人類の時代にさえ絶滅しなかったのに、ウサギなどの実験動物に多少の安堵感を与えつつ、今絶滅に向かい始めているのかもしれない。ちなみに、瀬戸内海に生息する日本カブトガニは干潟の減少等を理由に絶滅危惧種である。また、同様に生きた化石であるゴキブリは国立虫類環境研究所によると1兆匹、人類の200倍の個体数だそうだ。何かしら人類に貢献できる潜在能力を発見しない限り、絶滅への道は遠い。いや、人類の生息環境がゴキブリに貢献しているのかも…と考えて、「400万年前から、人間はゴキブリのカブトガニであった。1人で200匹に貢献しているとは、さすが人間!」と一方的に評価してみた。(2016年5月3日@nortan)

38、水の記憶

「僕は 風に立つライオンでありたい。」は、さだまさし『風に立つライオン』のフレーズ。「暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく。」は中島みゆき『ファイト!』のフレーズ。両曲とも、くじけそうな自分の心への応援歌として聴き、口ずさむ。私にとっての名曲である。百獣の王のたてがみは風にむかうからこそ立派になびくのであると納得して、魚のうろこについて考えた。魚は陸上の脊椎動物の祖先である。海から川にのぼり、両生類・ハ虫類・(恐竜)鳥類、ホ乳類へと進化を遂げた。そこに魚の意思はあったのか?どうして陸をめざしたのか?天敵から身を守るための進化・適者生存たったといえるのかもしれないが、単純に『うろこの向きが原因』と考えた。魚のうろこは後ろ向きについている。ゆえに、魚となった時点で『流れに逆らわなければならない宿命だった』のだ。もし水の流れに逆わなければ、うろこは逆立って剥がれ落ちてボロボロになってしまう。地球の主役は、数々の絶滅と誕生を繰り返してきた動物ではなく、誕生してから天と地の間・陸と海の間を絶えることなく循環してきた『水』なのかもしれない。私たちの身体に入った水も、私たちの身体を循環して、私たちの記憶とともに大地にもどっていくのだろう。時には、紡錘形のうろことなって目から流れ落ちる水もある。人間も時の流れに逆って生きる宿命。顔も前向きについている。「前へ!」辛い出来事を乗り越える力もあるはずだ。「涙の数だけ強くなれるよ。アスファルトに咲く花のように。」は岡本真夜の『TOMORROW』のフレーズ。あなたの目からこぼれ落ちた涙も、名曲とともに水の記憶となって大地を循環し、いつかみんなの記憶となる。一人じゃない。(2016年5月1日@nortan)

37、そんなに考えなくても

IBMの人工知能「ディープ・ブルー」が人間に勝利したのは1996年、チェスの対局である。それから20年、チェスよりも難しいとされる囲碁でGoogle系列人工知能「AlphaGo」が人類に勝利した。そもそも、機械に人間との対局をさせようと考えたのは1840年代、イギリスの数学者チャールズ・バベッジ「コンピュータの父」だそうだ。アルゴリズムを用いて膨大な組み合わせを機械的に処理しようとした。それから150年、アルゴリズムを作成するのは機械(ハード面)からブログラム(ソフト面)へと移った。今やスマートフォンなどで、私たちを楽しませてくれる様々なゲームが開発されている。人工知能は、人類No.1であるチャンピオンに勝つためには、膨大なデータを瞬時に処理し判断しなければならない。人工知能は1秒間に2億手も読むそうである。子どもの頃、将棋を教わった時「プロは20手先まで読む。」と聞いて、自分はプロには到底なれないと感じたものだが、今や『私は、人工知能(AI)には到底なれない。」と訳の分からないことを言わなければならない時代となった。人工知能と対局したプロ棋士も、1勝するごとに2万ドル、3勝して勝つと100万ドルが賞金として渡されることになっていたというから、真剣勝負だったろうし、「私は、ソフト(プログラム)にはなれない。」とハード(真剣)に悔しかったことだろう。AlphaGoへの賞金100万ドルは、国連UNⅠCEF等に寄付されたと言う。人類No.1はチェス・囲碁と連敗したが、将棋は相手の駒を自駒として差したり敵陣で成ったりするためアルゴリズムがより複雑で、人工知能の完全勝利はもう少し先になるだろうという点が、少しばかりの救いである。ところで、AlphaGoは対局を楽しんでいたのだろうか?「Did you enjoy the game of IGO ?」とE-mailで尋ねてみるとする。彼?は、私の次手を2億ほど計算するのだろうが、私の反応は唯1つ「楽しめるはずがない。」である。(2016年5月1日@nortan)

36、時間が流れるのは

ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症した若きホーキングが、恋人や研究仲間との出会いに支えられながら博士論文を作り上げていく半生の映画に出会った。ケンブリッジ大学で発表された論文の計算ミスを指摘することで自身の才能を認めさせようとするホーキングは「他人の批判に才能を使うな。自分のオリジナルに才能を使え。」と厳しくたしなめられる。宣告された余命の2年で博士論文を完成させるという強い意志。「自分の時間は限られている。」そして、ホーキングは「アインシュタインを美しくした。」と物理学者から評価される「宇宙のはじまりに関する博士論文」を完成させる。結果、2人は20世紀を代表する偉人となった。現在、余命宣告にも打ち勝ち60歳を越えた博士は、TEDのプレゼンテーションで人類の未来を「我々は、宇宙に出ていく宿命にある。もし、宇宙に生命が我々しか存在しないのならば、それは何としても成し遂げなければならない。だからこそ、私は有人宇宙探索を『推進する』」と語った。博士は、また「私は幸せであった。ALSであったゆえに、研究に集中することができた。」と語った。その深い溜息には言葉をこえた思いも感じられずにはいられないが、何とポジティブシンキングであろうか。さて、『時間はどうして流れるのか』これは、私には解決できないテーマであるが、博士の生きざまと言葉から答えが見えたような気がする。人は誰でも何かを推進する使命をもっていると考えよう。オリジナルであれ伝統であれ。たとえ明日の予定に追われることに精一杯で、何を推進しているのか気づかなくても。この『推進意識』こそが時間を流しているのだろう。さあ、推進するぞ。ところで、私は何を美しくしているのだろうか?そういえば、テレビを見ている時、外国人男性の言葉を聞いて「あまり言ってくれないね。」と妻からの言葉を思い出した。「今日も美しいよ。」の一言。日本人として今だに照れてしまうが、もっと妻を推進していかなければと反省させられる。(2016年4月30日@nortan)

