中国の医学研究者が、HIVに罹患した父親の病が子どもに発症しないように、ゲノム編集した受精卵で双子を誕生させたという。子どものために…という親の思いは理解できなくないが、もう私たちの技術は遺伝子を操作した人間を品種改良した植物のように生み出すところまで来てしまったと思う。驚きよりも、来るべき時が来たという感覚だ。「できる・できない」の技術的シンギュラリティを超え、「する・しない」の倫理的シンギュラリティをも超えてしまった。中国も含めて世界中が行為を批難しているが、哺乳類で初めて体細胞クローンとして誕生した羊ドリーのことを思い出す。その時も批判を浴びたが、いつしかクローン牛や馬が誕生しても、ほとんど話題にならなくなっていた。今回はどうか?20年後の世界に行って確かめてみたいと思う。巨額の資金への魅力や研究者の好奇心をいつまで抑えることができるか。人類の倫理感との戦いだ。そう言えば、ゲンバクもいつしか「世界の平和を維持するための抑止力」と正当化されてしまったではないか。
さて、確かホーキング博士の予測だったと思う。「人類は生き続けるためには、地球外に移住しなければならない。それは、人工知能を備えたロボットか、遺伝子操作によって宇宙環境に適応した新人類になるだろう。」と聞いた覚えがある。500年から1000年先を見据えた時、私たちの倫理感はどう変わっているだろうか。その頃の人類からすれば、私たちの思考と倫理感は原始的と言われるのかもしれない。しかし、そう言ってくれる人類がいなくなっているようでは哀しい。繁栄した種には必ず期限があるらしいし、ゲノム編集でしか生き残ることができない伝染病が蔓延したらどうだろうか。
私たちには、この哀愁を覚悟して「未来永劫、この技術を使わない。」という勇気があるのだろうか。その勇気を神様に試されているのかもしれない。ひょっとして、ゲノムではなくゲンバクで滅んでいるかもしれないが、1000年後・1万年後の未来に行って確かめてみたいものだ。(2018年12月3日@nortan)