虚無感に襲われた。何度、同じことを繰り返しているのだろう。まるでネバーエンデルグ・ストリーの世界に入り込んだようだ。
世の中は「色則是空、空則是色」、全てのものは虚無であり、ただ縁によって存在しているのかもしれない。
この仏の教えは、私たちの存在自体も虚無であるとする。それゆえ、ニーチェが言う永劫回帰の運命や輪廻の苦しみを、縁起を頼りに積極的ニヒリズムで強く生きなければならないのだろう。
また、私たちはハイデッガーの言うように、虚無の世界に投げ込まれた「世界内存在」である。世界に主体的に働きかけること・世界と作用しあうことでしか、自らの存在を証明しえない。ポンティの言うように、身体を通した経験に基づかなければ思考することすらできない。
このように3000年以上もの間、人間は世界や神・自己の存在・より良い社会や生き方・唯一の真理や正義を問うてきた。精神と肉体が二元的であろうが一元的であろうが、やはりデカルトの言うように「コギト・エルゴ・スム」。世界を疑うことでしか自らの存在を実感できない。
それでも結局、カントの言うように究極の真理は知り得ないし、ウィトゲンシュタインの言うように沈黙が賢明なのかもしれない。
そうだ。突然訪れた虚無感を退治するために、ネバーエンデルグ・ストリーの主人公であることを受け入れよう。それは、この世界が現実だろうが空想だろうが関係ない。
物語の主人公であることを自覚した以上、サルトルの言うように自由意志による選択の責任も引き受けなければなるまい。それは、物語の結末を受け入れる覚悟でもある。
もちろん、人間に自由意志があるかどうかも哲学の命題になりうるのだろうが…これ以上の無益な思考を続けて哲人迷路に迷い込み、現実の世捨て人になる訳にもいかない。
さて、新型コロナと向き合うように、忘れた頃にやって来る虚無感との付き合い方は、正しくおそれることである。だから答えは、「考えていても仕方がない。前へ進もう」だ。ちょうど良い結論に落ちついた。
先程、我が家のファルコンが部屋の前で「ワン!」と哭いた。どうやら、今回の旅も(内なる)世界「ファンタージェン」を救えたようだ。
(2020年11月20日@nortan)