35、空気や水のように

1995年の阪神淡路大震災、倒壊した高速道路や燃えつづける神戸の街の映像に衝撃を受ける中、職場で「ボランティアとして神戸の避難所に行こうという人はないか?」「どんなことをすればいいのですか?」「与えられる仕事は、水もなくトイレが大変なので、バケツで水を運んでのトイレ掃除だ。」と言われたことを思い出す。その時の職責を放り出して現地のトイレ掃除に行くべきかの選択を戸惑った。その後、新潟大震災、東北大震災でも襲い来る津波の衝撃的映像、そして今回の熊本大震災。被災地の人々が苦しみ助けを求められていることに違いはない。一方、この20年間にボランティアが何をすべきか、私たちの意識も高まってきたように思う。「ボランティアの現地への入場制限を行います。宿泊・食料・水・移動手段等は自らまかなって下さい。」「テレビ局等は、報道の競い合いのために被災者の心に土足で入りこまないでほしい。」「有名芸能人がお忍びで炊き出しに来てくれて嬉しかった。元気をもらった。」「当コンビニでのみなさんからの募金は2億円となり、両県に寄付しました。ありがとうございました。」「有名クリニックの社長が自家用ヘリコプターで東京から物資を運びこんだ。」「千羽鶴の気持ちは嬉しいが、保管場所がないので現地には送らないでほしい。」「自衛官を批判するツイートをした有名人がいるが、発生当初から必死に頑張っているのを知らないのか。」これらニュースやネット上に流れる言葉から、私にできるボランティアとは『空気や水のように目立たず当然に、我がことのように思い、社会生活や家庭生活も維持しながら、身の丈でできることを考え実行すること』だと気づかされる。政治家なら緊急の施策の実施、医薬品製造業ならそれらの搬送、避難所の職員なら避難所の運営。小中学年ならお小遣いの一部を募金箱へ、トイレットペーパーやペットボトルの水が現地へ多く流れるように購入を控えることだって立派なボランティアにちがいない。20年来の戸惑いは「日々不気味さを増し、来たる巨大地震」で居住地が現地となった時に解消するのかもしれない。その時、名前も知らされない多くの人たちの『空気や水のような善意』をしっかり受けとめられるよう、心の受信器を研ぎ澄ませておこうと思う。さて、阪神淡路が21年前・新潟が12年前・東北が5年前・熊本が今年。4年後の2020年には、それぞれ25年前(5の2乗)・16年前(4の2乗)・9年前(3の2乗)・4年前(2の2乗)となることに気づいた。単なる数字のことだが、次の大震災は東京オリンピックに向けて3年後、そしてその1年後…と恐れる。心を研ぎ澄まそうと言っておきながらも感が鈍っていることと、被災地の復興を願い、立ち寄ったコンビニの募金箱をチャリンと鳴らした。(2016年4月30日@nortan)

34、アゲハチョウ

「卯月晴れの清々しい朝。1歩先の地面に、黄と黒のアケハ蝶が落ちていた。まだ小さく、新しい羽を閉じて横たわっていた。何気なく、それをつまみ拾って歩道脇の草の上にそうっとのせてやった。後ろを歩いていた子どもが『何を拾ったの?』と尋ねてきた。そのままを答えてやった。」何かいいことをした気になるかもしれないが、蝶でなく蛾だったら同じことをしただろうか。「G」と命名され嫌われ者のゴキブリだったらどうだろうか。と考えた。ちなみに、蝶と蛾は系統分類学的には明確に分けられず、蛾の一部を蝶と言っているにすぎない。全て蛾であり、「美しい」と思う者に「チョウ」という別名を与えているに近い。もちろん、Gも昆虫の一部であり、人間が「気味悪い」と思うゆえに、一般的に昆虫採集の対象とならない。考え方によっては、人類に変に好かれない道を選んだ昆虫といえるが、地球上では人類の方が随分後生まれである。さて、私たち21世紀の人類は過去の学びからヒューマン・ライツ=人権という考えを確立し大切にしている。人間の権利を人種・老若男女・信条・肌の色等で区別しない思想と理解する。先日、アゲハ蝶をつまみあげた話をしたら、一部「チョウとガを区別できないなんて、…」という皮肉として返ってきたりもした。「そもそも、人権は人でなければ関係ない。」そんなことのようだ。そもそも『思想』のあやうさを感じずにはいられない。蝶と蛾、人間と動物、好きと嫌い、なかまと他人。これら全ての判断基準が人間次第なのだ。一度Gのラベリングを与えれば、過去の過ちを繰り返すこともためらわないかもしれない。SF映画などで、一撃で倒される悪役生物の外見は、私たちの「好きなもの」基準からはずれてメイキングされている。地球が存亡の危機に直面した時、もし救生主となる知的宇宙生物が宇宙船で現れ、Gの外見をまとっていたら…。最近は、西洋から動物の権利も人間と同様に考える思想的広がりもあるようだが、未来の私たちの思想はどこまで成長できるのか。勝手に深刻になりすぎたので、ここで「Gのみぞ知る」と駄洒落て、神の姿は…と思いをめぐらせる。(2016年4月24日@nortan)

33、新しい時を刻む

善と悪、男と女、大人と子ども、陰と陽、できるとできない、プラスとマイナス。数え上げるときりがない人間得意の2択思考である。1日も12時間ずつ午前と午後に分ける。「自分たちが昼に活動している時、裏側の人は夜だから眠りについている。」ということだろう…いや、労働時間は基本8時間。だから、働いているのが8時間、睡眠が8時間、残り自由選択(クリエイティブ)?が8時間。『地球も、1日を8時間ずつ3等分して回っている。』と考えたらどうか。例えば、1日の出発を日本(JP)とする。8時間遅れで同時刻をむかえるのがフランスのパリ(E U)である。さらに、8時間遅れでアメリカの中部デンバー(US)となる。そして、8時間で日本に戻る。ざっくり考えると、地球の活動時間は、日本(アジア)が労働時間の時、EU(ヨーロツハ°)が睡眠時間、US(アメリカ)がクリエイティブ時間。世界株取引市場とも一致する。pmとam分けやめ、8~16時をwt(8 working time)、16~24時をct(8 creative time)、0~8時をst(8 sleep time)とする。10:24 amは 2:24 wtで、8:00 wtになったら残業をせずに 0:00 ctに切りかえる。残業をによる疲労感に悩む私たちにとってナイスな提案である。LGBT、モラトリアム、グレーゾーン、2乗してマイナスになる虚数の存在など、世界も様々なことが2択思考では解決できないことに気づきはじめている。日本は昔(いにしえ)より「どちらともいえないもの(中道)」に寛容であった。グー・チョキ・パーとどれも強いとする3巴も勝者をどちらかに決めつけない相互尊重文化である。世界中の時計が 8st → 8wt → 8ct 表示になったら、平和の秒針も時を刻み始めるかもしれないと、成人の日に想像してみる。(2016年1月11日@nortan)

