遅ればせながら、『フラット化する世界(トーマス・フリードマン)』を読んだ。グローバリゼーション1.0は「コロンブスによってはじまった旧世界と新世界を統一しようとする物理(国家)的な力」、グローバリゼーション2.0は「1800年代から2000年まで続いた多国籍企業による市場(貿易)の力」、グローバリゼーション3.0は今動きはじめた「情報テクノロジーによる個人の力」であると説いている。確かに、世界のサイズは狭く・近くなったと思う。 10数年前のグローバリゼーション2.0の末期、「下請会社は、人件費の安い国に移転する親会社についていくか、日本に残って苦しい中で頑張るかの選択なんや。」と、ある父親の悩みを聞いたことを思いだした。「今は中国じゃなく、東南アジアなんや。」とも聞いた。著者は、インドのバンガロールを例にあげて、アウトソーシング(部署の外注化)によって、ソフト面でもフラット化が進んでいるという。しかし、フラット(平ら)であろうか?企業である以上、利益を命題に経営する。例えるなら、傾いた床に落としたコインが、位置エネルギーを常に運動エネルギーに変換しながら低地に向かって転がり落ちることに似ている。傾いた床が「生活水準格差」であり、エネルギーが「利益」、高地が「先進国」で、低地が「途上国」だ。この傾きによって、70年前我が国は高度経済成長の道を歩き始め、先進国(高地)の仲間入りを果たした。世界がフラットでなかったから、つかめたチャンスであったと思う。現在の企業の海外移転(多国籍化)は「傾きが急になったために、企業自体も転げ落ちた状況」なのではないだろうか。もしフラットであれば、先の父親の知人も、国内で下請けを続けられたはずなのだ。また著者は、政治は国の利益優先という反グローバル化圧力が働く。企業も大企業になるほど、柔軟性が落ちる。これからは、テクノロジーと英語力(求められる言語力)を手に入れた『個人』が世界をフラットにするグローバリゼーション3.0の時代だという。…さて、納得させられる点も疑問が湧く点もあったのは、私の思考がフラットではなく凸凹だからかもしれないと駄洒落た頭の中で、バンガロールがこだまして「(日本)ガンバローネ」と聞こえてきた。(2016年5月10日@nortan)