インドで若者が「同意もとらずに、私を産んだ。」と両親を告訴した。弁護士である両親は、27歳の息子の生き方を認めていて、仲も良いという。母親は「どのように同意をとることができるか論理的に説明できれば、非を認めましょう。」と応じたそうだ。なんとも馬鹿げたことだと感じるが、人口急増のインドではこのような反出生思想が広がっているらしい。
「親の一方的な思いで、苦しみと悲しみばかりの世の中に、子どもを生み出すことは是か非か?」という問いは、さすが仏教の古里、インド的で興味深い。この問いは哲学でもあるが、裁判を通して弁済を両親に求めた点では、短絡的かつ刹那主義である。
もし、勝訴するとすれば、両親の人生の苦しみは祖父母に、祖父母の悲しみは曽祖父母に…と、人類が子孫を残すという選択をした時にさかのぼることになる。また、科学的には、単細胞生物が分裂を始めた時にまで行き着くだろう。つまり、人生の苦しみへの問いは、生命が誕生して以来、遺伝子レベルで受け継がれてきた根元的な命題である。
さて、判決を予想してみよう。
原告人の苦しみは、全ての生命の苦しみでもあり、被告人の苦しみとも等価である。被告人は原告に、そういった思いを感じさせまいと「苦しみのバトン」を渡すつもりはなかった。しかし、原告人は被告人の同意なしにそれを受け取った。原告人はバトンを受け取ることを拒否できなかったと論理的に説明しなければならない。つまり、原告人、被告人ともに論証不可。ゆえに、主訴を棄却する。
インドで誕生した反出生思想も、いずれ我が国に伝来するのかもしれない。その時は、「同意がなくとも、託されたものがある。そのひとつが、苦しみや悲しみに立ちむかうことだ。」と気丈にはね除けたいと思う。(2019年2月11日@nortan父の一周忌法要を終えて)