32、太陰暦

紀元前4000年のエジプト、夜星で一等明るい星シリウスが決まった位置に見えると、ナイル川が氾濫し肥沃な大地をもたらした。その期間365日を1年と定めてから使われてきた太陽暦。1582年には、ローマ教皇グレゴリウスが改良し、暦法の主流となってきた。400年間に97の閏年を挿入する。1年を365日+ 97/400 = 365.2425 日と計算し、誤差が+26.821秒という正確さが魅力である。日本は、1873(明治6)年から太陽暦を採用した。当初、太陰暦からの変暦による戸惑いもあったと聞くが、それから143年、デジタル時代となった今ではなくてはならない存在だ。しかし「閏(うるう)」なくして正確さを保てない。閏日を入れないと750年後には夏冬逆転するし、閏秒を入れないと12万年後には昼夜逆転してしまうそうだ。地球の自転は確実に遅くなっているようだし、公転軌道は10万年周期で変動するそうだ。誤差が1億年に1秒というセシウム原子時計がどんなに正確にな1秒を刻んでも、1日や1年の長さを実際に決めている地球の動きのほうが一定しない。そして昨年の7月のように、突然の閏秒の挿入でコンピュータシステム誤作動の原因となってしまう。元日、初日の出を前に南の空に下弦前の月と木星を拝んだ。木星は暁とともに見えなくなったが、年頭の大イベントを前に月が決まり悪そうに残っていた。「旧暦なら元日は、新月なんですけど…」と呟いているようで、自然現象あっての時間なんだと思った。日頃、1秒多いとか少ないとか時間に追われているような気がする。そこで、あまり見上げることのなかった月の表情(満ち欠け)を再評価して、旧暦(太陽太陰暦)を復活させてはどうだろうか。月は時に夜も照らしてくれるし、4年に1度の閏月で1月分増えれば、懐も閏(うる王)って、肥沃な大地をもたらすかもしれない。(2016年1月3日@nortan)

31、伊勢志摩

13世紀末、東洋の姿をヨーロッパに伝えることとなったヴェネツィアの商人で冒険家のマルコ・ポーロ。『東方見聞録』は、参加した戦争で捕らえられていた時に口述で記録された小さな冊子だった。その後、出版されるたびに伝聞されたことが面白く盛り込まれ、初版の何倍もの内容に膨れ上がった。150年後の大航海時代、もはや初版とは別物となったであろう新?偽?見聞録を何度も読み、黄金の国ジパングを目指したコロンブス。偶然、アメリカ大陸を発見し、現代へとつながる。東洋から見えば、見聞録はアジアへの植民地時代を聞くことになる。日本史の視点で考えれば、平泉の金色堂の「噂」が種子島への鉄砲の伝来となり織田信長の戦力を高め、秀吉の天下統一ヘ。その後、幕府の鎖国政策が植民地化を防いだが、一方西洋との間に文明力の差が開いた。200年後、第1の東洋の奇跡「明治維新」で国力の向上に成功したが、50年に渡る戦争の時代の結末として、コロンブスが道を開いたアメリカ合衆国と衝突し、敗戦。一面の焼け野原となった国土から、第2の東洋の奇跡「高度経済成長」を経て、今日へとつながる。歴史に「もし…」はないというが、マルコ・ポーロが実在しなかったのなら…と考えてしまう。遅かれ早かれ、日本と西洋との出会いは必然だったはずだ。今年は伊勢志摩で先進国首脳会議サミットが開かれる。会場となる賢島は、私にとっても思い出の地である。マルコの時代とは違い、世界は狭く・近くなった。200年もかけずとも、国と国とが親交を結び協力し合うことができる。伊勢は、平和を願う日本の中心地であるともいえる。かって辺境の地であったジパングが、洞爺湖に続き、再び世界平和発信の地となることを期待する。(2016年1月2日@nortan)

30、108

108とは、1^1 × 2^2 × 3^3 で表せる数、正五角形の内角、野球の硬式球の縫い目の数であるが、煩悩の数となるとややこしい。調べると32の食淫欲 + 28の物欲 +28の心欲 + 10の修惑(修行することで打ち消せる煩悩) + 10纏(〔てん〕善に向かうのをまと(纏)わりついて妨げる煩悩)となるらしいが、ブッダの説いた根本仏教では大きく3つの煩悩(三毒)と考えるらしい。「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」。貪は万物を必要以上に求める欲望、瞋は怒りの心、癡は真理に対する無知。これならシンプルで理解しやすい。ケン・シーガルがその著作『Think Simple』でApple社で働いた経験として、S・ジョブズの思考と成功を「シンプルであることは、複雑であることよりも難しい。」ことの厳しいまでの追求と実践だと語っていたことを思い出した。物ごとが成熟すると様々なことが具体化かつ複雑化してくるが、根本を理解していないと、修行を積まない私たちには覚えるだけのマニュアルになってしまうのだろう。ファーストフード店で40品ほど注文した有名人が「店内で食べられますか。それとも、お持ち帰りですか。」と尋ねられて怒りをぶちまけたという笑い話も、マニュアルありきの弊害なのだろうと瞋(じん)とくる。根本とはSimpleで強いものなのだ。新年が始まった。年末の除夜の鐘に3っの音色を感じとれるよう「とん!じん!ち!」の煩悩を少しでも無くすよう日々の修行を大切にしよう、と思いながら「今年は1日多いんだから、明日からにしよう。」と考える。「怠ける」という欲に負けた。まだまだ、私に修行は無理なようだ。(2016年1月1日@nortan)

