日本人として、日本語は豊かな言語だと思う。それは、漢字やカタカナ語の吸収と、明治期に今までなかった概念を造語してきた努力があったからだ。
また、日本語は美しい言語だとも思う。それは、豊かな季節や自然を背景にして生まれた言葉や比喩的表現、それを使った詩歌などの文化が長い歴史の中で育ったからだ。特に俳句は、言葉の省略による慮る芸術だ。
一方、日本語は論理的であるかというと、世の中の事象を表現する語彙は十分であり、科学的表現にも耐えうる。しかし、それを意識しないと非常に曖昧な言語文化のようだ。
例えば、「昨日、腕時計を買った。」には、「誰が」という情報や「いくつ」「今も所有しているか、所有していないのか」という情報を付与しない。言わなくても分かるからそうなのだが、科学的には「昨日、私は一つの腕時計を買って、今も所有している。」と記述しなければならない。特に英語ネイティブは疑問に感じるようだ。面倒だと思わぬでもないが、グローバルな時代にそれは通用しない。
それで一念発起し、英語文法を学び直している。しかし、染み付いた日本語的思考のトンネルから抜け出せそうにない。
さて、「トンネルを抜けると、そこは雪国だった。」は、「私が乗っている汽車がそのトンネルを出ると、そこは雪が積もっている地域だった。」のように翻訳しなければならなかったようだ。
新しい日本語は、科学的であるべきか、文学的であるべきか。英語表現力もつけたいが、慮る(思いやる)文化も捨てられない。
(2020年5月19日@nortan)