149、道徳の種類

まず、未来の道具、もしもボックスで「みんないなくなっちまえ。」と叫んで地球で一人ぼっちになったのび太にも必要なのは、道徳(個人道徳)。叱ってくれる他者がいないからやりたい放題だが、そのうちに生き残るために守るべき主体的内面規制が必要になってくる。果実や池の魚を取りつくしてしまえば食料危機に陥るし、種子を植えて水の世話をしなければ翌年の収穫は見込めない。そこで、利己的欲求と自然(現実)との葛藤が生じる。

次に、元の世界に戻ったのび太に必要なのは、倫理(公共道徳)である。これは、利己的欲求と他者との間に生じる葛藤である。私が欲するものは、他者が欲するものでもあり、それは有限である。互いが納得できるように分配しなければならない。平等とか公平・公正という市民的道徳性が求められる。

そして、学校でのび太が学ぶのが、よき国民となるため道徳(国家道徳)である。日本人は目上の人にお辞儀をしたり、すれ違う時に体を横にしたりする美徳がある。敬虔な信者は、朝昼晩または休日の祈りを欠かさないなど、国家によって求められる姿が違なる場合がある。先日、ラジオで教育評論家尾木直樹さんが「今年度から、教師が小中学生の道徳性を言葉で評価しなければいけなくなって、先生たちは困っているのよ。いかがなものかしら。」なんて苦言を呈していた。子どもがもらってきた通知表に「思いやりがない」とか「正義感に欠ける」とか記されていたら、親子で寝込むか「教師は神ではない。我が子の何が分かるのだ。」と開き直るしかない。宗教を国教と定める国の教師も、子どもたちの道徳性を評価しているのだろうか?

さて、道徳性は時代によっても変わるはずだ(時代道徳)。生き残るために「力の論理」が求められていた時代は「強いこと」が正義であり、「強者により多く分配されること」が公平だった。そして、「強者が、コロッセウムの闘技などの娯楽で民衆の不満を抑えたり、与える情報を統制したりして都合のよい政治を行うこと」が国家の在り方だった。

それに比べて、今は…と考えて、気づいた。昔も今も変わっていないのではないか。道徳性を評価されるべきは、子どもではなく大人なのではないだろうか。子どもたちに「挨拶・勤勉・正義・公平・公正・思いやり…」などのボタンを押してもらい、テレビに映る大人をリアルタイムで評価してもらうというのはどうだろう。いや、子どもにはまだ道徳性が育っていないというのなら、絶滅に追い込まれている動物たちに評価してもらってはどうだろうか。動物に道徳はないというのなら、胸に手を合わせて目を閉じ、静かに神の言葉を聴く。神は、こう言うかもしれない。「それは、お前たちの問題だ。私には評価できない。」と。(2019年3月21日@nortan時代の要請は、公共道徳のようだ)

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