29、日本文化

年の瀬、久しぶりにテレビ番組に時の流れを忘れて見入った。日本ブームにあやかって日本食を作ったり武道を教えたりしているが、どこか変である。それで、第一線の達人たちが正しく伝えに行く。サプライズの演出もあって、思いこみと本物の違いを知った時の表情が痛快であった。こんなにもニセ日本文化が多いものかと思うと同時に、正しく知らないのだから似非(えせ)になるのも仕方がない、正しく伝える努力を怠っていたとも反省させられた。日本食にアヤカロウとした外国人は、インターネットから情報を集めたという。現在インターネット網が世界中に張り巡らされて、1秒あたり21000000日分の新聞と等しい情報*が流れているにもかかわらず、その情報を判断し理解しているのは1人ひとりなのだ。next情報社会では、正しい情報であるか正しく伝わったかをチェックする厳しいシステムが必須になるかもしれないと思ったが、そこまでいったら間違いや「似非」と同時に、個性や「らしさ」もなくなるのだろうか?…「1人」が単なる数字の「1」と等しくなった時の恐しさを感じる。私の「1人」とあなたの「1人」とは違うから、「1人+ 1人 = 2人」とは計算できなし、人数は同じでも様々な個性の集団がうまれる。海外の変な寿司屋のようにマイナス要因になるかもしれないが、時には数を上回る実力集団にもなる。私たちは現在、インター・ネットワークで繋がることで、そんな社会を実現しようとしている。そう考えると似非(えせ)文化も面白いし、日本文化を愛してくれること自体感謝である。除夜の鐘の響きに「チェック、チェック」の厳しさではなく「ボオーォ~ン~」と似非や失敗をも愛嬌で包み込む、寛容の心を感じよう。(2015年12月30日@nortan)
*世界でインターネットの1年間情報量 667E(エクサ)B =667000P(ペタ)B =667000000T(テラ)B らしい。
1年 =365日 ×24時間 ×60分 ×60秒 =31536000秒 、 667000000TB ÷31536000秒 ≒ 21TB/秒 =21000000M(メガ)B/秒
1 MB=新聞1日分の情報量 

28、月の大きさ

夕方、ビルの横に昇った大きな月を、スマホのカメラは小さな光にしか写しとれない。月は地球から約38万km離れたところにある。といっても直径は約3000km(地球の1/4でオーストラリア大陸ほど)もある。科学的には、楕円軌道で遠近点距離差が約5万kmの差ができ、実際見える大きさに14%ほどの違いが生じる。それでも、地球からは5円玉の穴におさまる大きさだそうだ。いや、ビルに並ぶともっと大きく見える!!私たちの眼が月に対して望遠機能を働かせているのだろうか。それとも、錯覚の科学で話題になった「見えないゴリラ」と同様に「見えすぎる月」も錯覚なのだろうか。「人間は進化の過程で暗闇に光る円いもの(獣たちの目)に気づく能力を発達させた。だから、月を必要として大きく認識している。」という説がある。地平線近くで大きく見えるが、高く昇るにつれ小さく見えるのは、獣が地面に身を潜めることに関係していそうだ。でも、獣なら光る点は2つだと疑問に思っていたら…「昔、月は2つあった。」という新説が出された。コンピュータのシェミレーションによって、原始の地球に月のもととなる隕石が衝突した後、飛び散ったかけらを集めた大小2つの月ができることが発見された。その後、小さい月が大きい月にゆっくりと衝突して現在の月となったという。月の裏側が表側と違う地形である理由もそれで説明できるようだ。地球上に生命が誕生する前の出来事だが、夜空を見上げて月が2つに見える時は、かすみ眼や乱視のせいではなく、遠い昔の空を夢見ているのかもしれない。さて、月やゴリラに限らず、人は自らの都合のいいように物ごとを見ていることは間違いなさそうだ。怖いものや魅力を感じるものに出会ったら、カメラで撮影して確かめてみよう。ゴリラのような上司が可愛いコアラだったり、月がスッポンだったりするかもしれない。(2015年12月28日@nortan)

27、動物の権利

もし、近所の大蛇がペットのチビを丸飲みしても、腹を切りひらいてチビを取り出しきれいに洗って返すか、他のチビ?もしくは金銭の弁済での解決となる。ペットは法律上は物として扱われる。「チビは、私にとって人間同様だ。」それでは納得できぬと動物愛護法を調べてみると、正式名は「動物の愛護乃び管理に関する法律」(1973年)。目的は、動物虐待の防止によって生命尊重・友愛・平和の情操を育てること(教育的側面)と動物による人や財産への危害を防止すること(安全・財産的側面)の2つ、2013年改正ではぺットを死ぬまで飼いつづけることなど飼い主や業者の責任・義務が強化されているが、人間としての規定はない。チビはいつペットから人間になるのだろうか?縄文時代の貝塚から、犬や猫を食べていた形跡が見つかっている。仏教伝来で家畜を食べる習慣はなくなったが、武士の時代になると鹿や猪同様に狩りの結果として食べられることもあった。そして、徳川綱吉が有名な動物愛護法「生類憐みの令」を出して以降は、犬はようやくペットとしての地位を確立していったらしい。これを知ったら、大陸の犬たちは羨んで日本海を渡ったかもしれないと想像するが、将軍によって神様扱いとなっても、まだ人間同様になった訳ではない。古代ギリシャ時代、ピタゴラスも信じていた密教オルペウス教では「人間は悲しみの輪として(人間を含めた動物への)輪廻転生を繰り返す。この輪を解脱するために道徳を重んじよ。」とされていた。そもそも人間は大昔から、動物の中に人間性を感じていたのかもしれないと思う。オーストラリアの哲学者ピーター・シンガー。最も影響力のある現代の哲学者と言われる。彼は著書『動物の解放』(1975年)で「人間も動物も苦しみを感じることができる。ゆえにそれを避けるという同じ利益を所有する。」「人間の小さな利益のために、動物の大きな利益を傷つけてはならない。」と人間の権利と対等だと主張した。そして、肉類・乳製品・卵を食べないだけでなく、蜂蜜もとらず、皮革製品、ウール製品も使用しない完全なベジタリアン(ヴィーガン)を実行している。(ちなみにベジタリアンは、乳製品は食べるとラクト・ベジタリアン、卵も食べるとラクト・オポ・ベジタリアンというように分類されるそうだ。)この『動物の権利』という考えで、ようやくチビも救われるような気がする。チビは飼い主と出会った時から、人間と対等であったのだと納得した。私はヴィーガンにはなれないなあと考えて、ふと気づいた。大蛇の『動物の権利』はどうなるのだろう…(2015年12月26日@nortan)

