昭和23年に制定された通称墓埋法によって、死後の棲み家は墓地と決まっている。だから「その時が来たら、墓はいらんから、庭にでも埋めてほしい。」と言っていた父の願いを叶えれば、法律を犯すことになる。檀那寺で永代供養してもらうことも江戸時代以降のしきたりであったが、新しい土地では繋がりもない。そんなことで、墓地探し。今では民間の納骨堂や寺院からメールが送られてくる時代。選択肢も広がった。寺院の経営する納骨堂では、営業担当者に「とても人気があって、新しいお部屋を増設しました。」と音楽の流れるロッカー式地下納骨部屋を紹介された。また、都市型納骨堂の担当者は「私は長男なので、将来、実家の寺院墓地を守っていくつもりだが、本社のカード式墓参システムをお薦めします。」と率直に語ってくれた。こうした墓地探しの末に、市の運営する無宗派公園墓地に出会った。そして昨日、青く澄んだ空の下、納骨を済ませた。
ところで、私たちにとって墓は必要か。この命題に対する答えは、今古東西、老若男女、立場によってさまざまだろう。公衆衛生上は先の法律であるし、過去の政策上は寺社請負制度であったし、檀家にとっては義務である。また、新事業上は納骨堂経営である。しかし、それよりも遥か昔、私たちより野蛮だと考えられていたネアンデルタール人が、死者を埋葬する時に花を手向けていたことや、そんな法律も知らない幼い子どもが、飼っていた小動物を庭に埋葬して涙を拭うことを考えると、答えは「遺された者が、死と向きあうために必要だ」であろう。もし、骨すら残さない火葬システムが開発されて墓地が必要なくなれば、墓地に携わる仕事が無くなるだけでなく、死と向きあう場所もなくなる。その分、空を見上げることが増えるかもしれないが、何より私たちの死生観も全く変わってしまうだろう。
父を埋葬したことで、自身の終着駅も定まった。後は、そこに辿り着くまで「如何に生きるか」である。(2018年11月25日@nortan墓開き・納骨の直後、青空に4本の龍雲が上った。)