238、問屋

ドイツやフランスで「マスクをするしないは自由である」と、コロナ感染対策に対する人権運動が始まった。そもそも西欧では、マスクは病人がするもの、顔を隠す行為は犯罪者がすることで正義ではないという観念が強いようだ。

日本でも、スペインかぜ流行の100年前はマスクをする習慣はなく、「マスクをかけぬ命知らず!」などの標語がマスク文化を後押ししたとされる。近年では、花粉症対策として、マスクはファッション文化にもなっている。今回のコロナ禍は、西欧にもマスク文化を定着させると思っていたが、そうは問屋が卸さなかったようだ。

WHOの公式アドバイスには、マスクを着用すべき人は「症状のある患者」「感染疑いのある人をケアする人」とある。つまり、病人と医療従事者である。これが世界標準だとしたら、マスクへの感覚は私たちの方が変わっているのだろうか。

ウィルスの大きさは細胞の100 ~ 1000分の1で、マスクの繊維の間を簡単に通り抜けてしまう。だから、市販のマスクでは、ほとんどウィルスを除去できなく「エチケット程度」にしかならない。また、家庭内感染が1位であると煽る一方、感染不明者が半数以上を占めている。電車やバスなどの交通感染が経路不明の大部分だしたら、合理的思考派である西洋で問屋がマスクを卸さないのにも納得できる。

ようやく、大国が買い占めて不足していたマスクも、東洋では十分に問屋が却ろすようになった。熱中症対策用に加工や工夫されたマスクもテレビコマーシャルで宣伝されている。

さて、マスクの効果が認められるのならば、飛散防止効果ではなく「沈黙効果」なのかもしれない。確かに、マスクをすることで電車やバスでの会話は減少する。これは、まさしく公共空間での礼儀作法である。つまり、問屋が却ろしていたのは、マスクではなく「エチケット」であった。

(2020年8月30日@nortan 私たちには沈黙と忍耐力があるのかもしれない)

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