26、スターの違い

スターウォーズの新作が公開されたが、どちらかといえばスタートレックの方のファンである。これらのSF宇宙ドラマの祖は、英国の「ドクター・フー」らしい。1960年代から英国の子どもたちに大人気というから、最近まで知らなかったのはWho?…私である。フーが電話BOXほどの、小さいけれど中はとてつもなく広い、不思議なポリスBOX「ターディス」で過去未来・別次元を秘かに旅するのに比べたら、スターウォーズとスタートレックは船団を組み、軍隊規律の世界。敵が現れ「打ち落とせ。」「イエス、サー。」上官の命令が絶対である。英国とアメリカとの文化の違いを感じる。さて、日本のSFドラマは?と考えると、ウルトラマン?地球防衛隊がいるものの、持ち時間3分の宇宙人の登場でハッピーエンド。カップラーメンの3分間と合わせてこの「あっという間」が日本の文化なのかと思う。そうではないはずだ!と思いを巡らす。そうだ、ドラえもんがいた。日常生活に溶け込み、子ども一緒に悩みを解決していく。いつもハツピーエンドとはならないが、科学の力を夢へと変える。これこそ日本の文化だと納得することにした。田中耕一さんの民間研究機関での受賞から、ノーベル賞も授賞続き。22世紀には猫型でなくとも、家庭用ロボットは実現しそうだ。さて、ここまで考えて頭に「スター」がついていないことに気づいた。うむ…我が国の文化を代表するSFドラマは………、スター・フェスティバル。年に1回だけ彦星が織姫に会えるドラマ。そうか、我が国の文化は季節の風物持。月見や桜、紅葉など季節の風物詩を待ちながら楽しむことだ。さて、今年は暖冬。初雪の楽しみは今だにお預け。何処からか雪を運ぶヒーローもなければ、「雪を降らせよ」と命令する上官もいない。今晩は、サンタのそりの滑り具合を子どもたちとともに心配しながら、よい知らせを根気強く待とうかと思う。(2015年12月24日@nortan)

25、誤見出し

財団は前年の運用利益を各分野のノーベル賞授賞者に還元し、人類の発展に寄与する。1901年から初まった世界的な賞である。我が国も計24名の受賞者を出し、ここ数年は毎年のようにニュースとなっている。喜ばしい授賞であるが、過去にジャン・ポール・サルトルが1964年文学賞を「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない。」と、レ・ドゥク・トが1973年平和賞を「ベトナムには、まだ平和が訪れていない。」と2人が辞退している。ちなみに最年少授賞者は、マララ・ユサフザイ17才で2014年平和賞である。ノーベルは、ダイナマイトを初めとする30にも及ぶ特許、兵器への利用など商業化に成功し莫大な富を築いた。1888年の新聞の誤見出し『死の商人、死す』と記事「瞬時に今までにない大量殺人兵器を発明した博士…」これを読むことになったノーベルは、自分がどう記憶されるか考え続け、ノーベル財団設立の遺言を書いた。研究や文学活動、社会平和活動に尽力した人々に賞が贈られることは、アルフレッド・ノーベル自身にとっても名誉回復活動なのだろう。他に有名な賞を数えてみると、世界的数学賞のフィールズ賞、音楽のグラミー賞、映画のアカデミー賞、テレビのエミー賞、そして、イグノーベル賞から会社のボーリング大会のブービー賞まで多種多様。ブービー賞を「私には値しない。」と辞退すれば笑いとなるだろうが、私たちはどんなに賞が好きなのだろうと思う。いや、「受」賞ではなく「授」賞と書くのだから、授けることが好きなのかもしれない。さて、大晦日も近い。大掃除に誤見出し(ゴミ出し)も大変である。名誉とか記憶とかは置いておいて、身近な人たちに決して辞退できない賞を授けようと思う。授賞会場は心の中、賞名は「ありがとうで賞」である。(2015年12月23日@nortan)

24、鬼怒鳴門

鬼怒鳴門、ドナルド・キーン博士が遊び心で名刺にかかれた漢字名だそうだ。東日本大震災後、多くの外国人が放射能汚染を恐れて帰国しはじめていた。そのタイミングで、博士が日本国籍を取得し日本に永住することを決意されたとのニュース。「なぜ、日本人になるのか。ならなくても、想いは充分伝わる。」と感じていた。昨日、キーン博士の自伝を読んだ。幼い立ちからはじまり、太平洋戦争で海軍日本語学校への志願、日記解読作業で南の島に散った日本兵の心との出合い、日本文学研究や著作・翻訳活動を通して三島由紀夫などの多くの文学者たちとの交友など、自伝は震災の数か月前で終了しているが、日本と米国を往来する毎に深まっていく我国への思いを感じた。『日本人になる』という言葉が重みを増した。我々は日本で生まれたから「日本人である」が、この国で生活しながらその文化を本当に理解し、大切にしてきただろうか?博士の自伝は、そう問いかけできた。博士は日本に帰化された時、「鬼怒鳴門」ではなく「キーン・ドナルド」と片仮名を選んだ。無理矢理、漢字を当てるより、仮名文字こそ日本文化と見ぬかれたのだろうと思う。世界中の文化は優劣つけられるものではないが、博士のように外から見る視点も大切にするからこそ、日本文化は輝くのだろう。先日、平和で豊かな日本(世界)のために自分にできることを話しあった。ひとつ答えが見えた。「ある」を卒業し、日本人になろうと思う。(2015年12月20日@nortan)

23、わずか14光年

ケプラー探査機が活躍する1990年代に入って、恒星の惑星公転によるふらつきの測定や恒星を横切る時の光度変化の測定(トランジット法)で、2300以上の惑星発見が相次いだ。ケプラー22bは、恒星に近すぎず遠すぎず、水が液体で存在し人類が生存可能な『ハビタブルゾーン』に位置する。「620光年彼方だが、知的生命がいるかもしれない。人類は孤独ではない。」と胸おどらせてから3年。「わずか14光年、最短距離にウルフ1061c発見。」のニュース。近い!の初感に、注目のはやぶさのイオンエンジン最大速度80km/sで計算してみた。1光年は、約9.5兆km。9.5兆÷80÷60÷60÷24÷365 ≒ 3765。つまり、3765年の14倍かかる彼方である。光で14年といっても、人間の時間では遠すぎた。今の私たちの最先端技術では、100年で約1/40光年しか移動できない。NASAは、20年以内に地球外生命の発見がされるだろうと観測には楽観主義であるが、今地球上で起こっている環境・社会的要因を考えると、発見に終わる不安を思う。TEDトークでのホーキング博士「有人宇宙飛行の実現、宇宙に出ていくことこそが人類の未来である。」の道を歩き続けることができるだろうか。3年後、「1光年先に、地球そっくりの惑星発見」のニュースがとびこんできたとしても、残り1/100光年分の距離しか移動できない私にとっては、地球が『ハビタブル』であり続けることの方が優先課題である。(2015年12月19日@nortan)

