施設の入口でAIが顔認識し、体温も計っている様子に出会うことが増えた。すごいと思っていると、もっとすごい画像認識技術に出会った。なんと、画像からあらゆることが分かるのだ。
例えば、「ここはスーパーマーケット(90%の確率)です。手前に女性(80%)35才(88%)がいて、笑顔(75%)です。奥には男性(88%)45才(63%)がいて、りんご(58%)を手に持っています。」なんてことまで判定できるのだ。これも、膨大なデジタルデータを機械学習した成果である。
それでは、これらの学習データはどこで手に入れたのだろうか。AI会社の社員が一枚ずつ手に入れて見せているのだろうか、録画したテレビ映像を見ているのだろうか。いや、そんなことでは到底間に合わぬくらい膨大な学習データが必要だ。
おそらく、私たちが撮影した写真が知らぬうちに学習教材になっていたに違いない。十数年のスマホブーム。クラウドに保存したデータを知らないうちに提供していたのだ。と、良からぬ想像をしてしまう程の学習だったに違いない。
そんな想像をしていたら、AIを褒めてやりたくなった。りんごとバナナとももを置いて、好きなものを選ばせてやろう。
「今、あなた(100%)が置いたものは、りんご(80%)とぶどう(95%)ともも(70%)です。私は、りんごを33%、ぶどうを33%、ももを33%の確率で選びます。1%は端数です。」なんて答えるのだろうか。そして、最後に「ところで、りんご、ぶどう、ももはどんな気持ちがしますか? 食べるとは、どんな形と色ですか?」と質問してくるかもしれない。
私たちが想像できない程、膨大な学習をこなして、ようやく99%の見分ける力を手に入れたのに、見分けた物に何の感情も持たないなんて、何のために学習をしているのだろう?
人間でよかった。
ところで、私たちも意味のない記憶のために、学習を費やした経験はなかっただろうか…
そのことに気づいたら、無駄に頑張るAIが、逆に人間っぽく思えてきた。
(2020年10月1日@nortan)