49、懺悔

懺悔(ざんげ)という言葉を知ったのはバラエティ番組で、水をかぶせられたり桶が落ちてきたりする演出だった。それが、自らの罪の告白で魂の救済を求めるキリスト教の文化だと知ったのは、しばらく経ってアメリカ映画を見るようになってからだ。さて、宗教的な視点は横に置いて、親が子どもに「正直に言いなさい。」と白状させるのも一種の懺悔である。圧力に屈するか親の愛を信じて、子どもが正直に答えるとする。その後の親の姿勢には2通りあるだろう。「よく正直に言えたね。次は正しく行動するんだぞ。」とその反省を受けとめるのがひとつ。そして、もうひとつが「嘘が許されるのなら、神様なんていらない。反省しなさい。」と叱りつけ、お仕置きをする。親の愛情の幅には、こんなにも広い格差がある。自主性の尊重だとか厳しさだとか、親の立場での理由づけはできるが、子の立場からしたらどうだろうか。「うちの親は甘い。正直に言えば何でも許される。」かもしれないし、「うちの親は、結局正直に言っても言わなくても同じだ。」かもしれない。前者の親の言葉に「正直に言って良かった。」後者の親の言葉に「厳しく叱るほど自分のことを大切に思っていてくれたんだ。」と子どもが感動し劇的に成長するというほど『躾(しつけ)』という名の家庭教育は簡単ではない。北海道で親に置き去りにされ行方不明になっていた子が発見されたというニュースに安堵させられるとともに、親という責任について考えさせられた。新聞は「虐待だ。」とか「とても子ども思いの親だった。」とか勝手に水をがぶせているが、親子の関係は神のみぞ見ているのだろう。過去にもどってやり直すことができるのなら、思いっきり叱ってやりたいだとか、思いっきり抱きしめてやりたいだとか、そういう後悔を心の中に積み重ねることで、親も成長させ(躾)られているのだと思う。暗く狭いボックスの中で懺悔するのではなく、子の笑顔が親にとって一番の救済である。無事でよかった。(2016年6月4日@nortan)

コメントを残す