22、恐竜の再発明

コンビニエンスストアのレジ横、この頃は唐揚げや焼き鳥串などの調理肉をよく見るようになった。その匂いと空腹に誘われて、時折缶コーヒーと一緒に購入してしまう。食肉鶏ブロイラーは、この50年で1日の成長率が25gから100gの4倍になったそうだ。成長しつづければ100日で4kg、1年で約15kg、20年後には約300kgとならんばかりの成長スピード。「恐竜の再発明」となる勢いだ。そうならないのは、40~50日(一般のニワトリの1/3の期間)で2kgの鳥肉として出荷されるからだ。誕生から1か月半で食肉となるスピードは、飼育というより裁倍である。一方、採卵用の鶏(養鶏)はレイヤーと呼ばれ、成長しても肉薄なので、ヒヨコの段階で雌雄選別され雄は処分されてしまう。生き残った雌も狭いケージの中に2羽1組で閉じ込められ、1年間卵を搾取された上でほとんどが処分されてしまう。私たちの知らぬ所で起こっている鶏の大量絶滅である。子どもの頃、動物ドキュメンタリー番組で親鳥の隙を見て卵を奪いに来る肉食鳥やハ虫類を見ると悪者と思ったが、事実は違うようだ。どうやら、ニワトリに生まれ変わる可能性を排除できないなら、「鳥に生まれ変わって、空を飛んでみたい。」なんて思わぬ方がいい。(2015年12月15日@nortan)

21、ミラーニューロン

脳神経科学で最近の重大な発見が、ミラーニューロン。1996年に伊パルマ大学で発見された。私たちは人の行動を観察することで、それを自分のことのように体験する力・共感力を持っている。ゆえに、他人の行動から危険を予測することもできる。あくびやしぐさが無意識にうつるのも、そのせいかもしれない。旧人アウストラロピテクスにはなかった能力だそうだ。このミラーニューロンが存在する場所は、言語能力に関するブローカ野の近くでもあるという。他人の動作をまねることから言語能力が発達し、共感できる力となったようだ。先日「妖怪界に行ってくる。」と旅立たれた水木しげるさん。その「ラバウル戦記」を夢中で読んだ。率直な語り言葉と挿し絵に、70年前の戦場に連れていかれ、いつの間にか初年兵となって、上官から理不尽なビンタをもらった。古兵殿からめし上げを命じられた。空腹に耐え、椰子の実や木を担いで運んだ。飛んでくる砲弾をよけ、渦に飛び込んだ。「なぜ、生き残った!」と恫喝され、憤りを感じた。原住民との別れに寂しさを感じた。敗戦を知り、もう戦わなくてもよいと感じた。…妖怪ミラーニューロン。平和を願う妖怪として語り継がなければならない。ちょうど今日は、日本軍が南京を占領した日だそうだ。(2015年12月13日@nortan)

20、無知→未知→不可知

立体パズルも100円均ーショップで良品が購入できるようになった。伸び盛りの頭脳は、2か月ほどで揃えられるようになってしまう。悔しい気持ちと中年頭脳活性のために、それより難解な4×4×4の立体パスルを覚えてやろう。早速ネットの力を借りて、ソクラテスの知「無知」の知からは解放された。既知の3×3×3のパズルに直して揃える解法を選んだ。ところが、最後に2枚のキューブが反転してしまうことが多い。それを揃える方法も公開されているが、3×3×3のパズルでは絶対にあり得ないはずと、納得できない。これはもうスピルバーグの映画「未知」との遭遇だと、その理由を想像する。3→4になったことで次元が増えたせいではないか?もはや4次元の世界。2次元(平面)上の正方形を3次元(空間)に発展させると立方体となる。その立方体を4次元に発展させると…どんな形になるのか?的を得たか、得ぬか。もはや「不可知」なり。不可知とは、ダーウィンの進化論を猿と人間の骨格比較で擁護した英国生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリーの論。彼は、ダーウィンの番犬とも称される。人知を超えて知ることができないことは、信仰するしかない。嗚呼、哲学者たちよ。あなたならこれをどう解決するか。再度立体パズルを回しながら「今度こそは、揃いたまえ。」と祈る私を下から見つめるムクは、何してる?と無知の表情。名前をソクラテスとしておけばよかった。(2015年12月12日@nortan)

19、虹

季節はずれの大荒天の後、大きな虹がでた。赤燈黄緑青藍紫(せきとうおうりょくせいらんし)と七色、外環から内環へと色鮮やかだ。もし並び方がさまざまなら、雨あがりに 7×6×5×4×3×2×1 = 5040通りの虹を見ることができる。「今日の虹は、青燈藍緑黄緑紫だったよ。」と会話もはずむだろう。1か月に1回、今までと違う虹に出合う幸運があるとしても、全種類を見るのに 5040÷12= 420年かかる計算となるから、世界虹記録機関WRRO(World Record Rainbow Organization)なんて組織もできるかもしれない。しかし、虹はいつも1通り。内側にできることのある副虹の逆順を含めても2通り。2色、4色、5色、欧米では6色、日本は青と紫の間に「藍色」が入るという文化の違いはあるが、写真に写る色は、自然の法則そのものである。……ところが最近、白金のドレスが青黒のドレスに見える画像に出合った(人によっては逆)。眼の状態や年齢による違いではないそうだ。新鮮な驚きだった。自分は人と同じ虹色を見ていないかもしれない。端から七色とか赤…紫とか決めつけないで、虹が出たら「何色見えた?何色が見えた?」と語り合うことからはじめなければならないのかもしれない。インドネシアでは、虹の色は赤黄赤緑赤青赤と見る民族もいるそうだ。当たり前と思っていたことが実は違う。自分とはちがうかもしれないという当たり前の認識から出発しなければならない。見える色も数も順番違えば、5040通りどころではない。そんなことchase after rainbows (実現しそうにない夢を追うこと)だよと、ステレオタイプな概念に安心するのではなく、互いのちがいを尊重できる世界虹人権機関WHROR(World Human Right Organization in Rainbow)を心の中に設立しようと思う。(2015年12月12日@nortan)

