観測することで状態が決まる量子力学の「確率宇宙」か、最初から状態が決まっていたというアインシュタインの「絶対宇宙」か、神はサイコロを振りアインシュタインの敗北は実験により証明されている。既に量子力学は私たちの生活に欠かせない技術でもある。己羅夢80で空想したように、死のエンタングルメントが生であるなら「転生」を信じたい。しかし、今回の空想は少しばかり違う。
昨日の労働の疲れがとれず落ちた昼寝夢に、父が現れた。見慣れぬ青いスーツを着たいい気分の酔っ払い。ソファーに横たわり眠りこんでいる。帰宅した私は妻と顔を見合わせ、記憶にある現実との差異を探しつつも冷静に世界の変化を受け入れている。「これが、確率宇宙かあ。」そう納得した時に、目が覚めた。いや、「振られたサイコロが止まり、目が決まった。」と思えた。
生まれた時に天国に行けるか地獄に行くか決まっていると説く宗教がある。また、善行と悪行の差でどちらに行くか決まると説く宗教もある。量子力学の肯定は、多元宇宙の存在を想像し、絶対である神に確率であるサイコロを振らせる。では、私のサイコロはいつ振られるのか。先程のように、夢から覚める毎に振られているのだろうか。いや違う。醒めた瞬間、「人生の最期に振られるに違いない。」そんな感覚におそわれた。天国と地獄が実在するのなら、どちらに行くか決めるのは「最期のサイコロ」だと思えた。今生きているのは、確率の多元世界のひとつだ。
先日、ある試験に挑んできた。そこでは、私より35も年長の老紳士が虫眼鏡を手に英和辞典と格闘する姿もあった。「若い人には敵わんけども、…」と謙遜される姿に、ますます「自分もそう年を重ねたい。」と感じた。「次は、二次面接でお会いしましょう。」と返答したものの、10名程しか合格できない狭き門。自身も次はないと悟っている。
故人が夢に現れるのは、何かのメッセージだと言われる。先程の夢で、父は「まだ、決まった訳ではない。諦めるよりは、希望を持て。全てを決めるのは人生最期のサイコロだ。」と伝えに来たのかもしれない。(2018年10月14日@nortan旅立ちの数日前、久しぶりの笑顔を見せてくれた父は、その瞬間に最期のサイコロを振っていたのかもしれない。)