英語を再学習しながら、想像してみた。
1と2とではどちらが大きいかと問えば、2 = 1+1 と計算できるので、2が大きい。ユークリッド世界は「可算意識」が大切である。例えば、英語で「犬と猫ではどちらが好きか」と問われて、I like dog. なんて答えようものなら大変。「あなたはdog(可算できないような犬、つまり犬の肉など)を食べるのですか!」と驚かれてしまう。I like dogs(一般的な犬) 又は a dog(ある一匹の犬). と可算形で答えなければならない。日本人からすれば、不可算のdogと可算のdogの違いくらい「空気を読んでほしい」ものだが、英語は厳格に区別する言語体系なのだ。
今度は、「1と2とどちらが美しいか」と問われるとどうだろうか。ある者は全ての数の始まりであるから「1」と答え、ある者は最小の偶数であり、2人で分からあえるから「2」と答えるだろう。また、どちらでもなく「0」が宇宙一美しいと「問い」そのものを否定する者もいるかもしれない。私たちは、数字の「美しさ」を問われると、このように考えるだろう。しかし英語話者は、Numbers are not beautiful. と答えるかもしれない。問いを1や2の形のことなのか、大きさのことなのか、性質のことなのかはっきりさせなければならないだろう。英語話者からすれば、日本語は曖昧で「どのようにも解釈できる」言語体系なのだ。
しかし、このような日本語話者と英語話者に共通の運動が見られる。それは、所謂ミスコンテストによるbeauty審査。自治体など諸団体ではミスコン自体廃止され、親善(広報)大使に変わってきている。アメリカでは廃止ではないものの、2年程前に水着審査は差別的であると除外された。その代わりに、将来の夢や他者への接し方、溢れ出る自信などの「知性や内面の美しさ」が重要審査されるそうだ。
このように、beautyが外見から解放されていくことは21世紀を素晴らしい方向へ導くのだろう。しかし、「知性」や「内面」は可算名詞だったろうか。そもそも「美しさ」は不可算かつ多様であったはずだ。例えば、学校の通知表で「内面の美しさ」が評定されるなんて想像したくもない。
さて、日本語は可算・不可算に関して曖昧である。それは、換言すると自他や他者どうしを可算比較せず優劣をつけない文化だからなのかもしれない。国際競争社会からガラパゴス化しないためにも「英語を操る力」は伸ばしたいものだが、幼い頃より可算文化に思考を乗っ取られて、近い将来、日本文化のコンテスト化が起こらないか心配である。
言語は、完璧には翻訳できない思考的文化である。
(2020年9月6日@nortan 懐しい友より連絡があった日)