18、ふたりの時間軸

空間と時間は互いに関連し「時空間」を構成する。「運動するもの」の時間の進み方は変化し、「重力」は空間を歪め、時間の進み方を遅らせる。難解であるが、3年かけて自動車の時計が15分もズレたことを、アインシュタインのせいにして理解していたら、最近また不思議と出合った。「時間軸」が過去にも未来にも変化するというのだ。今この瞬間、私とあなたが同じ時間を共有していることは間違いないはずだが…必ずしもそうではないらしい。私があなたに向かって運動していれば「未来のあなた」と、離れる方向に運動していれば「過去のあなた」と同じ時間を生きていることになるらしい。もちろん、地球上ではとてつもなく0秒に近い時間の話だが、2人の距離が広くなるほど時間差も増えていく。うむ、これは「2人が時間を共有するのは、静止しているときだけ」ということ?また、未来の子孫と同時間軸に存在するためには、S Fのごとく「私がテレポーテーションで地球からとてつもなく遠くはなれた世界に瞬間移動し、地球に向かって運動する」か、逆に「子孫が未来で遠い場所に移動し、さらに地球から離れる方向に運動する」ことが必要となる。ここまで考えて「そんなに離れて、時間を共有?」と思う。過去と未来を結ぶテレビ電話の発明に役立ちそうなアイデアであるが、やはり、大切な人たちと時間軸を共有するなら、提防に腰をおろして一緒に海を眺めている方がいい。(2015年12月11日@nortan)

17、そうかい

名優・笠智衆演じる主人公周吉。妻とみとの会話で静かに「そうかい…」と呟く場面が瞼と耳に残る。未来に残したい映画として、世界中で支持される小津監督の「東京物語」をようやく視聴することができた。1950年代初め、終戦を乗りこえ経済成長をはじめたばかりの日本の風景、街並み。モノクロームで、どことなく懐かしい。妻とみの葬儀後、仕事の忙しさを理由に東京に帰る子どもたちに「そうかい。もう帰るのかい。いやぁ一」とぽつりと呟く周吉。「もう少し、居ればいいのに。」とは決して言わない。経済成長まっしぐらの世の中、大切なものが家族から仕事に変わった。周吉にとって「いやぁー」が精一杯の自己主張だ。我が父も、10才の夏、ラジオで敗戦を聞いた世代。平素、我を主張する姿は見たことはないが。ただ1度だけ、退職前に酒に飲まれて息子に不満をぶつけたことはあった。その後は、結婚・転居・手術など人生の決断を「そうか。」と息子に委ね続けた。「東京物語」を2度見直した。周吉も旧友との久しぶりの酒に「わしも不満じゃ。」と心奥をもらすが、その後「それは親の欲と云うもんじゃ。」と自分を抑えこんでしまう。周吉の「そうかい…」と父の「そうか。」が重なった。見終わって、林檎の匂い(己羅夢11)というより、田んぼの土の匂いがした。戦後70年、豊かな日本に生まれかわることができたのは、必死に働いた世代があったからだけでなく、黙ってそれを見守り、新しい時代の肥やしとなった世代があったからだと理解する。透析と介護サービスの日々で、「今日は、どうだった?」の会話に「おう。」としか言わなくなった父に、モノクロームの時代を思う。(2015年12月10日@nortan)

16、73歳の大学生

受験情報紙を飾る73歳の大学生。インタビュー記事には「日本には参考書がない。みんな説明書で、ちっとも覚えられない。だから、自分で作っちゃった。そしたら、楽しくって、勉強が遊びになっちゃった。」子どもの頃、放送を楽しみにしていた「欽ちゃんのどこまでやるの」の萩本欽一さんらしい言葉だ。「ぼくは、就職は関係ないから、人生に本当に必要なことだけ学べる。単位を落としても、また学べると思ったら楽しい。」とも語っていた。30年前に祖母が「なかなか覚わらんけど、楽しみだ。」と中1数学講座の再放送を何度も根気よく視聴していたことを思い出した。「学び」の目的は何なのだろうと改めて思う。よい高校に行くため、よい大学に行くため、よい就職をするため…と、よいよいを繰り返すが、誰にとっての「よい」なのか。それをはっきりさせないから「自分に本当に必要なこと」を後まわしにしているのかもしれない。欽ちゃんのインタビューを「はい。」と手渡してきた娘も受験生。昨年、息子に言ったように「自分のやりたい道に進めばいい。」と見守ってやりたい気持ちが揺れ動くが、決めた。「子日く、四十にして惑わず。」天命を知るには少しばかり早いが、人生の学びを楽しむ姿を、欽ちゃんや祖母のように見せてやろう。子は、親の姿を見て決めればよい。(2015年12月6日@nortan)

15、タイヤの時代

トルコの神殿「ギョベクリテペ」は、狩猟採集の生活をしていた1万2000年前のものだ。人類史において、農耕文化より集団定住が先かと、その技術力の高さも含めて研究の的になっている。世界四大文明の発祥よりさらに5000年も前の話である。中心には食料貯蔵庫。団結が食生活へのゆとりに、それが彫刻文化や建築技術を生むゆとりに繋がった。彫刻を施した大石盤は、木の棒をテコにして少しずつ丘上まで運んだ。皆で協力しなければ、成し得ない重量だ。「ヒヨコが先か、卵が先か。」ではないが、やはり団結が初めなのかもしれない。エジプト文明の「コロ」や古代メソポタミア文明の「車輪」の発明があれば、幾分楽だったろうと、物を運ぶ技術の進歩を思う。棒→コロ→車輪→?。船や飛行機は陸上ではないから…リニア?浮いている(飛んでいる)。円いものが続くなあ…。さんざん考えた末に、車輪→コイン(ホテルで荷物を運んでもらいTipを渡す)と円いもので収まった?…結局、タイヤの再発明。我々の文明は「車輪」の先に進むゆとりを失っているのかもしれない。「おれ、わたし」と自分勝手な方向に転がっていく約70憶のタイヤ。「これでは、小石さえ運べない。団結が初めだったはずが…」とテペの住民がつぶやきそうだ。(2015年12月6日@nortan)

