我思う(Cogito ergo sum. )、ゆえに我あり。有名なデカルトの言葉で、「考えている私がいるということは否定できない。」デカルトは、どうして無味、つまリ、空気のような当然のことを言ったのだろうか。
当時、ヨーロッパはカトリックとプロテスタントとの対立から各国の覇権争いに発展し、終わりの見えない宗教戦争真っ只中にあった。「どちらの神のいっていることが真理か」で始まった争い、そんな世の中を哲学してデカルトは『コギト・エルゴ・スム』と言った。「どちらかが正しいなんて神の存在を問う命題は間違っている。人間の存在の原点に戻って、真理を見つめよ。」と三十年戦争を皮肉ったのだった。
ヘーゲルの弁証法では、矛盾する命題どうしの対立を経て高次元のジンテーゼ(命題)にアウフヘーベンするのだが、その後カトリックとプロテスタントは分かれたままだ。越次元の神を発見した訳でない。私たちは、キリスト教だとひとくくりにとらえてしまうが、そこにはデカルトを悩ませた哲学があった。これは、仏教にしても然り。父の葬儀を機に、宗派の歴史を読んでそう思う。死後の世界の平等を説いて、戒名によって死後の世界での扱いに差があると説くのはどうしてか。(私たちが勝手に思っているだけなのか?)あの世にも差別があるのだろうか。
さて、私の宗教意識は純粋仏教でも純粋神教でもないようだ。子どもの頃、神社で「だるまさんが転んだ」をして遊び、お寺で「隠れん坊」をして遊んだ。1500年以上、日本の風土と心の中で融合してきた神と仏が「神仏」という信仰だと思う。神か仏かの二項対立は、カトリックとプロテスタントの対立のようでもあり、デカルトならどう哲学するだろうか。「我は死んだ。ゆえに、我思わぬ(Non enim puto./ノン・エニム・プート)。」とラテン語で言うのかもしれない。(2018年8月16日@nortan初盆に「あとは任せた。」と父の声が聞こえた。)