花が咲かなければ、実はできぬ。
実が育たなければ、種もできぬ。
種を植えなければ、花も咲かぬ。
これは、植物の堂々巡りだ。
堂々巡りとは、言葉が示す通り、お堂を回り続けること。転じて、同じような思考や議論が繰り返され、少しも先に進まぬことを例える。いったい、植物は何を考えているのだろうか?
花を咲かせる種子(顕花)植物は、人類誕生の遥か昔、2.5億年前から「花実種…」の堂々巡りを繰り返している。しかし、この堂々巡りに不可欠なものがある。虫媒としての昆虫だ。例えば、蓮は、花托がハチス(蜂の巣)を模していることからハスと呼ばれるようになった。つまり、媒虫のミツバチなしで、阿弥陀様も極楽浄土を維持できない。
最近ドイツのアマチュア団体が30年に渡り収集した科学的データを公表した。「確実に、昆虫が恐竜のように絶滅に向かっている。40%の昆虫が危機にあり、それが毎年1%ずつ増えている。」と言う。単純に計算して、あと60年で地上から昆虫がいなくなってしまう。そして、花は実を育てられなくなり、2.5億年の堂々巡りも終わり時をむかえる。
さて、堂々巡りは願い事を叶えるために行った儀式である。植物は、何を願って巡っていたのだろうか。昆虫との別れだろうか。昆虫を必要としない繁栄だろうか。ひょっとして、人類も…。植物たちに「お前たちは必要ない。」と思われていないか、道端の花に尋ねてみなければなるまい。(2019年7月15日@nortan 考えてみれば、私たちも堂々巡り…)