非協力ゲーム理論において、戦術を変更した場合、損失となるがゆえ身動きできない均衡を「ナッシュ均衝」という。例えば、兄スズキと妹コンブが一緒に冷蔵庫のケーキを食べてしまった。後で食べることを楽しみにしていた姉タニシは頭に3本角を生やして「許さないわよ!」と二人を部屋に追いやった。その後、「誰が食べたか正直に言いなさい。先に正直に言った子は、お説教は勘弁してあげます。もう一人は2時間のお説教。でも、2人とも正直に言ったら30分のお説教で許してあげる。」と部屋の真ん中に座りこんだ場合、スズキとコンブはどうするだろうか?結論は、2人とも正直に言う。そうすれば、2時間のお説教は避けられ、おやつ抜きか30分のお説教で済む。スズキもコンブも自分だけ黙秘する戦術に変更することは、1時間30分プラスのお説教を受けることになるからだ。二人そろって沈黙すれば、お説教を避けられるのに、「相手への不信感」が強いほど、自白を選択してしまうことになる。これが、ナッシュ均衝による説明だ。一方、そんなに難しく考えたのではなく、弟妹はケーキを分けあうほど仲がよく「お姉ちゃん、ごめんなさい。」という良心で正直に話しただけだ。この説明のほうが、性善的であったり道徳的であったりする。
さて、平和もナッシュ均衝かもしれない。戦争を選択すれば、相手の反撃を受けて自国の壊滅を招く。そのため、「先に攻撃したら、ただでは済まさぬぞ」と相手より多くかつ強力なミサイルを持つ抑止力が正統化される。互いにミサイルを作らないという選択もあるのに、互いに信頼できないから消極的な平和を保っている。
嗚呼、平和は、人類が互いに信頼し合い、道徳的・理性的に進歩することで実現されていく性善的なものだと思っていた。未知の宇宙人すら信じて、人類のこと・地球の位置を示したメッセージを太陽系圏外に送ったではないか。しかし、人類の歴史はナッシュを支持している。平和が、性悪説の砂漠に一瞬現れたオアシスであってはさびしい。私たちは根本的に変わらなければいけないのかもしれない。(2018年6月9日@nortan12日の会談が平和への前進となることを願って)