巧みと言うべきか、企みと言うべきか、本物のショッピングサイトからと見間違ってしまいそうなメールが届いた。「セキュリティ上、不信なシッピングがあったからパスワードを再設定して下さい。」とある。おまけに、「パスワードは、誰にも教えないでください。」の注意書きまで。親切なのか何なのか。
ネットにメールなどの情報を公開することで、家にいながら様々なことができるようになった便利さと引き換えに招き入れたリスクである。多分、送信したのは自動送信プログラムだろうが、その向こう側には紛れもなく「誰かを騙そうとする人間」がいる。だから、「人を信じること」への葛藤が生じる。
海援隊の「贈ることば」に「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つく方がいい」という歌詞がある。小学校の卒業式で心に刻まれたメッセージが「本当にそうなのか?」と40年経って再び問いかけてくる。そして、芥川龍之介「蜘蛛の糸」のお釈迦様がカンダタの中に1つの善行を見い出したように、メールを送りつけてくる相手に善行を見つけられず、「世の中には信じてはいけない人間もいる。だから、嘆く前に疑う方がいい」と歌詞を書き換えてしまう。
もちろん、贈る言葉は愛を唄ったのであり、フィッシングメールを信じろとは唄っていない。お釈迦様もカンダタを信じた訳ではなく、たった一つの善行にチャンスを与えたに過ぎないし、人間の本質を見通してその結末を知っておられたに違いない。
さて、芥川のいうように、人間は皆多かれ少なかれカンダタだと認めるべきか、それとも「騙される奴が悪い」という非論理に対抗して疑心のバリアを高くするか。どちらにしても、お釈迦様のような悟りの境地には至れない。
結局、「悪企みなフィッシングメールは悲しい行為だ。しかし、それを行った者の改心を信じられなくなれば、コロナ禍で試されている『心の糸』も切れてしまうような気がする」と、生じた葛藤に決着をつけるしかない。
(2020年6月21日@nortan)