この言葉、そもそもはイギリス人作家の造語で、300年ほどの歴史をもっている。スリランカの三人の王子が、旅の困難を幸運な出会いで切り抜けていく話から造られ、幸運な出会いをセレンディピティという。同じ造語でも「ナウい」は1世代(30年)もたたずに死語と呼ばれるようになったのだから、10世代以上も長生きで幸運な造語である。最近では、転じてネットサーフィンをしながら素晴しいアイデアの材料と出会うこともセレンディピティというようだ。街に出れば、スマホを片手に行き交う人に出会わないことはない時代である。100年後に振り返れば「21世紀らしさ」を象徴する生活スタイルなのだろう。私自身もそうであるが「隣の人は何する人ぞ」と観察してみれば、両手スマホのゲーム族、片手スマホのサーフィン族とチャット族、耳線スマホの音楽族など多族である。10年前なら幾つものポータブル機器をかばんに入れてなければできなかったことが片手サイズでできるのだから、あらためてイノベーションのパワーを実感する。「ブラジルの人、聞こえますかあ~」と地面に叫ばなくても、日本の裏側の人ともリアルタイム動画で繋がることもできるのだから、地球も片手サイズになったのかもしれない。また、良くも悪しくも問題となるネットでの出会い。村から外に出ることもほとんどなかった200年前に比べたら、人の出会いの垣根もデジタル技術が取り払い広げてくれたのだろう。でも…「街を歩きながらスマホで出会いを探していたら、運命の人が目の前を通り過ぎてしまった。」のでは、セレンディピティなのか「去リテ行キティ」なのか分からない。さて、セレンディピティは「常に、好機をのがさないように感性を高めておくこと」と解釈されることもある。そう考えると、街に出たら、スマホをかばんにしまって行き交う人々を観察するのが「ナウい」のかもしれない。(2017年10月21日@nortan東京に向かう新幹線の中で)