167、川の魚

久しぶりの山の自然。川に渡された小橋の中に立った。昨夜まで降り続いた雨で、少し勢いのある水が岩間を泡と音を立てながら、上下左右と流れ下ってくる。

ここに来ると、いつも川上を見ている。くるりと回れば、少し緩やかな去りゆく流れを見れるのに…まるで、川を登る魚のよう。橋に立ち上流を眺めるのは、遺伝子に刻まれた「魚の記憶」か?音に反応し危険を回避する「動物の本能」か?それとも、時の流れに逆らい「過去への追憶(ノスタルジア)」か?こんなことを考えながら、半転してみた。何だか不思議な感覚、この先どこに行き着くのかという不安と同時に、静かな死を感じた。下流には生命の誕生にとって、母なる海が広がる。川魚が、そこに流されることは死を意味する。

私たちは死んだ後、川魚に生まれかわって、時間の流れを遡るのかもしれない。鱗は、頭から尾に向いている。流れに逆らうことは運命だ。そして、時の上流まで泳ぎついたら、再び私の時間を生き直す。

さて、久しぶりだと感じた橋の上。実は、何億万回も立っていたのかもしれない。そして、上流へと遡る「魚の私」に、ノスタルジジックに語りかけていたのだろう。「今度は、もう少し器用に生きろよ。」と。(2019年7月25日@nortan 人生が繰り返されているなら、何を学んでいるのだろうか)

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