弁証法とは、矛盾する2つの命題(テーゼとアンチテーゼ)を統合して新しい命題を導く手法で、このジンテーゼを導くことを「アウフヘーベン」とも言う。欧米では、討論の手法として学校で教えられるようだが、日本では討論より「忖度(空気を読む)」ことが重視されてきた。会長の好みのお菓子を前もって用意したり、判定を左右させるのも忖度と言われても仕方がない。悪しき忖度よりもアウフヘーベンを学ばなければならない。
ニーチェは、西洋の神はこのアウフヘーベンで創られたという。弱者が神を用いることで「金持ちや権力者は地獄に落ちる」と強者と心理的に逆転することができたと哲学した。これは、ルサンチマンという。これを「憎悪」や「ねたみ」と訳すこともあるようだが、どうしようもない人生の苦しみを、誰も傷つけずに社会的に認められる価値観に昇華する能力だと思う。そして、「愛(アガペー)」の概念も生まれたという。
さて、道徳に教科書ができた。検定を通過したさまざまな道徳的価値観を学ぶことになっている。私立学校では、道徳を宗教に置き換えられるようだから、そもそも道徳には「公的宗教」の側面も見え隠れする。弁証法のアウフヘーベン、ニーチェのルサンチマン、キリスト教のアガペー、そして忖度。これらの価値観は、教わるべきか否か。昔ながらの社会的規範の緩みに道徳教育の必要性も感じ、古今年配者の「昔は良かった。今の若い者は…。」という常套句が示す意味を哲学しながら。(2018年8月16日@nortan)