14、フリードマン数

自然数の中で、構成する数字を並べかえたり演算記号で繋いだりして等しくできるものがフリードマン数。121=11∧2(2乗の意)、126=21×6、736=3∧6+7、1206=201×6…など。おもしろい数遊びである。その中で最小の数25=5∧2が、5×2=10に変更になる。といっても数学でなく、社会保険の話。国民年金の受給資格期間が25年→10年になるということだ。ひとつは、20歳以降25年間も納め続けなければ65才以降に受給できないなんて納得できないという不満を解消するためだろうが、「10年で期間を満たしたから、以降はやめた。」では、年金額は満額の1/4しか受給できない。結局25年だろうが10年だろうが、個人レベルでは40年間納める原則に変わりはない。さて、25年という数字に取りつかれたので、他に調べてみた。銀婚式、米国防省や日本政府の地下貯蔵庫に備蓄されている保存食の消費期限、浴室やトイレ・水栓・フローリングの交換期限など、人間は「25年」が好きで「quarter(クォーター)」とか「四半世紀」という命名までしている。また、初の政党政治による内閣総理大臣でもあり早稲田大学の創設者でもある大隈重信は、人生サイクルは25年間(成熟期間)で、その5倍の125年が最大寿命と信じていた。ちなみに、数字の並びをかえないでできる最初のナイスフリードマン数が127=-1+2∧7(7乗)であるから、2を加えれば「重さん、ナイス!」である。それだけではなく、25 + 2=27=3∧3となり、25は2を足すと3乗数となる『唯一の数』でもあるから、益々25の虜になってしまった。10といった数字で誤魔化すのではなく、正々堂々と25を主張できる人になりたいものだと思う。(2015年12月5日@nortan)

13、この空を飛べたら

聴きたくなる曲がある。「ああ、人は昔々、鳥だったのかもしれないね。こんなにも、こんなにも空が恋しい。」とは中島みゆき作詞作曲の加藤登紀子の名曲。37年も前に発表されたのに、心の中に染みこんで、時に瞳を湿らせる。少しさみしいメロディーと歌詞が、バラバラになりそうな心に重力を取り戻してくれる。重力といえば、地上においては9.8ニュートン(N)/kgの力で、万有引カと地球の自転による遠心力との合力、地球の中心に向かって引っ張る。しかし、素粒子物理学では強い力・弱い力・電磁力につぐ4つめの未発見の力で、いちばん弱い力、重力子(グラビトン)だと考えられている。大きな世界(宇宙)と小さな世界(原子)を統一すると期待されるひも理論である。「重力が一番弱い?」と疑問に思うが、そうでないと足の裏を構成する原子が重力に負け、地面を構成する原子どうしのすき間にめりこんでいくのだそうだから恐い話である。そうならないのは、足の裏と地面の間に「原子レベルの空」があるから。「ああ、人は、そう考えると、鳥なのかもしれないね。こんなにも低いけれど、空を飛んでいる。」曲を聴いて、ちょっぴり元気になったら、両手を広げて再び希望の空に羽ばたこう。(2015年12月1日@nortan)

12、地質年代

地球の年齢は、地質学の発展で約46億年と推定されている。200年ほど前まで定説であった「6000年ではあまりにも短い。」それに気づかせたのは山頂で発見された見殻の化石である。化石は、様々なことを教えてくれる。地層の学習を興味深くするため、地質年代についてKeynoteを作成した。46億年のうち40億年は冥王代・始生代・原生代と続く無生物時代、その後の6億年が古生代(6つの紀)・中生代(3つの紀)・新生代(3つの紀)と続く生物進化の時代とされる。小学(6年間)中学(3年間)高校(3年間)に例えると覚えやすい。人類の時代は第四紀、最後の約300万年間(高校3年)である。作成したKeynoteの最後の問題は「今まで、大量絶滅は何回あった?」答えは、オルドビス紀末(小2)デボン紀末(小4)ペルム紀末(小6)三畳紀末(中1)白亜紀末(中3)の5回。生物は、これらの危機を乗りこえることで進化を遂げてきた。なんだか子どもの成長の危機とも重さなり、絶妙な例えとなった。また、それはほぼ1億年ごとに起こっていて、白亜紀末の恐竜絶滅が約1億年前だという事実は「明日にも…」の危機感を抱かせる。一方、人類の活動で既に始まっているという説にも納得させられる。このまま高校3年に残留するか、オルドビス紀から5億年以上も種を繋ぐオウムガイのように生きた化石となって進学するか、人類にとっては思案のしどころである。200年前の地球6000年説を信じるなら、絶滅は関係のない話ではあるが、山の貝は殻を閉じるかもしれない。(2015年11月29日@nortan)

11、林檎の匂い

小津安次郎監督の東京物語(1953年)が、イギリスの雑誌で世界一の映画に認定された。その理由のひとつは、優しさを感じさせるから。調べると、アジア映画TOP10の1位にもなっている。このニュースに、昭和の懐しさを感じながら、銀河鉄道の夜(宮沢賢治)を鑑賞した。中学時代に文庫本で読み、最近2度下見して、3度目の落ちついた鑑賞。東京物語よりも古い戦前の昭和と賢治の世界。サザンクロスに向かう列車に乗車しているように感じた時、突然「りんごの匂いがしてきた。」…「何か幸せなのか分かりません。どんなつらいことでも、それが正しい道を歩む中でのことなら…。」のセリフが心の中に飛び込んできた。林檎の仄かな匂いを感じられる心境、それが幸せなのだと理解した。つまっていた左目の涙腺から涙が流れた。賢治とは別の時代を生きていると決めつけていたが、人の心は何も変わっていないのだ。人の無意識のしぐさ、左に目線を移すのは過去を思い起こしているのだそうだ。人生の折り返し地点を越えると、左を見ることも多くなるのだろう。最近、動画配信サービスで外国テレビドラマにハマっていた。パラレルワールドや未来へのタイムトラベル。予想もしない展開に娯楽性、仕事の疲れを癒してくれたが、日常逃避、右ばかりを見ていたかもしれない。人生の折り返し地点を越えたと実感する年齢。過去の自分と向き合うために、林檎をかじりながら東京物語も鑑賞してみようと思う。(2015年11月28日@nortan)