まず、赤ん坊が「あー」と言いながら母親に手を伸ばそうとしていたら、赤ん坊の頭の中の「あー」フォルダに、五感でとらえた母親イメージが保存される。
次に、父親イメージも似たように動くものとして、同じ「あー」に保存される。この時、赤ん坊にとって父親も母親も同じものである。しかし、そのうち両者の違いに気づき、フォルダ「あー」の中にフォルダ「m」と「p」が作られて「ママー」「パパー」に各々のイメージが分類され直す。これ以降、父親と母親は別のものになる。
ものごとを区別して認知できるのは、名前や記号と世界を結びつけ、各々のフォルダにイメージを保存しているからだ。私たちの認知を、コンピュータのしくみに例えると説明しやすい。
しかし、例えられたコンピータにとって、このシンボルグラウンディングは容易いことではない。言葉とイメージが結びつかないのだ。
AI赤ん坊ロボット?を購入し育てていくとしよう。父親と母親の違いを、自分に話しかける時間の長短とか、見た目の違いとか、数値に置き換えて区別することはできるだろう。しかし、常識とされる母親イメージ・父親イメージが獲得できないのだ。AIに「常識」は通用しない。ならば、AIを実用化するにあたって、AIに常識を教えるよりも、常識をAIの言葉に翻訳した方が近道だ。
さて、母親とは…父親とは…と考え始めて、性の多様性・同性婚など近年の様々な人権問題に気づいた。未来の家族はどうなっているのだろうか?昔の常識は、未来の常識ではなさそうだ。「あー!」人間の常識もあてにならぬようだ。まずは、常識を疑うことからAI(人工知能)の設計を始めなければならない。(2019年7月16日@nortan AIは人間に似ていなければ駄目なのか?)