5か月程前のニュース。終末時計が2分から20秒縮み、1分40秒(100秒)と最短になったという。
この世界終末時計は、1947年の米科学誌「原子力科学者会報」に登場したのが最初で、7分(420秒)前から進んだり戻ったりしてきた。本来は原爆戦争の危機が高まると進み、危機が遠くなると戻る指針だった。その後、気候変動への無関心も理由に含まれるなど、「総合的」に判断されるようになってきた。今回の100秒の理由には、コロナウィルスによる危機は含まれていなかったので、今頃、100秒から進んでいるかもしれないと心配する。
他に、似たようにして使われる言葉に「科学的」がある。これらを比較するなら、どちらを信頼すればよいかと悩む。就職試験で「科学的に判断して、採用することにしました」と言われると「えっ?」と思う。また、病院で「総合的に判断し、退院させることにしました」と言われると「本当に治癒したのか?」と不安になるだろう。しかし、これらが反対だと、指針となる数字が示されていなくても、何故か納得させられてしまう。
つまり、私たちは大事なところを相手の判断に委ねてしまっている時、それらの「○○的」を受け入れてしまう。だから、非採用や再入院にならぬ限り「根拠となる数字を示して下さい」と説明を求めることは、まずない。
さて、終末時計は縮んだのではなく、100秒から戻りつつあるのかもしれない。それは、コロナウィルスに対する世界的協調や人権運動の高まりが理由だ。私たちは、このピンチを機に世界を今までより素晴らしい場所にチェンジする力を発揮するのかもしれない。
私は、この事実を、自分の判断を信じて「哲学的」に受けとめたい。
(2020年6月20日@nortan)