責任(responsibility)とは、行為者が特定される場合にその行為に対して応答(response)する能力(ability)である。法的責任であれば賠償能力も問われるが、道徳的責任であっても、その行為と結果に応答する「説明責任」はある。だから、カメラの前で「私は知らぬことです。」とうそぶくのは「責任」から逃げているし、「申し訳ありませんでした。」と土下座するだけでは「説明」をすっ飛ばしている。
どうして、すぐに辞職したり土下座したりすることが、責任をとることと同義となってしまったのだろうか。それは、武士の切腹のイメージと重なるからだろう。赤穂事件でも浪士の切腹で事件の幕を閉じるが、どうして浅野が吉良を刀傷する事件が起こったのか、浪士の行いは忠義であったのか、幕府の裁きは適切であったのかは曖昧模糊としたまま幕引きとなっている。まるで原因をはっきりさせない方がよい何かが存在するように…どうやら、我が国の責任のとり方はResponsibilityではなく、EscapebilityかAmbiguousibilityに近い。
さて、上司を守るために部下が黙って責任をかぶる。これを美徳と感じるか、蜥蜴の尻尾切りと不快に思うかで、赤穂事件への評価も分かれるのだろう。新時代は「上司のために責任をかぶる部下」と「部下のために責任をとる上司」どちらが美徳となるのだろうか。 かたや「責任」が帽子(かぶせもの)になったことは、間違いない。それならば、トップがかぶるべきだが…
(2019年6月30日@nortan先日聞いた「もし、何かあった時の責任は、最終的にあなた方にある。」という言葉から)